連載コラム・日本の島できごと事典 その96《ごみ騒動》渡辺幸重

豊島の産廃問題を巡る経緯(毎日新聞2023年3月31日記事より)

<国内最大級の産業廃棄物の不法投棄により、「ごみの島」と呼ばれた瀬戸内海の離島・豊島(てしま)=香川県土庄(とのしょう)町=で、20年余りに及んだ処理事業が終了し、県が30日、現地を公開した。>
これは今年3月31日の毎日新聞朝刊に「香川・豊島 ごみの山消えても残る地下水汚染 産廃処理事業終了」という見出しで掲載された記事の冒頭部分です。豊島は四国・高松港の北約12kmの瀬戸内海に浮かぶ島で、四方を島に囲まれた多島海美の中にあります。1970年代後期からこの島に有害産業廃棄物が大量に投棄されるようになり、住民に健康被害が出るようになりました。島の住民は激しい撤去運動を繰り広げ、2003年に成立した産廃特措法に基づいて2019年7月までに総計約91万3,000トンの廃棄物と汚染土が豊島の西約4㎞にある直島に運ばれ、香川県が建設した「直島環境センター中間処理施設」で焼却・溶融化処理されました。そして今回、汚染地下水を浄化する高度排水処理施設の整備や整地作業が終わり、「わが国初の汚染地修復の国家的取り組み」と言われた処理事業が完了したと報道されたのです。
ちなみに、廃棄物と汚染土の総量は毎年処理対象量の見直しがあり、2012年7月には最大の93万8,000トンが見込まれましたが、2017年に搬出がいったん完了したあとに発見された産廃・汚泥を含めて最終的な量は処理約91万3,000トンとされています。

「豊島事件」とも称されるこの産廃不法投棄問題は、島の西部の土砂を大量採取した土地22haに業者(豊島観光)が1978年から有害産業廃棄物を不法に投棄し始めたことに始まります。島の住民は反対運動や裁判を起こしましたが、業者は「みみず養殖」を行うとして香川県知事の許可を取り、認められるとすぐに無許可の産業廃棄物を持ち込んだのです。輸送船で島外から自動車の破砕ごみや廃油などの有害産廃を運び込み、それを満載したダンプカーが島内を走り回り、野焼きの黒煙が立ち上りました。住民の間に咳が止まらない健康被害が発生し、ぜんそくのような症状を持つ生徒・児童は全国平均の10倍にのぼったそうです。
1990年11月、兵庫県警が「ミミズの養殖を騙った産廃の不法投棄」の容疑で業者を摘発、強制捜査をしたことにより産廃搬入は止まりました。しかし、膨大な量の有害産廃が残り、有害物質を含む水は海に流れ続けました。事件報道によるイメージダウンによって豊島産の産物販売や観光業も壊滅的な打撃を受けました。そこで島の住民は「廃棄物対策豊島住民会議」を結成し(再発足)、廃棄物撤去を求める運動を展開しました。1993年11月に香川県と業者、排出事業者などを相手取った公害調停を国に申請し、長い“草の根の闘い”を経て2000年6月6日、やっと知事の謝罪と原状回復の合意を勝ち取ったのです。
廃棄物と汚染土の搬出、直島での中間処理が終わり、昨年7月に専門家の検討会が全9区域・区画で地下水が「排水基準」をクリアしたと認定しました。今年3月には整地作業が終わり、予定されたすべての作業の完了が専門家会議で確認されたのです。しかし、問題がすべて解決したわけではありません。地下水が自然浄化によって「環境基準」以下になれば県が住民に土地を引き渡しますが、その達成時期がいつになるかわかりません。
住民の島を挙げてのゴミ問題との闘いは法律や国の政策を変えました。島内にはごみ問題と運動の歴史を学ぶ「豊島のこころ資料館」があり、住民によって運営されています。

図:豊島の産廃問題を巡る経緯(毎日新聞2023年3月31日記事より)

