旅するカメラ《ピカドンの町》片山通夫

 「赤茶一色の瓦礫の街」に一瞬で変わった。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分のことである。 太平洋戦争末期、米軍機が世界で初めて原子爆弾を投下した。広島は一瞬にしてヒロシマとその名を変えた瞬間である。核兵器「リトルボーイ」は確実にその使命を終えた。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃であった。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 – 16万6千人が被爆から2 – 4か月以内に死亡したとされる。

編集長が行く《もく星号墜落に見る奪われた空》井上脩身編集長

伊豆・大島、三原山

松本清張 風の息全3巻

 松本清張の小説『風の息』は実にユニークな作品だ。もく星号墜落事故をテーマにした1100ページにものぼる超大作だが、最初の85ページは新聞記事や政府の調査報告書などの資料に基づき事実を丁寧に記述、残る1000ページで清張ならではの推理を展開させるという構成。私はノンフィクション編で取り上げられた『サン写真新聞』の現場写真に目を見張った。同紙は1946年から60年まで発行されたタブロイド判夕刊紙。廃刊の30年後、紙面を抜粋してネガフイルムを再プリントし、『サン写真新聞 戦後にっぽん』のタイトルで毎日新聞から15冊に分けて発刊された。もく星号墜落事故が扱われているのは第7集。表紙に現場写真があしらわれている。私はこの第7集を本棚にしまいこんだままにしていた。清張の小説にふれたのを機にそのページを改めて繰った。確かに衝撃的な写真だ。前号で大島憲法について報告したが、伊豆の大島を訪ねたのは、実はもく星号の墜落地を自分の目で確かめたい、と思ったからである。

事故原因は闇の中

 清張が書いたノンフィクションを引用しつつもく星号墜落の概要を記す。
 事故は1952年4月9日に起きた。午前7時34分、乗客乗員37人を乗せ、大阪経由で福岡に向けて羽田空港を飛び立った日航のマーチン202型双発機「もく星号」は離陸20分後に消息を絶った。

 同機が館山上空から羽田に連絡したが、大島上空からは連絡がなかったことから、館山―大島間で遭難したと思われた。

 ところが同日午後3時、横田の米軍基地から、静岡県沖で遭難しているとの情報があり、3時15分、浜名湖沖で機体発見、米巡視艇による救助開始との情報が寄せられた。さらに3時50分、国警静岡県本部は米軍からの情報として浜名湖沖海上で米軍救助隊が乗客乗員全員を救助と発表。これを受けて日航本社では同社常務が「全員救助された」と報告、詰めかけた家族らは喜びにつつまれた。

 この歓喜にやがて暗雲が垂れ込める。午後8時、海上保安庁は救助の報告を受けていないと述べ、同10時半、極東米海軍は「米船は救助していない」と通報。10時45分、横須賀基地司令部の海掃艇が、救助を行っておらず機体も発見していない、と伝えてきた。

サン写真新聞 戦後にっぽん』第7集の表紙

 一夜が明けた10日午前8時34分、日航の捜索機「てんおう星号」が三原山の噴火口東約1キロの地点で、バラバラになっているもく星号の機体を発見。ほぼ同時刻ごろ、米空軍の捜索機5機のうち1機がもく星号の機体を見つけ、第3救助隊の降下医療隊員2人がパラシュートで降下、遭難機がマーチン202であることを確認し、生存者はいないと報告した。

 遺体の収容や慰霊の営みと並行して墜落原因の究明作業が行われた。一番のナゾは同機が墜落前、なぜ高度2000フィート(約600メートル)という低空で飛行していたか、だった。三原山(758メートル)は高さ約2400フィート。スチュワード機長は羽田―福岡間の操縦経験があり、館山から大島に向かう際、ルート上に三原山があることは当然知っていた。このことから、墜落原因はおおむね計器類の故障か、人為的ミスかに絞られた。

 事故から1カ月がたった同年5月9日、政府は事故調査結果を発表。それによると、低空飛行しなければならない気候状況でなく、羽田、館山、大島、焼津の航空無線標識に異常がなく、操縦者も航路に相当慣れていたと認定。このうえで、「航空交通管制について、羽田出発時において一度誤った交通指示が出されたが、直ちに訂正された。館山通過後の記録に多少の矛盾が認められ、航空機との連絡に不十分な点があった。これは事故の直接原因になり得ないが、航空管制官の不手際が操縦者の錯誤を誘発する原因になり得たかもしれない」とし、「航空管制官の不手際とその他何らかの間接原因にもとづく操縦者の錯誤ということを非常な確実性をもって推定しうる」と結論づけた。

 事故調査委員会はパイロットの錯誤を第一原因としつつ、その背後に航空管制官のミスがあることを認めたわけだ。ではなぜ管制官がミスをしたのか、については踏み込まなかった。踏み込めない政治状況にあるため、と思われた。

