宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 02》文・写真 井上脩身

大和街道に面した旧上柘植宿の街並み

芭蕉は寛永21(1644)年、伊賀国阿拝郡(現伊賀市)で、柘植郷の土豪の一族の出身である松尾与左衛門の次男として生まれたとされている。13歳のとき、父が死去し、兄半左衛門が家督を継いだが、生活は苦しかったという。芭蕉は『芳野紀行』(別名『笈の小文』)のなかで、「父母のいまそかりせばと慈愛の昔も悲しく、思ふ事のあまたあり」と記しており、母への思慕の念を生涯いだきつづけていたことは間違いないであろう。

本陣跡辺りに高札場

本陣跡付近に建てられた高札場

『野ざらし紀行』のなかで訪ねた故郷が上柘植であるとは前掲書には書いていないが、「北堂の萱草も霜がれ果て」という言葉から、今は「忍者の里」として観光客でにぎわう上野より上柘植の方がふさわしいのでないか、というおもいがつのった。JR東海道線の草津駅で草津線に乗り換え約1時間、柘植駅に着いた。駅舎は素朴な田舎駅である。駅の前には商店ひとつなく、終着駅とは思えない静かなたたずまいだ。やはり上柘植の方がふさわしい。そんな感傷的な気分になった。

JR柘植駅前の芭蕉句碑

駅前に高さ1メートルほどの石碑が建っている。説明板によると「手にとらば消えん泪ぞ熱き秋の霜」と刻まれているという。『芭蕉講座 紀行文篇』に掲載されている句だ。漢字がことなるのはなぜか、門外漢の私にはわからない。それよりも大事なデータが記されている。芭蕉の母はすでに天和3(1683)年に死去したというのだ。萱草はわすれなぐさで、母の居室の庭に植えられたものとある。なるほど、芭蕉はお母さんのことを忘れられなかったということなのだ。芭蕉の想いが一層しみじみと感じられた。

ともかく、この句碑が駅前にあるということは、地元の人たちは、上柘植こそ芭蕉の生まれ故郷と信じていることの証左であろう。

駅のホームに周辺地図をかいた看板があり、「芭蕉公園」をスマホに入力していた。便利な時代である。スマホを片手に芭蕉公園に向かった。途中、「芭蕉公園」の行き先を示す標識がなく、スマホで見ても道がわからない。40分ほどあちこちを行きつ戻りつし、ようやくスマホが示す場所にやってきた。ところがそれらしい公園はない。高床の小屋があり、近くに公衆トイレがあるので、公園跡の気配はあるが、とても芭蕉にゆかりある地とは思えない。すぐ南には片側2車線の名阪国道が通っており、その周辺にも公園らしい場所は見当たらない。

柘植川にかかる橋の欄干の芭蕉座像

あきらめて大和街道を歩くことにした。大和街道に出るには少し柘植駅の方に戻らなければならない。「公園」から5分くらいのところで柘植川を渡る橋にでた。宮ノ浦橋という。その四隅の欄干に高さ15センチの旅笠を手にした芭蕉座像が安置されている。この辺りに芭蕉の生家があったということであろうか。

大和街道は上柘植の街を東西に貫いており、幅は5メートルほど。古い民家が両側に軒を並べている。人通りはほとんどない。西にむかってしばらく進むと都美恵神社に出た。都美恵は柘植の古語という説もあり、伊勢神宮と関係していたともいう。寛永21(1644)年の大洪水により、正保3(1646)年に現在の地に移されたといわれ、芭蕉が野ざらし紀行で帰郷した折にはすでに建っていた。『奥の細道』の旅を終えると伊勢神宮に直行した芭蕉である。上柘植村の産土神である都美恵神社へのお参りは欠かさなかったであろう。

同神社から数分のところに高札場が建っている。「大和街道上柘植宿」と横書きの看板が掲げられ、その下に説明板と絵図がかけられている。説明板には「大和街道は関から大和に向かう街道で、古代から交通の要所であり、江戸時代に宿場として整えられた」としたうえで「本陣は間口39間、奥行き23間、物資を継ぎ立ちする問屋を兼業していた。本陣前は高札場、西に火除(ひよけ)堤があり、街道は宿場独特の鍵形を形成していた」とある。絵図は上柘植宿の街並みを表したものだ。

高札場のそばには白壁のいかにも古めかしい倉庫があり、この辺りに本陣があったのであろう。大和街道はこの倉庫のところで南に折れ、30メートル先で西に折れる構造をなしている。

