びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #2》文・Lapiz編集長 井上脩身

暗躍するアメリカ防諜部

検察がえがいた共産党の犯行というストーリーは雲散霧消と化したが、しかし事件そのものは現に発生し、3人が犠牲になった。では真犯人はだれか。

松本清張は『日本の黒い霧』(写真左)所収の「推理・松川事件」で、アメリカ軍政部が福島市に陣取っていたこと、福島CICが共産党対策に熱中していたこと、CIAが破壊活動班を鉄道補給路の鉄橋を爆破させた例があることなどを挙げて、GHQに疑惑の目を向ける。

吉原公一郎氏は諏訪メモのなかの以下の記述に注目する(『松川事件の真犯人』祥伝社文庫)。

6・30赤旗事件トカチ合ウ 11日カラ10名位
地警→警備係長→応援者 根拠地→原
民政部→労務課(野地通訳)
CIC→tel 1360→加藤通訳
連絡者→<松川デス 頼ミマス>20分
労政課→野地課長 or 高原
C・Cor
 30名地警カラ来ルノハ最大限

吉原氏は次のように解釈できるという。

「国家警察福島本部への連絡は、警備課長(あるいは次席)にすること。11日からはそこから10名の応援が来ている。福島地区警察への連絡は警備係長にすること。根拠地とあるのは、ここに連絡すれば、東芝労組弾圧にすぐにも乗り出せる警備配置ができているということであろう」。メモをこのように捉えたうえで、吉原氏は「驚くべきことに、アメリカ民政部労政課やCIC(防諜部)などとも密接な連絡体制ができていた」といい、<松川デス 頼ミマス>は「すべてが了解され動きだせることになっていることを意味する」とみる。

 CICはアメリカ陸軍情報部下の諜報機関だ。このメモは、東芝松川工場の労働組合対策のため、CICと警察が密接に連絡を取り合っていたことを示しているのである。

 松川事件の捜査の指揮をしていたのは福島県警察本部の玉川正捜査課次席(警視)。吉原氏は事故発生から30分余りしかたっていない3時40~50分ごろ現場に到着したと推測。玉川警視は捜査員より早く現場に到着し、次席自ら現場検証をしたことになり、捜査の通例からみて明らかに異常。福島CICから東芝松川工場まで20分で行けることなどから、吉原氏は玉川警視が福島CICと一緒に現場に向かったとみる。

  福島CICはどのような組織であったのか。大野達三氏の著書『松川事件の犯人を追って』(新日本出版)によると、1949年時点では福島CICはアンドリュース少佐を隊長に約30人で編成。東という姓の兄弟の準尉やジム・藤田という日系人のほか、ジョセフ・マッサーロという飯坂温泉に住んでいた者がいた。諏訪メモに記されている「加藤通訳」はジョージ・加藤と思われる。

 大野氏は「軍政部の労組対策は、GHQの方針に従い労働組合から共産党などの勢力を一掃することにあり、国鉄、東芝などの共産党員のリストづくりから始められた」と分析、「CICの労働組合係は軍政部の労組対策と歩調を合わせていた」という。諏訪メモはこれを明白に裏付けている。

 ところで、事件の夜、呉服店の蔵破りを試みて失敗した二人の男性が、事件現場近くで9人の男とすれちがっている。この9人はいずれも背が高く、実行犯である可能性が高い。そのうちの一人が「イイザカ温泉はどの方向か」などと話していたと公判で証言しており、飯坂温泉のジョセフ・マッサーロのところに向かったとみるのが自然だろう。

