編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 下》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

木曽殿と背中合わせ

芭蕉の墓・義仲寺

『芭蕉「越のほそ道」』は上下2段290ページにわたる大著である。松本氏の調査力には頭が下がるが、俳諧の神髄が義仲の国造りの理想とは相通じることから、芭蕉は義仲に強い思いを抱いた、というのはムリがあるように私はおもう。国造りならば、その形をつくりあげたのは頼朝だ。だが頼朝に心を寄せた気配は全くない。要するに芭蕉は義仲が好きだったのだ。でなければ「義仲寺に葬ってくれ」と遺言するはずはない。ではなぜ義仲が好きだったのか。 “編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 下》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 上》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

~義仲寺で俳聖の心をさぐる~

義仲寺

新型コロナウイルスの新規感染者が減少し、緊急事態宣言が解除された10月初旬、大津市のJR膳所駅に近い義仲寺をたずねた。木曽義仲をまつるこの寺に松尾芭蕉も葬られ、墓が隣り合っていると聞いたからである。芭蕉は「おくの細道」の旅で、源義経の終焉の地とされる奥州・平泉の衣川をたずね、「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な句を詠んでいる。素人めには、義経に思い入れが強かったとみえる芭蕉がなぜ、義仲のそばで死後を送ろうとしたのだろう。来年は『おくの細道』が刊行(元禄15=1702)されて330年になる。俳聖の心の奥をうかがってみたくなったのである。 “編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 上》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

とりとめのない話《中低域ハーモニー》中川眞須良

齢を数えれば自分自身と自転車(以下B)との関わり方はおのずと変わってくる。若き日のようにソロで 水、りんご、チーズと寝袋を背負い長距離を楽しみ、時にはタイヤ、チュウブの予備を持ち峠越えを楽しむ、などの気力 体力はいつの間にかなくなってしまった。還暦、古希を過ぎれば当然の事かもしれない。そこで この関わりを少し変えてみることにした。と言うよりも長距離を楽しんでいた頃の気分、感覚を手軽に味わってみようというのである。「ずぼら者!」と揶揄されるかもしれないが、、、、、。 “とりとめのない話《中低域ハーモニー》中川眞須良” の続きを読む

びえんと《五七五に託すハンセン病患者の叫び 下》Lapiz 編集長 井上脩身

民族差別との二重苦も

短歌、俳句、川柳を収録した『訴歌』の表紙

北條民雄は18歳の時に結婚したが、ハンセン病にかかったために離婚することになった。妻だった女性もハンセン病にかかって死亡したことを入院後に知る。北條のように夫婦共に感染して共に入院しているケースも少なくない。

【夫婦】

妻の肩借りて義足の試歩うれし

書く時の夫が字引になってくれ

冬支度指図するほど妻は癒え

病む妻を笑顔にさせた子の為替

亡妻の忌へ冬の苺の赤すぎる

立春の吹雪に妻の骨拾ふ

(妻に先立たれた夫はただただ切なく悲しい) “びえんと《五七五に託すハンセン病患者の叫び 下》Lapiz 編集長 井上脩身” の続きを読む

びえんと《五七五に託すハンセン病患者の叫び 上》Lapiz 編集長 井上脩身

~不条理な強制隔離政策のなかで~

北條民雄著『いのちの初夜』の表紙

11月末、映画『一人になる――医師小笠原登とハンセン病強制隔離政策』を見た。ハンセン病患者に対する強制隔離に反対しつづけた小笠原医師(1888~1970)の生涯を通して、らい予防法が引き起こした差別と偏見を訴える映画である。私はたまたまハンセン病患者たちの苦しみや怒りを詠んだ短歌、俳句、川柳を収録した『訴歌』に目を通していた。さらに偶然ながら、ハンセン病患者であった作家、北條民雄の代表作『いのちの初夜』を読み終えたばかりであった。この小説は、主人公がハンセン病療養所に隔離された最初の日を書き表した作品だ。2001年、熊本地裁は、ハンセン病歴者は国の隔離政策の被害者であると認定、さらに患者の家族についても同地裁は2016年、人格権が侵害されたと判示した。だが、病苦者への差別・偏見は今なお根強い。『訴歌』のなかの川柳を通して、ハンセン病患者の思いに迫りたい。 “びえんと《五七五に託すハンセン病患者の叫び 上》Lapiz 編集長 井上脩身” の続きを読む

とりとめのない話《たいはい(頽廃)の歌姫》中川眞須良

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私はながらく「たいはい」という言葉をよく知らなかった。「はいたい」(敗退、廃退)の語は接する機会が多くはないものの 初戦「敗退」や すたれおとろえる「廃退」として理解し普段から接してきた。
ある日 ラジオ番組で、それぞれの時代の変遷を辿る いわゆる「流行歌と歌手」をテーマとしたトーク番組(司会者とゲスト評論家の対談 1995年頃)の一部であったと記憶している。 “とりとめのない話《たいはい(頽廃)の歌姫》中川眞須良” の続きを読む