 航空管制官の指示について『科学朝日』は同年6月号で次のような記事を掲げた。
羽田空港の滑走路に停止して出発許可を待っていたもく星号の機長に対して、空港のコントロールタワーから与えられた出発許可は「グリーン・テン(館山)通過後、高度2000フィートで南へ十分間飛べ」というものだが、機長は「高度が低すぎる」と抗議。コントローラーは改めて「羽田を出発後、高度2000フィートで飛び、その後、高度6000フィートで」と訂正した。
この記事の通りだったとすれば、事故機の機長の抗議にしたがって6000フィートに訂正されたのに、自らそれに反してわざわざ低空飛行したことになる。なぜそんな危険飛行をしなければならないのか。疑問は解消されるどころか膨らむばかりだった。

 柳田邦男氏は『航空事故――その証跡に語らせる』(中公新書)の「日本の主な事故一覧」のなかで、もく星号事故について「米軍管制ミスと見られるが、うやむやのまま調査打ち切り」と記している。同書は世界各地で起きた航空機事故について述べたもので、もく星号墜落にはふれていない。だが、柳田氏は事故結果報告に納得できなかったのだろう。ほとんどの国民が納得できないまま真相は闇の中に葬られた。

占領政策の中で

 清張は当時の新聞報道を丹念に調べているが、特に注目したのが冒頭に述べた『サン写真新聞』だ。清張は「現場写真の白眉」と最大限に賛辞。「第一ページにはスチュワード機長の横向きの死体を頭部のほうから大写しで撮っている。傍らに機体の一部が斜めに出ていて、背後には破片が散っている」と書いている。『サン写真新聞 戦後にっぽん』に2ページ見開きで掲載されている写真がそれに当たるようだ。

 この写真では、うつぶせになり顔を横に向いている男性を頭部から撮影。さら一人の男性があおむけに倒れている。この男性の向こうに機体の残骸が散らばっており、垂直尾翼が地面に斜めに突き刺さっている。写真のわきに「『米軍機が発見、全員救助』の朗報が一転暗雲に」の主見出しと、「占領下の米軍主導の航空体制が生んだ事故『もく星号遭難』」の脇見出しがつけられている。
 この見開きページにつづいて2ページにわたって5枚の写真と記事が載っている。女性の遺体のそばに警察官2人が写っており、尾翼のそばにエンジンが転がっている写真もある。

 現場は「砂漠」と呼ばれる火口直下の樹木のない広大な平地。遺体が機体のそばに散在しているうえ損傷が小さいことや、エンジンが近くに落ちていることなどから、低空飛行を続けてきた同機が砂漠まで来たところで機首を下げたか、胴体着陸を試みて失敗した可能性が高いことを示していた。

 墜落した時の状況がそのまま写しとられているのは、現場保存と捜査のために警察が縄張りする前に撮影したためと思われる。撮影したのは、「本社(サン写真新聞)大島通信員・勝瀬一夫」。大島地区署員と思われる警察官が写っていることから、清張は午前11時ごろの撮影と推測している。

 『サン写真新聞 戦後にっぽん』の記事は次のように書いている。
日本航空史上空前の事故に、ただちに事故調査委員会が設けられ、あらゆる角度から原因究明がなされた。その結果、遭難の遠因は、機長が航空路に規程されている最低高度以下で飛行し、三原山に激突したものと断定された。事故原因については、さまざまに取り沙汰された。当時日航専務の松尾静麿は次のように述べた。

 「事故の責任が、誤った指示を与えたと思われる米軍の地上管制官にあるのか、管制官の指示通りに飛行したスチュワード機長にあるのかについては、大いに意見の分かれるところであった。たとえ地上から誤った指示を受けたにせよ、機長が日本の地形に精通していれば、館山から二千フィートの高度で八分間飛行すると三原山にぶつかることはわかりきっているのだから、地上の指示に盲従せず、その訂正を要求できたはずだ。従って管制員のミスは、事故の間接原因になったかもしれぬが、直接原因はあくまで機長の錯誤にあるとの討論もなされたのである。それはともあれ、この不幸な事故は、管制員のミスや、機長のちょっとした油断などが、運悪く重なった結果起こったものだ」

 松尾はこう断言しながらも、その真相は、まだ占領下にあったため、ついに徹底的な解明を見なかったと述べている。
 いずれにせよ、もく星号の惨劇の原因は、営業を除く航空権の一切がアメリカに支配・運営されていて、日本人の手の届かないという機構のなかにあったといってよい。
写真:民間機として初めて飛び立つ直前のもく星号(『サン写真新聞 戦後にっぽん』第6集より)

 我が国は敗戦後、アメリカの占領政策によって航空活動が禁止された。しかし、米ソの対立、朝鮮戦争の勃発などによってアメリカは日本を極東での対共産圏の基地とすることに方針を転換。その一環として連合軍総司令部は50年6月、日本政府に対し、航空機の保有と運航を除く切符販売活動に限って1社のみに営業権を認めることを許可した。翌51年3月、日本航空が設立され、米・ノースウエスト航空と運航委託契約を結んだ。日航がノ社から飛行機とパイロットを賃借して営業するというのがその内容だ。

