原発を考える《坂本龍一の「脱原発」#1》文 井上脩身

坂本龍一さん

――東京新聞記者との討議から――

今年3月28日に亡くなった作曲家・坂本龍一さんが脱原発運動に熱心に取り組んでいたことを新聞報道で知った。映画『ラストエンペラー』の音楽に携わり、米アカデミー賞作曲賞を受賞するなど、世界的な作曲家として名を成した坂本さんだが、福島原発事故の以前から、青森県六ケ所村で進められている使用済み核燃料再処理工場について、「死につながる」と警告を発していたというのだ。福島事故から2年9カ月後の2013年12月、坂本さんは東京新聞の本社で同社記者たちと原発問題について討議した。その白熱ぶりがレポートにまとめられ、『坂本龍一
×東京新聞 脱原発とメディアを考える』(東京新聞編集局編)と題して刊行された。同書を中心に、天才的作曲家の原発観をみてみたい。 “原発を考える《坂本龍一の「脱原発」#1》文 井上脩身” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その101《鞘形褶曲》渡辺幸重

沼島の鞘形褶曲

瀬戸内海に浮かぶ淡路島には南岸すれすれに中央構造線が通っており、そこから約3km南に沼島(ぬしま)があります。沼島北端の黒崎付近の岩石にはフランスと日本だけという世界的にも珍しい鞘形褶曲(さやがたしゅうきょく)が見られます。1994(平成6)年に発見されたこの鞘形褶曲は約1億年前の“地球のシワ”とも言えるもので、中央構造線や日本列島の形成にも関係する地殻内部の動きを教えてくれます。

1億年前の東アジアでは太平洋側のイザナギプレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいました。このとき日本列島の土台となる陸地はまだ大陸の一部で、約2500万年前から地殻変動によって大陸から離れ始め、その後太平洋側のプレートの沈み込みによってできた付加体を付けて日本列島が形成されていきました。また、イザナギプレートが沈み込む海溝と平行に、大陸だった日本列島の土台部分に大規模な左横ずれ運動が起きてできた断層が中央構造線です。なお、イザナギプレートは約5000万年前までに完全に大陸の下に潜り込んで姿を消し、その後は太平洋プレートが沈み込むようになりました。
沼島は全域が三波川(さんばがわ)帯の結晶片岩類からできています。これは約1億年前の中生代にプレートの沈み込み帯における地殻変動によって比較的高圧の条件で生じた変成岩です。Webを見ると多くが「太平洋プレ-トとユ-ラシアプレ-トがぶつかり合うところでできた岩石が隆起した」と書いてありますが、1億年前なら太平洋プレートではなく、「イザナギプレートとユーラシアプレート」ではないでしょうか。あるいは、岩石が隆起して沼島を作った時期は太平洋プレートの時代だったということを言っているのかもしれません。
平成の時代に入ってこの結晶片岩(泥質片岩)から同心円状になった鞘状褶曲の露頭が発見されました。この鞘状褶曲はプレートが沈み込む過程で強力な褶曲作用が発生したことを物語っています。沼島の鞘状褶曲は2009(平成 21 )年に「日本の地質百選」に選ばれました。

沼島には「おのころ神社」があり、『古事記』『日本書紀』にある国生み神話の有力な舞台と言われています。確かに「天の御柱」ともいわれる上立神(かみたてがみ)岩をはじめ、多くの奇岩、巨岩、岩礁は神話の世界を感じさせます。沼島は、日本遺産「国生みの島・淡路~古代国家を支えた海人の営み~」の構成文化財にも認定されています。

徒然の章《この春のこと》中務敦行

やっとコロナが第五類に。でもこの春はどこか違います。私がこれまで撮ってきた春を振り返ると、桜は4月に咲く花でしたが、関西ではほとんどのところで3月に咲き、しかも気温のせいか、長く咲き続けました。近くの奈良公園は、修学旅行生やインバウンドですっかりコロナ前にもどっています。以下、藤、ツツジ・・・写真をご覧下さい。

以上、開花が毎年早くなってきました。50年前は小学校の入学式(4/1)に満開を迎えていました。

2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

菊池由貴子さん

新聞業界はいま危機を迎えています。スマホの普及にともない、中・高年層までが新聞をとらなくなったのです。そんななか、東日本大震災の被災地で一人の女性が新聞の発行を始め、「知りたい情報が載っている」と避難者らから信頼されたと知りました。女性は、取材から編集、広告取りまで1人でやり抜いたそうです。ネットなどを通じてさまざまな情報を知ることができる便利な世の中になりましたが、暮らしに必要な身の回りの情報を得るのはそうたやすいことではありません。大手新聞、タウン紙、広報紙のいずれでもない「ひとり新聞」。その身軽さのゆえに読者のニーズに応えることができたのだと思います。 “2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

