連載コラム・日本の島できごと事典 その23《縄文杉の年齢》渡辺幸重

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縄文杉発見を告げる記事(南日本新聞)

1967年(昭和42年)、南日本新聞の元旦紙面トップを1本の巨木が飾りました。見出しは「生き続ける“縄文の春”」「推定樹齢四千年 発見された大屋久杉」とあります。この巨木は観光の目玉となり、1933年に世界自然遺産に登録された屋久島のシンボルとして今では“縄文杉”の名前で広く全国に知られています。
縄文杉は1966年5月、町役場の職員だった岩川貞次さんによって発見されました。当時の屋久杉の王様・大王杉をしのぐ高さ25.3m、胸高周囲16.4mの世界最大級の杉として話題になり、樹齢は3千年以上、4千年ともいわれました。新聞記事はこれを反映しています。その後、九州大学の真鍋大覚助教授が古代気象と成長量の関係から7,200年と推論しました。これが広まり、いまでもよく耳にする「樹齢7,200年ともいわれる」という表現につながっています。1983年に環境庁(当時)は「古くても6,300年」としました。実は当時、屋久島の北にある鬼界カルデラが6,500年ほど前に大噴火を起こし、そのとき広がった幸屋火砕流が屋久島全島を覆ったので、それ以前の生き物が残っているわけがない、という主張が強く出されていました。そういう事情から「6,300年より新しい」ということになったのだと思います。ところが現在では学術研究が進み、鬼界カルデラの火砕流は「約7,300年前」とされています。縄文杉の年齢が「7,200年」でもおかしくないことになります。
1984年には炭素測定法で測定した木片で一番古いのは「2170年±110年」と推定されました。「2,060~2,280年」となり、「縄文杉の樹齢は約2,000年」はこれを根拠にしています。外側よりも内側が若かったりしたので、複数の樹木の合体木ではないか、という議論も起きました。現在ではこれは否定されています。学術的には「縄文杉の樹齢は古くとも4,000年以上はさかのぼらない」が定説のようですが、今でもロマンを込めて「縄文杉の樹齢は7,200歳」と説明する人はたくさんいます。あなたはどう説明しますか。
縄文杉のまわりには江戸時代に伐られた屋久杉の株が残っています。実は、縄文杉は見つからなかったから残ったのではなくて、木材にならないほどひねくれた“落ちこぼれ者”だったから残されたのです。私は若い人たちに「優等生でなくても、社会に役に立つ人にはなれる」と縄文杉にたとえて話をします。
晩年を屋久島で過ごした詩人・山尾三省は、縄文杉に畏敬の念を込めて「聖・老人」と呼びました。

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連載コラム「日本の島できごと事典(その22)」カネミ油症事件

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カネミ油症50年記念誌 発行 五島市

 

1968年(昭和43年)10月、「史上最悪の食中毒事件」「国内最大規模の食品公害」と呼ばれる「カネミ油症事件」が発覚しました。これは、ポリ塩化ビフェニール(PCB)が混入したカネミ倉庫(北九州市)製の米ぬか油が販売され、健康被害を訴える人が全国で1万4千人を超えた(1969年7月時点)という事件です。認定患者数はいまでも増え続けており、2020年3月時点の累計認定患者数は西日本を中心に2,345人います。患者らの運動により2012年に被害者救済法が成立し、発生時に認定患者と同居していた家族も一定の症状があれば患者とみなされるようになりましたが1969年以降に生まれた子や孫の救済は進んでいません。今年になって国が認定患者の子を対象に健康実態調査を実施する方針であることがわかりました。公的機関が次世代調査を行うのは初めてということです。天ぷらやフライを揚げる高熱のなかでPCBが猛毒のダイオキシン類に変わると考えられ、“奇病”といわれる症状に悩まされ人もおり、出産障害も指摘されています。病気や偏見・差別との戦いは50年以上経った今でも続いているのです。
患者は長崎県五島列島の福江島と奈留島に集中しています。全国の認定患者数の4割以上が長崎県で、その9割以上が五島市です。福江島・玉之浦地区と奈留島だけで全国の約4割を占めます。奈留島では1968年2月頃から「安くて健康にいい」と評判の米ぬか油が入ってきたそうです。決して裕福ではなかった人々は喜んで油を買い求めました。奈留島では12店で161缶、玉之浦では1店で50缶が販売されました(推定)。販売数では奈留島が玉之浦の3倍ですが、認定患者数は逆に奈留島が玉之浦の3分の1にとどまっています。事件発覚当時、玉之浦や長崎市などで健康被害の届け出が相次いだときにも奈留島での届出はゼロだったそうです。このため奈留島を“沈黙の島”と形容する報道もあります。これは、売り手と買い手が地縁・血縁で濃密な人間関係があったことや偏見・差別を恐れたから届け出なかったといわれています。販売店のなかには被害を拡大させた心苦しさから症状がありながらもいまだに油症検診を受けていない人もいるそうです。
私は、この“沈黙”を小さな島の特殊な出来事とは思いません。日本社会全体が抱える“病症”だと思うのです。日本の政治の動きを見ると濃密な関係の集団の論理で、意見の異なる集団や国民を黙らせるという構図が見えてきます。上から下までそうなってしまっては日本社会はよくなりません。“シマ社会”を根本から作り替える必要性を感じます。

