編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

――朝鮮戦争の軍需列車阻止の闘い――

『朝鮮戦争に「参戦」した日本』の表紙

1950年に始まった朝鮮戦争の休戦協定が成立して今年で70年になる。あくまで休戦であって戦争が終わったわけではない。2018年6月と19年2月、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩最高指導者の間で米朝首脳会談が行われたが、何ら進展はなかった。むしろ双方の緊張状態は一層深刻化、さながら米朝冷戦真っただ中の様相である。もし朝鮮半島が有事になればどうなるか。朝鮮戦争では、武器や爆弾を運ぶ軍需物資輸送網が日本中にしかれた。戦争を止めるためは輸送ルートを食い止めるしかない――という実験のような事件が実際にあった。吹田事件である。我が国周辺の緊張が高まるなか、反戦運動のためにどこまで体をはれるのか。それが知りたくて吹田事件の現場をたずねた。

百科事典が記す事件の概要

「人民電車」騒ぎが起きたころの阪急石橋駅ホーム(ウィキペデアより)

吹田事件の現場は吹田市を中心とする大阪府北部のいくつかの地域である。私はこの北部地域のなかの茨木市で生まれ、東隣の高槻市で育った。吹田市は茨木市の西隣で、高校の学区内だ。なのに吹田事件という言葉を知ったのは大学生になってからである。8歳上の兄が高校時代に付き合っていた同級生の女性について、母が「結婚してくれないかしら」とボソッといった後、「お父さんが吹田事件に関係していたからね」と声を落としたのだった。
最近、西村秀樹という元MBSの記者が著わした『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房)という本を書店で見かけた。我が国は朝鮮戦争に出兵してないはずだ。「参戦」とはどういうことであろうか。手に取ってページをめくると、「吹田反戦闘争デモコース」のタイトルで、デモコースを示す地図が刷り込まれていた。コースは山越え部隊コースと人民電車部隊コースがあり、いずれも勝手知った所。同書をむさぼるように読んだ。
1982年4月、北朝鮮建国の最高指導者、金日成主席の生誕70周年を迎えるにあたってピョンヤンで大規模な記念行事が催された際、西村さんは取材のために同国を訪ねるという幸運に恵まれた。帰国後、記者仲間でつくる朝鮮に関する勉強会に誘われ、会場の大阪・十三の居酒屋をたずねた。居酒屋のマスターは吹田事件で逮捕されたとうわさされた人物だった。
吹田事件は東京のメーデー事件(5月1日)、名古屋の大須事件(7月7日)とともに、1952年に起きた三大騒擾事件とされていた。西村さんは吹田事件について『世界大百科事典』を調べた。次のように記述されていた。
大阪府吹田市で学生、労働者、朝鮮人などが起こした事件。1952年6月24日夜、豊中市の大阪大学北校校舎などで「朝鮮動乱2周年記念前夜祭」として大阪府学連主催の「伊丹基地粉砕、反戦・独立の夕」が開催されたが、この集会に集まった学生、労働者や朝鮮人など約900名は翌25日午後零時過ぎから吹田市に向かい、国鉄吹田操車場を経て吹田駅付近までデモ行進を行った。その際、警察官と衝突、派出所やアメリカ軍人の乗用車に火炎びんや石を投げつけ、また途中、阪急電車に要求して臨時電車を運転させ「人民電車」と称して乗車したり、吹田操車場になだれ込んで操車作業を中断させたなどとして、111名が騒擾罪や威力業務妨害罪などの容疑で逮捕、起訴された事件。日本を基地としてアメリカ軍が朝鮮戦争を行っていた時期に起こった一連の実力行使による反戦闘争のひとつ。

新聞記事による事件の詳細

広大な敷地を持つ吹田事件のころの国鉄吹田操車場(ウィキペデアより)

