連載コラム・日本の島できごと事典 その82《文化露寇》渡辺幸重

日本側が記録したレザノフの船と部下(Wikipedia)

 元寇や倭寇のように「外から侵入して害を加える賊」を“寇”と言いますが、「文化露寇(ぶんかろこう)」をご存知ですか。ロシア帝国軍が文化31806)年に樺太(現サハリン)を、翌年に択捉島(えとろふとう)などを攻撃した事件のことです。日本列島周辺に欧米列強の船が現れるようになり、国内に緊張が高まる時代にロシアとの間で何があったのでしょうか。この事件はロシア側では「フヴォストフ事件」と呼ばれています。

 文化露寇すなわち「文化年間のロシアの侵攻」を和暦で推移を見てみます。まず、文化3年9月(180610月)、樺太南部の久春古丹(くしゅんこたん)にロシア兵20数人が上陸し、アイヌの子供など数人を拉致し略奪や焼き討ちを行いました。久春古丹は江戸時代、松前藩の穴陣屋や運上屋(会所)があったところで、北前船も寄港する交易の拠点でした。江戸時代後期から幕末にかけてたびたびロシア人の襲撃を受けたところのようです。

 次に文化4年4月(1807年5月)、ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島、樺太(留多加)などを襲撃しました。択捉島にはロシア船二隻が現れ、盛岡藩の番屋を襲撃、番人5人を捕え、米や塩などを略奪しました。圧倒的な火力の差に幕府側は撤退を余儀なくされ、敗戦の責任をとって指揮官が自害しています。ロシア船が5月3日に択捉島を去るまでロシア兵はたびたび上陸し、略奪や破壊・放火を繰り返しました。

 文化露寇はロシア帝国が日本に派遣した外交使節、ニコライ・レザノフが部下に命じたものでした。実は事件に先立つ1792(寛政4)年、ロシア最初の遣日使節、アダム・ラクスマンが根室に来航して日本との通商を要求した際、江戸幕府は交渉に応じなかったもののラクスマンに長崎への入港許可証(信牌)を交付しました。レザノフはこれを持って1804(文化元)年、長崎に半年間ほど滞在して通商を求めましたが、拒絶されたあげく病気になり、療養中にも幽囚同様の扱いを受けたといいます。レザノフは武力によって開国を迫るしかないと思うようになり文化露寇に至りますが、報復の意思もあったようです。これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、ロシア皇帝は1808(文化5)年に全軍撤退を命令、1813(文化10)年にはイルクーツク県知事、オホーツク長官から謝罪の釈明書が松前奉行に提出され、事件は解決しました。

 文化露寇の際のロシア側の戦利品がいまでもサンクトペテルブルクの人類学・民俗学博物館に収蔵されており、キリシタン大名・大友宗麟の印章付きのフランキ砲などがあるそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その81《九十九島》渡辺幸重

九十九島の島数の数え方(「九十九島パールシーリゾート」サイトより)

 瀬戸内海や松島湾などは多島海と呼ばれ、多くの島々が美しい光景を作っています。九州島・北松浦半島西岸のリアス海岸沿いにも多島海が広がり、北の江迎湾から南の佐世保湾口まで約25kmにわたって大小の島嶼群が美しい姿を競って浮かんでいます。この多島美は約4,000万年前~約1,500万年前の第三紀層の丘陵地が沈水してできたものといわれ、「九十九島(くじゅうくしま)」と呼ばれて観光地となっています。かつては九十九島湾内の南九十九島のみを指し、「つくもじま」と呼んだようですが、名称は島の数が99だったからというわけではないようです。第二次世界大戦後になって北部の北九十九島を含めて九十九島と総称するようになりました。では、島の数は何島になったのでしょうか。