 こうして51年10月25日午前7時42分、戦後初の民間機マーチン202型機が飛んだ。この飛行機が奇しくももく星号だった。『サン写真新聞 戦後にっぽん』第6集には同機が羽田空港を飛び立つ前の写真や機内写真が載っている。サン写真新聞のカメラマンが同乗して撮影したもので、伊豆半島上空で朝食のサンドイッチが配られたという。この半年後、ほぼ同じ上空で遭難するとはだれ一人知るよしもなかった。
 
火口直下の砂漠

 私は今年3月末、伊豆の大島を訪ねた。東京の民放を定年前に退職して大島に移り住んだ大学時代の友人に会うためだった。彼に大島憲法のことを教えてもらい、前号でレポートしたが、本来の目的はすでに述べたように三原山に登り、もく星号の墜落地を見ることだった。
 三原山の西の山麓から歩きはじめた。褐色の岩がごつごつと散乱する溶岩地帯に道がつけられていて、道沿いにはいくつかのコンクリート製シェルターが設けられている。噴火の際の避難地だ。

 大島は全体が火山の島である。「大島火山」ともいわれ、過去1万5000年の間に100回以上噴火したという。近年では1986年11月15日、三原山が噴火、火柱が300メートルに達し、噴煙は高さ3000メートルにのぼった。19日には溶岩がカルデラに流れ出し、21日には新たな割れ目噴火が起きるとともに、溶岩が住宅地に向かって流出、1万人が島外に避難した。このような大規模噴火が起きれば、シェルターに逃げ込んでもとても助かるまい。

 溶岩が流れた跡は三原山の斜面を、何筋にもわって渇筆でかすり書いたように残っている。そのわきを登ると火口に到着。登山道は火口を一周できるようにつけられている。火口を西から右回りに北へ、さらに東へと進むとだだっ広い平地が広がる。草むしているところもあれば、岩と砂だけの荒涼とした場所もある。流れ込んだ溶岩が堆積してできたといわれ、樹木が全くないのは溶岩によって焼かれたためらしい。草が生えている所があるということは、新たな溶岩が流れ込まなければ、何百年先には木々が生えてくるのかもしれない。

機長が大写しされている墜落現場写真(『サン写真新聞 戦後にっぽん』第7集より)

 もく星号はこの砂漠に斜めに突っ込んだのだ。もし三原山に激突していたなら、機体はもっと粉々になり、遺体の損傷ははるかにひどいものになったに違いない。機長は三原山を避けようとしたと考えるべきだろう。

 目を南の海に向けると、利島、新島が春の日を背後に受け、シルエットになって浮かんでいる。東に目を移した。「よく晴れた日は房総半島が見える」と友人はいう。あいにくこの日は霞がかかっていて、目を凝らしても同半島は見えない。私は見えないながら、館山から大島に向かってくる飛行機を頭に描いた。その飛行機は私がいる所よりも低空を飛んでいる。それが民間機であれば驚愕以外のなにものでもないだろう。

 もく星号は大島上空を、危険を百も承知で2000フィートの高度をとったというのだ。アクロバット飛行をなぜしたのだろう。素朴な疑問が頭から離れない。
『砂の息』のフィクション編を読みだしたのは大島から帰ってからだ。「アメリカ空軍作成航空路線図」に関する次の説明記述部分に目が留まった。

 米軍の演習による危険区域として「三宅島の西側」が指定されているが、「この演習区域は極めて狭小だから、各軍用機は危険区域からはみだす可能性が強い」とし、「館山・大島を通る民間機は終始、付近を航行中のアメリカ空軍機におびやかされている」とある。

 もく星号は空軍機との衝突を避けるため低空を飛ばざるを得なかった、というのが清張の見方だ。清張はさらに想像をたくましくし、米軍演習機の仮想敵機として攻撃されたのでは、と大胆な推理をする。
仮想的機として撃たれたというなら大変な事件だが、もちろん推理の範囲を超えない。だがそんな推理をされるほどに占領時代は闇に包まれていた。

米軍機のはみ出し容疑

もく星号の墜落事故の発生は52年4月9日であることはすでにふれた。この19日後の4月28日、対日講和条約と行政協定が発効し、占領時代が終わる。もく星号は占領時代の終了まで秒読みに入ったときに、大島の砂漠に散ったのだ。柳田邦男氏は「米軍の管制ミスとみられる」という。当時の米軍の管制体制はどのようなものだったのだろうか。

 最近、『横田空域――日米合同委員会でつくられた空の壁』(角川新書)が刊行された。著者はジャーナリストの吉田敏浩氏。吉田氏は日米安保とそれに基づく日米地位協定に詳しいという。
 同書によると、47年10月ごろ、米軍がジョンソン基地(埼玉県入間市、現航空自衛隊入間基地)に東日本管制センターを、板付基地(現福岡空港)に西日本管制センターを設置、日本とその周辺上空の広範囲にわたって航空管制を開始した。
もく星号もジョンソン基地の管制にしたがったはずだ。しかし、政府の事故調査結果報告には「航空交通管制について、羽田出発時において一度誤った交通指示が出された」とあるものの、ここにはジョンソン基地は登場しない。また『科学朝日』の記事には「空港のコントロールタワーから与えられた出発許可はグリーン・テン(館山)通過後、高度2000フィートで南へ十分間飛べ」だったあり、羽田空港の管制官が誤った指示をしたとしか読みとれない。
 ジョンソン基地の管制官は何の指示もしなかったのだろうか。
『風の息』のノンフィクション編には5月7日付毎日新聞の記事として、次のような記述がある。

