連載 のん太とコイナ《3 滝のぼり》いのしゅうじ


こいのぼりフェスタの日がやってきました。
今年はいつもと違います。毎年のアカダ川でのフェスタのほかに、「おばけい」でも行うことになったのです。
おばけいはアカダ川の上流の渓谷。ほんとうの名前は「小母谷」。
長さ二キロくらいのおばけいの中ほどに、二段の滝があります。
「滝のぼりフェスタをしては」との市民の意見にこたえて、
「滝つぼの手前と下の段の滝に、こいのぼりを水につかるようにつるす。そして上の段の滝には、コイナとコイキチにのぼってもらう。
というもよおしを実施することになったのです。
滝のぼりフェスタには大勢の人がやってきました。
滝つぼのそばに小さな広場があります。
市長さんにつづいて、のん太がマイクを手にしました。
滝の上部に達したコイナを指さし、
「あの子は天までとび、天の川を泳ぎたいのです。でも、天の川は見えません。天の川が見えるようにしてください」


コイナは里で静かにすごしています。でも、何かもの足りません。
あるとき、コイキチが「コイの町に行ってみたいな」とひとり言のように言いました。コイナはハッとしました。コイの町にはたくさんの花が咲いていたのでした。
「この里をコイの町のようにするわ」
コイナはいろいろな野の花のタネを小川のそばにまきました。やがて赤、紫、黄色など色とりどりの花が咲きました。
さわやかな香りがひろがり、小鳥が気持ちよさそうにさえずります。せせらぎも、やわらかな音色をひびきかせています。
たまたま中が空洞になった倒木をたたくと、ゴーンとなりました。幹の太さが異なると、音の高さや質がちがいます。
太い幹は低くドーン。
細い幹は高くトーン。
音にあわせて高く低くさえずる小鳥。ピョンとはねて、せせらぎの音にアクセントをつける小魚。
「色、香り、音。自然は美しいハーモニーを生むんだわ」
コイナの言葉も美しい、とのん太は思いました。
(おわり)

連載 のん太とコイナ《3 滝のぼり》いのしゅうじ


滝のぼり競争に出場するのは六人。初出場はコイナだけ。ほかの五人は何回か出ていて、「今年こそ」と気力をみなぎらせ、自信満々のようす。
のん太とみどりは、コイナとおばあさんに連れられ、滝がよく見えるところに陣取りました。
「ここは烏弱??の軍ぜいが火縄銃を撃ったところ」
とコイナのおばあさん。のん太は「弱??」という弱そうな名前と、コイキチとが重なり、いやな予感がしました。
察しのいいコイナがクスッとわらいました。
「コイキチは強??よ」
競争が始まりました。
コイキチは少し出遅れたけれど、中ほどでグッとスピードをあげて一気に抜き、水が落ちだす滝口のところに一番のり。その勢いで、ポーンと天に向かって飛びあがりました。
里の山の向こうには、金色にかがやくヤリ山があります。滝から高く飛び上がらないと見えない神秘の山です。
コイキチはヤリの山の黄金の光を、目にきざみこみました。

滝の横の広場で表彰式が行われました。
表彰台には里長(さとおさ)が立っています。もう何百年も生きている里長。電気もガスもないこの里でこいのぼりが暮らしていけるのは、経験豊かな里長がいるからなのです。
コイキチが表彰台にあがりました。
里長が声をかけます。
「こいのぼりの里の勇者とみとめる」
会場には里のすべてのこいのぼりが集まっています。コイキチをたたえて、どよめきが起きました。
「ウオー」
どよめきがしずまると、滝のぼり踊りが始まりました。
コイキチにかわって、おばあさんが表彰台に上がりました。
滝のぼり競走の一番が里長とともにおどるのが決まりですが、コイキチが「おばあさんに」と強く言いはったのです。
それぞれが体を低くし、地面すれすれのところでおなかのひれをふるわせます。すこしずつ体をもちあげ、胸をはってひれで天をつく。これをくり返しながら、輪になっておどるのです。
のん太とみどりも遅くまでおどりつづけました。(明日に続く)

連載 のん太とコイナ《3 滝のぼり》いのしゅうじ 


 春めいてきたある朝、コイナがのん太をたずねてきました。
「滝のぼり祭りがあるの。行ってみない」
コイナの里の春をつげる行事だというのです。
「冬の間にこおった滝がとけるでしょ。はげしく流れおちる水にさからい、競いあってのぼるの

「それがなんで祭りなんだ?

