連載コラム・日本の島できごと事典 その91《浦上四番崩れ》渡辺幸重

鶴島での野外ミサ(2022年鶴島巡礼報告より)

1865(元治2)年の「信徒発見」のあと潜伏していたキリシタンが次々にカトリックに復帰するようになり、2年後の1867(慶応3)年には長崎・浦上村のキリシタンは葬式をそれまでの仏式からキリスト教によって執り行うことにしました。それが長崎奉行所の取り調べるところとなり、信徒68人が激しい拷問を受ける事件に発展しました。改宗を迫られた浦上のキリシタンはこれを拒否しましたが、明治維新で権力を握った明治新政府は神道を国教として江戸幕府のキリスト教禁制を継承し、1868(慶応4/明治元)年に浦上の全信徒約3,400人を流罪としました。流刑地は津和野(島根県)をはじめ鹿児島、広島、岡山、金沢など約20藩に及ぶといわれ、そこでの過酷な拷問や重労働によって約600人が亡くなっています。この弾圧事件は「浦上四番崩れ(浦上教徒弾圧事件)」と呼ばれます。
日生 (ひなせ) 諸島に属し、瀬戸内海に浮かぶ鶴島(岡山県備前市)には1870(明治3)年に岡山を経て117人が流されました。岡山では約10ヶ月留められ拷問を受けたといいます。鶴島では開拓に従事させられ、重労働と空腹との戦いの中で拷問を受け、半数以上が改宗させられました。1873(明治6)年の明治政府のキリスト教禁制撤廃までの2年半に18人が命を落としています。
浦上四番崩れに対しては神父たちや諸外国からの激しい抗議があり、「信仰の自由を国民に与えない国は野蛮である」と諸外国から軽蔑されることが明治政府がめざす不平等条約撤廃に大きな支障となることからキリスト教禁制が撤廃されました。日本の宗教の自由は宗教弾圧の歴史の上に勝ち取られたものなのです(明治政府がキリスト教の活動を公式に認めるのは1899(明治32)年の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」以降になります)。鶴島で信仰を守り通した岩永マキは禁制撤廃後、浦上に戻り、修道女として孤児養育などの活動を行い、それが長崎県内各地に広がって現在の「お告げのマリア修道会」につながっています。
鶴島は1990(平成2)年に無人島になりましたが、毎年カトリック岡山教会が主催する鶴島巡礼が行われ、昨年は52回目を数えました(2020年、2021年はコロナ禍のために非公開)。島内には殉教者碑や十字架が建立され、流された人たちを集めて神官の説教が行われた「改宗の祠」や当時使用された井戸も残っています。また、鶴島巡礼の際の野外ミサでは「鶴島哀歌」という潜伏キリシタンの歌が歌われます。
慰霊碑の碑文には次のような三好達治の詩が添えられています。カトリック中央協議会「カトリック情報ハンドブック2013」には「なぜか三好達治の詩が添えられている」とありますが、なぜだかわからないようです。

沖の小島の流人墓地
 おぐらき墓のむきむきに
 ともしき花の紅は
 だれが手向けし山つつじ