 海上保安庁は「最高潮位面における海岸線が0.1km以上」の海に囲まれた陸地を地図上で数えて日本には北海道島・本州島・四国島・九州島・沖縄島を含めて6,852(北方4島を除く)の島があるとしていますが、これは一つの基準で、島の定義ではありません。佐世保市は「九十九島は208の島で構成される」としていますが、これは島の基準を<「満潮時に陸地が海面から出ている」かつ「陸の植物が生えている」>として「九十九島の数調査研究会」が現地調査を行い、2001(平成13)年に発表した数になります。しかし、その4年後に「九十九島シーカヤッククラブ」が調査したところ島は212あったといいます。さらに、2015年にカヤック歴20年以上の澤恵二さん(佐世保市在住)が調べたところ、新たに12の島を発見し、植物が枯れるなどして条件を満たさなくなった島を4つ確認したとして自費出版の『西海国立公園九十九島全島図鑑』で島の数を216島と発表しました。

 佐世保市によると、九十九島周辺は干満の差が大きいので大潮の満潮時には島の一部が水没して二つに分かれることがあるということです。また、鳥や風によって種子が運ばれて植物がないとされた島に植物が新たに育つこともあるので、調査の時期によって数は変動する可能性があるといいます。島の定義がはっきりしないなかで島の数を特定するのはけっこう難しいことなのです。

 なお、同じ長崎県に島原湾に浮かぶ「九十九島(つくもじま)」があります。ここでは波の浸食によって島の数はかつての59島から16島に減少しました。

連載コラム・日本の島できごと事典 その80《神功皇后》渡辺幸重

対馬にある神功皇后の腹冷やし石(ブログ「対馬びっくり箱」より)

2世紀後半から3世紀にかけて仲哀(ちゅうあい)天皇とその后である神功(じんぐう)皇后がいたそうです。仲哀天皇は有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)の子にあたりますが、ここでは天皇の死後に国を治めたという神功皇后の話をします。

 『古事記』『日本書紀』によると、神功皇后は新羅(しらぎ)征討の託宣が出たため、自ら兵を率いて朝鮮半島を攻め、新羅の国を降伏させました。これを「新羅征討」「新羅討伐」「神功皇后の外征」などといいます。新羅のほか『古事記』では百済(くだら)、『日本書紀』では百済・高句麗(こうくり)も朝貢を約したといい、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたので「三韓征伐」とも呼ばれます。ただし、その範囲は高句麗を除く朝鮮半島南部(馬韓・弁韓・辰韓)に留まるという説もあります。
神功皇后の朝鮮半島出兵にまつわる伝承は西日本各地に伝わっており、神功皇后に関連する神社や地名などは山口・福岡・佐賀・長崎・大分・宮崎の6県だけでも3,000カ所に及ぶといわれます。神功皇后が福岡から壱岐・対馬を経て朝鮮半島を攻めたとき妊娠していたといい、出産を遅らせるためにお腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、お腹を冷やしました。現在の博多駅の南東に当たる宇美町(うみまち)は帰国後の皇后がのちの応神天皇を産んだところ、志免町(しめまち)は“おしめ”を換えたところといわれています。

 壱岐・対馬には神功皇后ゆかりの地名や行事、施設がたくさんあります。対馬には、皇后が休んだ腰掛石や腹冷やし石といわれる高さ約1mの「白石」があり、朝鮮半島からの帰途、天神地祇(天つ神・国つ神)を祀った厳原八幡宮神社もあります。地名では、雷浦は皇后一行が雷雨に遭ったところ、綱掛崎はそのとき船を岸につないだところです。鶏が鳴いて皇后に集落があることを知らせたという「鶏知(けち)」という地名もあります。

 壱岐島には、八幡神社に鎮懐石が、爾自(にじ)神社に追い風祈願の折りに石が割れて東風が吹き始めたという東風石(こちいし)があり、そのときの行宮(あんぐう)が起源とされる聖母宮(しょうもぐう)や凱旋の際に住吉三神を祀った住吉神社があります。「勝本(かつもと)」という地名は、行きにはいい風が吹いたので「風本」としたものを帰りに勝利を祝して改めたと伝えられます。また、島内の湯ノ本温泉では応神天皇を出産した際に産湯を使ったとされています。