 機長が羽田の管制塔から離陸前に受けた指示は「南方へ十機が飛行中であるから館山以降十分間は高度二千フィートを保て」とのことだった。機長が大島上空は五千フィートと規程されているので、この指示に抗議したところ「館山とあるのは羽田出発後十分の誤り」と訂正してきた。もく星号からの初めての連絡は、ジョンソンコントロールタワーの記録では「館山通過、高度六千」とあるのに、同所のモニターの記録には二千フィートになっていた。
 一方、事故調査結果発表後の航空庁長官と記者団とのやり取りのなかで、「なぜ発表が遅れたのか」とただされ、長官は「米軍からコントロールセンターのテープレコーダーなどが提供されるはずで、それを待っていた。督促しても来なかった。(資料を提供してくれなかった理由は)わからない」と答えている。

 記事によると、コントロールセンターはジョンソン基地の航空管制室を指しており、このコントロールセンターが羽田空港の管制官に指示したことは明らかだ。毎日の記事の「南方に十機が飛行中」というのは、米軍機10機が飛行していたことを示すもので、ジョンソン基地の管制官が「米軍機10機が演習中なので2000フィートで飛行せよ」と羽田の管制官に指示させていた可能性が濃厚だ。同基地が資料を出さなかったのは、自らのミスを隠すためと見られてもやむを得ないだろう。『サン写真新聞 戦後にっぽん』が「もく星号の惨劇の原因は日本人の手の届かないという機構のなかにあった」と書いたのもむべなるかなであろう。
 この10機は三宅島西側の演習区域で飛行していた戦闘機を指すと思われる。区域内を守っての演習飛行なら、コントロールセンターがわざわざ「南方に十機が飛行中」と言う必要はなかったはずだ。区域をはみだして民間航空機の空路にまで演習飛行をした疑いを拭えない。この演習機を避けるためにやむなく機長が低空飛行したとみる方が説明がつく。もしそうならば、事故の遠因は米軍機の不法演習ということになる。占領中の米軍が事実を明らかにするはずはなかった。

空の壁の横田空域

 問題は占領時代が終わって後も日本の空はなお米軍に牛耳られていることだ。『横田空域――日米合同委員会でつくられた空の壁』によると、首都圏とその周辺の空は「横田空域」(正式名称・横田進入管制区、略称・横田ラプコン)に覆われている。具合的には、東京、神奈川、埼玉、群馬のほぼ全域、栃木、新潟、長野、山梨、静岡、福島の一部の合わせて10都県にわたる広大な空域が横田空域として、米軍が優先的に使用できるよう設定されている。各空域は最高高度約7000メートルから約5500、約4900、約4250、約3650、約2450と6段階に区分されていて、日本の民間航空機は悪天候や機体の故障などの例外的な場合を除いて、この高度を守って飛行しなければならない。
 横田空域はいわば見えざる空の巨大な壁だ。羽田から関西、北陸、中国、四国、九州や韓国、中国、東南アジアに向かう民間機は離陸後東京湾上を急旋回して高度を上げないと横田空域を飛び越えられない。着陸の場合も千葉県側に回り込む迂回ルートをとらなければならない。

 こうした空域は岩国基地を中心に中国、四国地方にも設定されおり、岩国空域と呼ばれている。東京や大阪から大分に向かう場合、岩国空域を飛び越えた後、急な高度低下に入らねばならず、パイロット泣かせだという。
これらの空域は1975年の日米合同委員会での密約によって合意に至ったと吉田氏はいう。「政府は占領時代の米軍の既成事実としての特権を承認した」と指摘したうで、「法律上の根拠なく横田空域における管制を米軍に委任している」と論難している。
もく星号事故当時、日本の空を米軍が我が物顔で飛び回り、日本政府はご無理ごもともとひたすらへりくだっていた。事故から67年がたったが、米軍の我が物顔も政府のへりくだりようも、何ら変わっていない。    了

宿場町シリーズ《東海道・品川宿》井上脩身

台場造った江川英龍

江川英龍(えがわ ひでたつ)

 東京・品川沖の台場が続日本100名城に選ばれている、と知ったのは大阪府大東市の飯森城で石垣が見つかった、との記事(6月26日付毎日新聞)にふれたからだ。飯森城は戦国大名、三好長慶が1560年ごろに築城したもので、わが国で最初の石垣を施した城である可能性が高いという。飯森城は日本城郭協会が選定した続100名城に入っているというので、続100名城一覧を見ると、台場も入っていたのだ。台場の建設を幕府から命じられたのは伊豆・韮山代官の江川英龍(えがわ ひでたつ)である。江川は幼少のころから韮山と江戸の間を何度も行き来している。品川宿の湊から海をみつめ、新しい時代の到来を予感していたかもしれない。飯森城の築城から15年後、信長は武田軍を破って天下統一へと向かい、台場築城の15年後、徳川幕府が倒れる。何かの因縁なのか。ふとそんな気がして、品川宿を訪ねようとおもった。

