写真エッセー《出雲往来#3》片山通夫

出雲には様々な神様がおられる。それに伴って神秘的な風景や神社が数多存在する。面白いことに 、旧暦に10月には全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲に集まり,出雲以外では神が不在となるために神無月といい,逆に出雲では神在月(かみありづき)という。

写真エッセー《出雲往来#2》片山通夫

稲佐の浜

出雲国には驚くようなエピソードがある。最も筆者が驚いたのは「国譲り」の話。何しろ大国主と言うこの国を治めていた神様が大和朝廷に気前よく国を譲った。この辺りの大国主の神経がわからん。
島根県の観光ナビには「昔々、出雲の国は大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)という神様が治めていました。しかし高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大神(アマテラスオオミカミ)はその様子をご覧になり、「葦原中国(あしはらのなかつくに)は我が子が統治すべき」とお思いになりました。
※葦原中国・・・色んな解釈がありますが、ここでは出雲地方を指す解釈」
詳しくはこちら
(明日に続く)

写真エッセー《出雲往来》片山通夫

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すでによく知られている話だが、出雲王国と呼ばれていた王国が神代の昔にあった。現在の出雲、松江などを中心とした一帯を指す。
知られている話では大国主命、少彦名など出雲の国造りのエピソードやそれ以前の「遺跡」、何しろ伊邪那岐命が妻である伊弉冉尊の後を追って「黄泉の国」へ行ったという出入口である「黄泉平坂(よもつひらさか)」などもかなり有名である。また現実的だが砂鉄からの鉄製品の製造、大国主の国譲りや、出雲大社という「高層神社」があったという話なども、当時の建築技術から考えると驚くばかりである。おそらく当時は竪穴式住居が一般的なのだろうから。

そんな出雲に惹かれた筆者は出雲の国を何度か訪れた。(明日に続く)

参考:出雲国風土記

連載コラム・日本の島できごと事典 その103《墓参》渡辺幸重

硫黄島島民平和祈念墓地公園(小笠原村公式ページより)

小笠原諸島・父島の西方から南に、西ノ島から南硫黄島まで並ぶ島々を火山列島(硫黄列島)と呼びます。北硫黄島と南硫黄島の中間に浮かぶのが硫黄島(いおうとう)で、第二次世界大戦中に日本軍約2万人が戦死した“玉砕の島”として知られます。島には1940(昭和15)年4月の硫黄島村(いおうじまむら)施行時点で1,051人が住んでいましたが、第二次世界大戦末期の1944(同19)年7月に軍属を除く全住民が本土に強制疎開させられました。戦後の硫黄島は米軍統治となり、1968(同43)年の返還以降も自衛隊員しかいない“基地の島”となり、元島民といえども自由に行き来できなくなりました。旧島民は返還翌年に「硫黄島帰島促進協議会」を結成して帰島を求めましたが、日本政府は硫黄島の火山活動が激しいことを理由に「一般住民の定住は困難」として帰島を認めない状態が続いています。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その103《墓参》渡辺幸重” の続きを読む

宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#2(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

宿場外れに夏の陣合戦場跡

江戸末期にたてられた3基の常夜灯
樫井古戦場の碑

高さ5メートルほどの大きな鳥居がみえた。近くに「信達神社御旅所跡」の石碑。信達神社は2キロ南東にあり、紀州街道からは離れている。この大鳥居が信達宿の南の端にあたるので、紀州街道を大坂に向かう旅人にとって格好の目印になったであろう。ここから十数分歩くと「ふじまつり」が行われた油商兼旅籠「油新」。さらに進むと、道端に三つの常夜灯が並んでいる。いずれも高さは1・5メートル。泉南市のHPによると、文政のお陰参りに際し、伊勢神宮への信仰と道中の安全祈願のために建てられたという。このお陰参りは文政13年なので、宗光が神戸に向かったときはまだ設置されていなかった。
この常夜灯のすぐ先に本陣がある。宗光は元紀州藩の奉行の子だ。本陣に泊まれないことはないだろう。海舟の書を見たという証拠はないが、海軍操練所を発案したのは海舟であることは知っていたはずだ。海舟の書に接した可能性がないとはいえない。
「暢神」というその書から宗光は「新しい時代に向かって進んでいくのだ」と決意を新たにしたに相違ない。神ですら伸び伸びするというのである。ましてや人が伸び伸びできる時代がもうすぐやってくる。海軍操練所で力を発揮するのだ。と、宗光の心は躍動したであろう。
本陣から20分先に一岡神社。白壁の本殿だけのこじんまりとした神社だが、説明板には欽明天皇に時代に創建されたとあり、由緒は正しいようだ。信長の焼き討ちで焼失したが、1596年、村民の手によって再建されたという。江戸時代、この神社が信達宿に北の端の目印だったであろう。大鳥居からここまで約2キロの距離だ。
観光マップを見ると、さらに北に「樫井古戦場の碑」がある。「大坂夏の陣」との添え書きがあり、がぜん興味がわいた。
20分ほど歩き、樫井川という幅50メートルくらいの川を渡ると、高さ2・5メートルの石碑が建っている。碑文によると、大坂方の武将、塙団衛門と岡部大学が先陣争いをした結果、徳川勢に攻め込まれて岡部軍が敗走、塙軍は孤立し団衛門は討ち取られた。この樫井合戦での敗戦が大坂方の士気をくじくことになった。宗光は、徳川体制が確固たる基盤を築くきっかけとなった合戦場の跡を歩きながら、250年がたった今、徳川の世が終わらんとしている時の流れに思いをいたしたのではないだろうか。

