連載コラム・日本の島できごと事典 その87《糸満海人(いとまんうみんちゅ)》渡辺幸重

海を渡る帆掛サバニ(写真提供:糸満帆掛サバニ振興会)

島を取り巻く海は魚介類を育て、島の生活を支える“豊穣の海”でもあります。海に乗り出す島の漁民は勇猛で、なかでも明治以降に遠く中部・南太平洋からアフリカ、南米にまで進出して追込漁を行った沖縄島・糸満の海人が有名です。

 沖縄戦の戦跡が集中することで知られる糸満地区は糸満海人の本拠地でもあり、今でも漁業が盛んで旧暦54日の祭りには勇壮な「糸満ハーレー(爬龍船競漕)」が行われます。糸満地区はかつては日本でも有数の漁村で、18世紀以降の中国貿易の中心地でもありました。琉球王府時代の記録には中国から派遣された使節・冊封使に託す魚貝類は糸満の漁民が獲っていたとあります。明治期に入ると糸満海人は漁場を求めて八重山地方や台湾、九州地方をはじめ日本列島の各地に進出しました。さらに海外にまで新天地を開拓し、当時の南洋群島(ミクロネシア)やフィリピン、シンガポールなどへも活動範囲を広げました。

 国内の多くの島にもその足跡を残しており、沖縄県の小浜島(竹富町)や奥武(おう)島(久米島町)、儀志布島・慶伊瀬島(渡嘉敷村)には糸満海人の定住の歴史が刻まれています。また、鹿児島県の屋久島や長崎県の小値賀島などに糸満海人から追込漁を伝授されたという伝承があり、屋久島では祭り歌として沖縄の「上り口説」が残っています。糸満海人と地元の漁民との争いもあったようで、1913(大正2)年には浜比嘉島(沖縄県うるま市)の漁民との間で浮原島(うきばるしま)周辺海域における漁業権争いが起き、沖縄県知事らの仲裁や裁判を経て糸満海人が港湾使用料を支払うことで解決したといいます。

 糸満海人は新しい漁具も開発しました。水中メガネ「ミーカガン」は1884(明治17)年に“糸満のエジソン”こと玉城保太郎(たまぐすく・やすたろう)が発明したもので日本や世界各地に広まりました。水泳選手が使うゴーグルとまったく同じ形をしており、糸満が漁業の最先端の地であったことを物語る一品となっています。また、かつて海人たちは「帆掛サバニ」で漁に出ました。帆に受ける風の力と櫂で水をかく人の力で大きな波もなめらかに越え、月の満ち欠けで潮を読みながらあやつる帆掛サバニの姿は美しい芸術作品ともいわれています。糸満海人は海の勇者を意味する「海ヤカラ」と讃えられながらこのサバニで豪快な追込網漁「アギヤー」を世界の海で展開したのです。