連載コラム・日本の島できごと事典 その95《しばり地蔵》渡辺幸重

寒風沢島のしばり地蔵(Webサイト「文化の港シオーモ」より)https://shiomo.jp/archives/2828

宮城県の松島湾、塩釜港の東北東約8kmに寒風沢島(さぶさわじま)があります。松島湾の島の中では宮戸島に次ぐ面積を持つ大きさで、江戸時代の寒風沢港は江戸に運ぶ「江戸廻米(かいまい)」の中継地として大いに栄えました。島の日和山にはそのころの伝説にまつわる「しばり地蔵(すばり)地蔵)」があります。

しばり地蔵は島の遊郭にいた遊女たちが船出しようとする船乗りたちを引き止めようとお地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願をしたことに由来するといわれています。海が荒れて船が出ないことを祈ったわけです。願いが叶えば客は島に残り、お地蔵様は縄を解かれることになります。塩竃市のWebページには次のような伝説として紹介されています。ちなみに塩竃市によると、この像は地蔵菩薩ではなく本当は奈良の大仏と同じ盧遮那仏(るしゃなぶつ)だということです。

昔、料理屋に「さめ」という器量のよい女が愛し合っていた若者が遠く船出するのを悲しみ、船を一日でも引きとめたいと地蔵を荒縄でしばり「船を引きとめてください。引きとめたら解いてあげます」と願をかけました。その夜から翌日にかけて暴風雨となり、船は出られませんでした。それ以来、この地蔵は娘たちによってときどきしばられることになりました。

しばり地蔵(しばられ地蔵)は全国各地に分布しており、病気快癒などの願をかけるときに縄でしばり、願がかなうと縄をほどくという共通点があります。寒風沢島には顔に紅白粉を塗って祈願すると美しい子宝に恵まれるという化粧地蔵もあります。

ところで寒風沢島の繁栄は何によるものでしょうか。江戸廻米とは全国各地から江戸に運ぶ米のことで、江戸時代の初めは江戸に住む諸大名と家臣団の台所米だったものが江戸の大消費地としての発達に伴って全国から江戸に運ばれる大量の販売米のことを指すようになりました。仙台周辺では、北上川水系と阿武隈川水系を利用して年貢米が集められ、前者では石巻から仙台藩や盛岡藩などの蔵米が、後者では荒浜(現宮城県亘理町)から信達地方(信夫郡・伊達郡)の幕府直轄地(天領)の御城米(ごじょうまい)などが積み出されたようです。高浜からの城米は北上して水深が深く風波がたたない寒風沢港に転送され、ここで大きな千石船に積み替えられて江戸へ運ばれました。江戸幕府は島に御城米蔵を建て、幕府派遣の御城米役人が交替で勤務しています。寒風沢港は仙台藩も江戸廻米の船(御穀船)の寄港地とし、遊郭が繁盛するほど賑わいました。

仙台藩による江戸廻米が始まるのは1632(寛永9)年からといわれますが、最盛期には30万石に達し、江戸で消費される米の量の約3分の1を占めたそうです。

京都奇譚《あわわの辻》山梨良平

百鬼夜行の図

百鬼夜行とは「さまざまな妖怪が、夜、列をなして徘徊すること」を言う。
平安の昔、京都は現在のように明るい町ではなかった。夜ともなると漆黒の闇と化す大路も多々あった。羅生門なども本来は都大路の正面の門で華麗に色付けされた門だったが、
芥川龍之介の小説が先行し百鬼夜行の住処のような所と化した。

あわわの辻:百鬼夜行に出くわした人々が驚いて、「あわわ…」と言って逃げていく様を言った。

それはともかく平安人たちの中でも貴族たちは百鬼夜行の辻として恐れ、通ることさえ避けた場所がある。大内裏の裏鬼門にあたるこの辻は、「あわわの辻」と呼ばれた。この「あわわの辻」とは百鬼夜行に遭遇して仰天し、「あわわ」と悲鳴をあげて一目散に逃げた様子からと言われているが定かではない。この辻だけではないだろうが、平安人は百鬼を恐れ、運悪く出会うと大病を患うか、死に至る危険があるので油断できないし恐れた。

また捨てる神あれば拾う神ありで、我らが安倍晴明がまだ幼かった頃の話。師匠の賀茂忠行の供をして歩いていて百鬼夜行に遭い、いち早く気づいて忠行に知らせたおかげで難を逃れたというエピソードが伝わる。安倍晴明はこのように有能だったらしい。

