連載コラム・日本の島できごと事典 その92《五島崩れ》渡辺幸重

世界文化遺産登録を記念して制作された芝居「五島崩れ」のポスター

明治新政府は神道を国教とし、維新後も江戸幕府と同じようにキリシタン禁制を続け、キリシタンを弾圧しました。「信徒発見」後、次々にキリスト教(カトリック)の信仰を表明した各地のキリシタンを捕らえ、拷問を加えて改宗を迫ったことで多くの人々が犠牲になったのです。五島列島(長崎県)におけるキリシタン弾圧事件は「五島崩れ」と呼ばれ、数年にわたって激しい弾圧が続きました。それは1868(明治元)年に久賀(ひさか)島の信徒たちが捕らえられたことに始まりました。これは特に「牢屋の窄(さこ)事件」と呼ばれています。
五島列島は江戸時代にたびたび飢饉に苦しんだため五島藩(福江藩)は生産力向上を図って1797(寛政9)年に大村藩と協定を結び、移民政策を進めました。長崎・外海(そとめ)地区からは多くの農民が海を渡り、全体では3,000人以上にのぼりますが、そのほとんどは潜伏キリシタンだったといわれます。
牢屋の窄事件では幼児や老人を含む信徒約200人が捕らえられ、12畳ほどの狭い牢を中央の厚い壁で男女別に区切られた空間に8ヶ月間押し込められました。畳1枚あたり17人という狭い中で信徒は横にもなれず、その場で排泄するという悲惨な状況だったといいます。一日にひと切れの芋しか与えられず、極寒の海に漬けたり炭火を手のひらに置いたりする厳しい拷問によって出牢後の死者3人を加え42人の犠牲者が出ました。プチジャン神父は1868(明治元)年末にこの弾圧事件をパリの神学校長ルッセイ神父に書簡で報告しています。現在、殉教の場所には牢屋の窄殉教記念教会が建てられ、碑には「十三歳のドミニカたせはウジに腹部を食い破られて死亡した」などと殉教者の様子が記されています。また、毎年秋には五島内外の信徒や巡礼者によって牢屋の窄殉教祭が執り行われます。
五島崩れは五島列島全体に及び、久賀島以外でも福江島、姫島、有福島、若松島、中通島、頭ヶ島(かしらがしま)、野崎島などで激しい弾圧が行われました。姫島では18人が捕らえられて福江島・水ノ浦の牢で、頭ヶ島では31人が捕らえられて中通島の有川の牢で、野崎島・野首、若松島・瀬戸脇の約50人は小値賀島の牢で拷問を受けました。五島の住民によるキリシタンへのリンチ(私刑)もあり、中通島・曽根では柱に縛り付けられて殴られたり、隠れ小屋に火をつけられたり、家財道具や衣類、食物などが奪われたりしたそうです。若松島では五島崩れから逃れたキリシタンが断崖の洞窟“キリシタンワンド”に隠れ住み、頭ヶ島や中通島・福見の信徒は外海(そとめ)(現長崎市)や黒島(現佐世保市)などに移り住む逃亡生活を送りました。
頭ヶ島天主堂(国指定重要文化財)は2018(平成30)年7月に「頭ヶ島の集落」の一部としてユネスコの世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されています。