渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 2》片山通夫

吉野ケ里遺跡公園

卑弥呼は太陽をあがめた、いや、太陽を利用した。月の満ち欠け、太陽の満ち欠けなど天体の現象を読み、鬼道に利用し国を治めた。そうでないと小国家間の争いをまとめ、それらの国の集合体に君臨することはかなわなかったはずである。

卑弥呼は太陽を司っていた。時代は弥生時代である。農業が盛んな時代だといえる。卑弥呼は中国や韓国から今でいう天文の知識を得たと思う。 “渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス 2》片山通夫” の続きを読む

渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス》片山通夫

少し遡ってみる。Lapiz春号で掲載した「渡来人たちの宴」では白村江の戦いで終わった。時は7世紀半ばのことだった。本稿で取り上げる卑弥呼は2世紀頃の人物だと思われる。およそ500年ほど遡ることとなる。
卑弥呼が歴史に登場するのは中国の『三国志』の中に書かれている『魏志倭人伝』。邪馬台国に都をおいていたとされる。卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている。
そして卑弥呼に関しては「鬼道」で衆を惑わしていたと魏志倭人伝にある。 “渡来人たちの宴《卑弥呼とアマテラス》片山通夫” の続きを読む

渡来人たちの宴《安曇族の謎》 片山通夫

 前回、海族・安曇族のことをチラッと書いた。白村江の戦いで都合4万人もの兵士を長朝鮮半島に送り込んだと思われる安曇族は忽然と歴史の上から消えた。

ただ倭国各地に散らばってその名を地名に残したと思われる。滋賀県には安曇川がある。また信州という海のないところに安曇野という地名が残っている。 “渡来人たちの宴《安曇族の謎》 片山通夫” の続きを読む

渡来人たちの宴《白村江の戦い、その謎》 片山通夫

  すでに滅亡した百済の復興を助けるため、「渡世の仁義とやらで」とばかりに、天智天皇は次のような軍勢を朝鮮半島に派兵して白村江の戦いに挑んだ。

第一派 661年5月:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派 662年3月:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派 663年:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした) (ウイキペディアより)

この資料によると、総勢4万7千もの軍勢を、指呼の間といえども玄界灘を船舶で送ったことになっている。第一派の1万余人を船舶170隻で送っているわけだ。むろん船舶の大小があろうが、兵站、武器などを積み込むとして1隻に100人の兵を乗せなければならない。いったい誰がそのような船舶を建造し操船したのだろうか。 “渡来人たちの宴《白村江の戦い、その謎》 片山通夫” の続きを読む

渡来人たちの宴《スサノオは渡来神だった?》 片山通夫

 もちろん時代ははっきりとはしない。証拠もない。ただあるとすれば日本書紀だけといっても過言ではない。学者先生方はそれでは満足されないし、素人の戯言と一笑に付されると思う。しかし、縄文時代の終わり頃から弥生時代には不思議なものがみられた。ストーンサークルである。まあそれはいい。ただ誰が何の目的で作ったのかがはっきりしないところがミステリアスで興味深い。
写真は秋田県鹿角市、大湯環状列石。日本国内に所在する最大級のストーンサークルである。(.org/w/index.php?curid=72959085による)

筆者にとっては秋田県という場所があまり気に入らないが、実際にそこに存在するので致し方ないというあきらめの境地。
なぜかというと、いささか秋田県は北過ぎだ。せめて高志の国(越後・新潟)あたりにあれば、スサノオ絡みで話が進むのだが…。 “渡来人たちの宴《スサノオは渡来神だった?》 片山通夫” の続きを読む