「一番になった選手を中心に、みんなでおどるの。滝おどりっていうのよ。盆おどりみたいなものね」
「おもしろそうだ。行く。みどりもさそわなきゃ」
みどりはコイナが来ていると知って、パッと飛び起きました。
のん太とみどりは、去年の盆おどりのときにお母さんがぬってくれたゆかたをまとい、コイナの背にまたがりました。
山の急な斜面にポツンポツンと家々がたっているコイナの里。その手前に滝が見えました。
コイナは上空をゆっくりすすみます。のん太が見たこともない、おどろくほど大きな滝です。


 滝の上空でコイナが滝のぼりの伝説を語りました。
四百数十年前、戦国時代といわれていたころ。烏弱??(からす・やわきち)という武将が兵をあげました。兵隊たちは火縄銃を手に、こいのぼりの里に押しよせてきました。
そのとき、コイナの何代も前のこいのぼり夫婦・コイモトとコイカが滝の下でおよいでいました。
烏弱??が「こいのぼりを撃て」と兵隊に命じました。
火縄銃からタマがビュンビュンとんできます。川を下ろうとすると、そこにもタマがおちてきます。滝をのぼるしかありません。
まだ春さき。水は切るような冷たさ。コイモトとコイカはひっしに滝をのぼりました。少し上がっても、猛スピードでおちてくる水にまけ、ずるずると滑りおちます。
こんなことをくり返し、ついに滝の上にあがりきり、逃げることができました。
「それから、滝のぼり祭りをするようになったの」
コイナはそう言って、胸をはりました。


「四百年以上の歴史があるなんて、すごいことじゃないか」
のん太は二年前に京都で見た祇園祭を思いだしていました。
「山ぼこはあるの?」
「山ぼこ? あ、祇園祭のことね。そんな立派なのはなにもないけど、わたしたちには誇りがあるわ

「さっき、一番になった者を中心におどるって言ったね。一番になるのは大変な名誉なんだ」
「そおよ。コイキチが滝のぼり競争に出るの」
コイキチは、「出る」と宣言したのはいいけど、実はカナヅチ。川で泳がせてみると、ブクブクとしずみます。お父さんは「滝のぼりなんてムリ」と頭をかかえました。
「魚のコイは滝のぼりができるのだから、コイキチだってきるはず。そう考えて、弟をコイの町に連れて行ったの」
コイの町のコイたちは、手本を示しながら、ていねいにコイキチを指導してくれました。
コイキチはけんめいにがんばりました。二週間ほどすると、滝にのぼれるようになりました。(明日に続く)

連載コラム・日本の島できごと事典 その118《困窮島》渡辺幸重

大島と宇々島(Webサイト「日本の島へ行こう」より) https://nihonshima.net/sima4/nagasaki/odikaohshima.html

天草諸島(熊本県)の横浦島の西方約2.3kmに「困窮島(こんきゅうじま)」という名前の小さな無人島があります。これは横浦島の青年団が困窮したときに備えて植林などをしていたからだそうです。1930年以来の昭和恐慌で疲弊した農山漁村の救済を目的に政府主導で進めた農山漁村経済更正運動を鼓舞するためにも利用されたといわれます。
一方、平戸諸島(長崎県)の大島の東に位置する無人島・宇々島(ううじま)、愛媛県二神島の南に位置する由利島などは“困窮島”だったといわれています。ここでの困窮島の意味は、“本島”で貧しくなった者が“属島”に渡って開拓に携わり、財産を築くとまた戻ってくる「貧民救済」の風習・制度がある島ということです。『新版 日本の島事典』は宇々島を「一般に自力更生の島と呼ばれた」とし、「享保年間(1716-36)の飢饉の頃から大島で生活できなくなった人を、3年を限度に(候補者がない場合は継続を認め)各2戸を移住させ、農耕・牧畜・採藻・捕貝の権利を与え、生活を再建させる風習が昭和時代まで続いた。その間の税や賦役・世間づきあい(冠婚葬祭負担や普請)は免除され、家の改修などは大島郷民が担当した」とあります。宇々島は民俗学者・宮本常一が柳田國男が提唱した“困窮島”の典型例とし、民俗学者の研究対象となっています。このほか、瀬戸内海に浮かぶ二神島(愛媛県松山市)の南約7.8kmに位置する由利島も典型的な困窮島のひとつといわれています。
島嶼研究者の長嶋俊介は「困窮島制度は哀れみではなく、人間の尊厳を回復・再生させながら自立を促す優れて建設的で民主主義的な意味を持っていた」と高く評価しています。
一方、民俗学者の野地恒有は、困窮島といわれる現象は「小さい島が人の住む島になって行く」移住プロセスであり、「移住開拓島」としてとらえるべきだと主張しています。関西学院大学の那須くららは論文「『困窮島』という神話 ―愛媛県二神島/由利島の事例―」の中で双方の立場を紹介した上で、「(由利島の場合)貧しくなった者が交代で開拓しに行く『困窮島』というよりも、その時々の状況により島から島へと渡り開拓をしたという『移住開拓島』」いう見方のほうが合っている」としています。
那須は「『困窮島』という概念は現地で定着しなくとも、離島で暮らす人々の『知恵』は確かにそこにあった」とも言及しています。また、困窮島制度を評価する長嶋は「島社会は己の生存をみなで支えている運命共同体である」ことが背景にあると指摘しています。私も、困窮島の内容がどっちであれ、島社会は「助け合い社会」が基盤になっていると思っています。