16メートルの大鯨

 品川台場が続日本100名城に選ばれた翌年の18年1月、作家、佐々木譲氏の『英龍伝』(毎日新聞出版)が刊行された。佐々木氏は1990年、『エトロフ発緊急電』で日本推理作家協会賞を受賞。『英龍伝』は史料に基づく歴史小説だが、読者をわくわくさせる推理小説的タッチでストーリーが展開されている。私は一気にこの本を読み終えて品川宿とお台場に足を運び、英龍が何を思ったかを推理しながら歩を進めた。

 まず江川英龍の生涯をおおざっぱにふれておく。
 1801(享和元)年、伊豆・韮山代官・江川英毅の次男として生まれ、剣術家・斎藤弥九郎や画家、渡辺崋山らと交流。1835(天保6)年、35歳のとき代官就任。質素倹約につとめ、領民に種痘の接種を勧めた。伊豆沖に外国船が姿を見せることが多くなったことから、国防と開国に強く関心をもつようになる。崋山を通じて知り合った高島秋帆に弟子入りして高島流砲術を習得するとともに、西洋砲術の普及につとめる。1853(嘉永6)年のペリー来航直後、勘定吟味役に登用され、老中・阿部正弘の命で品川台場11基の築造にかかる。ここに据える大砲を造るための鉄鋼を得るために取り組んだのが韮山の反射炉建造だ。54(嘉永7)年、ペリーと幕府の間で日米和親条約が調印され、11基中5基が完成したところで工事が中止に。銃の改良にも取り組み、農兵軍の組織化を提言したが認められず、55(安政2)年、53歳で没した。跡を襲った長男・英敏のとき反射炉が完成。英敏は63(文久3)年、英龍の遺志を継ぎ、農兵軍を編成した。

 以上の予備知識を得たうえで、『英龍伝』を携え品川宿に向かった。
 品川宿は東海道の第一番目の宿場。中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿とともに「江戸四宿」とよばれた。1601(慶長6)年、品川湊の近くに設けられた品川宿は北宿、南宿、新宿に分かれていた。京・大坂への最初の宿場であり、上方からは江戸の玄関にあたる宿場だけに、そのにぎわいは他の3宿を圧倒。1843年ころの記録では、食売旅籠92軒、水茶屋64軒を数え、「北の吉原、南の品川」といわれるほどに遊興地として繁栄した。1844年1月道中奉行が摘発に乗り出した際には1348人の飯盛女が検挙されたという。
 1839(天保10)年、英龍は江戸湾防備の実情を検分する巡検副使として江戸を出発した。一行は総勢13人。ほかに人足14人、馬4頭。正使の鳥居耀蔵一行が110人、馬17頭だったのに比べると質素な行列だった。英龍一行は浦賀に向けて東海道を進む。一行が品川宿を通ったのはまぎれもない。江戸湾防備の調査が目的である以上、できるだけ海岸線に近い所を歩かねば意味をなさないからだ。
 英龍が巡検副使として歩いた11年後の1850年、西沢一鳳は江戸見聞録『皇都午睡』を著した。そのなかで品川宿について、「女郎屋は何れも大きく、浜川の方は掾先より品川沖を見晴らし、はるか向ふに、上総・房州の遠山見えて、夜は白魚を取る篝火ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也」としたためている。この3年後にペリーが来航し、黒船騒ぎに宿場内が右往左往するはめになるのが信じられないほどに、遊郭が幅をきかせていたようだ。
 英龍がこの宿場を通り掛かったときも、西沢が見たのと変わらない情景であっただろう。だが、英龍は女遊びには目もくれなかったはずだ。おそらく品川湊に出て、東京湾を見わたしただろう。対岸の房州の山々をながめ、やがて行うであろう房州・富津での検分について思いをめぐらしたに相違ない。
 私は京浜急行の北品川駅から旧東海道を横浜方面に向かって歩きだした。道幅7、8メートル。ほぼ昔のままだ。十数分ほどすると街道から少し離れたところに「鯨塚」という三角形の石碑があった。説明板に「1798(寛政10)年5月、長さ16メートルの大鯨が漁師につかまった。鯨は浜御殿(浜離庭園)に運ばれ、11代将軍家斉は『うちよする浪は御浜のおにはぞと くじらは潮をふくはうち海』と詠んだ」とある。
 この鯨塚から約200メートルの所に「品川浦」の標識。かつてはここが海岸線だった。今は浦とは名ばかり。幅80メートルの運河が真っすぐに延びている。その両側は埋め立てられていて、高層マンションやビルが林立。房総半島はおろか東京湾すら見えず、英龍の心中に思いをはせようもない。
 英龍は大鯨のことは聞いていたかもしれない。外国の軍艦が湊まで押し寄せてきたなら大鯨騒ぎでは済むまい、とは思っただろう。だがペリー艦隊の旗艦「サスケハナ号」が全長78メートルと大鯨の5倍近くにものぼり、潮をふく代わりに黒煙を噴き上げることまで想像できたかどうか。

