連載コラム・日本の島できごと事典 その99《密貿易》渡辺幸重

密貿易ルート(三上絢子「米国軍政下の奄美における日本本土との交易の特質-密貿易の地域的展開-」より)

第二次世界大戦後の1946(昭和21)年1月29日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は最終的決定ではないとしながらも「連合国軍最高司令官指令SCAPIN?677」によって口之島を含む北緯30度線以南の地域が日本の行政権の外にあると規定し、同年2月2日の「連合国覚書宣言(二・二宣言)」によって小笠原諸島とともに北緯30度以南の琉球弧(南西諸島)を米軍政府の統治下に置くと宣言。米軍政府は2月4日に奄美諸島の海上封鎖指令を通達し、北緯30度線を境に日本本土と口之島以南の自由渡航を禁止しました。
自由渡航の禁止により、日本本土では黒糖不足になり、奄美では生活必需品が入手できなくなりました。鹿児島や大阪、大分、佐賀などから奄美に寄留していた商人は本土へ引き揚げ、寄留商人の店や土地は地元の使用人たちに売却されました。このとき本土に戻った商人と生活に困った奄美の人々によって始められたのが密貿易でした。

密貿易船は奄美大島や徳之島、喜界島、与論島を出航し、“国境の島”となったトカラ列島・口之島に黒糖やコーヒー・タバコなどを運び、口之島の港で鹿児島から運ばれてきた衣料や学用品などの生活必需品と交換して奄美に戻りました。中継基地となった口之島は1日に40~50隻ほどの小型船(ポンポン船)が入出港し、ヤミ商人や船員で賑わいました。口之島は繁栄し、民宿や小料理屋もできて男女入り乱れての賑わいがあったといいます。1950(昭和25)年竣工の口之島中学校の校舎の建築費用は、密貿易や密航で口之島に寄港する船から徴収した港の使用料で賄われたそうです。
これに対し、米軍は奄美群島・トカラ列島周辺海域に出入りする許可証不保持の船舶を密航船として取り締まりました。1947(昭和22)年4月には口之島・中之島・宝島に巡査派出所を設置。日本政府も海上保安庁の職員を700名ほど増員して密貿易に対する警戒を行いました。ヤミ商人と警察官との熾烈な逃走劇が繰り広げられたという証言もあります。
トカラ列島は1952(昭和27)年2月4日に、奄美群島は翌年の12月25日に本土復帰を果たしました。それから1972(昭和47)年5月の沖縄返還まで沖縄との密貿易の中継基地は奄美群島南部の与論島に移りました。
米軍政府時代のトカラ列島には、1946(昭和21)年8月に引揚者や復員兵を乗せた“密航船”・宝永丸が定員超過のため中之島沖で沈没し、50人の犠牲者を出したという歴史も残されています。