レール切り取り実験
 2010年8月30日に開かれた交通政策審議会陸上交通分科会鉄道部会中央新幹線小委員会の会合で、井口雅一・東大名誉教授(機械工学)が「鉄道の弱みは脱線」と2004年に起きた中越地震による新幹線の脱線などのスライドを映して事例報告をし、「カーブでなければ慣性の法則によって列車は基本的にまっすぐ走るので少しのことでは転覆まではいかない」と述べた。このあと井口氏は注目すべき発言をした。「アメリカ軍が戦時中の鉄道破壊工作の実験をした記録の動画がある」というのである。
動画をネットで検索したが、見られないよう手を加えられていた。井口氏の解説で想像するしかない。井口氏によると、その実験はレールの一部を切り取ってしまうという荒っぽいもので、「約1メートル程度欠損した状態では機関車の先頭の車輪は脱線しているが、他は無事。車輪一つ破損した程度ではいきなり脱線しないという印象」という。
分科会の名称からも分かる通り、井口氏は松川事件の解明のために語ったわけではもうとうないが、大いに参考になる発言である。事件現場はカーブであった。カーブでなければ簡単に脱線、まして転覆までいかないことは実験で証明済みだったのである。長さ25メートルのレール1本がまるまる外されていたのは、実験で得たデータに基づいたためとみることができであろう。GHQの謀略とみる立場からは有力な傍証であることはいうまでもない。

線路破壊事件といえば、その多くが爆破によるものである。

1928年6月4日、中国の軍閥の指導者・張作霖が乗る特別列車が奉天近郊の立体交差点にさしかかったところ、南満州鉄道(満鉄)の橋脚に仕掛けられた火薬が爆発、列車は大破、張作霖は死亡した。関東軍は国民革命軍の仕業に見せかけ、これを口実に南満州に侵攻。関東軍が行った暗殺事件とわかり、「張作霖爆殺事件」とよばれる。1931年、やはり奉天近郊の柳条湖付近で関東軍が満鉄の線路を爆破、中国軍の犯行と発表した。柳条湖事件と呼ばれるこの鉄道爆破事件が満州事変の発端となり、15年戦争につながった。日本の中国・満州侵略は鉄道爆破によって始まったといっても過言ではない。

2022年2月に始まったウクライナ戦争で、10月24日、ベラルーシとの国境に近いロシア西部ブリャンスク州で線路が爆発した。英国防相はロシア国内の反戦団体が犯行を表明したと述べた。

西部劇でもダイナマイトで爆破するシーンが少なくない。スペイン内戦を描いたヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』もクライマックスは鉄橋爆破だ。鉄道破壊には爆破が手っ取り早いのである。

このようにみると、線路を外すという手の込んだ犯行は、実験を重ねたアメリカ軍の得意分野と言えるだろう。では事件はGHQの自作自演であったのだろうか。

松川事件3カ月前の1949年5月9日午前4時23分、愛媛県北条町の国鉄予讃線、浅海―北条間で、高松桟橋発宇和島行き準急列車が脱線、機関助手ら3人が即死した。現場はカーブで、継ぎ目板が2カ所で4枚はずされ、レールが75ミリ、海側にずれた形で外されていた。「予讃線事件」と呼ばれ、警察は「共産党員」と称する21歳の男性を逮捕。男性は共犯者3人の名前を挙げて犯行を自供したが、共犯者のアリバイが証明され、男性もシロと判明、迷宮入りとなった。
予讃線事件は列車脱線の態様、その後の捜査状況ともに松川事件とうりふたつである。アリバイが証明されなかったら、松川事件にならぶ冤罪事件になったに相違ない。それはともかく、レールを外すという手口から、米軍の鉄道破壊実験を想起しないわけにはいかない。予讃線事件と松川事件をセットにして解明の努力がなされていたら、その裏に潜む共通の組織体が浮かび出たかもしれない。

99歳で亡くなった阿部市次さんは松川事件の20人の元被告のうち、最後の生存者だった。福島県の地方紙『福島民友』の電子版によると、無罪が確定したあと、阿部さんは冤罪のない社会の実現に向けて語り部活動を行い、取り調べや裁判での経験を語りつづけたという。阿部さんは事件の裏でうごめく米軍の影をどう感じていたのだろう。

不条理にも「脱線転覆殺人犯」の汚名を着せられて被告席に立たされた20人の無辜の人たち。全員が帰らぬ人となった今なお、事件の真相は深い闇の底に沈んだままである。(明日に続く)