通行人守る銅製地蔵

 1842(天保13)年、韮山にいる英龍のもとに江戸から使いがきて「ただちに出府せよ」と命じられた。すでに高島秋帆が「乱を企てている」との謀反のかどで捕まっていた。秋帆から砲術指南を受けていた英龍は「調べを受けるのか」と暗い思いだったが、出府すると法衣に任じられた。法衣は大納言をトップとする幕府内の最下位の官位だ。朝廷では六位に該当する位で、六位の者が着る着衣が許されているころから法衣と呼ばれた。最下位とはいえ幕臣のなかで頭一つ抜け出したことを意味し、一介の代官としては破格の出世だった。
 正月を江戸で過ごして英龍は韮山に帰る。その途中、当然のことながら品川宿を通る。なにせ貴族のような位についた英龍だ。品川の遊郭が放っておくはずがない。だが、英龍からはそうした艶話がほとんど聞こえてこない。このときも、秋帆をどうすれば解放できるかで頭がいっぱいだったに違いない。蛮社の獄でひっかかった渡辺崋山を救い出すことができなかった(崋山は自害)だけに、英龍は強い焦燥感をいだいていたことは紛れもない。

 品川宿のほぼ中央に本陣がある。ここで多くの大名が宿泊したり休憩したりする。英龍には縁のない宿所だが、「大名に助けを求めることはできないか」と考えたのではないだろうか。英龍はこれまでにも老中で海防掛の松代藩主・真田幸貫とは国をどう守るかについて議論し合っている。開明派幕閣の信頼を得ている英龍にとって大名に会うことはそう難しいことではないのだ。
はたして4年後の1848(嘉永元)年、佐賀藩主・鍋島直正が参勤交代の途中、三島宿の本陣から「会いたい」と言ってきた。三島宿は韮山からは最も近い宿場だ。直正について秋帆から西洋技術の導入に積極的な大名と聞かされており、ちゅうちょなく三島宿の本陣におもむいた。直正は「長崎湾に洋式台場を築造することも構想している」などと佐賀藩の取り組みを語った。このころ、韮山で建造にかかっていた反射炉は資金難もあって暗礁に乗り上げていた。直正は「わが藩なら反射炉を造るだけのゆとりがある」と、その築造と洋式大砲の生産を買ってでた。
 以上のくだりは佐々木譲氏の想像である。フィクションには違いないが佐賀藩が反射炉を造り、大砲を生産していたことは事実だ。英龍と直正の間に何らかの話し合いが行われたとしても不思議ではない。

 さて、品川宿を行く私である。品川浦を後にして住宅密集地の路地を進むと台場小学校のわきに出た。その正門のそばに高さ4メートルほどの灯台。「なぜここに灯台?」といぶかしんで説明板を見ると「御殿山下台場(砲台)跡」とある。台場については、次項で品川台場と合わせて述べることにしよう。旧東海道にもどってしばらくすると品川神社の参道と交差する。この交差点から神社まで約300メートルの「北馬場通り」と呼ばれているこの参道に「創業宝暦十年」という畳屋がある。1760年に創業の「湊屋」だ。英龍のころ、すでに80年以上の歴史を刻んでいた。
 参道からかなり急な石段をのぼった高台に品川神社がある。柱の朱が鮮やかだ。1187(文治3)年、源頼朝によって創建されたという由緒ある神社だ。家康が関ヶ原におもむく際に戦勝祈願をしたという言い伝えがあるくらいだから、英龍がここで「異国の軍艦に負けませんように」と祈願したとしてもおかしくない。

 旧東海道と参道の交差点から品川神社とは逆の方向にすこし行くと広場に出る。その端に「御聖蹟」と記されたコンクリート製の壁面。広場の反対の端に井戸跡がある。ここが品川宿の本陣跡だ。1872(明治5)年に宿駅制度が廃止された後、警視庁品川病院になり、1938年に公園として整備された。1868(明治元)年、明治天皇の御在所になったことから、この広場が「聖蹟公園」と名づけられた。残念ながら英龍に思いをはせようにも、本陣の面影はかけらもない。

 さらに旧東海道を進むと目黒川にかかる品川橋にでる。そのたもとに灯明台が設けられている。宿場の雰囲気を出そうという地元の熱い思いの表れであろう。ここから横浜側は品川南宿だ。200メートルほど行くと品川寺の門前。山門の前に大きなお地蔵さん。穏やかな表情だ。そばの石碑に「銅造地蔵菩薩坐像」とある。「江戸六地蔵」の一つといわれ、英龍のころには街道を行く人々を見守っていたであろう。英龍が造ろうとした大砲は青銅製だ。銅と錫の合金だが、多くの藩が大砲生産に乗り出したこともあって、銅が不足していたという。銅を手に入れることに腐心していた江英龍はこのお地蔵さんと対面するたび、ため息をついたかもしれない。