 第二次世界大戦後、神功皇后の話は神話の世界で皇后は実在しなかったという説が主流になりました。しかし、伝承の多さから実在したとみる研究者もいます。応神天皇の出産地も宇美、壱岐のほかに天草下島の南東に位置する無人島「産島(うぶしま)」があり、産島八幡宮の池の水を産湯としたと伝えられます。佐賀県唐津市の加唐島には着帯式(帯祝い)を挙げた「オビヤの浦」という地名があり、神集島(かしわじま)は神功皇后が神々を集めて軍議を行った地とされます。長崎市の神楽島(かぐらじま)では神功皇后が朝鮮半島からの帰りに神楽を奉納したそうです。皇后が実在したかどうかはともかく、ゆかりの地は現実に広く存在しています。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その79《犬田布騒動》渡辺幸重

島人の決起を描いた画(「犬田布騒動150周年シンポ」資料)

 1604(慶長14)年の薩摩藩による琉球侵攻以降、奄美群島(鹿児島県)は薩摩藩の直轄支配を受け、黒砂糖の専売制度(砂糖総買入制)が敷かれて過酷な搾取を受けました。藩はサトウキビの作付を強制して黒糖の保有や売買を禁じ、私的売買(密売)は死罪という思い罪を科しました。そのなかで1864(元治元)年、徳之島の犬田布(いんたぶ)村で農民一揆が起きました。これを犬田布騒動または犬田布義戦(ぎせん)と呼びます。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その79《犬田布騒動》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その78《ウシウマ》渡辺幸重

ウシウマ(1934年撮影)

 「昔は種子島(鹿児島県)に牛と馬の合いの子がいた」という話を子どもの頃、耳にしたことがありました。名前をウシウマと聞いたもののどういう形をしているか想像できませんでした。調べてみると、「頭は馬、首は牛」といわれる小型の馬で、たてがみと尾に長い毛がない珍獣であることがわかりました。第二次世界大戦後の1946(昭和21)年6月頃、種子島で飼育されていた最後の1頭が死に、ウシウマは絶滅したといいます。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その78《ウシウマ》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その77《怒りの孤島》渡辺幸重

映画『怒りの孤島』のポスター

1958(昭和33)年2月封切りの『怒りの孤島』という映画を、私は子どもの頃に移動映画で観た記憶があります。汚い檻の中に“オオカミ少年”のような男の子が閉じ込められ、みすぼらしいなりの少年数人が島を脱走する映像がショッキングでした。同じ島の人間として、島社会の“闇”をえぐられているような気がしてその記憶を封印しましたが、映画では「愛島」となっている島は瀬戸内海の情島(山口県)で、実際にあった事件がモデルであることを大人になって知りました。梶子(舵子)として雇い入れた少年たちへの虐待の表現には曲解や誇張もあり、その後、島では少年虐待のレッテルを払拭するための努力があったこともわかりました。第二次世界大戦直後の激しく変化する社会の中で島の古い因習も国民の社会意識も大きく変わる過渡期のできごとでした。
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連載コラム・日本の島できごと事典 その76《南波照間島》渡辺幸重

日本最南端平和の碑(「離島ナビ」 http://ritou-navi.com/2015/10/23/paipatiroma/)

 有人島としての日本最南端の島は、沖縄・八重山諸島に属し、西表島の南約22kmに浮かぶ波照間島(はてるまじま)になります。伝承ではもっと南に「南波照間島(パイパティローマ)」と呼ばれる島があるとされ、『八重山島年来記』にも「大波照間(島)」という記述が見られます。はたして、地図では確かめられないこの島は実在するのでしょうか。

 伝承では、ヤグ村のアカマリという男が、税を取り立てに来た役人を酒に酔わせて公用船を奪い、村人を連れて南波照間島に脱走したとあります。一方、琉球王府の記録である『八重山島年来記』には、1648年に波照間島平田村の農民450人ほどが重税から逃れるために大波照間という南の島に渡ったと書かれています。この二つの話は重なり合い、史実と考えれば南波照間島も夢想とばかりは言えません。実在する島だと仮定した場合、台湾島や台湾南東沖の緑島(火焼島)、蘭嶼島(らんゆうとう)、フィリピンのルソン島などではないか、と言われてもいます。1892(明治25)年、沖縄県知事は海軍省にパイパティローマを含む南島の探検要請を出しましたが、断わられました。また、1907(明治40)年には沖縄県が台湾東部の火焼島と紅頭嶼(蘭嶼島)を農民の脱走先と考え、県技手を2度に渡り派遣・探検させています。