村の寺に奉公した芭蕉

高札場からあたりを見ままわすと、低い山のすそに大きな屋根が目に留まった。徳永寺という寺であった。山門の由緒書きには「本能寺の変で、堺にいた家康が伊賀超えをして三河に逃げ帰る途中、この寺に立ち寄った

とある。ならば、芭蕉の帰郷時にはこの寺は間違いなくあった。立派な鐘がある。芭蕉は鐘の音を聞いてどのような思いをしたであろうか。

宿場の西のはずれに成田不動尊があり、その境内に一本の大きなシイノキが立っている。家康の逃避行の際、この木のところに見張りを立てたとの言い伝えが残っている。シイノキは樹齢750年といわれ、家康の時代にはすでに堂々たる成木になっていた。多くの街道は家康の時代に整備が始まっている。このシイノキは上柘植宿のシンボルの木といえそうだ。

家康が上柘植宿の成り立ちと無縁でないことはわかった。だが、家康の足跡をたどるのは今回の旅の目的ではない。芭蕉の足跡はないのか。私は焦りだした。と同時に空腹を覚えた。この街にはレストラン、食堂どころか、店らしいものはほとんどなく、ましてやコンビニなどはすがたかたちもない。駅前の小さな軽食喫茶に入るしかないだろう。帰途についた。

ラッキーであった。都美恵神社に写真を撮り直そうともう一度向かったところ、本殿の前の公民館の入り口に「日替わり定食」の文字を見かけたのだ。入ると、80歳を超えていると思われる女性が「田舎者の手作りですけど」とわらった。食事ができるのを待っている間、室内を見まわすと書棚に「日野家所蔵『芭蕉翁乞食袋』についての考察と題する冊子のコピーが置いてある。筆者は日野恵隆氏。柘植の日野家に『芭蕉翁乞食袋』なる古文書が残っていたということであろうか。ペラペラとめくった。つぎのような記述が目についた。

芭蕉の兄の命清は幼少期、父興左衛門=明暦2(1656)年没=から直接学問の手ほどきを受けていたようであったが、次男の金作は村の子どもたちがそうであるように、小僧見習いとして、4、5歳のころから長福寺の住職のところに行かされた。金作が6歳のとき、若殿のお伽衆5人の一人として召された。

金作は芭蕉の幼名。長福寺はのち万寿寺と名前が変わったが、上柘植の寺だ。この記述によれば、芭蕉は村の子どもとして寺に奉公にあがり、6歳のとき、上野城に召されている。芭蕉は興左衛門の子として上柘植で生まれたというのだ。

芭蕉の母についても記述されている。

上柘植宿の街並みを描いた絵図(高札場の説明板より)

芭蕉の母は百地の娘で、儀左衛門(芭蕉の父親の本名)の妻となり、半左衛門命清を産み、続いて長女サカエ(のち下柘植の竹島家に嫁ぐ)が生まれる。これが芭蕉の姉だ。三番目に次男興作(芭蕉の最初の幼名)を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、母乳を与えることも出来ず、約1年余り寝つき、起き上がることもできないまま没した。

この記述通りなら芭蕉の母は、芭蕉が1644年に生まれた翌年に亡くなったことになる。しかし柘植駅前の説明板には1683年に死去したとあるので、20年近くも差がある。どちらが正しいのだろう。あるいは芭蕉を産んだあと、ずっと体を悪くしていたということだろうか。

百地は百地三太夫で知られるように伊賀の忍者の係累であろう。芭蕉忍者説の根拠になっている。

私は芭蕉が忍者であったみるのには無理があるとおもっているが、それはともかく芭蕉が亡き母の白髪を見て涙を流したという『野ざらし紀行』の句の意味がようやくわかったようにおもった。自分を生んだことから体が衰弱し、すっかり髪が白くなってしまった母親が不憫で、自らを責めるおもいになった、と私は理解した。

地元の新鮮な野菜を使った、素材の味がにじんだ食事を終え、公民館の60歳くらいの男性に「おいしかった」と礼をいうと、男性は笑みをうかべた。彼は「芭蕉の生まれた場所について諸説あるけど、私は上柘植生まれと信じている」ときっぱり言った。

公民館の男性の言葉だけで芭蕉の足跡を見たとは言えない。芭蕉公園が宙ぶらりんのまま終わったのが気掛かりだ。いずれ出直そう、と自分に言いきかせつつ柘植駅に向かった。(完)