編集長が行く《守れるか神宮外苑の森》Lapiz編集長 井上脩身

神宮外苑の森
神宮外苑の森

~イチョウ並木が泣いている~

東京のど真ん中に位置する明治神宮外苑の再開発事業について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)は9月7日、「文化的遺産が危機に直面している」として、事業者や事業認可した東京都に対し、事業の撤回を求めた。神宮外苑のシンボルであるイチョウ並木がこの計画によって被害を受けるとして裁判まで起きているが、こうした反対運動をイコモスが後押しする形となった。私にはイチョウ並木をはじめ、豊かな森がひろがる神宮外苑にはさまざまな思い出がある。再開発事業は森を壊そうということであるならば、黙っているわけにはいかない。

世界に類例ない文化遺産

聖徳記念美術館を正面に望むイチョウ並木

新聞報道によると、神宮外苑についてイコモスは「市民の献金と労働奉仕によりつくり出された、世界の公園史でも類例のない文化的遺産」と極めて高く評価。「伐採本数は約3000本にのぼり、100年にわたって育まれてきた森が破壊される」と指摘し、三井不動産や明治神宮などの事業者に対し、事業の撤回を要求。東京都に対し、都市計画決定の見直しや、環境影響評価(アセスメント)の再審を求めた(9月8日毎日新聞)。
イコモスがいう100年の歴史を持つ文化的価値とはどういうことであろうか。神宮外苑の再開発認可の取り消しを求める裁判の訴状に、簡潔に記されている。
裁判は2月28日、神宮外苑の近隣住民らが起こした。訴状では、神宮外苑の歴史的価値について、1913(大正2)年2月、徳川家達貴族院議長から桂太郎首相への建議で、内苑を「森厳荘重」、外苑を「公衆優遊」な地区とし、内苑は国費、外苑は献費によって開くことになった。国民からの献金は700万円以上、奉仕した青年団は10万人以上にのぼった。外苑は1926年、わが国最初の風致地区に指定され、現在274ヘクタールが指定地区になっている。
一方、文化的価値について、外苑を「近代的公園」として欧米のパークシステムを参考に、イチョウ並木と街を結び、その軸上に芝生公園が設けられており、「近代風形式庭園」としての文化的価値が認められる。イチョウ並木の延長線上に建てられた聖徳記念絵画館は国の重要文化財に指定されており、イチョウ並木については2012年、文化庁が名勝指定のために全国調査したさい、「重要事例」とされた。こうした経過をふまえ、訴状では「神宮外苑は国際社会に誇れる、近代日本の公共空間を代表する文化的遺産」と指摘した。
ほとんどの都民とって神宮外苑はスポーツ観戦を中心とする憩い場であろう。オリンピックのメーン会場となった新国立競技場、プロ野球・ヤクルトの本拠地で、東京六大学野球が行われる神宮球場、高校野球都大会が行われる神宮第二球場、大学や社会人ラグビーのメッカである秩父宮ラグビー場などがあり、わが国のスポーツの中心地というイメージである。私は学生時代、神宮球場のスタンドから早慶戦の応援をし、秩父宮ラグビー場で行われた大学ラグビーを観戦したものだ。社会人になってからは、東京に出張した際、神宮球場で阪神―ヤクルト戦を見たり、法政大学にいた江川卓投手を目にするため、わざわざ六大学の試合をのぞいたこともある。
思えば、球場やラグビー場の周りは緑が豊富であった。周囲が住宅地である阪神甲子園球場や東大阪市の花園ラグビー場とは大違いなのだ。林や森に対する思い入れは、大阪と東京は根柢から異なるのかもしれない。実際、東京で生まれ育った人が大阪で暮らすようになると、ほとんど例外なく緑が少ないことを嘆くのである。
私は2016年から3年間、横浜で暮らした。街のあちこちで巨木を見かけた。巨木を避けて建てられたマンション、巨木を残して玄関を引っ込ませた民家、大通りの真ん中に立つ巨木などを目にすると、いかに東京やその周辺の人が巨木を大切にしているかがわかる。神宮外苑の森は、巨木が生い茂る公園の象徴的存在といえるだろう。
再開発計画では神宮外苑のなかの高さ3メートル以上の樹木743本が伐採される。高さ3メート以上の成木は高木とされているので、やっと高木に育った樹木をバッサリ切ってしまおうというのが、再開発事業者の考えだ。その発想は、東京やその周辺の人たちの樹木への思いをバッサリとぶった切るものなのである。