びえんと《円安の犯人アベノミクス002》文・井上脩身

お金じゃぶじゃぶづけ

門間一夫・元日銀理事(ウィキベテアより)

私のような安月給で長い間会社勤めをし、退職後、ささやかな年金暮らしをしている者にとって、1円たりとも物価が上がっては困る。「2%物価上昇目標」と黒田総裁が述べたとき、「やめてくれ」と思ったものだ。物価を上げることがなぜいいのだろうか。
物価と景気の関係は経済学の基本の基本らしく「モノの価格は需要と供給のバランスで決まり、需要が供給を上回れば価格が上がり、供給が需要より下回れば価格は下がる」と説明されている。消費者物価でいえば、購買力が高くなれば供給を上回るので、物価が上がることになる。ということは、会社の利益が上がれば給料が上がり、自ずと物価が上がるはずだ。安倍首相と黒田総裁が物価上昇を目指したのは、経済活動を活性化するためだったのであろう。安倍政権時代の官邸のホームページには「持続的な経済成長(富の拡大)――国内総生産成長率3%」と銘うって、「大胆な金融政策」(第1の矢)では「金融緩和で流通するお金の量を増やし、デフレマインドを払拭」とある。要するにこの国をお金のじゃぶじゃぶづけにしようということなのだ。
わが国の長期金利は2004年から2012年まではおおむね1~2%の範囲内で推移した。黒田氏が総裁に就任してからは0~1%の範囲内で推移、とくに2017年から202年まではほぼゼロ%(2016,2020年はマイナス金利)である。金利を低くすることで企業が銀行などからの融資を受けやすくし、設備投資などの積極経営への道を開こうとしたのであろう。銀行からたくさんお金を借りて企業活動が盛んになればGDP(国内総生産)が上がるはずである。
だが現実はそうならなかった。2013年に508兆円だったGDPは2017年553兆円と1割アップした。しかしその後は556兆円(2018年)、557兆円(2019年)、539兆円(2020年)、549兆円(2021年)、556兆円(2022年)と横ばい。景気は少しも良くならず、したがって需要は増えない。2%インフレが起こらなかったのも当然である。
アベノミクスは金融緩和だけでなく、第2の柱として「機動的な財政政策」をうたいあげ、「約10兆円規模の経済対策予算によって、政府自ら率先して需要を創出する」と声高らかに宣言した。その金の主な出所が国債発行であることはいうまでもない。国債残高は2013年が743兆円。その後、774兆円(2014年)、805兆円(2015年)、830兆円(2016年)、853兆円(2017年)、874兆円(2018年)、886兆円(2019年)、946兆円(2020年)、991兆円(2021年)と増加、2022年は1005兆円と1千兆円の大台を突破した。
このように国債が天井知らずに増えるのは、日銀が買ってくれるからである。借りた金は返さねばならない。しかし、放蕩息子が親に無心する場合、借金をしたように思わないのと同様、日銀を事実上政府の従属機関にした結果、政府は好きなように無心できるのだ。
こうしてこの国はお金じゃぶじゃぶ状態になった。資金100万円で営業活動している人に50万円を貸したとしよう。それでも1円の利益も上がらなければ、150万円は100万円と同じ価値でしかなく、50万円分暴落したことになる。円安とはつまるところにこういうことではないのか。アベノミクスと胸を張ったものの、投入した金に見合う経済活動がなされなかったのである。