海舟の宗光の接点

本稿は勝海舟と陸奥宗光を登場させて、信達宿に迫ろうとした。では海舟と宗光に接点はなかったのだろうか。勝部真長編『勝海舟語録 氷川清話(付勝海舟伝)』(角川ソフィア文庫)をひもといた。『氷川清話』は海舟が晩年、東京・赤坂、氷川神社そばの勝亭で語った回顧談を弟子らが記録したもので、刊行されたのは1898年と推定されている。そのなかに「陸奥宗光」が一つの項としてたてられており、海舟が宗光をどう見ていたかがわかる。

以下はその要約である。

陸奥宗光はおれが神戸の塾(神戸海軍操練所)で育てた腕白者であった。おれの塾へきた原因は、紀州の殿様から「いのしし武者のあばれ者をお前の塾で薫陶してくれまいか」との御沙汰があり、わざわざ紀州へいって、腕白者25名を神戸の塾に連れて帰ることになったが、陸奥だけはほかの24名とは少し違った事情があった。藩の世話人が「拙者の弟の小次郎と申す腕白者があるからこれも一緒に連れて帰ってひとかどの人物に仕上げてくだされ」と頼んだから、それで24名と共に陸奥も連れて帰った。
この通りだとすると、宗光は25人の腕白者の一人として、紀州から神戸に向かったことになる。私は『竜馬がゆく』を念頭に、竜馬が海舟に深く傾倒した影響を受けて、宗光も海舟に敬服の念を抱いていたと考えた。だから、信達宿本陣で海舟の書に接し、胸が熱くなったと思いたいのだが、私の想像のような事実はなかったのかもしれない。
しかし、宗光が海舟の影響を受けなかったはずはない。なぜなら海舟は『氷川清話』のなかで「おれはずいぶん外交の難局に当たったが、しかし幸い一度も失敗しなかったよ。外交については一つの秘訣があるのだ」といい「外交の極意は『正心誠意』にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ」と述べている。宗光が不平等条約の是正という明治政府の悲願をやってのけたことはすでに述べた。勝流の「正心誠意」の交渉が難局打開につながったのかもしれない。
海舟が亡くなったのは1899年。その2年前、宗光は死亡した。海舟はその死の報に接して哀歌をよんだ。

桐の葉の一葉散りにし夕(ゆうべ)より
落つるこの葉の数をますらん

海舟はキリの葉が落ちるようなもの寂しさをおぼえたのであろうか。
「暢神」の書そのものごとく、海舟、宗光は新しい時代を作るために伸び伸びとした人生を送ったのであった。海舟、宗光という歴史上の大巨人からみれば、信達宿本陣に泊まったかどうかは、あまりにも小さなことではある。とはいえ、宗光が海舟の書を目にしたという証拠が見つかれば、近代史研究上の大発見であることは間違いない。(完)

宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

勝海舟の書が残る本陣

古い民家が軒を並べる信達宿内の旧紀州街道

勝海舟の書の扁額が、かつて本陣だった泉州の住宅に掛けられている、と聞いた。江戸城無血開城で中学校の教科書にも登場する勝海舟。私の愛読書、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のなかで、幕府の海軍を切り開いた人物としてたびたび現れる。だが、泉州に足を運んだという記述は全くない。そもそも勝海舟の書には何が書いてあるのだろう。調べてみると、本陣だったこの住宅は大阪府泉南市の旧紀州街道の信達宿にあり、4月下旬に催される「ふじまつり」の数日間だけ内部公開されるとわかった。 “宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身” の続きを読む

