神宿る。《岩船神社》片山通夫

この神社は珍しくご神体が境内の大きい岩で手で触れることができる。
例えば九州・高千穂の岩戸神社では御神体「天岩戸」は拝殿裏の遥拝所からお参りし神職が案内してくれるのでかってにはゆ行けない。また奈良の三輪神社も山自体がご神体と言うので自由には入れない。その点岩船神社は神様も何となく近しい。以下 岩船神社 趣意書より “神宿る。《岩船神社》片山通夫” の続きを読む

宿場町シリーズ《東海道・水口宿 下》文・画 井上脩身

夏の風物詩のかんぴょう干し

宿場を貫く旧東海道

与力は宿場役人を案内人にして、竜馬がいる部屋の明かり障子を開ける。同心3人が部屋に踏み込み、竜馬の両腕をとろうとすると、竜馬は筆で「なんすれぞ、土佐守家来に無礼はするぞ」と大書きした。藩士に対して、奉行所役人は司法権をもってない。与力はその場を立ち去った。
そのとき、遠くでけたたましい呼子笛の音がきこえはじめた。竜馬は大刀を落とし差
しにし、笛の方に向かう。足軽町に出たところで、大小をとりあげられた播磨之介が捕吏の六尺棒にかこまれて、竜馬の前を通った。
「水口宿絵地図」には足軽町はない。地図の西の方(京より)に小坂町があり、その文字の下に(百間長屋)と、カッコつきでかき添えられている。 “宿場町シリーズ《東海道・水口宿 下》文・画 井上脩身” の続きを読む

宿場町シリーズ《東海道・水口宿 上》文・画 井上脩身

宿場の江戸口に当たる東見附の跡

『竜馬がゆく』の舞台の街並み

 いっかいの剣術つかいだった坂本竜馬が倒幕の志士に変わったのはいつか。司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』(文春文庫)を読んでいて、興味深い記述にであった。竜馬が土佐に帰る途中、水原播磨之介と出会い、東海道を同行。播磨之介は内大臣三条実万に仕え、水戸の徳川家から三条家への密書を帯びて京にもどろうとしていた。幕府が反幕運動の封じ込めを強めるなか、播磨之介が水口宿で捕り方につかまったのを機に竜馬は天下というものを考えるようになる。もちろん小説の上での話だが、水口宿での出来事だけで14ページにおよんでいる。大長編『竜馬がゆく』のなかで、街道の宿場がこれほど長々と舞台になった例はほかにない。司馬は水口への強い思い入れがあったのだろうか。 “宿場町シリーズ《東海道・水口宿 上》文・画 井上脩身” の続きを読む

徒然の章《路傍の仏様》中務敦行

コロナ禍で教えている写真クラブや教室など、休講が多く催しもありません。そのため毎朝の散歩を強化、昨年は500万歩近くを歩きました。自宅は大和郡山市、雨が降っても大抵は歩きました。大阪に来ると地下鉄の2駅は歩きます。体調はよくカメラをもっての散歩を楽しんでいます。行き先は半径10キロ以内。遠いときは帰りに公共交通を利用します。
昔から歩く時は各地の氏神様にお参りをしていました。コロナ以後はあちこちにあるお地蔵さんが気になりました。どこに行っても沢山あります。向かい市はもっといっぱいあったんでしょう。それが開発や宅地造成などで、安住の地を追われ取り出した人たちも処分はできず、新しいお堂を作って安置したと思われます。マンションのようなもの、まだ集めただけのもの。でもどの地蔵さまも丁寧に花が供えられ、大切にされています。
新しい住宅地でも変わりはないようです。最近の人は無関心かと思っていたが、そんなことない。コロナもこうして皆さんの気持ちが届けば、間もなく退散する、そんな気持ちで手を合わせ続けています。
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連載コラム・日本の島できごと事典 その53《オホーツク文化》渡辺幸重

北海道の古代史は本州島とは異なり、稲作を特徴とする弥生文化がみられず縄文文化・続縄文文化、擦文(さつもん)文化、アイヌ文化と続きます。擦文文化は7世紀ごろから13世紀にかけて栄え、縄文式に代わって「木のへらで擦ったあと」がある土器が特徴です。この流れに並行して、北海道のオホーツク海沿岸には5世紀から9世紀までと推定される遺跡が分布し、続縄文文化や擦文文化とは異質な内容のためオホーツク文化と呼ばれます。オホーツク文化は、3世紀から13世紀までサハリン南部から北海道・南千島のオホーツク海沿岸部にに栄えた海洋漁猟民族の文化と思われますが、この文化を担った“オホーツク人”の正体ははっきりしません。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その53《オホーツク文化》渡辺幸重” の続きを読む

編集長が行く《社会的欲求不満の暴発か?》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

クリニック放火殺人事件犯の動機を探る

現場周辺の上空写真(2021年12月18日付毎日新聞より)

2021年12月17日、大阪市の心療内科クリニックで放火され、クリニックの院長(49)や患者ら25人が死亡する悲惨な事件が起きた。容疑者の男T(61)は死亡し、犯行動機は永遠のナゾである。現場は以前私が勤めていた会社のすぐ近くにあり、毎日のようにクリニックが入っている雑居ビルの前を通っていた。事件の数日後、現場を訪ねた。クリニックを覗くことができれば、動機をうかがわせる何らかのヒントがあるのでは、と思ったからである。だがビルの入り口は青いシートで覆われており、捜査関係者以外は中に入れない。何か手がかりはないかと調べてみると、東京のある心療内科医がコロナ禍のなかの人々の心理的不安について、マズローの欲求5段階の欠如を指摘していることがわかった。 “編集長が行く《社会的欲求不満の暴発か?》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

とりとめのない話《ジャズする心》中川眞須良

昨年暮れから今年にかけメデイアを通じジャズの話をよく耳にする。それも流れている曲はなんと「サッチモ」ではないか、何だこれは?と思ったがその理由を知って納得がいった。
震源地はNHKの朝ドラである。
それにしても 時代があまりにも古い。彼のジャズの世界を初めてレコード(Sp?)で知ったファンは今 どうしているのだろうか、平均年齢は優に80を超えていると思われる。数年に一度?はジャズの話題が巷をさまそう時があってもすぐ、行方知れずになることが常であるが今回はどうであろうか。 “とりとめのない話《ジャズする心》中川眞須良” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その52《オロンコ岩》渡辺幸重

北海道の知床半島北岸に網走湾に面してオロンコ岩と呼ばれるドーム状の岩島があります。陸続きになっている大きな岩で、ウトロ崎へのトンネル道路が貫通しています。頂上にはオロンコ岩チャシ遺跡があり、先住民族「オロッコ」の夏家の炉跡であるといわれます。オロンコ岩の名称はオロッコ族に由来しますが、自らは“ウィルタ”と呼んでおり、ウィルタ協会はオロッコを蔑称だとしています。
昔、オロンコ岩にはウィルタ族の砦(オロンコ岩チャシ)があり、その南西約1kmのチャシコツ崎(亀岩)にはアイヌ族の砦(ウトロチャシ)がありました。両者は戦い、アイヌが勝利したといわれますが、以下のような伝承もあります。

写真:オロンコ岩(Webサイト<お城解説「日本全国」1100情報【城旅人】>より)https://sirotabi.com/1039/

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