宿場町《東海道・桑名宿#2》文・写真 井上脩身

俳句になった元本陣のカワウソ

七里の渡し界隈の賑わいを描いた絵(七里の渡しの説明板より)

一の鳥居のすぐそばの東海道沿いに「しちりのわたし」と刻まれた石碑が建っている。この石碑の脇では、鉄筋三階建てのビルが修理工事中だ。その壁に「山月」のネオン。料理旅館「山月」である。脇本陣「駿河屋」の一部がこの料理旅館に残っているという。「山月」の左隣は木造二階建ての瀟洒な料理旅館。入り口に「船津屋」と書かれた照明灯がたっている。その名の通り、裏庭から直接船に乗ることができた。ここが元の大塚本陣である。
船津屋の板壁が一部くりぬかれて、高さ1メートルほどの石碑(右)が建てられている。そばに「歌行燈句碑」と題する説明板。
句は「かはをそに火をぬすまれてあけやすき 万」。劇作家、久保田万太郎が詠んだ句だ。
説明板は明治の文豪・泉鏡花(1873~1930)が明治42(1900)年、講演のため来桑、ここ船津屋に宿泊した。この時の印象を基に小説『歌行燈』を書き、翌年1月号の『新小説』に発表した」としたためられている。久保田万太郎は1939年、戯曲『歌行燈』を書くために船津屋に逗留、旅館の主人の求めに応じて句をつくった。この句に出てくる「かはをそ」はカワウソのこと。泉鏡花の小説に現れるという。どういうことだろう。帰ってから『歌行燈』を読んだ。

小説は次のような一文から始まる。
宮重大根のふとくして立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり……

これは十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』の五編上「桑名より四日市へ」の書き出しと全く同じ。『東海道中膝栗毛』はこの後「めいぶつの焼蛤に酒くみかはして、かの弥次郎兵衛喜多八なるもの、やがて爰(ここ)を立出(たちいで)たどり行くほどに」とつづく。『歌行燈』も主人公、源三郎が弥次郎兵衛になった気みなって、湊屋(モデルはいうまでもなく船津屋)で芸の出来ない仲居と軽妙な会話を楽しむという筋立て。その湊屋について、うどん屋の女房が主人公に次のように話す。(筆者註・口語に書き換えている)。
z奥座敷の手すりの外が海といっしょの揖斐の川口じゃ。白帆の船も通ります。スズキがはねる。ボラは飛ぶ。他に類のない趣のある家じゃ。ところが時々崖裏の石垣からカワウソが入りこんで、板廊下や厠についた灯りを消していたずらするといいます。
辞書で調べると、カワウソの和名は「カワオソ」。「川に住む恐ろしい動物」の意味があるといわれ、加賀では城の堀に住むカワウソが女に化けて、男を食い殺したという言い伝えがあるという。
船津屋は江戸時代、本陣であった。大名が泊まる格式高い宿所にカワウソが化けてでたとは考えがたいが、加賀の例のように、桑名城の堀にカワウソがすんでいて、悪さをすることがあったのかもしれない。

暮らしを守る通り井の水

通り井から水をくむ人々を描いた絵(通り井の説明板より)

「七里の渡し」から旧東海道を歩いた。両側に料亭などが立ちならび、「焼きハマグリの街」ならではの、思わずつばが出そうな雰囲気を醸している。その街道の両端に幅約50センチの細長い石製板が帯状にしかれている。他の宿場町では見られない道路模様だ。何だろう。
途中、その説明がかかれた標識がたっていて、疑問が解けた。
桑名では地下水に海水が混じるため、寛永3(1626)年、町内の主要道路の地下に筒をうめ、町屋川から水を引いて水道をつくった。これを「通り井」といい、道路の中央に方形の井を設けて一般の人々が利用できるようにした。1962年、道路工事のさい、「通り井」の一つが発見されたという。
勝之助は柏崎の街について「御国(桑名のこと)と違い、役所仕舞いにてもそば売りも参らず、勿論酒も無し」と嘆いている。ということは桑名では、仕事が終わるころを見はからってそば売りがやってきたのだろう。そばをゆで、つゆを作るには当然水がいる。そば売りは通り井から水をくんだに相違ない。できることなら私もそばを食べたいものだ。堀端を歩きたくなった。
桑名城本丸周辺は石垣が残っているにすぎず、いささか殺伐とした光景である。旧東海道に戻ってそぞろ歩いていると、建て込んだ街並みの中に鳥居が見えた。桑名宗社と呼ばれる春日神社の鳥居だ。青銅製である。東海道を行く人たちはこの神社で旅の安全を祈願したにちがいない。神社の本殿では赤ちゃんを抱いた夫婦が神職のお祓いを受けていた。勝之助も出立前、生まれて間もない娘のために妻と共にお祓いを受けたかもしれない。
この後しばらく辺りをめぐって、宿場町の痕跡を探したが、美濃への出入り口としての番所が置かれていたという「三崎見附跡」以外に撮影ポイントがないようなので、メーンの通りを桑名駅に向かった。途中、海蔵寺という寺の前を通りかかると「薩摩義士墓所」ののぼりが門前にかかっていた。中に入った。境内の奥に、23基の墓がコの字型にならんでいる。説明板によると、宝暦4(1754)年、薩摩藩は幕府から木曽三川の分流工事を命じられ、947人を送り出した。工事は河口から50~60キロの範囲内、200カ所以上にのぼった。40万両(約320億円)もかかった大治水工事は1年で完了したが、幕府への抗議のための自害や病気などで84人が命を落とした。うち23人が義士としてまつられたという。
この工事によって、桑名は城下町として、また宿場町として、安心して暮らせる街になったのはまぎれもない。だが、幕府の命令は薩摩藩にとって非情であった。1200キロも離れた木曽三川のために莫大な資金を藩で用意しなければならないのだ。23義士の家族や親族の末裔は、やがて戊辰戦争で官軍の兵として幕府軍と戦っただろう。幕府方の桑名藩は朝敵となり、薩長の官軍に降伏した。何かの因縁であろうか。
ところで勝之助である。元治元(1864)年、再び桑名の土を踏むことなく柏崎で死んだ。63歳だった。戊辰戦争の4年前であった。
勝之助はどれほどか七里の渡しの船で桑名に帰る夢を見たことであろう。勝之助の心中をおもいつつ、私は桑名から名古屋に向かう電車にのった。