また「今昔物語集」や「大鏡」には、この辻で貴族が百鬼夜行に遭い、尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)の護符を衣に縫いつけていたため難を逃れたという話が載る。尊勝陀羅尼の護符は、百鬼夜行に威力を発揮した話があって、その時は護符が火を噴いたので、妖怪たちは慌てふためいて逃げ去ったそうだ。
また妖怪たちもむやみに出るわけでもなさそうで、「忌夜行日」という日があってその日には出来るだけ出かけないようにしなければならないと言われていた。

いずれにしても「あわわの辻」とは、なんとも愛嬌のある名でもある。

※お断り:「忌憚」という文字を意味が違いますので本来の「奇譚」と書き換えます。

京都奇譚《陰陽師 不思議をつかさどる》山梨良平

怨霊と化した菅原道真

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。 https://onl.sc/DA46RtT “京都奇譚《陰陽師 不思議をつかさどる》山梨良平” の続きを読む

宿場町《東海道・桑名宿#2》文・写真 井上脩身

俳句になった元本陣のカワウソ

七里の渡し界隈の賑わいを描いた絵(七里の渡しの説明板より)

一の鳥居のすぐそばの東海道沿いに「しちりのわたし」と刻まれた石碑が建っている。この石碑の脇では、鉄筋三階建てのビルが修理工事中だ。その壁に「山月」のネオン。料理旅館「山月」である。脇本陣「駿河屋」の一部がこの料理旅館に残っているという。「山月」の左隣は木造二階建ての瀟洒な料理旅館。入り口に「船津屋」と書かれた照明灯がたっている。その名の通り、裏庭から直接船に乗ることができた。ここが元の大塚本陣である。
船津屋の板壁が一部くりぬかれて、高さ1メートルほどの石碑(右)が建てられている。そばに「歌行燈句碑」と題する説明板。
句は「かはをそに火をぬすまれてあけやすき 万」。劇作家、久保田万太郎が詠んだ句だ。
説明板は明治の文豪・泉鏡花(1873~1930)が明治42(1900)年、講演のため来桑、ここ船津屋に宿泊した。この時の印象を基に小説『歌行燈』を書き、翌年1月号の『新小説』に発表した」としたためられている。久保田万太郎は1939年、戯曲『歌行燈』を書くために船津屋に逗留、旅館の主人の求めに応じて句をつくった。この句に出てくる「かはをそ」はカワウソのこと。泉鏡花の小説に現れるという。どういうことだろう。帰ってから『歌行燈』を読んだ。

小説は次のような一文から始まる。
宮重大根のふとくして立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり……

これは十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』の五編上「桑名より四日市へ」の書き出しと全く同じ。『東海道中膝栗毛』はこの後「めいぶつの焼蛤に酒くみかはして、かの弥次郎兵衛喜多八なるもの、やがて爰(ここ)を立出(たちいで)たどり行くほどに」とつづく。『歌行燈』も主人公、源三郎が弥次郎兵衛になった気みなって、湊屋(モデルはいうまでもなく船津屋)で芸の出来ない仲居と軽妙な会話を楽しむという筋立て。その湊屋について、うどん屋の女房が主人公に次のように話す。(筆者註・口語に書き換えている)。
z奥座敷の手すりの外が海といっしょの揖斐の川口じゃ。白帆の船も通ります。スズキがはねる。ボラは飛ぶ。他に類のない趣のある家じゃ。ところが時々崖裏の石垣からカワウソが入りこんで、板廊下や厠についた灯りを消していたずらするといいます。
辞書で調べると、カワウソの和名は「カワオソ」。「川に住む恐ろしい動物」の意味があるといわれ、加賀では城の堀に住むカワウソが女に化けて、男を食い殺したという言い伝えがあるという。
船津屋は江戸時代、本陣であった。大名が泊まる格式高い宿所にカワウソが化けてでたとは考えがたいが、加賀の例のように、桑名城の堀にカワウソがすんでいて、悪さをすることがあったのかもしれない。

暮らしを守る通り井の水

通り井から水をくむ人々を描いた絵(通り井の説明板より)

