連載コラム・日本の島できごと事典 その15《気仙沼大島》渡辺幸重

気仙沼津波石碑

 

マグニチュード9・最大震度7という超巨大地震「東北地方太平洋沖地震」が起きたのは2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分のことです。この地震によって大津波が発生、広く日本列島の太平洋岸を襲い、「東日本大震災」という未曾有の大惨事となりました。福島第一原発が津波による電源喪失で水素爆発を起こしたのもこのときです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その15《気仙沼大島》渡辺幸重” の続きを読む

シリーズ とりとめのない話《あの一言002》中川眞須良

人はある程度以上の齢を経ると、なにかにつけ昔を思い出す機会が多くなるものだ。私もそうだが、とくに自分よりも年上の人との会話の一部(言葉)が、その時無意識のうち頭の隅にインプットされたのであろう、何かの折にふと思い出す機会が多い。相手との親交の深さ、長さとは直接関係していないことも少し興味深い。あのときの 「あの一言」と題した二つ目の記憶をたどる。

桐山 清澄氏 将棋棋士九段のあの一言
1947年奈良県生まれ 73歳。現役最年長 通算勝ち数995 歴代10位 タイトル保持4期
「いぶし銀の名棋士」として ファン多数

「投了を告げた時の盤上には飛車、角の駒が一枚もなかった。私は使うすべなくの完敗、相手は使う必要なくの完勝」
1970年代後半、対局数日後のインタビューの一部であったと思う。当時は氏の絶頂期でありテレビ等で活躍の様子を見る機会が多かった。私は将棋は良くわからないが氏の雰囲気が好きなのである。特に和服姿 細めの黒縁メガネ 少し前屈みのあらゆる仕草、そして少しの寂寥の後ろに見え隠れする「いぶし銀の名棋士」のオーラ、勝負師はこうでなければ・・・と思わせるのである。

さらに今回のこの一言 自分の負けを完敗として認め相手の勝ちを完勝としてたたえる。このインタビューで将棋を知らぬ私はすっかり桐山ファンになってしまっていた。しかしその時のインタビューの言葉の断片の記憶があっても桐山氏の投了時の譜面など知る由もなくさらに、「盤上に飛車、角の駒が一枚もなかった。」とする状況もよく理解できていなかった。
この時から40年以上経過した2020年5月3日、コロナウィルス関連ニュースが紙面を賑わせていたA新聞朝刊の片隅に、毎日連載されている将棋名人戦の途中経過の記事である。この日はたまたま、途中指掛け図と終了図が掲載される日であった。対局者は佐藤康光九段と羽生善治九段、豪華メンバー同士の顔合わせ。さてどちらが勝ったのだろう? 終了図を見ても素人の私にはわからないし そのうえこの図が本当に終了図なのかと思わず独り言をが出てしまった。盤面全体の駒の数が極端に少ないのである。そして次の瞬間桐山氏の「あの一言」と同じではないかと気がついた。図に飛車、角が使われていないのである。それだけではない、私は今まで幾度となくプロ棋士同士の対局終了図を見る機会があったが、このような図を見た記憶は全くない。非常に珍しいケースと思うのであるが、私が勝手に抱く、取るに足らぬ結果なのだろうか。
それらはともかく、この対局の概要は次のようであった。

第78期将棋名人戦 A級順位戦9回戦  於 静岡市「浮月楼」

1、最終9回戦(10人総当り)
1、先手 佐藤9段(両者ここまで4勝4敗)
1、持ち時間 各6時間 投了時消費時間各5時間59分
1、対局開始時間 午前9時 終了時間 翌日午前1時13分
1、対局時間 16時間13分 手数 187手
1、終了時の盤上の内容
   総駒数19 飛車、角、銀の駒なし
   先手(勝者)の陣内(五筋~九筋)に後手(敗者)の駒 なし

1、勝者 佐藤康光あ
1、投了図(上)

 本当に珍しいケースなのか将棋ファンに一度聞いてみたい。そしてこの機に、桐山清澄9段のさらなる活躍を期待したい。
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あれから10年《東日本大震災》Lapiz編集長 井上脩身

田老「万里の長城」の10年
~人はなぜ逃げないのか~

田老4巨大防潮堤.

