渡来人たちの宴《短かった百済の春》片山通夫

百済が簡単に滅びた原因はいくつかあると思われるが、ここで筆者の妄想を紹介したい。

百済の建国は古い。紀元前18年の建国から660年の滅亡まで約700年の歴史を持つ。百済は漢江の中流から下流に起り、次第に周辺の小国家を併合しつつ発展した。しかし紀元後475年に高句麗に首都のソウルを奪われて熊津(公州)に遷都し538年には泗沘(扶余)に遷都した。
筆者の妄想では、いわゆる引っ越し貧乏だったのではないかと思うわけである。この間に、百済は外国とも積極的な外交を展開し、科学と技術を発達させて優れた文化を花咲かせ、先進的な文化国家を築き上げた。ところが百済の王族・貴族たちは文武両道というわけではなかったようである。 “渡来人たちの宴《短かった百済の春》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴 扶余編》:片山通夫

飛鳥美人の図

 初めにLapiz 2019秋号で「スサノオ追跡」で、スサノオが高天原で大暴れして追放され、地上に降りてきたところまでは書いた。
こうしてみると、スサノオはいわゆる末っ子のわがままという性格がもろに出ているように思えた。その後、日本書紀によると、彼はまっすぐに出雲に降りたわけではなかった。どうも朝鮮半島の新羅の国の曽尸茂梨(そしもり)というところに降り立った。
京都の八坂神社の社伝に「斉明天皇二年(656)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊をまつった」とある。656年というと、まさに白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に敗れた頃であり、大勢の兵士や百済人たちが倭国に帰国・亡命してきた混乱の時期だった。勝った新羅にしてもあまり平和な雰囲気ではなかっただろう。まして略奪と焼き討ちに明け暮れた扶余の都は見る影もなかったと思われる。現に奈良や京都の社寺のような当時の遺構はほとんど残っていない。

 筆者は深まりゆく秋の扶余の町を先月(11月半ば)に訪れた。日本書紀の記述と司馬遼太郎氏の街道をゆく「韓(から)の国紀行」に誘われて。
これは「スサノオ追跡」の続編ともいうべき「渡来人たちの宴」である。
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