とりとめのない話《音のピント合わせ》中川眞須良

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私が長く接するモノクローム写真の世界は 日常における自身のイメージトレーニングの現状、結果を目視で確認できる唯一の手段と思っている。多くの情報や経験をもとに鈍化しがちな日常の感覚を「機知の閃き」に出合うきっかけ探しの手段として蘇らせるために思いついたのが「音へのピント合わせ」である。
実践してすでに数十年、今ではこれによるイメージの発想は新しい物語、新しい世界の創造に欠かせない手段の一つと確信している。毎年梅雨入り直後のこの時期に机の引き出しの奥から取り出すものがある。
1950年当時製造のステップ音が大きい「tokyo.clock.4jewels」と刻まれているポケットウォッチである。 “とりとめのない話《音のピント合わせ》中川眞須良” の続きを読む

びえんと《押し付けを否定した内閣憲法調査会》Lapiz編集長 井上脩身

――改憲にカジを切らなかったナゾに迫る――

矢部貞治・内閣憲法調査会副会長

日本の憲法について自民党は「アメリカに押し付けられた」として憲法改変を党是としてきた。保守合同で結党された翌年の1956年、「我が国の主体的憲法に変える」ために安倍晋三元首相の祖父・岸信介首相(当時)らによって、「内閣憲法調査会」が設置された。当時の社会党が「改憲のための調査会」と位置づけたとおり、改憲志向の議員や学者を中心に調査会は構成され、「憲法を変えるべきである」との報告がなされると予想された。7年間の審議を経て1964年に最終報告書がまとめあげられたが、「改正の可否」については両論併記にとどまり、保守派のもくろみは外れた。その理由が私にはナゾであったが、改憲論者であった矢部貞治副会長が「改正反対」に意見を変えたことが少なからず影響していたことを最近、新聞記事で知った。もし矢部副会長が当初の意見を維持していれば、わが国は早い段階で改憲へと大きくカーブをきっていたかもしれない。

マッカーサー・幣原会談

矢部副会長は政治学者で、1939年5月から1945年12月まで東大教授。近衛文麿内閣の有力ブレーンとなり、拓殖大学の総長も務めた。内閣憲法調査会最終報告書の実質的な起草者だったと言われている。
憲法調査会は自民党が、改憲発議に必要な3分の2議席を確保できなかったことから、改憲の方向を確固たるものにするために提案され、岸内閣のときに発足。定員は50人だが、社会党が不参加だったこともあって欠員が多く、国会議員20人、学識経験者19人でスタートした。委員のなかには蝋山正道(政治学)、正木亮(法学)各氏や笠信太郎・朝日新聞論説主幹ら著名な学者、ジャーナリストも入っていたが、冒頭に述べたように全体として自民党衆院議員の中曾根康弘、船田中、小坂善太郎、清瀬一郎各氏ら改憲論者で占められていた。

『日本国憲法30年』の表紙

『日本国憲法30年』(伊藤満著、朝日新聞社)によると第1委員会「司法と基本的人権」、第2委員会「国会・財政・内閣・地方自治体」、第3委員会「天皇・最高法規・戦争放棄」の3委員会で編成。会長に高柳賢三東大名誉教授(法学)、副会長に矢部氏と山崎巌・自民党衆院議員が就任した。
1956年8月、第1回総会が開かれ、岸首相は「憲法制定の事情と、その後の10年にわたる実施の経験とにかんがみ、わが国情に照らし種々検討すべき点がある」とあいさつ。ストレートに改憲とは述べなかったものの、その思いを強くにじませていた。押し付け論者の岸氏の提案による委員会だから、当然といえば当然であったが、調査・研究のための中立的な委員会という外形をとりながら、改憲への理由づくりのための委員会であることは明らかだった。
だが、首相の思惑通りには進まなかった。高柳会長が「憲法を一定方向に向けて改定することを前提とする政府機関でなく、全国民のための検討を加える場」と明言。その一環として、1958年秋、高柳会長を団長とする調査団をアメリカに派遣した。その調査で、1946年1月11日マッカーサー元帥宛ての、国務、陸軍、海軍3省調整委員会指令第228号という、アメリカの対日政策の基本方針を示した文書に接した。文書は「日本の統治体制の改革」と名づけられ、天皇制、内閣、司法、立法など多岐にわたって民主的な方針を示している。問題の「戦力不保持」については「日本における軍部支配の復活を防止するために行う政治的改革の効果は、この計画の全体を日本国民が受諾するか否かによって、大きく左右される」と記されており、日本国民の意思を重視していたことが判明した。
高柳会長は調査を終えて帰国し、羽田空港で調査結果を談話の形で語った。その中で、9条について「自衛のための戦力を保持することを認めるものであるかどうかに幾多の議論があったが、マッカーサー元帥は、他国の侵略に対し自国の安全を守るために必要な措置を続けることは当然で、第9条はなんらこれを妨げるものではないと当初から考えていた。しかし、同時に第9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもので、世界の模範となるべき永久の記念碑」と述べた。第9条はアメリカの押し付けでなく幣原喜重郎元首相の理想をうたいこんだ、との認識を示したのである。

