京都奇譚《一寸法師》山梨良平

鴨川の源流雲ケ畑で

ここに「一寸法師」というよく知られたお伽話がある。物語はご存じのように、ある老夫婦には子供がいない。どうしても欲しいと思って住吉の神様にお願いした。すると老婆に子供ができた。しかし生まれた子供は一寸(3cm)ほどの小さい子供だった。子供は一寸法師と名づけられた。
ある日、一寸法師は武士になるために京の都へ行きたいと言い、お椀を舟に、箸を櫂(かい)にし、針を刀の代わりに、麦藁(麦わら)を鞘(さや)の代わりに腰に差して旅に出た。都では大きな立派な屋敷を見つけ、そこで働かせてもらうことにした。その家の娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来た。一寸法師が娘を守ろうとすると、鬼は一寸法師を飲み込む。一寸法師は鬼の腹の中を針の刀で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまった。一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)にもなり、娘と結婚した。御飯と、金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたという。
以上がよく知られているお伽話のあらすじである。

お椀の舟で箸を櫂代わりに京の都に上ったという一寸法師だが、いったいどの川を上って行ったのだろうか。都から流れ出る川をお椀の舟でさかのぼったとも思えない。となると都に流れ込む川となる。都のど真ん中を流れる鴨川の可能性が考えられる。鴨川の源流は雲ケ畑(くもがはた)らしい。ここは平安の都造営の為の材木を調達するため、杣人(そまびと)が入って出来た聚落だとか。ということは、一寸法師の両親は雲ケ畑の杣人もしくはその子孫だった可能性がある。

一寸法師が都へ行きたいと言うのをすぐに赦したのもうなづける話だ。
他にも京の都を流れる川はあるが、やはり天皇は無論貴族たちが行き来する御所に近い今でいうところの中京区を流れる川というと鴨川であると考えるのが自然である。おそらくこの川の源流から御所などを造営する木材をイカダで運んできたのだろう。だから一寸法師もお椀の舟で流れて来ることができたと考えられる。つまり土地勘があった。

一方の鬼だが京の都の鬼で有名なのは丹波の国、大江山の鬼が有名である。この時代。貴族の繁栄の影で民衆の暮らしは厳しいものだった。大江山を棲家としていた酒呑童子は、そんな王権に背き、都から姫君たちをさらっていた。この鬼たちの悪行に悩んだ天皇は勅命を出し、その命を受けた源頼光は配下の4人とともに大江山へ向かい、酒呑童子一味を退治したという話が残っている。

だから一寸法師が退治した鬼は酒呑童子など大江山系の鬼ではない。それに一寸法師が鬼を退治した場所は清水寺となっている。はたして清水寺にも鬼がいたのか。
この時代に坂上田村麻呂という武官がいた。彼も勅命を受けて征夷大将軍として、蝦夷討伐の任にあたり今でいう東北へ出向いた。大江山はまだ畿内と言えるが、東北となるとちょっと話が大きくなる。天皇も簡単に勅命を出すものだ。それはともかく坂上田村麻呂は清水の舞台で有名な清水寺を建立した人物でもある。
勅命で蝦夷を平定し、都へ凱旋する。その時、降伏したアテルイとモレと言う蝦夷の2名を都に連行した。坂上田村麻呂はアテルイとモレを蝦夷統治の役人もしくは相談役にでもするよう天皇や貴族などに進言したがかなえられず、遂にはアテルイとモレは田村麻呂の助命嘆願も空しく、朝廷によって死罪を申し渡され、河内国植山(枚方)で処刑されたと伝えられている。

秋田・男鹿半島の「なまはげ」

話は一寸法師に戻る。坂上田村麻呂はアテルイとモレの死罪を免れるために清水寺で一心に祈る。ところが政府の役人になった一寸法師が命を受けてアテルイとモレを斬ったらしい。蝦夷の人は都人には異形の人に見えた。そこで「鬼」と後世に伝えられたのかもしれない。そういえば、秋田の男鹿半島に残る「なまはげ」や 佐渡に残る「鬼太鼓(おんでこ)」、能登半島の「御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)」 など鬼の姿をした男たちの伝統的な姿が今に残っている。彼らはアテルイやモレの子孫なのかもしれない。

一寸法師はここでも物語のクライマックスに突然表れてこの話を締めくくったのだった。

*法師:僧侶全般に対する呼称、及び、僧侶姿の人物の呼称。転じて人物一般の呼称。また、それらに似た物に対する呼称。琵琶法師、一寸法師、起き上がり小法師、影法師、つくつくぼうしなど。
※お断り:「忌憚」という文字を意味が違いますので本来の「奇譚」と書き換えます。