編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 02》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

神社前の狭い広場で激突?

阪急石橋阪大前駅の阪大側改札口付近
デモ隊と警察が衝突した須佐之男命神社

1月末、私は吹田事件の現場を訪ねた。すでに述べたように、阪大グラウンドでの集会の後、デモ隊は二手にわかれている。人民電車部隊コースをとった一団は阪急石橋(現石橋阪大前)駅に向かい、上りホームで気勢をあげ、人民電車の発車を要求、臨時電車で大阪方面に向かったという。
その現場である石橋阪大前駅上りホーム。私が自宅から大阪に行く際に利用する阪急電車はこの駅を通る。同駅から阪大に通じる商店街にある鍼灸院に何度か通ったことがあり、この駅は知り尽くしている。上りホームは箕面線ホームとの分岐点にもなっていて、そこに改札口が設けられている。改札口辺りは事件のとき、現在と同様、比較的広いスペースがあったであろう。おそらくそこでデモ隊は団子状になり、勢いあまって「人民電車を出せ」と要求したのであろう。
もう一つの山越え部隊コースは西国街道(国道171号)を東に向かい、後に大阪万博の会場になった千里丘陵付近を越えて、須佐之男命神社前で人民電車部隊コースのデモ隊と合流したとされている。私はJR岸辺駅から同神社へと歩いた。幼稚園児だったとき、我が家の近くの20歳くらいのFさんに連れられて、岸辺駅前の屋台に行ったことがある。今思えば闇市だったのだろう。キョロキョロと見まわしたが、その痕跡があるはずはない。駅から7、8分、大阪府道(かつて産業道路と呼ばれた)から50メートルほど北に入ったところに同神社があった。本殿と社務所があるだけ。神社としての規模は中程度といったところだろうか。本殿の前には25メートルプールにも至らない大きさの広場がある。
ここで500人(判決では900人)のデモ隊と200人の警察官が衝突したというのである。本当だろうか。本当であれば芋を洗うような混雑ぶりではないか。衝突といえば相対峙する双方がにらみあったうえ、ぶつかるというイメージだが、実際には衝突にまで至らなかったのではないだろうか。それでもなお衝突というのなら、それは混乱してわけのわからない状態だったにちがいない。
須佐之男命神社から幅10メートルほどの山田川に沿って吹田操車場に向かった。この辺りは私が高校生のころは一面に田畑が広がっていた。現在はモダンなマンションが林立する住宅密集地である。事件のころの面影が残っているのは山田川だけであろう。ほどなく明和池公園と名づけられた防災公園に出た。その中央に少し小高い広場があり、列車を模した遊具が据え付けられている。
小学6年生のとき、社会見学で吹田操車場を訪ねたときのことが脳裏に蘇った。長い貨物列車が緩いスピードで高台に上がる。高台(といっても高低差3メートルくらい)の頂上で、作業員が貨物車の連結部分を外す。線路は高台から幾つにも枝分かれしていて、別の作業員が貨車ごとにポイントを切り替え、行き先をかえていく。その手際のよさに目を見張った。担当の職員が「日本中で最も広い操車場。ここから荷物が全国に分かれていきます」と胸を張っていたのを覚えている。
吹田事件はこの見学の4年前だ。全国各地からやってきた貨車はあの高台で切り離され、朝鮮に向かう船が停泊する貨物駅につながる線路へと坂をくだっていく。そして、何十両もの貨車が連結されて軍需貨車が編成されたのであろう。
デモによって作業が中断させられたという。高台の頂上での切り離し、坂の途中でのポイント切り替え、坂の下での線路ごとの再連結という一連の作業が一時ストップしたということのようだ。この作業が真夜中に行われたのに私は驚く。
デモ隊は吹田駅に向かった。かつて吹田駅前にはアサヒビールの工場があり、レンガ造りの工場がデンと建っていた。いまは工場がなく、レンガ壁の一部が名残をとどめているだけ。ここからデモ隊は大阪駅に向かった。その大阪駅も近代化した。子どものころ、駅前に闇市の名残のような市場があった記憶があるが、今は見る影もない。あえて残っているといえば、御堂筋に通じる東側(阪急百貨店側)のガードと、四ツ橋筋に通じる西側(大阪中央郵便局側)のガードくらいであろう。金時鐘さんが逃げたという西側ガードのそばに立って大阪駅ホームを見あげた。警察官がピストルを発射したならば、パニックに陥るのは当然のことだ。当時を想像しようもないが、思わず首をすくめた。

新憲法の時代を象徴

講演する石川元也氏=元吹田事件主任弁護人(ウィキペデアより)

2022年10月、吹田事件の裁判資料が吹田市立博物館に寄贈されたのを機に、「朝鮮戦争と吹田事件~吹田市立博物館所蔵資料の特色」と題する講演会が行われた。講師は吹田事件の主任弁護人だった石川元也さん。91歳になっていたが、90分間、立ったまま話したという。
石川さんは一審公判中、東京の古本街で検察側の内部総括を示す文書を入手、お陰で相手の手のうちがわかったと語った。
検察側のずさんぶりには驚くが、それ以上にこの事件の判決に私は新鮮な驚きを覚える。「デモは憲法に保障された表現の自由」と実に明解だ。基本的人権を定めた憲法の精神を市民のために――そんな裁判官の息づかいが聞こえてくるではないか。
当然といえば当然の判決だ。それなのに驚きを禁じ得ないというのはどういうことだろう。いつの間にか、権力におもねり政府に迎合する裁判官が増えてきたからだろうか。吹田事件は、戦争反対という主張のためのデモといい、基本的人権を最大限尊重する裁判官といい、新憲法の時代を象徴する鮮やかな事件であった。