「七里の渡し」から旧東海道を歩いた。両側に料亭などが立ちならび、「焼きハマグリの街」ならではの、思わずつばが出そうな雰囲気を醸している。その街道の両端に幅約50センチの細長い石製板が帯状にしかれている。他の宿場町では見られない道路模様だ。何だろう。
途中、その説明がかかれた標識がたっていて、疑問が解けた。
桑名では地下水に海水が混じるため、寛永3(1626)年、町内の主要道路の地下に筒をうめ、町屋川から水を引いて水道をつくった。これを「通り井」といい、道路の中央に方形の井を設けて一般の人々が利用できるようにした。1962年、道路工事のさい、「通り井」の一つが発見されたという。
勝之助は柏崎の街について「御国(桑名のこと)と違い、役所仕舞いにてもそば売りも参らず、勿論酒も無し」と嘆いている。ということは桑名では、仕事が終わるころを見はからってそば売りがやってきたのだろう。そばをゆで、つゆを作るには当然水がいる。そば売りは通り井から水をくんだに相違ない。できることなら私もそばを食べたいものだ。堀端を歩きたくなった。
桑名城本丸周辺は石垣が残っているにすぎず、いささか殺伐とした光景である。旧東海道に戻ってそぞろ歩いていると、建て込んだ街並みの中に鳥居が見えた。桑名宗社と呼ばれる春日神社の鳥居だ。青銅製である。東海道を行く人たちはこの神社で旅の安全を祈願したにちがいない。神社の本殿では赤ちゃんを抱いた夫婦が神職のお祓いを受けていた。勝之助も出立前、生まれて間もない娘のために妻と共にお祓いを受けたかもしれない。
この後しばらく辺りをめぐって、宿場町の痕跡を探したが、美濃への出入り口としての番所が置かれていたという「三崎見附跡」以外に撮影ポイントがないようなので、メーンの通りを桑名駅に向かった。途中、海蔵寺という寺の前を通りかかると「薩摩義士墓所」ののぼりが門前にかかっていた。中に入った。境内の奥に、23基の墓がコの字型にならんでいる。説明板によると、宝暦4(1754)年、薩摩藩は幕府から木曽三川の分流工事を命じられ、947人を送り出した。工事は河口から50~60キロの範囲内、200カ所以上にのぼった。40万両(約320億円)もかかった大治水工事は1年で完了したが、幕府への抗議のための自害や病気などで84人が命を落とした。うち23人が義士としてまつられたという。
この工事によって、桑名は城下町として、また宿場町として、安心して暮らせる街になったのはまぎれもない。だが、幕府の命令は薩摩藩にとって非情であった。1200キロも離れた木曽三川のために莫大な資金を藩で用意しなければならないのだ。23義士の家族や親族の末裔は、やがて戊辰戦争で官軍の兵として幕府軍と戦っただろう。幕府方の桑名藩は朝敵となり、薩長の官軍に降伏した。何かの因縁であろうか。
ところで勝之助である。元治元(1864)年、再び桑名の土を踏むことなく柏崎で死んだ。63歳だった。戊辰戦争の4年前であった。
勝之助はどれほどか七里の渡しの船で桑名に帰る夢を見たことであろう。勝之助の心中をおもいつつ、私は桑名から名古屋に向かう電車にのった。

宿場町《東海道・桑名宿#1》文・写真 井上脩身

水道完備の七里の渡し

歌川広重の浮世絵「東海道五十三次之内 桑名・七里渡口」(ウィキペデアより)

サラリーマンにとって転勤は世のならい。私は7、8回転勤した。江戸時代、城勤めの侍も江戸詰めなどの転勤はあったが、地方への転勤で一家が引き裂かれた例があると最近知った。桑名藩士の渡部勝之助が越後・柏崎への異動を命じられ、長男を残して妻と任地におもむいたというのだ。勝之助は桑名の「七里の渡し」で引越しの旅に出た。渡しがあるということは、湊の前の宿場はにぎわっていたにちがいない。東海道の桑名宿を訪ねた。