日米合作憲法論

幣原喜重郎・元首相

前項でふれた幣原元首相のステーツマンシップとは何であろうか。
マッカーサー連合軍最高司令官は1946年2月3日、戦争放棄などの3原則を示したが、その直前の1月24日、幣原首相がマッカーサーと会談。幣原は「世界中が戦力を持たないという理想論を(いだき)はじめ、戦争を世界中がしなくなるようになるには、戦争を放棄するということ以外にないと考える」と語りだすと、マッカーサーは急に立ち上がって両手で幣原の手を握り、涙を目にいっぱいためて「その通りだ」と言ったという。(古関彰一『平和憲法の深層』ちくま新書)
高柳会長はアメリカで、マッカーサー・幣原会談の内容を記した資料を目にしたのであろう。戦争放棄を最初に言い出したのは幣原氏と知ったのだと思われる。
調査会では9条について 1)現行のままでよいか 2)改正を考える場合には、その基本方向は何か――にしぼって審議された。
「自衛権のない国家は考えられない。だれにも分かるようにはっきりした文章に改めるべきだ」(法曹代表・弁護士)▽「自衛隊の保持は明記すべきだ」(中小企業代表)▽「永久平和を願う9条の理想そのものが日本の自衛権を表しており、憲法を変える必要はない」(婦人代表)▽「敗戦という異常な時代にあって、自らの力に寄らず作ったものなので、改正の必要がある」(青年代表)▽「9条は戦争の惨苦を受けた全国民の願いを表現したもの。平和主義で行くべきだ」(労働代表)▽「9条の建前を守り、全世界に戦争の放棄を呼びかけるべきだ」(中小企業代表)などの意見が出た。
以上は『日本国憲法30年』から引用したものだが、意外に9条維持の意見が多い。国会議員は発言しなかったのか、同書が取り上げなかったのかは定かでないが、高柳談話が審議に影響を及ぼした可能性が高い。
こうした審議を経て、報告書のまとめに入った段階での総会で、高柳会長が意見陳述を行った。そのなかで9条について「現行憲法は占領下でつくられた関係もあって、マッカーサー元帥を中心とする米国に押し付けられたものであるという説がかつては有力であったが、憲法調査会が行った事実調査の結果、これは誤りで、日本側の自主性も相当加味されており、正確には日米合作とみるべきだ」と述べ、押し付け憲法論を否定した。
最終報告書は池田内閣に提出されたが、池田勇人首相はこの報告書を政治的争点にすることを避けた。高柳会長の発言にみられるように、自民党の望むような明確に改憲を志向する結果にならなかったうえ、安保改定をめぐって国民の間に高まった「戦争に巻き込まれる」という反戦意識を警戒したためと思われる(田中伸尚『憲法九条の戦後史』岩波新書)。

意見を変えた副会長

前掲の『日本国憲法30年』には憲法調査会委員の改憲派、非改憲派の色分けが記されていて、実に興味深い。色分けは次の通り。

改憲不要論=高柳賢三、蝋山正道、正木亮、中川善之助ら7人
全面改憲論=愛知揆一、山崎巌、木村篤太郎ら19人
戦闘的改憲論=大石義雄ら3人
慎重改憲論=古井喜美ら2人
時期尚早論=井出一太郎
部分改憲論=矢部貞治
最後の矢部貞治が本稿の主人公である。

矢部副会長が意見を変えたことについては、4月15日付毎日新聞の「井上寿一の近代 史の扉」というコラム欄で取り上げられた。
同コラムによると、矢部副会長は戦前、東大で政治学を担当、戦時中新体制運動の理論を構築したことで知られているが、東大を辞したあと「浪人生活」を送るという異色の学者。改憲論者でもあった。
調査会の発足から5年後、矢部副会長は調査の実績を踏まえて「この憲法に抱いていた考えが、大きく変わってきたことを告白せざるをえない」と発言。「占領軍が日本を骨抜きにする目的で、押し付けたというのは正しくない」として、押し付け憲法論が間違いであったと認めた。矢部氏は、日本国憲法は、極東委員会(連合国の対日最高政策決定機関)の天皇制廃止の主張に先手を打って、天皇制を救うためだったと考えたという。