Lapiz2023夏号Vol.46


Lapiz2023夏号は6月1日から掲載始めます。

お楽しみに。
Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。Lapiz編集長 井上脩身

お知らせ

Lapiz2023春号Vol.45は昨日で終わりました。
次回の配信は夏号で6月1日からの予定です。
LapizOnlineと兄弟サイトともいうべき
もよろしくお願いします。

京都奇譚《あわわの辻》山梨良平

百鬼夜行の図

百鬼夜行とは「さまざまな妖怪が、夜、列をなして徘徊すること」を言う。
平安の昔、京都は現在のように明るい町ではなかった。夜ともなると漆黒の闇と化す大路も多々あった。羅生門なども本来は都大路の正面の門で華麗に色付けされた門だったが、
芥川龍之介の小説が先行し百鬼夜行の住処のような所と化した。

あわわの辻:百鬼夜行に出くわした人々が驚いて、「あわわ…」と言って逃げていく様を言った。

それはともかく平安人たちの中でも貴族たちは百鬼夜行の辻として恐れ、通ることさえ避けた場所がある。大内裏の裏鬼門にあたるこの辻は、「あわわの辻」と呼ばれた。この「あわわの辻」とは百鬼夜行に遭遇して仰天し、「あわわ」と悲鳴をあげて一目散に逃げた様子からと言われているが定かではない。この辻だけではないだろうが、平安人は百鬼を恐れ、運悪く出会うと大病を患うか、死に至る危険があるので油断できないし恐れた。

また捨てる神あれば拾う神ありで、我らが安倍晴明がまだ幼かった頃の話。師匠の賀茂忠行の供をして歩いていて百鬼夜行に遭い、いち早く気づいて忠行に知らせたおかげで難を逃れたというエピソードが伝わる。安倍晴明はこのように有能だったらしい。

また「今昔物語集」や「大鏡」には、この辻で貴族が百鬼夜行に遭い、尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)の護符を衣に縫いつけていたため難を逃れたという話が載る。尊勝陀羅尼の護符は、百鬼夜行に威力を発揮した話があって、その時は護符が火を噴いたので、妖怪たちは慌てふためいて逃げ去ったそうだ。
また妖怪たちもむやみに出るわけでもなさそうで、「忌夜行日」という日があってその日には出来るだけ出かけないようにしなければならないと言われていた。

いずれにしても「あわわの辻」とは、なんとも愛嬌のある名でもある。

※お断り:「忌憚」という文字を意味が違いますので本来の「奇譚」と書き換えます。

宿場町《東海道・桑名宿#2》文・写真 井上脩身

俳句になった元本陣のカワウソ

七里の渡し界隈の賑わいを描いた絵(七里の渡しの説明板より)

一の鳥居のすぐそばの東海道沿いに「しちりのわたし」と刻まれた石碑が建っている。この石碑の脇では、鉄筋三階建てのビルが修理工事中だ。その壁に「山月」のネオン。料理旅館「山月」である。脇本陣「駿河屋」の一部がこの料理旅館に残っているという。「山月」の左隣は木造二階建ての瀟洒な料理旅館。入り口に「船津屋」と書かれた照明灯がたっている。その名の通り、裏庭から直接船に乗ることができた。ここが元の大塚本陣である。
船津屋の板壁が一部くりぬかれて、高さ1メートルほどの石碑(右)が建てられている。そばに「歌行燈句碑」と題する説明板。
句は「かはをそに火をぬすまれてあけやすき 万」。劇作家、久保田万太郎が詠んだ句だ。
説明板は明治の文豪・泉鏡花(1873~1930)が明治42(1900)年、講演のため来桑、ここ船津屋に宿泊した。この時の印象を基に小説『歌行燈』を書き、翌年1月号の『新小説』に発表した」としたためられている。久保田万太郎は1939年、戯曲『歌行燈』を書くために船津屋に逗留、旅館の主人の求めに応じて句をつくった。この句に出てくる「かはをそ」はカワウソのこと。泉鏡花の小説に現れるという。どういうことだろう。帰ってから『歌行燈』を読んだ。

小説は次のような一文から始まる。
宮重大根のふとくして立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり……