経済成長を夢見ての愚行

放蕩息子を例にあげたので、この点をもう少し考えたい。「真人間になり、しっかり働いてお金を返します」と言うのを真に受け、どんどんお金を工面したが結局、稼ぎは増えず雪だるま式に借金が膨らんで破産、という例は世間ではそう珍しいことではない。本人は自業自得かもしれないが、奥さんや子どもは路頭に迷わされるハメになる。国債残高がこのように急激に増えている状況をみれば、国民がいずれひどい目にあうのではないだろうか。
借金が増えても、返済は将来のことだ。だから国民は天井知らずの国債残高急増の深刻さがピンとこない。だが、借金をすれば利息だけは支払わねばならない。その利息がバカにならないのである。政府の2024年度概算要求では、国債の利息支払い分として前年度12・8%増の9兆5572億円を見込だ。2022年度の予算では介護3・6兆円、福祉4・6兆円だ。この二つを合わせた金額よりもはるかに高い金が利息支払いのために消えていくのだ。もし利息払いがなければ、福祉や教育などでさらにきめ細かい施策ができるであろう。政府は自分で自分の首を絞めているのである。そのツケはすべて国民の負担になっている。
なぜこんな愚を行ったのか。日本は経済成長すると安倍氏は思い込んでいたに相違ない。安倍氏は祖父の岸信介氏を尊敬していた。その岸氏の時代、日本は戦後の復興期を終え、力強く再生の道を歩んでいた。岸氏が首相だった1959年の成長率は11・2%、1960年は12%である。安倍氏の第2次政権中、この3分の1の比率で成長したら、投入した金は税収として回収できるかもしれない。しかし、かつての成長の再現は夢幻の物語でしかないことはさまざまなデータが示している。
さて、藻谷氏が挙げた元日銀幹部である。『アベノミクスは何を殺したか』には門間一夫元日銀理事が登場する。日銀で調査統計局長、企画局長を歴任し、白川方明総裁(黒田氏の前任)のもとで金融政策担当理事、黒田総裁のもとでは国際担当理事を務めた。門間氏は「2%物価上昇目標」について「日銀の政策によって(物価目標も)2%になんかならないし、日本経済が良くなるなんて思っていませんでした」と述べる。黒田総裁の最側近ですらアベノミクスが経済成長の起爆剤とは思っていなかったのだ。それどころか、安倍氏が2次政権を樹立する前の年である2012年、国民の豊かさを示す1人当たりのGDPは14位だったが、2022年には30位まで低下した。経済の上昇をうたいあげたアベノミクスは、実際にはアベコベミクスであった。
藻谷氏は新聞のコラムにこう書いた。「安倍氏こそ真の指導者と浮かれた者たちが、『自分たち安倍氏の岩盤支持層こそが、日本経済を壊した張本人である』と自覚することは、果たしてこの先あるのだろうか」と。岸田文雄首相は、自民党内でなお大きな勢力集団である旧安倍派を慮り、アベノミクス路線からはみ出さないようにしている。日本経済が壊れても「私の責任でない」と逃げるつもりであろうか。(完)

びえんと《円安の犯人アベノミクス001》文・井上脩身

安倍晋三元首相(ウィキベテアより)

円安が進んでいる。10月26日の東京為替市場での円相場は1ドル150円48銭と150円の大台を突破、2022年10月下旬以来約1年ぶりの円安・ドル高水準となった。前年の円安のさい、その理由として日米の金利差が指摘され、政府・日銀は9・2兆円を投入して為替介入し、ドル売り・円買いを行った。だが今回はそのような動きはいまのところ見られない。政府・日銀はもはや円安を止められないと判断しているのだろうか。そうであるとすれば、金利差では説明できないほどに、日本の経済力が弱体化していることを意味しているのではないのか。国の屋台骨にかかわる大問題のはずだが、政府はだんまりを続けている。銃弾に倒れた元首相の政策が原因と、あからさまに言えないからなのだろうか。手をこまねいていると、この国の経済がジリ貧になるのは必至である。

日銀に禁じ手強いた安倍政権

藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員(ウィキベテアより)

 

私は経済問題が苦手だ。大学の進学先として経済学部を選んだり、銀行に就職した同級生たちが、私には異人種としか思えなかった。2014年10月、1ドル110円と1年前に比べて円が20円近く安くなったとき、元銀行員だった友人ら4、5人がどこまで下がるかを話題にしていた。元公務員は135円まで下がると予想したが、3人の元銀行員はおおむね120円くらいまでとみていた。2011年10月31日に1ドル75円32銭と最高値を記録したことを思えば、135円などという予想は、元銀行員からみれば素人の当て推量でしかなかったであろう。一流銀行に勤めていた友人は「日本の経済には底力がある」というのであった。
だが円は下がりつづけ、今年9月には、「素人の当て推量」をふっとばして150円ラインに到達しかねない状況になった。「経済は苦手」の私はどう判断してよいかわからず、新聞の為替欄を日々、もやもやした気持ちで見つめるしかなかった。
9月24日の毎日新聞の「時代の風」というコラム欄が私の目を引きつけた。「行き過ぎた円安」をテーマに日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介氏が「政治家主導のツケ」と題して投稿していた。その概略は次の通りである。
1米ドルが140円台後半という、極端な円安が続く。世界銀行算定の購買力平均ベースのレート(物価が同じように計算したレート)では、1ドルはおよそ100円なので、円安は5割近くも行き過ぎだ。
円安は輸出を増やす。1ドルが平均110円だった2021年と、平均131円になった2022年を比較すれば、輸出は82兆円から99兆円へと17兆円増加した。しかし輸入も81兆円から115兆円へと34兆円も増え、貿易収支は大幅な赤字に転落。過度の円安はかえって国際収支を悪化させるというのが令和の現実だ。
本来は、欧米に倣い金融緩和を手じまいすることで円高に誘導すべきタイミングだ。だが緩和を見直すと金利が上昇し、国債や株式の市場価格が下がる。これは国の財政難や株式不況を引き起こしかねないのみならず、日銀の財務内容も大幅に悪化させる。日銀は、国債や株式を大量に買い込むという、先進国のどこもやっていない禁じ手を、第2次安倍政権に強いられてしまったからだ。
日本経済をこのような窮地に立たせたアベノミクスがいかに愚策であったか。それをわかりやすく暴き出した本が原真人著の『アベノミクスは何を殺したか』(朝日新書)⇒写真左。そのなかで注目されるのは、当事者だった日銀の元幹部の、まるで第二次大戦を山本五十六が総括するようなトーンの告白だ。「効果のないことはわかっていたが、民主主義国家である以上、やっても効果がないことを国民に証明するためにも、やれるところまでやるしかなかった」との発言だ。
以上の藻谷氏の論旨によると、円安をまねき、日本の経済を窮地に陥れたのはアベノミクスというのである。