鼓動する商業主義

再開発後の神宮外苑予想図(ウィキベテアより)

神宮外苑の再開発事業を行うのは、すでに述べた三井不動産、明治神宮と日本スポーツ振興センター、伊藤忠商事の4団体。事業計画では、「神宮外苑を世界に誇れるスポーツクラスターとして整備する」とし、土地の高度利用を促進して業務・商業などの都市機能を導入する、としている。要するにオフィスビルやホテルを建てようということだ。スポーツを見に来る人が多いこの一帯を、お金儲けセンター的機能も持たせようということでないのか。
当然のことながら、事業主体の4社はこのような露骨な表現はしない。4社がつくる「神宮外苑地区まちづくり準備室」のホームページを開くと、「安らぎも、熱狂も、歴史の鼓動も!」というキャッチコピーが躍る。そして「100年の刻を重ね、神宮外苑が紡いできたみどり、スポーツ、歴史・文化がオープンに混ざり合い、一体化することで、さまざまな鼓動が生まれる」と美辞麗句を並べる。そのうえで、「Green」「Sports」「「Open Space」「History&Culture」と英語で4項目を羅列。「Green」については「外苑のシンボル、4列のいちょう並木を保全」「エリア全体の樹木は既存の1904本から1998本に増やす」などとし、さも緑あふれる夢の外苑のイメージをつくりだしている。
以上のうたい文句のうえで、具体的な再開発として、神宮第二球場を解体して新ラグビー場に、秩父宮ラグビー場はホテル併設の新神宮球場、神宮球場は広場に変える。
なぜわざわざこのような建て替えを行うのだろうか。
訴状によると、現在青山通りに面している伊藤忠ビルを高さ190メートルの超高層ビルに建て替えるほか、ホテルやオフィスが入る185メートルと80メートルのビルが建てられる。このため、3・4ヘクタール分が都市計画公園から削除される。
「お金儲けセンター的機能を持たせようということでないのか」という私の予想は間違いではないようだ。「スポーツ、歴史・文化がオープンに混ざり合う」のでなく、「スポーツと商業主義が混ざり合う」のだ。このために邪魔な森を壊すのであって、金儲けできる団体だけに「鼓動が生まれる」のである。
この計画により、新神宮球場はイチョウ並木の西わずか8メートルのところに移る。ではどうなるか。
私は2018年12月上旬、イチョウ並木を歩いた。
南側の青山通りから並木道に入ると、黄色に色づいたイチョウの葉が陽光を受けてキラキラと輝いていた。長さ200メートルほどのイチョウのトンネルはさながらおとぎの世界。私は夢見心地になった。
並木の西側には数軒のレストランが建っていて、多くの若者でにぎわっていた。このどこかで披露したのであろうか。白いウェディングドレスの女性とタキシード姿の男性が、並木中央に止めてあったオープンカに乗り込むところにであった。
新神宮球場がイチョウ並木そばに越してくれば、こうした風景はなくなり、殺風景な景色になるだろう。文化を紡ぐどころか、若者たちがつくりだした″並木文化″を壊すことになるであろう。

龍一、春樹、サザンが「開発反対」

坂本龍一さん(ウィキベテアより)