私には今も目に焼き付いて離れない1点の新聞写真がある。「万里の長城」といわれた岩手県宮古市田老の防潮堤を乗り越える津波をとらえた写真だ。2010年6月15日付の毎日新聞に掲載された。私は掲載日の10日余り前、田老の現場をたずねていた。目にしたのは木っ端みじんに破壊された防潮堤であった。この写真と現場で見た現実を重ね合わせると、津波の破壊力は人知を超えているというほかない。「津浪太郎」の異名があるほどに田老の人たちは津波の怖さを知っていた。にもかかわらず188人の死者がでた。その多くは逃げ遅れたか、逃げる途中だった。なぜ、さっさと逃げなかったのだろう。東日本大震災から10年がたった今なお、その疑問が解けないでいる。 “あれから10年《東日本大震災》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

あれから10年《東日本大震災》中務敦行

気仙沼

東日本大震災から10年がすぎた。2月11日から宮城県気仙沼市を訪ねた。夕方、現地に着いて、旅館に入ると廊下で目を引いたのはふたつの柱時計。正確には時計だったものである。(写真左)

左側には東日本大震災に襲われた時刻、右の時計は津波が押し寄せた時刻を指している。

海に近いこの宿は流されることはなかったが、再建されて新しくなっている。翌朝、街を歩いた。すぐ隣には新しい集合住宅が建てられており、すぐ傍には「・・女子高校の跡地」という表示板がかかっている。今はそこには学校はない。 “あれから10年《東日本大震災》中務敦行” の続きを読む

あれから10年《国民主権を実態化するにはやはり“選挙”しかない》渡辺幸重

東日本大震災・福島原発事故10年」に思うこと

火事や土砂崩れなどの災害現場から逃げる群衆と逆方向に、現場に向かって走るのがジャーナリストの習性です。10年前の東日本大震災。原発事故にショックを受けた私は3年間、原発の周辺をうろうろしました。ボランティアもせず、何の役にも立たないことに後ろめたさを感じながらでしたが、現場の姿を脳裏に焼き付け、記録することが自分の役目、と無理に言い聞かせました。いまでも忘れないのは福島駅の前の下水溝に線量計を近づけたときのことです。甲高い音で「ピーッ」と警戒音が鳴り響きました。私は一瞬、体が凍り付き、思考停止に陥りました。放射線量が異常に高いことは確かで、“死の予感”さえしました。ジャーナリストは常に冷静に、と自分を諫め、線量計の警戒レベルの設定値を上げて音がしないようにしました。いま思えば、私はアラームのレベルを上げず、ずっと警戒音を鳴らし続けておくべきでした。原発事故以来、日本国民は原発に対する警戒心のレベルを意図的に緩和し、原発をなし崩し的に許容する方向に向かっているように思います。「原発は危険」「原発とは共生できない」から「原発は地域振興のための必要悪」「原発の弊害には目をつぶろう」「二酸化炭素削減の国際公約を守るために原発は必要」というように。私自身もその波の中に巻き込まれそうで怖い気がします。いまこそアラームを鳴り響かせなければなりません。 “あれから10年《国民主権を実態化するにはやはり“選挙”しかない》渡辺幸重” の続きを読む

あれから10年。 

飯舘村前田地区5・2夕刻のリアルタイム放射線量

被害概要

マグニチュード9.0の大地震が日本を襲った。あれから10年が経つ。

人的被害
不明 2529人 死者 1万5899人―警察庁調べ
死者は宮城県が9543人、岩手県4675人、福島県1614人で、他の9道県が計67人。 遺体のうち99.6%は身元が確認できたが、岩手49人、宮城8人が未確認。

震源域
岩手県沖から茨城県沖までの南北約500 km、東西約200 kmのおよそ10万平方キロメートル (km2) に及ぶ。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。観測された最大加速度は宮城県栗原市のK-NET築館(MYG004)観測点で記録された2,933ガル。

原子力発電所事故
地震から約1時間後に遡上高14 – 15mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、1 – 5号機で全交流電源を喪失した。原子炉を冷却できなくなり、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生。大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展した(→福島第一原子力発電所事故)。この事故は国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7、チェルノブイリ原子力発電所事故と同等に位置づけられている。同原発の立地する福島県浜通り地方を中心に、周辺一帯の福島県住民の避難は長期化するとともに、2012年からは「帰還困難区域」「居住制限区域」も設定された(→福島第一原子力発電所事故の影響)。そのほか、火力発電所などでも損害が出たため、東京電力の管轄する関東地方は深刻な電力不足に陥り、震災直後の一時期には日本国内では65年ぶりに計画停電が実施された。計画停電は東北電力管内でも震災直後に実施されたほか、翌2012年の夏前には関西電力管内でも大飯発電所(大飯原発)の再稼働を巡って論議が起き、計画停電の可能性が議論された。 (ウイキペディア)

春の宵物語《流氷の話001》片山通夫

オホーツクの流氷・サハリン東部で

3月に入ってこんなニュースが流れた。「根室で流氷初日 北海道の太平洋側にも流氷」
本州以南は春の訪れの便りが聞こえ始めてきたというのにである。そういえば大分以前に北海道の人に「3月は流氷が流れ着く」と聞いたことがあった。ずいぶん遅いのだなと思った記憶がある。何となく氷=寒いという図式が頭の中を占拠していた。
ところで流氷はアムール川の河口付近、つまりサハリンの北、オホーツク海に面したところで生まれて、はるばる根室あたりまで旅をしてくる。(この項続く)

