連載コラム・日本の島できごと事典 その88《特務艦関東の遭難》渡辺幸重

座礁・沈没した特務艦関東(「海軍艦艇殉難史 関東」

今年1月10日昼頃、瀬戸内海の沖家室島(おきかむろじま:山口県周防大島町)の南約2.5km沖で海上自衛隊の護衛艦「いなづま」が座礁し、自力航行できなくなったという事故が報じられました。現場は岩礁が多い「センガイ瀬」と呼ばれる海域で、浅瀬を示す灯標も設置され目視可能な天候だったのに「なぜ?」と不思議がられています。
島や岩礁、浅瀬の周りは潮の流れも強く複雑なので海難事故が多い航海の難所となっています。1924(大正13)年12月9日午前8時過ぎ、日本海・若狭湾東岸、糠浦(ぬかうら)海岸の西沖約0.15kmにある岩礁群「横がけ岩(二ッ栗岩)」に日本帝国海軍の特務艦(工作艦)「関東」が激突して沈没し、全乗組員207人のうち100人近い犠牲が出ました(犠牲者は96人または97人といわれ、「便乗者も含めて99人」という記述もみられます)。暴風雨の中、真冬の荒海に脱出した乗組員のなかには命からがら海岸にたどり着いた者もおり、気を失う者が続出したものの救助に駆けつけた河野村(現南越前町)糠地区の女性や老人たちが乗員たちを温め、30人以上を蘇生させたといわれています。当時、糠地区の男性は杜氏として酒造りに村外に出向いていました。献身的な救助活動を行ったのは留守を守っていた女性や老人で、その活動は集落の外れに建てられた「特務艦関東の遭難の碑」に刻まれ、いまだに讃えられています。
「関東」は海軍通信学校や海軍水雷学校を卒業したばかりの軍人57人を乗せ広島県の呉から京都府の舞鶴港に向かって航行していました。ところが暴風雨によって行き先を見失い、舞鶴を通り過ぎたようです。
「関東」はもとはロシア艦艇「マニジューリヤ(マンチュリア:「満州」の意)」でした。日露戦争で帝国海軍に拿捕され、中国東北部を意味する「関東丸」という名前に変わって工作機械を備えた日本の工作船となりました。その後名前が「関東」となり、1920(大正9)年4月に帝国海軍初の工作艦になっています。艦艇の救難作業にも活躍し、第一次世界大戦中の1914(大正3)年12月にはカリフォルニア半島西岸のメキシコ・マグダレナ湾で座礁した一等巡洋艦「浅間」の浮揚作業を行い、1923(大正12)年にはカムチャッカ沖で座礁沈没した防護巡洋艦「新高」の解体と遺体の回収にも従事しました。
「関東」の慰霊碑は福井県のほか、京都府の舞鶴海軍墓地に「特務艦関東殉難者碑」、神奈川県横須賀市の馬門山墓地に「特務艦関東殉職者碑」が建っています。