昨年11月、日本イコモス国内委員会は、イチョウ並木146本のうち、6本で枝の一部が枯れるなど生育状況に問題があるとの調査結果を公表した。一方、神宮外苑に近い新宿御苑では、地下トンネルを整備して30年後に、トンネルから15メートル以内の約9割が枯れ死していたことが、中央大研究開発機構の調査で明らかになった。こうしたデータを踏まえて、訴状では、(新神宮球場建設のため)地下40メートルに及ぶ杭の施工は、水系を断ってイチョウの根を傷つけ、生育を阻害すると指摘。加えて西側に球場ができることで、日差しにきらめくイチョウ並木の風景が失われるという。
前項で私は「イチョウの葉が陽光を受けてキラキラと輝いていた」と書いた。イチョウ並木にきらめきがなければ、「おとぎの世界」にはならず、したがって「夢見心地」になるはずもない。
自分自身の体験と重ね合わせると、「きらめかないイチョウ並木」になることが、この計画のポイントであることに気づいた。文化破壊の商業主義がイチョウ並木からきらめきを奪うとあれば、反対の声が上がらないのがおかしい。
はたして音楽家の坂本龍一さんは3月28日に亡くなる約1カ月前、小池百合子知事に、計画見直しを求める手紙を出した。手紙は2月24日付で、「世界はSDGsを推進しているが、神宮外苑の開発は持続可能とは思えない」と指摘。「これらの樹々を私たちが未来の子供たちに手渡せるよう、再開発計画を中断し、見直すべきです」と主張し、知事に対し「あなたのリーダーシップに期待します」と呼びかけた。小池知事は記者会見で「事業者である明治神宮にも手紙を送られた方がいいんじゃないでしょうか」と述べた(4月3日、朝日新聞電子版)。坂本さんの期待に反し、小池知事が計画見直しにリーダーシップを発揮した気配はない。もともと関西人である小池知事には、東京の人たちの心に宿る樹木への思いは理解できないであろう。
「ヤクルト・スワローズのファンなので、神宮球場に歩いて行ける所に住んでいた」という作家、村上春樹さんは、坂本さんと40年来の親交があり、「一度壊したものは元に戻らない。神宮外苑の再開発は強く反対」と述べた(7月23日、毎日新聞電子版)。さらにサザンオールスターズの桑田佳祐さんは神宮外苑の再開発を憂える気持ちから作詞作曲した新曲『Relay~杜の詩』を9月2日、発表した。
誰かが悲嘆(なげ)いていた
美しい杜が消滅(き)えるのをAh~
自分が居ない世の中
思い遣るような人間(ひと)であれと
地球が病んで未来を憂う時代に
身近な場所に何が起こってるんだ?
桑田さんは「坂本さんの遺志をつなぐ曲」と説明し、「あれ(木が伐採されること)、なんかもったいない気がすると思って歌詞にした」と話した(9月4日、毎日新聞)。
もしイチョウ並木にきらめきが失われたら。それは単にイチョウにとどまらず、人々にきらめきが失われることになるのでないか。商業主義者のための神宮外苑になれば、お金はきらめいても、人の心は決してきらめかないのだ。
お金か心か。神宮外苑再開発問題は、文化とは何かという根源的な問いかけなのである。

 

原発を考える《核のゴミ処分場選定吹っ飛ばす》文・井上脩身

~対馬市長の国への切り返し~

比田勝尚喜・対馬市長(ウィキベテアより)

長崎県対馬市の比田勝尚喜市長は9月27日、原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)の最終処分場の候補地選定をめぐり、第1段階である文献調査を受け入れないと表明。文献調査を受け入れると国から最大20億円が交付されるが、比田勝市長は「風評被害に懸念がある」と述べた。人口減などから税収が落ち込んでいる自治体をターゲットに、国は文献調査受け入れ先の選定を急いでおり、北海道の寿都町と神恵内村が2020年から受け入れている。国のこうした「カネで横っ面を張る」方式に対し、「20億円など風評被害で吹っ飛ぶ」と具体的な被害予想額を示したのが比田勝発言の最大のポイントであろう。「利益」で迫る国に対し「不利益」で切り返して一本取った比田勝市長。痛快なニュースであった。

「20億円もらい得で済まない」

美しい海岸が広がる対馬(ウィキベテアより)