五島列島ではいま、五島特産の椿油を使っています。

 

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連載コラム・日本の島できごと事典 その21《悲恋伝説》渡辺幸重

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無人島・姫島

 全国各地の島々に数々の悲恋物語が伝わり、地名や歌にも多く残っています。詩人なら「島の旅情が恋心を誘う」とでも言うのでしょうが、海難事故や戦争とからむものもあり、単純なものばかりではありません。

高知県の豊後水道南部・宿毛湾口に浮かぶ無人島・姫島は「姫島(玉姫)伝説」の舞台です。

 昔、姫島の東方約4kmにある沖の島の母島(もしま)という集落の男が京に上って暮らすうちに玉姫という美しい姫君と恋仲になりました。やがて男は国に帰ることになったのですが、玉姫と別れがたく一緒に沖の島に帰ることになりました。ところが、この男には島に妻がいたのです。島に近づくと男は玉姫に妻のことを打ち明け、あろうことか、近くの無人島に玉姫を降ろし、泣き悲しむ姫を残して自分だけ故郷に帰ったのです。男は、妻や親戚との話がつかず、時間だけが過ぎるなかで人々の反対をおしきって無人島に玉姫を迎えに行きますが、玉姫は島の荒磯の岩の上で一人さみしく死んでいたのです。人々は姫をあわれに思い、この無人島を姫島と呼ぶようになりました。

 今風に言えば、男は「出張中に不倫をした」となり、その事実を隠し姫を死なせたひどい男ということになります。そして、厳しい制裁を受けるでしょう。小説にもなりそうなリアルな話です。姫島の名は横から見た島の形が裸の女の人が寝ている姿に似ているからとも言われます。「のど仏がある」と指摘した人もいますが、無視されたようです。

 九州・水俣には「恋路島物語」が伝わります。

 水俣港の前に浮かぶ無人島・恋路島には「恋の浦」という地名があり、島の東部沖に「妻恋岩」があります。戦国時代に九州制覇をめざした肥前の竜造寺隆信が島原の有馬義純を攻めたとき、薩摩の島津勢が有馬の援軍として出陣。その中に川上左京亮(さきょうのすけ)忠堅(ただかた)という27歳の武将がいました。このとき忠堅の新妻は左京亮を見送ったあと夫を恋うる心から小島に渡って石室にこもり、海辺に石を積み上げて夫の武運を祈り続けたといいます。そして、恋慕の思いを募らせたまま夫の帰りを待たずして淋しく島でこの世を去りました。この小島が恋路島で、恋の浦は祈ったところ、妻恋岩は積んだ石の跡ということです。

 実は、左京亮は、竜造寺隆信を討ち取った島津軍の有力武将です。なぜ新妻は死を賭してまで祈らなければならなかったのでしょうか。

 伝説というものはおもしろいものです。遠く海原をみつめながら島の海岸でじっと物思いにふければ、きっと悲恋にロマンを感じるでしょう。

姫島の写真(「みんなの観光協会」から)

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連載コラム・日本の島できごと事典 その20《選挙権のない島》渡辺幸重

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 日本でいちばん人口が少ない自治体(村)は伊豆諸島・青ヶ島村で、2015年国勢調査では178人となっています(原発事故のため避難者が多い福島県の飯舘村と葛尾村を除く)。“鳥も通わぬ”といわれた八丈島からさらに約64km南下したところにあるのが面積5.96㎢の小さな青ヶ島です。