宿場照らす台場灯台

 1850(嘉永3)年、韮山の英龍のところに一人の佐賀藩士が藩主・鍋島直正の書状を携えてやってきた。台場築城法について助言してほしい、との内容だった。英龍は藩士に台場の模型を見せた。オランダの築城術の本を参考に作ったもので、1・5メートル四方、実物の100分の1の大きさだという。――これも『英龍伝』からの引用だ。佐々木氏は早くから英龍は台場築城に意欲をもっていたとみる。

 3年後の1853(嘉永6)年、「異国船4隻が下田沖を通過した」との知らせが届いた。ペリー艦隊の軍艦は浦賀沖に錨をおろして居座る。久里浜でアメリカ大統領の国書を幕府側が受けとることで黒船騒ぎはひとまず収束。しかしペリーは国書に対する回答を受け取るために再来航することを告げており、その対策が幕府にとって緊急の課題になった。黒船が江戸湾深くに入り込み、江戸城に向けて大砲を打ち込んでくるという事態だけはなんとしてでも避けねばならない。
 幕府が国書を受け取ってしばらく後、勘定奉行の川路聖謨から英龍に出府の命が届いた。いつものように品川宿を通って江戸に向かう。やはり品川湊から江戸湾を見わたしただろうか。もはやこの付近での堅固な防備体制は待ったなしだ。彼の目のなかで台場をどこにどう造るかが漠然としながらも描かれていたにちがいない。
 勘定奉行の役所におもむくと、勘定吟味役格に昇格、評定所の一座に加わることになった。現在でいえば省庁の事務方トップかそれに準ずる地位だ。やがて川路から江戸警備のための検分を指示されて浦賀水道一帯とともに品川近辺を測量。台場建設について、「品川は水深が浅いので埋め立ては容易」と復命した。

 幕府は英龍の意見を採用し、品川沖に11基の台場を造ることを決定。英龍は台場築城御用掛を命じられ、築城位置を確定し、台場の設計図を作成したうえで見積もり書を提出した。埋め立て総面積は12万7500坪(約42万平方メートル)、杭木4万1000本などで、費用は7万1000両。幕府の了解を得て1、2、3番の台場建設にかかったのはペリーが浦賀を去って2カ月後だった。

 さらに老中・阿部正弘から川路を通じて台場備砲の製造の命がでた。英龍はすでに赦免されていた高島秋帆に指揮を依頼し、湯島に製砲所を設置。さらに反射炉築造の命が出たので、韮山に造ることにした。こうして台場築城と、その台場に据える大砲の製造を着々と進めているさなか、嘉永7年1月、ペリーが7隻の軍艦を率いて再び来航した。神奈川で交渉が行われ、和親条約締結、鎖国から開国へとカジが切られる。
 台場は第一~第三と第五、第六の5基が完成。第四と第七は工事の途中で中止、第8~第11は未着手のままだった。このほか番外として御殿山下の台場が嘉永7年12月に完成した。

 ペリーの再来航に際してこれらの台場が役だったか、となると疑わしい。ペリーの旗艦、サスケハナ号は口径20センチの大型ライフル砲を備えていた。射程距離は2000メートル。台場に据えつける洋式砲も射程距離ではそう劣ってはいない。だが、『ペリー提督日本遠征記』(角川ソフィア文庫)のなかの江戸湾測量に関する記述に台場のことが触れられておらず、ペリー艦隊が台場に恐れをいだいた気配はない。実際はどうだったのだろう。いずれにせよ砲戦という最悪の事態に至らず、英龍が望んでいた開国に落ちついたのだった。
 現在残っているのは第三と第六台場だけだ。第三台場は1928年、台場公園として開放された。私はJR新橋駅前からゆりかもめ(東京臨海新交通臨海線)に乗った。東京湾岸の埋め立て地を眼下に見ながら約30分後、お台場海浜公園駅に到着。高層マンションが連なる道をしばらく行くと砂浜が広がり、海辺を多くの人たちが散歩している。その海辺から向こうに見える緑の島が第三台場だ。

 品川宿の観光案内所でもらった「品川御台場物語」というパンフレットには、「第三台場は1辺が160メートル、高さ5~7メートルの石垣と土塁に囲まれた四辺形。中央のくぼ地に戦闘に備えるための陣屋、弾薬庫などが設置された」とある。海辺から台場にかかる橋を通って台場にあがる。その端の海が見渡せるところに2門の大砲のコンクリート製台座が置かれている。表面ははげてはいるが、長さは2メートルほどのしっかりとした造りだ。
 パンフレットに載っている絵図は1856(安政3)年に松本藩士が描いた第六台場で、十数門の大砲が見て取れる。第三台場もほぼ同じ形だっただろう。現在は第三台場のこの2門が残っているだけだ。その台座の前の海に灯明台が設けられ、そのわきを観光船がゆっくりとすすんでいく。さらにその向こうの岸には大型のホテルやマンション群。島の内側はパンフレットに書かれているようにほぼ正方形のくぼ地になっていて、その中央に四角の基礎台石が列をなしている。絵図には2棟の建物が描かれている。その一つは「屯所」、もう一つは「火薬蔵」とある。この中の火薬が異国軍艦に向けて使われる事態になっていたら、幕末史は大きく変わったに違いない。

