連載コラム・日本の島できごと事典 その90《信徒発見》渡辺幸重

信徒発見のレリーフ(大浦天主堂)

江戸幕府はキリスト教を禁止し、信者に対して激しい弾圧を行いました。そのため、信者は信仰を隠し、潜伏しました。明治新政府も禁教政策を継承し、諸外国の圧力などからキリスト教禁制の高札を撤去して実質的に禁教政策をやめたのは1873(明治6)年のことでした。この間、実に260年という気の遠くなるような長い潜伏と弾圧の歴史が流れました。
日仏修好通商条約締結(1858年)の翌年、長崎に居住するようになったフランス人のためにフランス寺と呼ばれる大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者聖堂)が建てられました。1865年3月(元治2年2月)、大浦天主堂で画期的な“事件”が起きました。長崎・大浦村の潜伏キリシタン15人がサンタ・マリア像を見て「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)とプチジャン神父に信仰を告白したのです。これは「信徒発見」または「キリシタンの復活」と呼ばれています。このことは潜伏キリシタンの間に口伝えで広まり、みずからキリシタンであることを表明してカトリックに復帰する信徒が相次ぎました。信徒は「フランス寺の見学」と装って大浦天主堂に出向き、礼拝したり洗礼をうけたといいます。潜伏キリシタンは浦上だけでなく外海(そとめ)・平戸・五島など各地にキリシタンが潜伏していることがわかり、神父らは密かに布教して回りました。
平戸諸島に属する黒島(現佐世保市)では、信徒発見の2ヵ月後、島の指導者・出口大吉らが大浦天主堂に赴いて600人の信者がいると告げ、その後に正式に全員がカトリックに復帰しました。現在は陸続きになっている神ノ島(現長崎市)でも島の水方(洗礼役の指導者)を務める西政吉らが島の潜伏キリシタンをカトリックに復帰させています。
黒島は佐世保港の西約16kmに位置する面積4.6平方キロメートルの島で、1803(享保3)年に平戸藩の牧場が廃止され、大規模な田畑の開墾が始まると西彼杵半島の外海地方や生月(いきつき)島、五島などからキリシタンが移住してきました。潜伏キリシタンは仏教徒を装い、観音菩薩立像を聖母マリア像に見立てた「マリア観音」を安置するなどしてひそかに信仰を維持したのです。1879(明治12)年に初代の黒島天主堂が建てられ、いまも島の住民の約8割がカトリック信者といわれます。
信徒発見は大喜びしたプチジャン神父によってフランス、ローマに報告され、日本のキリシタンが世界に知られることになりました。神父は1867(慶応3)年には日本信徒発見の記念式典を盛大に催したそうです。しかし、一方では信徒発見は明治政府による大弾圧事件「浦上四番崩れ」をもたらすことにもなりました。