政権優等生の黒田バズーカー

『アベノミクスは何を殺したか』には「日本の知性13人との闘論」の副題がついている。その一人である藻谷氏がいう「日銀元幹部」の発言については後述するとして、ここではアベノミクスの問題点を、同書を参考にして考えたい。
著者の原氏は経済ジャーナリスト。安倍氏が第2次政権を担って打ち出した経済政策を「アベノミクス」と呼んだのは原氏本人だという。批判的な意味を込めたネーミングだったが、安倍氏はプラスイメージとして利用、いかにも日本経済の特効薬であるかのうように、この言葉を使った。したたかではある。
アベノミクスは金融緩和、財政出動、成長戦略の「3本の矢」から成る。翁邦雄・京大公共政策大学名誉フェローは同書のなかで「本丸は本来、成長戦略だが、結果的に大胆な金融政策に大きく依存した」と述べたうえで、「安倍首相(当時)は日銀に2%の物価目標の早期達成を強く求め、黒田東彦総裁はその意を受けて大規模な金融緩和にまい進。しかし、実は物価目標達成のメドが立って本当に金利が上がり始めたら、困難に直面するのは巨額債務を抱えている政府」と指摘する。
先進国の中央銀行は国から独立した存在であることが原則だが、安倍氏は日銀を批判し続けてきた黒田氏を総裁に起用。黒田氏は総裁に就任すると、安倍政策の執行者とばかりに2%の物価目標期限を「2年」とした。日銀が政府から独立しなければならない一番の理由は、国の意向に左右されずに物価と金融システムの安定を維持する責任があるからであるが、黒田氏は独立主義の旗を降ろし、政府に従属の立場を鮮明に示したのであった。
黒田総裁は2013年4月、市場に供給するお金の量を2倍にし、日銀の国債保有量を2倍以上に増加する量的・質的緩和を打ち出す「黒田バズーカー」を発表。2014年10月、日銀による市場へのお金の供給量を年間80兆円に増額(バズーカーⅡ)、20162月、短期金利の誘導目標をマイナス0・1%とする、世界の中央銀行では唯一のマイナス金利を実施。さらに2016年9月、長期金利操作を導入し、10年物国債金利をゼロ程度にまでおさえた。世界の中央銀行で採用された例はほかにない国債買い支え策である。
こうした黒田日銀の金融政策は中央銀行の常識を覆すもので、「黒田サプライズ」と驚きの目で成り行きが注目された。
2%目標は黒田氏が2023年4月に退任するまで達成されず、退任記者会見では「目標の持続的、安定的な実現までに至らなかった点は残念」と述べた。しかし、翁氏は「日銀が物価目標にこだわって超緩和を続け、それでも目標達成のメドが立たない、そういう状態こそが政府にとって最も居心地がいいという矛盾した状態が続いていた」という。黒田氏は安倍政権にとって実に都合のよい優等生だったことになる。(明日に続く)