 さて御殿山下の台場。「品川御台場物語」には「漁師町の陸つづきに築造された陸(おか)台場で、1957年、台場小学校の敷地に埋められた」と記されている。漁師町というのは鯨塚があった辺りを指すのだろう。
もう一度、品川小学校の灯台の所にいってみた。説明板には「明治になって埋められたが、(後に)台場の輪郭となる石垣が見つかった。この石垣に1870(明治3)年、第二台場の灯台に設けられた日本で3番目の洋式灯台を模して灯台が築かれた」とある。台場小学校の正門そばの灯台は第二台場の灯台のレプリカなのだ。
宿駅制度が廃止されたのは明治5年だから、第二台場の灯台は沖合から品川宿を照らしつつ、その末期を見届けたことになる。この灯台は国の重要文化財に指定され、現在、愛知県犬山市の博物館明治村で保存されている。

 品川の台場が海岸に近い沖合に設けられたことから、ふと沖縄の辺野古を連想した。県民の大半の意志を無視して辺野古沖に造られつつある米軍基地。これぞ現在の台場といえるのではないか。品川台場は米軍から国を守るのが目的だったが、辺野古基地は米軍のためのものである。三好長慶は天下をにらんで飯森城を築いたものの織田信長に敗れた。幕府は品川台場を造ったもののペリーに屈服せざるを得なかった。辺野古についてはメリカのいいなりになって築かれようとしている。いったいどこから何を守ろうというのだろう。

 私は品川浦のアメリカ風水上レストランを思いうかべた。若者たちはここで大いに青春を謳歌していることだろう。平和を享受できることは素晴らしい。だからこそ令和の時代の沖縄の台場に不吉な予感をおぼえるのだ。江川英龍なら何というだろう。聴いてみたいと思った。                     了

Opinion《渡来人と呼ばれた人々》:片山通夫

鬼室神社

 過日、鬼室神社(写真)というところへ行った。変わった名前の神社なので、何の予備知識もないままその名前に惹かれてのことだ。 

情報を滋賀県日野町の観光協会からいただいた。鬼室神社の項には以下のように紹介されていた。

近江朝廷が大津に都を定めた頃、現在の韓国、往時の百済(くだら)国から我国へ渡来をした多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓が、この神社の本殿裏の石祠に祀られているところからこの社名がつけられました。古くは不動堂と言い小野村の西の宮として江戸期まで崇拝された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきました。また今日では鬼室集斯の父、福信(ふくしん)将軍が大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面(ちゅうせいなんどうぷよぐんうんざんめん)の恩山別神堂にお祀りされているところから、姉妹都市としての交流が盛んに行われています。

鬼室集斯は百済の人のようだ。いわゆる渡来人である。この墓の真贋はともかく、近江の国に大津京があった。 ただ大津京は5年余りで壬申の乱の影響などもあり、廃都された。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都し、天皇はこの宮で正式に即位したようだ。この時代、朝鮮半島では百済が新羅と唐に攻められて亡んだ(660年)頃である。我が国にとっては白村江(はくすきのえ)まで兵を出して百済を助けようとしたが、惨敗したこともあってか、百済からの亡命者たちが大挙して我が国を頼ってきた。
 そんな事件を背景に、ちょうどまだまだ発展途上国(?)然としていた我が国は、法令などの整備や、様々な技術を百済などから来た人々の力を借りて国造りに励んだようである。鬼室集斯を例にとってみると、渡来人の倭国(日本)での活躍が理解できよう。鬼室集斯は百済の貴族・達率だったが、663年の白村江の戦いで敗れたの後に一族とともに日本へ亡命を余儀なくされた。『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智天皇4年(665年)2月に小錦下(しょうきんげ)の位に叙せられた。小錦下は、664年から685年まで日本で用いられた冠位である。26階中12位。

また天智天皇のときにわが国で初めて大学寮が設けられ、鬼室集斯が「学識頭」になった。今でいう文科省の大臣である。このころの日本は前述したようにまだまだ発展途上にあったため、滅びたとは言え百済の貴族である鬼室集斯を頼った。
 まだ十分統一された国家ではなく、律令を基本とする文治主義へ移行するための官僚養成が急がれていた時期であったので、学校制度創設などで百済からの亡命知識人は重用された。

 余談だが1910年、我が国はさきの戦争が敗戦に終わるまでの35年間、朝鮮半島全域を植民地にした。一部と思いたいが、日本人は朝鮮を植民地にしたことで、《学校や鉄道などインフラの整備という「良いこと」も朝鮮にしてやった》という説がまかり通っている。トランプがアメリカの大統領になった時だったか、「移民は自国へ帰れ」といったことがある。それを聞いたネイティブのアメリカ人は「へえ、トランプはせっかく大統領になったのに出身国へ帰るんだ」といったとか言わなかったとか…。

 わが国も飛鳥時代にまでさかのぼったら、渡来人にどういわれるのかしらん。