柏崎陣地への転勤命令

桑名藩には越後に飛び地があった。その領地は5万石の石高があり、柏崎に陣屋(役所)が置かれていた。役職が横目という藩の下級武士・渡部勝之助が柏崎陣屋の勘定人を命じられたのは天保10(1839)年の正月、36歳のときだった。下っ端役人ながら「学問ができ仕事もできる」と高く評価されていた勝之助にとって、このお役替えは出世ではあった。
だが、単純に喜べない事情があった。勝之助の家族は妻おきく(24歳)と数えで4歳の長男鐐之助だけだが、おきくはおなかに子どもを抱えていた。勝之助は迷った末、鐐之助を叔父の渡部平太夫に預けることにした。現在の会社の命による転勤でもよくあるが、いったん勝之助だけが単身で赴任。2カ月後の5月、桑名に帰省した。おきくは娘おろくを産んだばかりだった。このころ、江戸では渡辺崋山や高野長英らが幕府に捕らわれる「蛮社の獄」が起きていた。しかし、桑名城下の組長屋に暮らす勝之助には無縁の世界であった。
5月30日六つ半(午前7時)、勝之助一家は柏崎に出立。勝之助夫婦は寝ていた鐐之助を起こさず長屋をでた。勝之助はそのとき、いずれ桑名に戻ると一緒に暮らせる、と思った。平太夫やおきくの実家の人たち、勝之助の友人らが「七里の渡し」まで見送ってくれた。
桑名は長良川と合流する揖斐川に面しており、伊勢湾にそそぐ河口近くに位置する。「七里の渡し(写真)」は桑名から熱田神宮がある宮宿まで、距離が7里であることからつけられた。勝之助は30キロ近い伊勢湾の船旅の道中、来し方行く末がさまざまに去来したのであろう。柏崎まで旅日記をつけた。柏崎に着いた後もまめに日記をつけ、平太夫に送った。平太夫からも日記が勝之助のもとに送られ、交換日記の形になった。この日記を基に新聞記者の本間寛治さんが1988年、『幕末転勤傳――桑名藩・勘定人渡部勝之助の日記』(エフェー出版)(写真左)を著した。
本間さんは同書のなかで勝之助らの「七里の渡」しでの船出を以下のように表している。
木曽三川の一つ、揖斐川河口にひらけた七里の渡しの朝は活気があふれていた。水上には何艘もの帆船が沖がかりをし、川につき出た桑名の白壁が朝日に映えた。川面を渡る風はさすがに涼しく、勝之助らを乗せた帆船は滑るように伊勢湾に出た。勝之助は熱田の宮の渡しまで水路を行き、そこから陸路越後を目指した。
このくだりを読んで、私はネットを開いた。渡しの近くに本陣や脇本陣、それに桑名城があったという。宿場と渡し、それに城下が一体となっており、いわば三位一体の街のようなのだ。興味をひかれ、1月下旬、桑名に向かった。

渡しに面して建つ鳥居と櫓

七里の渡しに面して建てられた蟠龍櫓
七里の渡し前の伊勢の国一の鳥居

近鉄桑名駅で降りると、まっすぐ「七里の渡し跡」に向かった。東に歩くこと約30分。揖斐川沿いにだだっ三之丸公園が広がっている。その名の通り、桑名城の三之丸跡にあたり、二層の櫓が建っている。「蟠龍櫓」と名づけられている。説明板によると元禄時代の火災後に再建された61の櫓のなかで、「七里の渡し」に面して建てられた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボル。歌川広重の「東海道五十三次之内桑名・七里渡口」では桑名の名城ぶりを表すため、この櫓が象徴的に描かれているという。
スマホで広重の浮世絵を見た。目の前の櫓はおとなしい造りだが、浮世絵の櫓はどこか勇壮な気迫が漂う。現在の櫓は2003年、水門の管理棟として、元の櫓を復元して建てられた。勝之助は旅立ちの際、蟠龍櫓を見たはずだ。勝之助の目におとなしく映ったか、それとも勇壮に見えたか。家族をつれてはるばる越後まで長旅をしなければならない勝之助の胸中は複雑であっただろう。
蟠龍櫓の約50メートル先に鳥居が建っている。伊勢国の一の鳥居として天明年間(1781~1789年)に建てられた。高さ約10メートルの黒っぽいこの鳥居の間に松の木が植わっていて、その緑が冬の空に映えている。鳥居の約30メートル先は揖斐川の岸辺。木の柵が設けられていて、そこに川に降りる石段がつくられている。石段をおりたところに渡しの乗り場があったのだろう。残念ながら、鉄の鎖が張られていて、今はおりられない。
そばに「七里の渡し跡」の説明板。「七里の渡しの西側には舟番所、高札場、脇本陣・駿河屋、大塚本陣が、南側には船会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えた」とある。
現在は渡しの乗り場のすぐ前に高さ10メートル近いコンクリート壁がめぐらされ、幅約10メートルのすき間が申し訳程度につくられているだけ。そのすきまから向こう岸をのぞくしかない。伊勢湾台風で大きな被害にあったことから、沿岸の人々を守るために築かれたのであろう。やむを得ないことではあるが、はるかに宮宿の渡しの船着き場まで遠望できれば、という期待がピシャッと断ち切られ、いささかもの足りないおもいであった。
この渡し場から鳥居に戻る途中、外堀が揖斐川に平行してつくられていることに気づいた。桑名城は川を巧みに利用した水城なのだ。堀の水面に蟠龍櫓の白亜の壁が映っている。「川につき出た桑名の白壁」という、『幕末転勤傳』での本間さんの表現。なるほど、である。(明日に続く)