宿場町シリーズ《中山道・垂井宿002》文、写真・井上脩身

戦後まで現役だった3軒の旅籠

西の見附から描かれた安藤広重の浮世絵「木曽海道六十九次・垂井」

この辺りまで歩いて気づいた。宿場を幅7メートルほどの中山道が東西に貫いていて、その両側に商家や旅籠が並ぶ構造だ。旅籠が27軒あったのだから、当時は旅人たちで結構なにぎわいだっただろう。しかし、今は時折車が通り過ぎていくだけ。人にはほとんど会わない。午後1時。おなかが鳴り出したが、食堂・レストランどころかコンビニもない。空腹を耐えて歩くしかない。
街道から少し南に入ったところに大きな石の鳥居がたっている。高さは7、8メートルくらいだろうか。約1キロ先の雨宮大社の鳥居である。雨宮大社は行基が創建したと伝えられ、関ヶ原の合戦のとき兵火にあって炎上。1642年、家光が再建したといわれ、国の重要文化財である本地堂や三重塔がある。合戦前は元の神社があったので、吉継は三重塔を仰ぎ見て戦勝祈願をしたであろうか。ならばこの鳥居をくぐったはずだ。
鳥居の近くには旅籠「長浜屋」の建物。1831年に書かれた間取り図が残っている。建てられて200年がたつ古民家なのだ。1998年に取り壊される予定だったが、「歴史的に貴重」として修復されたという。
その真向いに旧旅籠「亀屋」。江戸時代には油屋として栄え、明治初期、小林家が譲り受けて旅籠として戦後まで営業。「宿場時代の面影を残している」と評価され、2013年、「小林家住宅主屋」として国の登録文化財に指定された。
先に旅籠「亀丸屋」を紹介したが、この宿場はなぜか旧旅籠が目につく。しかも戦後まで現役だったというのだ。あちこちの宿場をたずねたが、このような″旅籠現存宿場″はほかには余り例がない。関ヶ原合戦場跡は目と鼻の先だ。歴史好きな旅行者のための旅館として再興できないものだろうか。
亀屋の近くに高札場跡。2019年に復元され、奉行名の6枚の高札がかけられている。うち「キリシタン」に関しては、「ばてれん訴人」を告げた者へのご褒美は「銀五百枚」と書かれている。
高札場裏に本龍寺の山門。脇本陣にあったものを、明治初年に移築したもので、どうどうとした構えである。脇本陣は現存していないが、さぞ立派な建物であったであろう。
さらに西に向かい、京側の入り口である西の見附跡に着いた。東の見附から約1キロのところである。安藤広重の浮世絵「木曽海道六十九次・垂井」は西の見附から見た宿場風景を描いたといわれている。絵には街道の両側に商家が描かれているが、今はその面影はない。ここから大鳥居に戻り、中山道を離れて南に歩く。ほどなく「垂井の泉」と名づけられた小さな池。ニシキゴイが泳ぐこの池が泉なのだ。こんこんと泉がわき出していて、旅人ののどを潤した。芭蕉は「葱白く洗いあげたるさむさかな」と詠んでおり、宿場の生活用水としても使われていたようだ。

盟友・平塚為広の垂井城

平塚為広の居城だった垂井城跡

大谷吉継が垂井宿で何をおもったか、を私なりに推察するのがこの旅の目的であることはすでに触れた。「垂井の泉」の裏に専精寺という寺がある。ここは垂井城の跡であるという。垂井城は大谷吉継の盟友、平塚為広の居城だ。吉継がこの城にこなかったはずがない。いや、為広に会うのがこの宿場での目的だったのかもしれない。三成に会うためだけなら佐和山に近い所を宿営地に選んだはずだ。
為広の父、平塚三郎入道無心は秀吉に仕え、1万2千石をたまわった。為広は関ヶ原の合戦では吉継のもとで山中に陣を敷いたとされる。
司馬は『関ヶ原』の中で、吉継は「西軍所属の小大名六人を与力としてあたえられた」と記し、6人の筆頭に平塚為広をあげている。兵300人を引き連れて出陣した為広は「闘志あくまでさかんで、よく吉継の軍令に服し、その采配のもとで死力を尽くそうという気構えをみせていた」という。
吉継が統括していた2000人の隊形が伸びきっているとき、東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢1万5000人が突然、右手の松尾山から攻めてきた。吉継は「死ねやぁっつ」と下知し、先鋒の為広が十文字のやりを、血がかわく間もなくうちふるって小早川勢の中に飛びこんだ。為広は秀秋の旗本近くまで斬り込んだが、敵の包囲にあって首を切られた。コシにのって采配をふるっていた??継はコシを止めるよう命じ、腹をかき切って果てた。
いうまでもなく司馬のフィクションである。ただ、吉継の軍勢の中心に為広がいたのは確かだろう。二人は一心同体の関係だったのだ。為広は、ハンセン病の体をおして戦いの場にいる吉継の手足のごとくはたらいたようである。
これで答えはでた。吉継は為広の城で、どう戦うかについて、綿密に打ち合わせたに違いない。吉継は垂井の泉で病の体をあらったであろう。負ける戦と分かっているからこそ、最後の最後まで武将として恥ずかしくなく戦うために身を清めたのだ。為広が何かと手配したのはいうまでもない。以上は私の推測である。
話は少し戻るが、大鳥居の近くに八百屋、乾物屋、それに雑貨屋も兼ねる何でも屋さんがあった。お年寄りの女性が店番をしていて、「食べる物はありませんか」とたずねると、「助六ずしが一つ残っている」という。垂井城跡をたずねた後、もう一度相川橋に向かった。川岸で巻きずしをほおばりながら、関ヶ原の山並みに目をやった。このどこかではてた吉継。驟雨とは無縁の秋晴れであったが、いつの間にか関ヶ原あたりに雲が広がりはじめた。吉継を哀れにおもう気持ちが雲をよんだのだろうか。不思議なおもいにかられつつ、垂井宿の旅をおえた。(完)