冬の夜更けは・・・001《師走に思う》片山通夫

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秋が過ぎて冬が来る。

初冬という冬を表す言葉がある。大辞林の解説では「陰暦では春夏秋冬それぞれに「初~」「仲~」「晩~」とつけると月の表示となり、『大辞林』のような記述となります。「初」がつく月はその字の通り季節のはじめをあらわします。「孟」も「初」と同様で、『全訳漢辞海 第二版』によると「四季で、それぞれの三か月のうち最初であるさま。《孟・仲・季の順》「孟春(=正月)・仲春(=二月)・季春(=三月)」「孟夏(=四月)」「孟秋(=七月)」「孟冬(=十月)」」とあります。」とある。 “冬の夜更けは・・・001《師走に思う》片山通夫” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その49《ユネスコ「消滅危機言語」》渡辺幸重

前新透『竹富方言辞典』(南山舎)

2009年(平成21年)、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は世界で2,500の言葉を「消滅危機言語」として発表しました。世界に6000~7000の言語がありますが、各地でマイナー言語 (規模の小さな言語) が消滅の危機にあり、このままでは100年のうちに半数が確実に消滅し、最悪の場合はいまの10分の1~20分の1にまで減るといわれます。ユネスコは日本では8言語・方言を取り上げ、アイヌ語を「極めて深刻」とし、八重山語(八重山方言)・与那国語(与那国方言)を「重大な危機」、八丈語(八丈方言)・奄美語(奄美方言)・国頭(くにがみ)語(国頭方言)・沖縄語(沖縄方言)・宮古語(宮古方言)を「危険」と認定しました。アイヌ語・八丈語以外は沖縄・奄美地方の言語になります。「言語の多様性は人類を豊かにしている」としてその価値を訴え、継承していく活動が起きていますが、マイナー言語はこれからどうなっていくのでしょうか。
石垣島や竹富島、波照間島などで話される伝統的な言葉(八重山語)はスマムニ、ヤイマムニと呼ばれ、話者は約4万5千人いるといわれます。同じ八重山諸島でも与那国島の言葉は八重山語に属さないとされ、地元ではドゥナンムヌイと呼ばれます。国立国語研究所の推計では与那国語の話者は2010年時点で393人で、住民でも50歳半ば以下で話せる人は稀で、年少者は理解することもできないということです。竹富島には八重山語に属する島言葉テードゥンムニを守り伝える活動があります。島の子供たちによって毎年発表会(テードゥンムニ大会)が開かれます。27年間かけて採集した方言を収録した前新(まえあら)透の『竹富方言辞典』は2011年の第59回菊池寛賞を受賞しました。奄美群島の与論島でも島の言葉ユンヌフトゥバを教える学校の授業があるなど地域一帯となって方言を守る取り組みが行われています。また、国立国語研究所は2014年から毎年、8言語・方言の記録と継承に係わっている者が一堂に会する「日本の消滅危機言語・方言サミット」を開催しています。Webには「日本の消滅危機方言の音声データを紹介するサイト」もあります。
消滅が心配されるマイナー言語は全国各地に存在します。東日本大震災時の原発事故により避難を余儀なくされた福島県浜通の地域社会でも伝統的言語の消滅が心配されています。また、同じ地域でも集落ごとに微妙に言葉の違いがあります。私の故郷は屋久島の平内(ひらうち)という小さな集落ですが、隣の集落とイントネーションが大きく異なります。東京の出身者の会に参加した地元代表が「東京に来たおかげで久しぶりに田舎の言葉をしゃべることができた」と語ったことがありました。私がしゃべる“平内弁”もすでに「極めて深刻」な消滅危機言語なのかもしれません。

 

2021冬号Vol.40《徒然の章》中務敦行

2021冬号Vol.40《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

Lapiz2021Vol.40

最近、知り合いの70代の女性から意外な身の上話を聞きました。彼女の長女が高校1年生のとき、叔父夫婦から「息子のいいなずけになってほしい」との申し入れがあったというのです。1970年代半ばのことです。戦後30年がたってもまだ「いいなずけ」という風習が根をはっていたのか、と驚きました。彼女は「娘にだって結婚相手を決める権利があると思う」と断りました。断るのは当然ですが、「娘にだって」の言葉に私は引っかかりました。そして気づきました。秋篠宮家の長女眞子さんと小室圭さんとの結婚に対する多くの国民の思いは「眞子さんにも相手を選ぶ権利がある」ではないか、と。意識するとしないにかかわらず、「眞子さん以外にも選ぶ権利がある」との考えがこもっているように思えるのです。 “2021冬号Vol.40《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む