対馬市は1960年に約7万人の人口を抱えていたが、現在は2万8000人と6割も減少。同市の推計では2045年には1万4000人を割り込むとみられ、基幹産業である漁業や観光業を取り巻く環境は厳しくなっている。こうしたなか、今年に入り建設業団体や市商工会が地域振興の切り札として文献調査受け入れに向けた動きを本格化させ、同市議会は9月12日、調査受け入れを求める請願を賛成10、反対8という僅差で採択。これに対し、比田勝市長は市議会本会議で「市民の間で分断が起こっており、市民の合意形成が十分でないと判断した」と述べ、文献調査を受け入れない意向を明確にした(9月28日毎日新聞)。
比田勝市長の発言は朝日新聞の電子版が詳しいので、以下はその引用である。
市議会では、毎日新聞の記事にある「市民の合意形成不十分」発言につづいて、2点目として風評被害の懸念を表明。「観光業、水産業などへの風評被害が少なからず発生すると考えられる。特に観光業は、韓国人観光客の減少など大きな影響を受ける恐れもある」と述べた。さらに3点目として「(文献調査の)結果によっては次の段階に進むことも想定され、受け入れた以上、適地でありながら次の段階に進まないという考えには至らない」と発言。4点目に挙げたのは最終処分場のリスクである。「最終処分の方法、安全性の担保など将来的に検討すべき事項も多く、人的影響などについて安全だと理解を求めるのは難しい」としたうえで「想定外の要因による安全性、危険性は排除できない。地震などでの放射能の流出も現段階では排除できない」と、最終処分場の危険性を指摘した。
市議会のあと比田勝市長は記者会見に応じた。
市長は「誰に相談したのか」との質問に対し「市民のためにはどんな方法が最適なのか、熟慮に熟慮を重ねた。資源エネルギー庁、NUMO(原子力発電環境整備機構)にも質問状を出したところ、事故が発生した場合の避難計画などは今後、調査を進める中で整理、検討していくとの回答があった。現段階では具体的な内容まで策定されていない」と明かした。文献調査で適地と判断された場合については「それ以上の調査はもう受けられないという判断はできないと思った。ましてや20億円の交付金がいただける。いったん文献調査に入ったら断るのが難しいと判断した。今の段階で受け入れないとする方が国にかける迷惑がむしろ小さくなると考えた」と、20億円もらい得で済ませるわけにはいかないだろうとの常識的判断を示した。
風評被害については、福島第一原発の事故で、韓国との水産物が取引禁止になり、韓国からの大勢の観光客が突然減ったことを挙げた。そして「対馬の水産物水揚げ高は168億円なので、風評被害が1割でも16億円くらいの被害」とし、観光業に関しては「消費効果が180億円を超えている時もあった」として「18億円くらいの被害が出る」と算出。「20億円の交付金ではなかなか代えられない」と述べた。

処理水放出で水産業にダメージ

中国が輸入禁止をするなか、水揚げされるホタテ(ウィキベテアより)

最終処分場の候補地選定をめぐって対馬市の比田勝市長が思案にくれていたころ、東京電力福島第一発電所でたまっている処理水の海への放出にともなって、中国における日本からの輸入が大幅に減少、とくに水産業界が悲鳴をあげている実態がテレビや新聞などで大きく取り上げられていた。
同原発では事故後、原子炉格納容器の底にたまった燃料デブリを冷やすために水を注入。この冷却水がデブリと接してセシウムやストロンチウムなどの放射性物質と混ざって汚染水化。この汚染水をALPS(多核種除去設備)で放射性物質を除去し、敷地内のタンクで保管している。このタンク群がほぼ満杯になったため、政府は8月24日から処理水を同原発の沖合に海洋放出することを決定。放出は廃炉が終わるまで続けられるので、廃炉工程が順調に進んでも、少なくとも30年かかる見通し。2023年度は合計3万1200トンを放出する計画だ。
政府は「処理水」と呼んでいるが、ALPSは放射性物質であるトリチウムを除去できないうえ、他の放射性物質が残る可能性も絶無と言い切れず、「汚染水」と呼ぶ人は少なくない。政府は「トリチウムは皮膚も通さないので、外部被ばくによる人体の影響はない」として、マスコミなどを通じ安全性の浸透を図ろうとした。これを受けて、福島県や東電は9地点で採水してトリチウムの濃度を測定。9月19日の調査では、すべての地点で目標の10ベクレル以下となり、「人や環境への影響がないことを確認した」と発表した。
放出開始前、 IAEA(国際原子力機関)が「放出は安全基準に合致している」との報告書をまとめたこともあって、岸田文雄首相は9月5日、インド・ニューデリーで行われたG20の場で、「国際的にも科学的に安全であることが認められた」とPRにつとめた。
だが、中国は「汚染水を海に流した」と非難。放出開始とともに日本産の水産物の輸入を全面的に停止した。この結果、放出から1カ月がたった9月24日時点では、8月以降の中国の日本からの水産物の輸入額が約30億円と前年の同じ月と比べて67%減少。影響は福島での水揚げ分にとどまらず、全国に拡大。とくに北海道のホタテは行き場がなく、在庫の山になった。政府は漁業者向けに800億円の基金を設けて対応する方針だが、海産物輸出の多くを中国に頼ってきただけに、水産業界の不安は簡単には解消できそうにない。
中国の禁輸には政治的な意図がうかがわれるが、原発に関しては「非科学的でけしからん」と言ってすまされない厄介な問題が常に内在する。誰もがもつ放射能への恐怖である。「安全」と百万回いわれても、「ハイそうですか」とはならない。食べ物ならその地の産出物は口にせず、観光でもその地には行かないという選択をする人が少なくないのが現実なのだ。