 南波照間島に渡った農民たちが逃れたという税は「人頭税」のことです。人頭税は収入に関係なく15歳から50歳までの男女全員にかけられた悪税で、薩摩藩からの搾取による財政難に陥った琉球王府によって1637年から石垣島や宮古島などの先島(さきしま)の島々にかけられました。廃止は1903年、明治36年ですから先島諸島の人たちは長い間、圧政に苦しめられたことになります。人頭税は一般に「じんとうぜい」と呼びますが、先島の場合は「にんとうぜい」と呼ばれます。

 さて、南波照間島に逃亡した農民はその後どうなったでしょうか。数年後に南島に漂着した者がそこでアカマリに会い、「ここは人食い島なので、すぐに出て行け。帰っても島の場所は決して言わないで欲しい」と言われたという伝承もあります。また、八重山の島々はかつて密貿易を行っていたと推測し、実はアカマリらは意図的な行動として食料や物資を豊富に搭載した公用船を奪い、マラッカ方面に向かって航海したという勇壮な物語を語る人もいます。

連載コラム・日本の島できごと事典 その75《旧統一教会》渡辺幸重

雑誌『海洋真時代』に掲載された当初の「石巻田代島世界海洋村構想」

安倍元首相銃撃事件をきっかけに政治家と旧統一教会(旧・世界基督教統一神霊協会/現・世界平和統一家庭連合)の関係が問題になっています。旧統一教会は“宗教活動(カルト活動)”だけでなく、政治や経済、言論・報道、学術、ボランティアなどあらゆる分野で活動する団体・企業を作っており、その数は膨大です。教団の目的は、政治家を使って統一教会を日本の国教にしたり、世界各国の政治を動かすことだそうです。日本は霊感商法や高額献金、集団結婚式などで巨額の金を収奪する国とされていることもわかりました。2011年の東日本大震災のときには多くの旧統一教会ボランティアが被災地に入りました。統率がとれ、黙々と働くボランティア高く評価され、被災者の中には「津波で亡くなった夫の霊が霊界で苦しんでいる」と信じ込まされて高額献金を繰り返した人もいるそうです。福島第一原発事故の補償金を献金した被害例もありました。ここでは、旧統一教会関連の企業・団体によって宮城県石巻市の田代島(たしろじま)に復興プロジェクトとして持ち込まれた「海洋レジャー基地による地域起こし」の例を紹介します。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その75《旧統一教会》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その74《寝屋子制度》渡辺幸重

答志島(鳥羽市HPより)

江戸時代には全国各地に「若者組(若衆組)」という地域教育の仕組みがありましたが、三重県鳥羽諸島の答志島(とうしじま)・答志地区には今でも「寝屋子(ねやこ)制度」と呼ばれる慣習が残っています。15歳の男子数名が寝屋親の家で寝泊まりする制度で、全国でも続いているのはこの地区のみではないかといわれています。2007(平成19)年2月に「答志寝屋子制度」として三重県の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定されました。

答志島は伊勢湾口に位置する島で、3つの漁村集落があり、海女漁も盛んです。答志地区では、男子が15歳になると5~10人ほどが1組となって家の広さや人柄などの条件によって選ばれた寝屋親の家の一室で集団生活をします。毎日、自宅で夕食をすませたあと寝屋に寝泊りし、朝には自宅に戻るという生活をするのです。寝屋子同士は実の兄弟のように絆を深め、寝屋親はときには相談相手ともなり、寝屋子が成人になれば酒もくみ交わすこともします。その中で若者は島で暮らす心構えやしきたりを覚えるのです。この生活はメンバーの誰かが結婚するまで続きます。寝屋子同士は「朋輩(ほうばい)」と呼ばれ、解散後も「朋友会(ほうゆうかい)」を結成して生涯親密な付き合いが続きます。寝屋親は生涯、実の親と同様に敬われ、寝屋子が結婚するときには仲人の一人になります。
かつては島の男子全員が寝屋子に入っていましたが、近年は長男に限られるようになり、寝泊まりも金曜日の夜だけ集まることが多くなったということです。寝屋子の期間も「中学を卒業すると始まる」「27歳で解散する」などの説明も見られるので状況によっては始まりと終わりの時期にズレがあるのかもしれません。