西村さんは吹田事件の概略を頭に入れると、記者仲間に吹田事件の勉強会をやろうともちかけた。「吹田事件研究会」がスタートし、事件が起きた6月25日の新聞記事をチェックすることから始めた。すると居酒屋のマスターが逮捕された記事が目にとびこんだ。「25日朝、大阪の国鉄城東線鶴橋駅で無賃乗車の疑いで逮捕された日雇い人夫は民主愛国青年同盟大阪本部委員長で、警察は吹田操車場デモ事件の首謀者の一人でないかとみて調べている」とある。民主愛国青年同盟は当時の在日朝鮮人組織「在日朝鮮統一民主戦線」の青年組織だ。
新聞は「阪大北校グラウンドに北鮮共(北朝鮮軍共産党)、学生、自由労組など約1000人が集まり気勢をあげた」「デモ隊は阪急石橋駅に押しかけて″人民電車″を運転させて乗り込み吹田操車場になだれこんだ」「警官から奪ったピストルを発射したり、火炎びんや硫酸を投げつけるなどの暴行をはたらいた」「警官隊もピストルで応ずるなど双方に負傷者をだした」「警官隊はデモ隊に虚をつかれた形で、25日午後5時までにデモ隊60名を逮捕した」「負傷者は警官42名、デモ隊11名、計53名」などと報じていた。
以上の記事から注目されるのは人民電車事事件と、デモ隊と警察の激突であろう。
人民電車事件は次のような展開であった。
阪大での集会のあと、竹ヤリやこん棒を持った約400人の学生や朝鮮人が午前1時ごろ石橋駅に流れこみ、駅長に「臨時電車を出せ」と要求。上りホームにあがり、労働歌をうたい、ラムネ爆弾を線路になげて気勢をあげた。阪急電車側は「関係官庁の事後承諾を求める」として4両編成の臨時電車を出すことにした。デモ隊はさらに無料の「人民電車」を走らせろと求め、約2時間もめた後、石橋――大阪間20円の「団体割引運賃」で話がまとまった。結局384人が切符を買って午前3時5分、大阪に向かって出発した。
大阪・梅田駅に警察は機動隊1個中隊を出動させたほか、曽根崎署も100人の警察官が駅構内で待ち構えたが、デモ隊は途中の服部駅で下車し、電車は十三駅でストップ。警官隊は肩すかしをくらった形になった。
デモ隊と警察官との衝突は以下のとおりである。
25日午前5時50分ごろ、国警大阪管区警察学校と吹田署の警官200人が新京阪国道沿いの吹田市岸辺山の須佐之男命神社付近で500人のデモ隊と出くわした。警官側が解散を申し入れたが、デモ隊は午前6時半、吹田操車場になだれ込んだ。このため機関車の入れ替え作業が30分間中止された。7時10分、駆け付けた茨木署員を乗せた車1台がデモ隊に包囲され、硫酸や火炎びんが投げられ、警官12人が火傷を負ったうえ、ピストル2丁が奪われた。
デモ隊の約300人が午前8時、吹田駅に殺到、通勤客らで満員の停車中の大阪行き電車にもぐりこんだ。警官隊が列車内に踏み込むとデモ隊は奪ったピストルを発射、火炎びんを投げつけた。警官もピストル数発を発射して応戦した。百数十人の乗客は窓から飛び出し、ホームに逃げまどう女性や子どもの悲鳴に駅内外は大混乱に陥った。この衝突でデモ隊が5人、警官2人が負傷した。列車は14分停車した後、8時26分大阪駅4番ホームに到着すると、デモ隊は一般乗客にまぎれて改札口から散らばった。
以上は、新聞が伝えたデモ隊の行動だ。大阪地検の検事正は「『人員電車』といい、放火、ピストルを奪うなどかつてない悪質な騒擾事件」と語った。

線路に身を投げての反戦闘争

吹田操車場を進むデモ隊(ウィキペデアより)