処分場ノーに首長から熱い視線

福島の処理水問題をおもうと、対馬市の比田勝市長の風評被害に関する発言は当を得ている。あるいはもっと深刻かもしれない。放射性廃棄物の処分は地下300メートルの深部に埋設するものだが、放射能の危険がなくなるまで1000年から数万年もかかるからだ。気が遠くなるような先まで人類が存在しているとすれば、風評被害も人類がいる間は永遠に続くことになる。
対馬市はこの60年間で人口が6割も減少したことはすでに述べた。報道によると、文献調査賛成派の市議は、「人口をどう増やすか明確なビジョンのない中で反対を表明するのは無責任だ」と比田勝市長を批判している(毎日新聞)。この市議は20億円の交付金が入ると、産業振興事業を行うことができ、人口が増えると考えているのだろう。だが、処分場という「爆弾」を地下に抱えるこの島に喜んで住もうとする人がどれだけいるのだろうか。処分地に選定されれば、人口減少を加速させるだけではないのか。
比田勝市長は対馬市の将来構想について、「SDGs(持続可能な開発目標)の未来都市の選定を受け、漂着している海のゴミを題材にした対馬モデルの利用策を民間企業と取り組んでいる。また、通信速度が極端に落ちる対馬市の通信環境を改善し、IT関係を中心に、企業誘致もこれまで以上に取り組んでいきたい」と抱負を語った。
コロナ禍のなか、業務のオンライン化が進み、地方でも業務を行える例が多く見られた。韓国に近いという地理的要因を最大限生かし、原発や最終処理場に頼らない魅力あるまちづくりができるかどうか。「処分場ノー」を突きつけただけに、その責任は小さくない。処分場選定に手を挙げるべきかどうか、迷っている多くの自治体の首長は、対馬の今後に熱い視線を送るに違いないのである。

Lapiz2023冬号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

熱唱する桑田佳祐さん(ウィキベテアより)

ロックバンド「サザンオールスターズ」(以下「サザン」)のデビュー45周年を記念して、NHKが特別番組「MUSIC SPECIAL 45年経っても″馬鹿でごめんよ″」を9月28日、放映しました。この番組の中で、バンドマスターでボーカルの桑田佳祐さんが新曲『Relay~杜の詩』を披露。東京・神宮外苑の再開発事業に抗議する形で桑田さんが作詞・作曲したもので、時折天を見あげて歌う桑田さんのもの悲しげな表情を見ていると、エリーをしのんでいるように思いました。

岩本えり子さん著『エリー――茅ケ崎の海が好き』の表紙

サザンが『勝手にシンドバッド』でデビューしたのは1978年。そのころ、私はロックには関心がなく、サザンという名前を知っているだけでした。1985年ころ、サザンのファンという親しい友人に薦められ、テープを聞いてみました。『勝手にシンドバッド』は、茅ケ崎(神奈川県)の海岸を題材に、「江の島が見えてきた、俺の家も近い」とアップテンポにうたっています。『C調言葉に御用心』など初期の曲は総じてテンポが速くてついていけず、好きにはなれませんでした。
そんななか、スローテンポな『いとしのエリー』には引かれました。エリーに思いを寄せる心の機微を細やかに歌い上げていて、情感がしんみりと伝わってくるのです。歌いだしの「泣かした事もある、冷たくてもなお よりそう気持ちがあればいいのさ」という歌詞が気に入り、散歩中、一人口ずさんだものです。