調査会では、9条の下でも自衛隊違憲ではないとするのがほぼ全員の見解だった。意見が対立したのは、「防衛体制の現実に合わせる方向」に9条を改正するか、「現実の防衛体制をできるかぎり9条に合致させるべきか」だった。矢部副会長は高柳会長とともに「現行憲法の規定の欠陥を指摘し、解釈の統一を期するために条文を改正すべきであるとする見解には賛成しえない」との立場をとった。

こうした矢部副会長の認識は最終報告書の「日本国憲法の制定経過」に反映された。報告書は制定過程を敗戦時における「きわめて異常」なものとしながらも、「当時のわが国をめぐる微妙な、しかも峻厳な国際情勢の中で行われたこと」と指摘。そのうえで「憲法は押し付け」なのか「日本国民の自由な意思に基づくもの」だったかについては、「事情はけっして単純ではない」と結論づけた。
矢部副会長は最終報告書が提出される直前の講演で「改憲勢力が国会で3分の2を占めたとしても、憲法改正などということはなかなかできるものではないと思います」と述べた。そして「国民のなかから盛り上がる要求があって、初めて改正というものができる」と付言した。
改憲派、非改憲派の色分けでは高柳会長が改憲不要論なのに対し、矢部副会長は部分改憲論。手元の資料では、矢部副会長がどの規定を変えるべきだと考えているのかわからないが、9条については変えるべきでないと考えたことは明白だ。

安倍晋三元首相は憲法9条について「自衛隊を明記すべきだ」との考えを示し、9条改変の方向づけをした。これに対し、九条の会は「占領時代につくられたとの相も変らぬ押し付け憲法論」と強く反発している。
岸田文雄首相は安倍政治を基本的に継承、1月26日の衆参院本会議で憲法の改変について「総裁選などで『任期中に実現したい』と言ってきた。先送りできない課題」と、改憲への強い姿勢を示した。内閣憲法調査会の高柳会長は「9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもの」と述べた。その理想を岸田首相は投げ捨てるというのである。

理想だけでは敵国の侵略から守れないとの論がある。ウクライナ戦争、台湾海峡の緊張、北朝鮮のミサイル威嚇など、わが国を取り巻く環境は近年厳しさが増していることは確かだ。問題は矢部副会長が言うような「国民のなかから盛り上がる要求」があるかどうかである。世論調査などでは憲法改変を是とする国民が「変えるべきでない」をわずかに上回っているが、軍拡増税には国民の多くが反対している現状をみると、「盛り上がる要求」とまではとてもいえまい。
9条を変えることは、「平和主義国家」というわが国の心柱を抜いてしまうことである。国の屋台骨がくずれると、それこそ敵国からの侵略という暴風に耐えられなくなる。内閣憲法調査会の調査結果はそれを教えてくれているのである。

怒りを込めて振り返れ!《ヒロシマ・サミット》一之瀬明

G7サミットという世界の裕福国と自認する国の祭りが終わった。舞台はヒロシマ。なんでも今年の議長国である日本の首相の選挙区なのだそうだ。つまりG7サミットという祭りの舞台装置に自分の選挙区を抜け目なく利用したわけだ。そして広島はあのヒロシマでありそこに原爆を落とした米国の大統領も参加した。

せっかくのヒロシマであり、不幸なことにロシアという核保有国が隣国ウクライナに侵攻している最中のG7サミットなのだから、軍事侵攻をやめるようロシアに働きかけるなり、中国や第三国の仲介を提案するなりすればいいのに、私から見たら「寄ってたかってロシアを糾弾し」ウクライナ大統領を遠い日本に呼び寄せて「お前は悪くない、喧嘩の武器をもっと支援するから思う存分戦って来い!」と言わんばかりの一部始終だった。

一方、せっかくのヒロシマなのだからと慰霊碑に厳粛な表情で献花し、資料館を訪れた首脳たちだが、展示品などを前にどのような表情を浮かべたのかも、完全非公開だったのでまったくわからなかった。「G7首脳に被爆の実相を見てもらう」とは岸田首相の減だったが。また肝心の核軍縮に向けた声明「G7首脳広島ビジョン」について「新しい内容がなく期待外れ」だったと国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のダニエル・ホグスタ暫定事務局長。

つまり筆者に言わせると「なんでヒロシマやねん!」であり、首相の選挙区だからか?と言いたくもなるわけだ。」