連載コラム・日本の島できごと事典 その14《笹森儀助》渡辺幸重

笹森儀助

島のために尽くした人は数多くいますが、私が一番に思い浮かべる人は、笹森儀助(ささもり・ぎすけ)(1845-1915)です。儀助は「(幕末・明治・大正時代の)探検家・政治家・実業家」と紹介されますが、私の印象では“社会活動家”です。
儀助は青森県弘前市に生まれ、弘前藩・青森県に勤めたあと1892年に千島列島探索に加わって『千島探験』を著します。1893(明治26)年から1898年までの5年間が南島(琉球列島)に関わった時期ですが、交通が不便な時代にハブやマラリヤが恐れられた地域に入り、現地のために奔走し、貴重な記録を残す大事業をやってのけています。まず、1893年5月に沖縄島に着いた儀助は慶良間諸島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島をまわり、帰る途中にも与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島にも立ち寄りました。このときの記録が1894年発行の『南嶋探験』です。さらにこの年から1898年まで奄美大島の島司をつとめ、その間にトカラ列島を視察し、『拾島状況録』という書にまとめました。
井上馨内務大臣から国内製糖の振興のため南島の糖業拡大の可能性を探るよう依頼されて始めたことでしたが、現実をストレートにとらえ、社会の矛盾をえぐりだし、政府批判を含めて提言し、自身も改革に取り組んだ儀助に私は畏敬の念を抱きます。宮古島や石垣島では過酷な人頭税や身分制度に苦しむ住民の姿を直視し、人頭税を廃止すべきとして宮古島の人頭税廃止運動にも影響を与えました。一方で旧支配者層である士族たちが豊かな生活を送る社会矛盾を指摘しています。奄美大島では黒糖の売買権を鹿児島の商人が独占し、島民が困窮にあえいでいることなどを記録し、請われて大島島司にもなったのです。
あの時代に命がけで南の島々を回って調査報告をし、社会を変える活動をダイナミックに進めた生き方は感動的です。蝙蝠傘をさし、尻をはしょった儀助の写真を見る度に私も血がたぎる思いがするのです。儀助はその後、青森市長などもつとめました。

シリーズ とりとめのない話《あの一言》中川眞須良

人はある程度以上の齢を経ると、なにかにつけ昔を思い出す機会が多くなるものだ。私もそうだが、とくに自分よりも年上の人との会話の一部(言葉)が、その時無意識のうち頭の隅にインプットされたのであろう、何かの折にふと思い出す機会が多い。相手との親交の深さ、長さとは直接関係していないことも少し興味深い。

あのときの「あの一言」と題してそのいくつかの記憶をたどると

氏名 星 子(姓)さん
1933年前後生まれ 男性 大阪市在住 コーヒー輸入販売会社経営 高校野球ファン 親交15年以上

あの一言 「やっぱり野村は、来なかった。」
2021年2月16日 大阪市浪速区の「南海ホークス メモリアルギャラリー」内に野村克也氏のコーナーが新設された、との報道がながれた。何故 今になって、、、? の疑問はともかく、すぐ思い出したのが星子さんのあの一言である。

週に一度は顔を合わしていた星子さん、日頃から口数の少ない静かな紳士だ。それは二十年ほど前のある日の再会時、少し興奮気味での最初の一言がこの言葉であった。

なんの事か全くわからず問返そうと思ったが珍しく機嫌が悪そうなので、だんまりを決め込むとすぐに口を開いた、 「あんた(私のこと)知ってるやろ! 杉浦 忠 の現役時代、ダイエーホークス初代監督,元南海ホークスのエース、堺の霞ヶ丘に住んでたん ・・・」(次第にテンションが上がってくる) 。
話は続く。「実は先日、杉浦さんのお葬式に参列してきたんやけど、鶴岡さんの時も来なかったし 今回もやっぱり来なかった・・・あの野村克也」。

元南海ホークスの監督 鶴岡一人 エース投手 杉浦忠 両氏のお葬式に野村克也氏が参列しなかった事が相当ショツクであったようだ。そしてこみ上げてくる怒りと虚しさのようなものを必死に堪えているように感じた。 なぜそこまで・・・?

そういえば更に以前、星子さんから大阪球場へ何度もホークスの試合観戦に行った話を聞かせてもらった時の選手の名も数人記憶している。

飯田のとくさん、岡本のいさみちゃん、まぼろし監督の蔭山、鉄砲肩のちゅうすけなどニコニコしながら・・・。しかし 今この時代を知る人はほとんどいない。

そしてこの日、私との別れ際 「今年でプロ野球ファン、やめ! これから高校野球一本でいきますわ。」

当時星子さん、南海ホークスファンの一人として チームそして選手への思い入れ、どのようなものであったのか、もっと詳しく聞いておけばよかった。