宿場町シリーズ《中山道・垂井宿001》文、写真・井上脩身

敗者しのぶ関ヶ原直近の宿場

大谷吉継(落合芳幾画)(ウィキベテアより)

NHK大河ドラマの影響でこの1年、徳川家康が脚光を浴びた。関ケ原の合戦で勝利をおさめて天下人になった家康であるが、私は敗れた石田三成に加担した西軍の武将への同情心があり、司馬遼太郎の『関ヶ原』(新潮文庫)を読み返した。大谷吉継が垂井宿にいたとき、三成から使いがきて、「家康をうつ」という三成の決意を聞く。三成に従うべきかどうか、吉継は宿場で悩みに悩んだに違いない。やがて、宿場から西にわずか8キロの関ヶ原で果てることになろうとは夢にも思わなかったであろう。中山道の垂井宿をたずね、吉継に思いをはせた。

三成の秘事に揺れる大谷吉継

垂井宿の北を流れる相川。向こうは関ヶ原の山並み

司馬の小説では、秀吉の死後、会津の上杉景勝が豊臣家に謀反を企んでいるとして、五大老筆頭の家康が、大坂から会津攻めに動きだす。家康から上杉討伐の動員令を受けた敦賀五万石の大名・大谷吉継は、「家康と景勝の仲を調整して、和をもたらす」ために北国街道を南下した。吉継はハンセン病を患って頭髪が抜け、両目も失明。顔を白い布で包み、コシに揺られての出陣である。
垂井宿に入るなり、近江・佐和山城にいる石田三成に使いを走らせた。三成から「秘事がある」と言ってきたので、吉継は垂井から佐和山城に向かい三成と密談。「挙兵する」と決意を打ち明ける三成に対し、吉継は「内府(家康)の威力は大きすぎる。内府に刃向かうのはよほどの愚か者か、よほどの酔狂者。事はかならずしくじる」と言葉を尽くして説得。「内府と上杉を和睦させるしかない」という吉継の消極的平和主義に対し、三成は一つ一つ論駁し、「いま家康を討ち果たさねば、かの者はいよいよ増長し、ついには従二位様(豊臣秀頼)の天下を奪い取ることは火を見るより明らか」と言い放った。
「自滅するぞ」と言って三成と別れ、垂井宿にもどった吉継の頭に、秀吉が催した茶会がよぎった。茶碗がまわされ、ハンセン病を患っていた吉継が茶を喫しようとしたとき、鼻水が垂れて茶の中に落ちた。ハンセン病に対する科学的研究がなされていない時代だ。その茶碗がまわされると、居並ぶ諸侯は飲む真似をするだけ。三成だけが茶碗を高々ともちあげ、飲み干した。以来、「佐吉(三成)のためなら命も要らぬ」と吉嗣は三成にしたがってきたのだった。
吉継は十数日間、垂井宿から動かず、何度も使者を三成のもとに送り、思いとどまるよう諫止。「かならず負ける」と切言したが三成は聴かない。「わしを友と見込んで、この秘事を打ち明けてくれた。もはや事の成否を論じても詮はない。あの男と死なねばなるまい」。
吉継がそう決意した夜。垂井宿に驟雨が通り過ぎ、地を裂くような雷鳴をとどろかせたあと、程なく霽(は)れあがった。
以上のように吉継の心の動きを書き記した司馬。その心根を激しく揺れる天候にたとえた。

古代から交通の要衝

主な街道の宿場は家康が江戸に幕府を開いた際に整備された。吉継が垂井に宿営したときは、当然のことながらそれ以前の宿場である。垂井は古代、美濃国の中心地であり、畿内と美濃以東を結ぶ交通の要衝であった。秀吉が1589年、方広寺に大仏殿を建立するため美濃国の6人の武将に木曽材の輸送を命令したとき、6000人が動員されたといわれ、幹部は垂井に宿をとったと思われる。司馬の『関ヶ原』は、三成が佐和山城で挙兵して6000人の軍が東進、日が傾くころ垂井宿に着き、諸隊を付近に分宿させたと書いている。三成や島左近ら側近武将のほかは野宿せざるを得なかった。大軍が泊まれるほどには整備されてなかっただろう。吉継はどのようにして兵を分宿させたのであろうか。
すでに触れたが、家康は将軍になると、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道の整備を手掛けた。これにともない、中山道の69の宿場の一つとして垂井宿も整えられた。1843(天保14)年の記録では人口1179人、戸数315軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒。
以上の知識を頭において、10月下旬、垂井宿を訪ねた。

