連載コラム・日本の島できごと事典 その100《与那国特区構想》渡辺幸重

与那国島・国境交流のイメージ

台湾を西方約110㎞に見る日本最西端の“国境の島”・与那国島。「歌と踊りの島」といわれ、南方文化、中国文化、琉球王朝文化が混合した独自の祭祀・芸能を伝承しています。台湾の日本統治時代には与那国島は中継基地として栄え、米軍政下にあった第二次世界大戦直後も沖縄と台湾の間で兵器屑や軍需物資などと生活物資をバーターする密貿易(復興貿易)の中継基地となりました。1947(昭和22)年には島の人口が約1万2千人に膨らみましたが、蜜貿易に対する取り締まりが強化されると急激な人口減少が起きました。2015(平成27)年現在の人口は1,479人となっています。

与那国町は同じ八重山郡内の竹富町、石垣市との合併を望まず、“1島1町”の自立の道を歩いています。2005(平成17)年の10月に与那国町は自立・自治・共生を基本理念に据えた「与那国・自立へのビジョン」を住民主導で策定し、与那国「自立・自治宣言」を出しました。4月の町議会でも全会一致で議決され、島の道標になったのです。役場職員を中心に教育委員会、労働組合を含む計12人のメンバーによるプロジェクトチームも結成されました。

ビジョンは、かつての「繁栄する国境の町」という原点に戻って重点施策にアジア圏域を見据えた国境交流事業を掲げ、与那国島と台湾の間の交易・交流事業を進めるとしています。与那国町は1982(昭和57)年10月に台湾の花蓮市と姉妹都市となっており、花蓮市との交流を足がかりに、国が進めている構造改革特区を活用して“国境交流を通じた地域活性化と人づくり”を構想しました。その具体的な目標が「与那国特区」「自由往来」の実現です。

与那国特区構想は「国境交流特区構想」を中心に「教育特区」や「環境特区」などさまざまな構想からなっていますが、町はまず国の構造改革特区第7次募集に際して、官民共同による与那国「国境交流特区」構想を2005(平成17)年6月に提案しました。これは、国境離島型開港としての開港要件や花蓮港との直接航行(短国際航海)、来島時の査証(ビザ)免除などに関する規制緩和を求めたものですが、同年10月11日に却下となりました。さらに町は翌年10月にも短国際航海(与那国-花蓮間)に関する特例を求める「国境交流支援・短国際航海安全航行促進特区」、海外との防災気象情報共有や支援物資の受け入れに関する「国際防災協力特区」、与那国島を起点に小型貨物船や貨客船などの短国際航海を進める「どなん海人特区」の構想を構造改革特区第10次募集に提案しましたが、これも2007(平成19)年2月28日に却下されました。

その頃に浮上してきたのが島への「自衛隊誘致」です。雲行きが変わったのが2007年で、6月に米国のケビン・メア在沖縄総領事と米海軍掃海艇が反対を押し切って与那国島に入港。日本政府からの自衛隊受け入れの働きかけが強くなり、翌年1月には島に防衛協会が設立されました。その次の年の8月には自立へのビジョンプロジェクトチームが解散となりました。そして2016(平成28)年3月、陸上自衛隊与那国駐屯地が開設されたのです。

映画『標的の村』などを制作した三上智恵監督は「当初は自民党の国会議員らの応援もあり、自立に向って結集していた島民の夢は、日米政府から冷や水をぶっかけられた格好になった」と言います。自立へのビジョンプロジェクトの初代事務局長や2007(平成19)年4月開設の与那国町在花蓮市連絡事務所の初代所長を務めた田里千代基さんは「もしも特区申請が通っていたら、自衛隊誘致は潰せたと思う」とし、集会などで「自立ビジョンはあきらめていません」と訴えています。