若者組の発祥についてははっきりしませんが、伊勢志摩地方の制度は九鬼水軍が船の漕ぎ手をすばやく集めるためにつくったという説があります。古くから漁業が盛んな答志島では大勢の人々が協力する作業が多いことから寝屋子制度が継続したともいわれ、それが後継者の定着につながっているといわれます。若者組制度は、鳥羽諸島の坂手島では「宿屋(とまりや)制度」として大正末期まで続き、同じ答志島の桃取地区では1960年頃に「寝屋子制度」が自然消滅したそうです。

古くからの慣習といえども現代に通じるものもあります。寝屋子制度が現代の教育理論から再評価され、教育問題を解決する新しい方法を提供してくれる可能性もあるのではないでしょうか。

連載コラム・日本の島できごと事典 その73《ホープスポット》渡辺幸重

ホープスポット認定記念看板除幕式(撮影:東恩納琢磨さん)

 

参考:辺野古周辺の3次元海底地図

沖縄島北部の東岸・辺野古(へのこ)崎の東方約0.7kmに無人島の長島があり、その南西約0.3kmにやはり無人の平島(ぴらしま)が浮かんでいます。これらの島は大浦湾南部に位置し、辺野古崎から沖合に延びるリーフ内にあります。米NGO団体「ミッション・ブルー」は2019(平成31)年10月、長島・平島を含め辺野古・大浦湾を中心とした天仁屋から松田までの海域44.5?を貴重な動植物が生息する地域として日本初の「ホープスポット」(希望の海)に認定しました。辺野古・大浦湾では絶滅危惧種262種を含む5,334種の生物が確認され、2006(平成18)年からの10年間でエビやカニなどの新種26種が発見されています。2022(令和4)年8月には、日本自然保護協会が大浦湾北西部の瀬嵩ビーチ(名護市)前に「ホープスポット認定記念看板」を設置し、玉城デニー知事らが参加して除幕式が行われました。実は、長島・平島と辺野古崎の間の海域を含む辺野古崎周辺は日本政府が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設予定地とし、2017(平成29)年4月から2,500mの滑走路を持つ新基地建設を進めていますが、沖縄県や県内団体などの激しい反対運動が起こり、長島・平島の周辺海域でも連日のように監視船やカヌーなどで抗議する反対派の活動が続いています。ホープスポット認定は、貴重な自然を破壊する新基地建設に反対する意思表示にもなっています。
長島・平島の東側に広がるイノー(礁原)は沖縄島でも有数の海草藻場として知られ、海草を餌とする絶滅危惧種・国指定天然記念物のジュゴンの食痕もみつかっています。沖縄島側の大浦川河口にはマングローブと干潟がみられ、大浦湾周辺ではウミガメ類が産卵のために上陸し、湾内には世界的に貴重なアオサンゴも群生しています。長島にはサンゴ礫が付着して成長する石筍を持つ鍾乳洞があり、日本自然保護協会は国内初の事例として2014(平成26)年に公表しました。同協会は、辺野古周辺地域の数万年から十数万年にわたる海面変動に関連した自然史を解明することが期待されるとして、長島・平島での上陸調査を求めていますが、辺野古新基地を建設しようとする国は国有地である両島を同年から立ち入り禁止にしています。
沖縄ではジュゴンの絶滅が心配されています。アオサンゴ群も石垣島・白保と並んで世界に誇る存在です。これらは恵まれた環境の中でさまざまな生物との共生の中で存在が可能なのですが、新基地建設はその環境を破壊しようとしています。沖縄の軍事負担の軽減と合わせて世界的にも豊かな生物多様性を誇る南島の自然を守る問題は日本国民全体の課題と言えます。