たにぐちみち、大垣みち

中山道に面した、格子窓がある旧旅籠「亀丸屋」

JR垂井駅を降りると竹中半兵衛像が迎えてくれた。秀吉の軍師であった竹中半兵衛は美濃で生まれており、垂井はゆかりの地だという。今回の旅のテーマは大谷吉継である。甲冑姿の凛々しい半兵衛の顔を見あげたあと、北に向かった。5、6分歩くと、相川にかかる相川橋のたもとに着いた。
相川は伊吹山の山麓を源とし、関ヶ原盆地経て伊勢湾に注いでいる。相川橋から関ヶ原の山並みが前方に広がり、その向こうに伊吹山が頭を出している。関ヶ原の合戦では、東西両軍の武将たちの陣がおかれたところだ。垂井宿は合戦場間近の宿場なのである。
相川橋をわたると、北のたもとに追分道標の石碑が建っている。1709年、垂井宿の問屋、奥山文左衛門が建てたもので、高さ1・2メートルの自然石に「是より右東海道大垣みち、左木曽街道たにぐちみち」と刻まれている。ここは中山道と美濃路の分岐点なのだ。「たにぐちみち」「大垣みち」と、旅人にわかりやすいように通称名が使われていたのであろう。「たにぐちみち」に進むと、中山道馬籠宿などを経て板橋宿に至る。「大垣みち
の方は東海道宮宿を経て品川宿に至る。吉継は家康に上杉との和睦を求めようとしていたのだから、大垣みちを東に向かうつもりだったであろう。三成の堅い挙兵の意志を知った吉継は、この分岐点でどのように思案したのであろうか。
相川をはさんで追分道標とは反対の南のたもとには「東の見附跡」の案内標識。宿場の江戸側の入り口を示していて、そばに「相川の人足渡跡」の案内板。「宿場の百姓が人足となって旅人を対岸に運んだ。朝鮮通信使などの特別な人には橋をかけた」と記されている。
ここから宿場内の街道を西に向かう。しばらくすると「紙屋塚」と呼ばれる石塚。美濃紙発祥の地とされている。さらに進むと板壁の古い民家。脇本陣に準じる旅籠「亀丸屋」だった家で、1777年に創建。浪花講の指定宿だったといい、上段の間があり、格子窓がその名残をとどめる。
亀丸屋の斜め向かいに数軒の瓦屋根の民家が軒を並べる。問屋場だったところだ。荷物の運送や相川の人足渡の手配などがここで行われていた。すぐそばに「中山道垂井宿本陣跡」の石碑。案内標識によると、「栗田本陣」と呼ばれ、床面積580平方メートルの屋内には約30の部屋があった。中山道に面した御門を入ると16畳の玄関があり、御上段の間は8畳というつくりである。(続く)

エッセー《四文字熟語が世界を暴く004》山梨良平

いや、ネタに困らんわ、この政界は。

白河夜船(しらかわよぶね) 京都見物をしたと嘘をついた人が白河のことを聞かれ、川の名前と思い込み、「夜に船で通ったから知らない」と答えたため、嘘がばれてしまった。実はぐっすり寝ていたと言うわけ。国会の場でも時折見かけられる。「恥を知れ!」と言いたい。

巧言令色(こうげんれいしょく)「少なし仁」と続く。
読んで字のごとく。口先だけでうまいことを言ったり、うわべだけ愛想よくとりつくろったりすること。 人に媚こびへつらうさま。 ▽「巧言」は相手が気に入るように巧みに飾られた言葉。 「令色」は愛想よくとりつくろった顔色。
⇒多いのよ、このような御仁。とにかく票になれば・・・。

天衣無縫(てんいむほう) 天人・天女の衣には縫い目がまったくないことから、文章や詩歌がわざとらしくなく、自然に作られていて巧みなこと。 また、人柄が飾り気がなく、純真で無邪気なさま、天真爛漫らんまんなことをいう。 また、物事が完全無欠である形容にも用いられることがある。
人はこうありたいものだ。特に政治家は…。

 

エッセー《四文字熟語が世界を暴く003》山梨良平

まだまだ続く四文字熟語だが詳しく書く必要もない事態。

思考停止(しこうていし)物事を考えたり、判断することをやめてしまうことを指す。故意に判断しないことが政治の世界には多いような気がする。その心は判断すれば不利になる。マイナカード担当大臣もかたくなに固執しているがきっと思考は完全に停止状態だと思われる。

付和雷同(ふわらいどう)自分にしっかりした考えがなく、むやみに他人の意見に同調すること、またはその状態を指す。よく見るパターンだ。けどご本人は自分の意見だと信じている場合も。政治家に多い。

以心伝心(いしんでんしん)「センセー。そこはそれ、お判りでしょう?」「おぬしも悪よのう」