連載コラム・日本の島できごと事典 その94《奄美島唄》渡辺幸重

沖縄三線の爪(上)と奄美三線のバチ (「大阪発中年親父の道楽ブログ」より)

NHK番組『新日本風土記』のバックには幽玄さが漂う歌声が流れます。私の好きな奄美島唄の第一人者、朝崎郁恵の歌声です。奄美島唄の唄者(歌手)では元(はじめ)ちとせや中(あたり)孝介らが有名ですが、ご存知でしょうか。

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京都奇譚《一寸法師》山梨良平

鴨川の源流雲ケ畑で

ここに「一寸法師」というよく知られたお伽話がある。物語はご存じのように、ある老夫婦には子供がいない。どうしても欲しいと思って住吉の神様にお願いした。すると老婆に子供ができた。しかし生まれた子供は一寸(3cm)ほどの小さい子供だった。子供は一寸法師と名づけられた。
ある日、一寸法師は武士になるために京の都へ行きたいと言い、お椀を舟に、箸を櫂(かい)にし、針を刀の代わりに、麦藁(麦わら)を鞘(さや)の代わりに腰に差して旅に出た。都では大きな立派な屋敷を見つけ、そこで働かせてもらうことにした。その家の娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来た。一寸法師が娘を守ろうとすると、鬼は一寸法師を飲み込む。一寸法師は鬼の腹の中を針の刀で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまった。一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)にもなり、娘と結婚した。御飯と、金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたという。
以上がよく知られているお伽話のあらすじである。 “京都奇譚《一寸法師》山梨良平” の続きを読む

京都奇譚《前書》山梨良平

百鬼夜行の図

京都という都はすでに1200年以上の歴史を誇る。ふと思ったのだが、1200年もの間、人が営みを続けていると、時空を超えて様々な事象が起こるのではないか?そういえばこの間には、人が生まれ育ち、時には幸せをかみしめ、またある時は憎み戦ってきた。天皇や貴族、武士などの生活を描いた記録や物語は残っている場合も多いが、庶民の営みはどうだったのだろうか。 御伽草子という物語集がある。物語としては鎌倉時代に完成したようだが、平安時代から伝えられてきた物語を採集したものらしい。貴族社会の生活や僧侶の話など、また歴史書にはあまり見られない庶民の生活も生き生きと語り伝えられている。
本稿はお目汚しになるかもと思いながら、御伽草子だけでなく京都にまつわる話を筆者の独断と偏見で書いてみた。なにしろ平安の時代、百鬼が横行していたという。所謂百鬼夜行が起こりやすい夜行日(やぎょうび)なるものがあり恐れられていたという。
たとえばこの夜行日には首の無い馬に跨って人里を徘徊すると言うひとつ目の鬼(あるいは首なし馬そのものを指す)が横行すると恐れられていた。掟を破って物忌みの晩に出歩く者は、この首無し馬に蹴り殺されてしまうとも恐れられていた。
※お断り:「忌憚」という文字を意味が違いますので本来の「奇譚」と書き換えます。(この稿続く)