これは十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』の五編上「桑名より四日市へ」の書き出しと全く同じ。『東海道中膝栗毛』はこの後「めいぶつの焼蛤に酒くみかはして、かの弥次郎兵衛喜多八なるもの、やがて爰(ここ)を立出(たちいで)たどり行くほどに」とつづく。『歌行燈』も主人公、源三郎が弥次郎兵衛になった気みなって、湊屋(モデルはいうまでもなく船津屋)で芸の出来ない仲居と軽妙な会話を楽しむという筋立て。その湊屋について、うどん屋の女房が主人公に次のように話す。(筆者註・口語に書き換えている)。
z奥座敷の手すりの外が海といっしょの揖斐の川口じゃ。白帆の船も通ります。スズキがはねる。ボラは飛ぶ。他に類のない趣のある家じゃ。ところが時々崖裏の石垣からカワウソが入りこんで、板廊下や厠についた灯りを消していたずらするといいます。
辞書で調べると、カワウソの和名は「カワオソ」。「川に住む恐ろしい動物」の意味があるといわれ、加賀では城の堀に住むカワウソが女に化けて、男を食い殺したという言い伝えがあるという。
船津屋は江戸時代、本陣であった。大名が泊まる格式高い宿所にカワウソが化けてでたとは考えがたいが、加賀の例のように、桑名城の堀にカワウソがすんでいて、悪さをすることがあったのかもしれない。

暮らしを守る通り井の水

通り井から水をくむ人々を描いた絵(通り井の説明板より)

「七里の渡し」から旧東海道を歩いた。両側に料亭などが立ちならび、「焼きハマグリの街」ならではの、思わずつばが出そうな雰囲気を醸している。その街道の両端に幅約50センチの細長い石製板が帯状にしかれている。他の宿場町では見られない道路模様だ。何だろう。
途中、その説明がかかれた標識がたっていて、疑問が解けた。
桑名では地下水に海水が混じるため、寛永3(1626)年、町内の主要道路の地下に筒をうめ、町屋川から水を引いて水道をつくった。これを「通り井」といい、道路の中央に方形の井を設けて一般の人々が利用できるようにした。1962年、道路工事のさい、「通り井」の一つが発見されたという。
勝之助は柏崎の街について「御国(桑名のこと)と違い、役所仕舞いにてもそば売りも参らず、勿論酒も無し」と嘆いている。ということは桑名では、仕事が終わるころを見はからってそば売りがやってきたのだろう。そばをゆで、つゆを作るには当然水がいる。そば売りは通り井から水をくんだに相違ない。できることなら私もそばを食べたいものだ。堀端を歩きたくなった。
桑名城本丸周辺は石垣が残っているにすぎず、いささか殺伐とした光景である。旧東海道に戻ってそぞろ歩いていると、建て込んだ街並みの中に鳥居が見えた。桑名宗社と呼ばれる春日神社の鳥居だ。青銅製である。東海道を行く人たちはこの神社で旅の安全を祈願したにちがいない。神社の本殿では赤ちゃんを抱いた夫婦が神職のお祓いを受けていた。勝之助も出立前、生まれて間もない娘のために妻と共にお祓いを受けたかもしれない。
この後しばらく辺りをめぐって、宿場町の痕跡を探したが、美濃への出入り口としての番所が置かれていたという「三崎見附跡」以外に撮影ポイントがないようなので、メーンの通りを桑名駅に向かった。途中、海蔵寺という寺の前を通りかかると「薩摩義士墓所」ののぼりが門前にかかっていた。中に入った。境内の奥に、23基の墓がコの字型にならんでいる。説明板によると、宝暦4(1754)年、薩摩藩は幕府から木曽三川の分流工事を命じられ、947人を送り出した。工事は河口から50~60キロの範囲内、200カ所以上にのぼった。40万両(約320億円)もかかった大治水工事は1年で完了したが、幕府への抗議のための自害や病気などで84人が命を落とした。うち23人が義士としてまつられたという。
この工事によって、桑名は城下町として、また宿場町として、安心して暮らせる街になったのはまぎれもない。だが、幕府の命令は薩摩藩にとって非情であった。1200キロも離れた木曽三川のために莫大な資金を藩で用意しなければならないのだ。23義士の家族や親族の末裔は、やがて戊辰戦争で官軍の兵として幕府軍と戦っただろう。幕府方の桑名藩は朝敵となり、薩長の官軍に降伏した。何かの因縁であろうか。
ところで勝之助である。元治元(1864)年、再び桑名の土を踏むことなく柏崎で死んだ。63歳だった。戊辰戦争の4年前であった。
勝之助はどれほどか七里の渡しの船で桑名に帰る夢を見たことであろう。勝之助の心中をおもいつつ、私は桑名から名古屋に向かう電車にのった。