デモ隊は何をどう考えて激しい闘争を繰り広げることになったのだろうか。西村さんは居酒屋のマスターを「吹田事件研究会」の講師によんだ。
マスターが民主愛国青年同盟大阪本部の委員長になったのは吹田事件の2週間前。事件当夜、上部組織から「吹田操車場へ行け」とのメモを渡されただけだった。阪大での集会後、デモ隊は千里丘陵を超える山越え部隊と、石橋駅に向かう人民電車部隊に分かれ、後に合流するが、マスターは人民電車部隊のことは知らなかったという。マスターは下見もしておらず、デモコースの大筋を知っていだけ。首謀者と言える存在ではなかった。
研究会メンバーの「デモ参加者の間で『吹田操車場まで行って、朝鮮戦争への武器や弾薬の輸送に反対する意思表示をする』という事前の意思統一があったか」との質問に、マスターは「私らはなかった」と答えた。
ではなぜマスターは闘争に加わったのだろうか。
マスターは1929年、朝鮮半島南部、済州(チェジェ)島に生まれ、9歳のとき、先に大阪に来ていた母親を頼って来阪。戦後、民族学校で学んだ。民族学校は1947年、全国で576校が設置され、奪われた母国語である朝鮮語、民族の歴史と文化をとり戻すための教育が行われた。生徒数は6万人を超えたが、GHQは48年、「朝鮮人学校の閉鎖」を指示、文部省は学校閉鎖令を出した。これに対し、朝鮮人の抗議運動が各地で繰り広げられ、大阪で開かれた集会では警察官が発砲、16歳の少年が射殺される事件が起きた。「阪神教育闘争」と呼ばれる抗議運動を機に、マスターは在日朝鮮人の活動家になった。
朝鮮戦争が勃発すると、朝鮮戦争に反対するビラを大阪のあちこちでまいた。港では、武器弾薬を運ぶはしけから荷物を海に落としたりもした。マスターにとって、吹田事件はこうした行動の一環であった。
在日朝鮮人の詩人、金時鐘(キムシジョン)さんは1999年、朝日新聞の取材に「朝鮮戦争で軍需列車を10分止めれば、同胞の1000人が救われるといわれ、デモ隊の後ろで参加した」と語った。その記事を見た西村さんは研究会に招いた。金さんは以下のような衝撃的な話をした。
親子爆弾やナパーム爆弾を大阪から朝鮮半島に輸送するのを阻止するために、十数人を組織した。闘争が失敗し列車が動いたら線路に身を投げることとし、その時間を待って、みんな列車の線路に身を横たえた。
吹田操車場から吹田駅を経て梅田貨物駅沿いに進んだ。大阪中央郵便局側入り口(現在の西口)から城東線ホームに上がったところで、警察官が鬼の形相でピストルを構えて階段を上がり、ピストルを水平に撃つのを目撃した。修羅場になり、西口から逃走した。
金さんは線路に身を投げてまで軍需列車を止めようとしたわけだが、マスターは「吹田操車場で貨物一つひとつチェックしたが普通の貨物列車だった」という。国鉄側が察知し、軍需列車はこの日、動かさなかったとマスターらはみる。

表現の自由に属し無罪

騒擾罪について無罪を伝える新聞記事(ウィキペデアより)

裁判は意外な展開になった。被告は111人。うち朝鮮人は50人。朝鮮戦争が休戦になって2日後の1953年7月29日の公判で、審理が始まる前、一人の朝鮮人被告が立ちあがり「戦争犠牲者の霊に黙祷を捧げたい」と叫んだ。佐々木裁哲蔵裁判長は「裁判所は禁止しない」と述べ、百余人の被告は約30秒間、「起立」「拍手」「黙祷」を行った。衆議院の法務委員会で問題になり、国会議員で構成される裁判官訴追委員会が佐々木裁判長に呼び出しをかけた。佐々木裁判長は「法廷内の訴訟指揮権に属することがら。裁判の進行中に外部から調査が行われることは司法権の侵害」として呼び出しを拒否した。「吹田黙祷事件」と呼ばれ、国会の裁判官訴追委員会は「訴追猶予」とし、事態はおさまった。しかし4年後、佐々木裁判長は辞任した。
検察側は、共産党の軍事方針のもとに起きたものとして、事前謀議を立証しようとした。しかし、大阪地裁は検察官調書の大部分を証拠採用せず却下。その理由として、「脅迫や拷問による取り調べであって、自白の任意性がない」などを挙げた。石川元也・主任弁護人は「この裁判は刑事訴訟法の宝の山」と言い表した。
一審の判決は1963年6月22日に開かれた。今中五逸裁判長の声が法廷に響いた。
「騒擾罪は成立しない」。続けて「威力業務妨害罪、爆発物取締罰則についてはいずれも成立せず、無罪」と述べた。結局、暴力行為などで15人だけが懲役10月から2月(いずれも執行猶予つき)の有罪となった。
裁判のなかで最大の争点は須佐之男神社前での衝突についての判断だった。判決は「一部の者は警察官や派出所、駐留軍の自動車などに攻撃し、付近の人心に不安と動揺を与えたが、集団の共同意思に出たものと認め難い」と判示。吹田操車場でのデモについて「軍需列車を襲撃、破壊するためとは認めることができない。朝鮮戦争に反対し、軍需列車に対する抗議のための示威行為と認めるのが相当」と認定。このうえで「憲法が規定する表現の自由に属するデモ行進」として検察側の主張を全面的に退けた。
第二審も騒擾罪は認めず検察側は上告を断念、騒擾罪についての無罪が確定した。事件発生から20年後のことであった。(明日に続く)