 日本で初めての選挙が行われたのは大日本帝国憲法発布翌年の1890年(明治23年)の衆議院議員選挙のときです。選挙権を持つのは、直接国税を15円以上納めている満25歳以上の男性のみで、1925年(大正14年)になって25歳以上のすべての男性に広がりました。満20歳以上の男女すべての日本国民が選挙権を持つようになったのは1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後になってからのことです。ところが、青ヶ島で初めて国政選挙が行われたのは1956年(昭和31年)78日の参議院議員選挙でした。青ヶ島の住民には明治時代から敗戦10年後に至るまで選挙に参加することができず、憲法違反の基本人権剥奪が続いていたのです。

 公職選挙法第8条には「交通至難の島その他の地において、この法律の規定を適用し難い事項については、政令で特別の定をすることができる」とあり、同法施行令第147条には「東京都八丈支庁管内の青ヶ島村においては、衆議院議員、参議院議員、東京都の議会の議員若しくは長又は教育委員会の委員の選挙は、当分の間、行なわない」とありました。これが195666日の改正まで存在したのです。

 昭和20年代当時、島の中学生は作文に次のように書いています。

「(新しい憲法に)国民は自由、平等、国の主人公だと書いてあるとおそわった。けど、それはうそだと思う」

「この島の人たちには選挙権がありません。えらい人たちは口先きばかりで、実際にやっていないのです。便利なところでも不便なところでも、住んでいるのは日本人なのです」
「口ばっかりの民主主義はほしくない。ぼくはくやしい。かなしい」

 投票箱を運ぶのが間に合わない、という理由だけで青ヶ島の人だけ選挙権が奪われました。私たちはこの歴史を忘れることなく、かつての島の中学生の声を自分の気持ちのなかにあらためて受けとめたいと思います。

※写真は<青ヶ島青ヶ島村評判&案内| トリップドットコム>より

 

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連載コラム・日本の島できごと事典 その19《日本最西端の地》渡辺幸重

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與邦国地図  地図をクリックすれば拡大

「日本最西端の地はどこですか」とたずねられると多くの人が「与那国島の西崎(いりざき)」と答えるのではないでしょうか。それは2019年(平成31)6月までは正解でした。いまでも「有人島の最西端」という意味では正解ですが、無人島を含めれば「トゥイシ」が正解になります。
トゥイシは西崎の北北西約260m、北緯24度27分5.0秒・東経122度55分57.0秒にある岩で、国土地理院は国土の東西南北端を国土地理院の2万5千分の1地形図に基づいて決定しているため、トゥイシがこの地図に記載された2019年に西崎に代わって日本最西端の地となりました。東西方向に約110mずれたことになります。日本政府は近年、領海や排他的経済水域(EEZ)を広げるためにやっきになって起点となる無人島に名前をつけていますが、トゥイシはその前から海上保安庁の航空レーザー測量に基づく海図改版(2016年)に記載され、すでに起点となっていたため最西端の地点の変更による日本の領海やEEZの変更はありませんでした。与那国島の地図を見てもらえばわかりますが、日本政府は住民の反対を押し切って2016年3月に陸上自衛隊与那国駐屯地を開設しました。移住した自衛隊員とその家族約250人は島の人口の15%近くを占めます。過酷な人頭税制度に苦しんだ象徴である「久部良(くぶら)バリ(割)」の字が地図にあるのもわかるでしょうか。税負担に耐えかねて島中の妊婦に割れ目を跳ばせ、人口調節を行ったと伝わるところです。国境の島の過酷な歴史と軍事要塞化-なんとも切ない、割り切れない思いを国土最西端の地に感じます。
ちなみに、沖縄の日本復帰前に「日本最西端の地」とされていたのは、五島列島福江島の南西約60km、男女群島の北西約35km、東シナ海に浮かぶ孤立した岩礁群「肥前鳥島」(北緯32度14分37秒・東経128度6分16秒)でした。 肥前鳥島はかつては“島”とは認められない“岩”でしたが、韓国政府が2006年頃からEEZの起点を鬱陵(うるるん)島から竹島に変更すると主張したため、日本政府が対抗して肥前鳥島を“島”に昇格し、日本側のEEZの起点とするようになったといわれます。島嶼(島や岩礁)にとって国の都合で勝手に扱われるのは迷惑千万なことでしょう。

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