2010年ころ、書店で『エリー――茅ケ崎の海が好き』という本が目に留まりました。著者は桑田さんの姉、岩本えり子さん。躊躇なく買い求めました。
えり子さんは桑田さんの4歳上。小さいころ、兄弟二人で自宅近くの茅ケ崎の海岸で遊び、加山雄三の家の庭にもぐり込んだりしたそうです。えり子さんはビートルスの曲を好み、弟には子守り歌のように聞かせたといいます。桑田さんの音楽センスはえり子さんによって芽生えたのです。
えり子さんはアメリカにわたりますが、1990年、帰国し茅ケ崎に戻りました。やがて、茅ケ崎の海岸に14階建て、高さ47メートルのマンション建設計画がもちあがりました。茅ケ崎付近では、海辺から約70~80メートルくらい内側を、国道が海岸に平行して通っています。国道より海側には高層建築がないので、浜辺が伸び伸びと広がり、「サザンビーチ」と親しまれています。
「大きなマンションが建つと浜辺から富士山が見えなくなる」と怒りをおぼえたえり子さん。「弟と遊んだ浜辺を壊されてなるものか」と、「茅ケ崎・浜景観づくり推進会議」(はまけい)という市民団体を立ち上げ、マンション建設反対運動をはじめました。茅ケ崎海岸から見る富士山は「関東の富士見百景」の一つとされています。茅ケ崎市民全体に運動の輪が広がり、3万もの反対署名が集まりました。桑田さんももちろん、署名した一人です。
えり子さんらの奮闘の結果、建設計画は撤回されました。ところが2008年、えり子さんはがんで亡くなりました。『いとしのエリー』には「あなたがもしもどこかの遠くへ行きうせても、今までしてくれたことを忘れずにいたいよ」という詞があります。えり子さんがずっとアメリカ暮らしをしていたこともあって、「エリーのモデルはえり子さん」と、うわさされていました。その歌詞どおり、えり子さんがほんとうに遠くにいってしまったことに、桑田さんは胸が張り裂けるおもいだったに相違ありません。
私は2010年2月、東京への出張の途中、茅ケ崎の海岸に立ち寄りました。マンション計画地には2階建ての結婚式場が建っていました。残念ながら曇っていて、富士山は見えません。反対側に視線を転じると、江の島が霞んでいます。すきではなかったはずの『勝手にシンドバッド』の曲が、私の頭の中に流れました。

結婚前の桑田さんと原由子さん(ウィキベテアより)

えり子さんが亡くなったのはサザンデビュー30周年のときでした。そして45周年の今年、神宮外苑の大木を切り、神宮外苑のシンボル、イチョウ並木のそばに神宮球場を移築するという再開発事業が大きなニュースになりました。桑田さんは、親交のあった音楽家の坂本龍一さんからその話を聞いたそうです。
桑田さんは、妻でサザンのキーボード・ボーカルの原由子さんとは青山学院大学で知り合いました。青学から東1・2キロの所に神宮外苑があり、二人にはさまざまな思い出がつまったところです。人気バンドになってからは、二人はサザンメンバーとともに神宮外苑にあるスタジオで曲づくりを行っています。外苑の森は桑田さんにとってミュージシャンとしての命の森なのです。
坂本さんは今年3月、71歳で亡くなりました。その死が桑田さんには「茅ケ崎の海岸を壊すな」といって亡くなったえり子さんと重なったのではないでしょうか。「神宮外苑を壊されてたまるか」。そんな思いをこめて歌を作ったのです。
『Relay~杜の詩』は「誰かが悲嘆(なげ)いていた」で始まります。桑田さんの嘆きの歌なのです。その嘆きは、坂本さんの嘆きであり、神宮外苑を愛するすべての人の嘆きでもあります。
神宮外苑の再開発事業にはどのような問題があるのでしょうか。本号では、編集長のコラム「びえんと」のなかで考えてみました。

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿003》文・写真 井上脩身

伊能忠敬の測量風景(ウィキベテアより)
一里塚跡であることを示す石碑

測量隊は10人編成

 夏の日差しが照り付ける日、福住に向かった。国道から脇道にそれて西京街道を歩く。道幅約5メートル。案内チラシ通り、街道の両側に白壁妻入りの民家が立ち並ぶ。ほどなく福住小学校の鉄筋3階建ての校舎が目に入った。通りに面して板の看板が立てられ、その上部に「SHUKUBA」とアルファベットで記されている。案内チラシによると、ここが本陣跡だ。そのすぐ近くの道路脇に「伊能忠敬笹山領測量の道」と刻まれた高さ50センチの石碑が建っている。209年前、伊能忠敬はここで一晩を過ごしたのだ。
測量日記に「古城跡一箇所」の記載がある。福住宿の北300メートルのところに籾井城跡がある。籾井氏は明智光秀に滅ぼされているので、伊能の時代は面影もとどめない古城であっただろう。ここで伊能は観測をしたのではないだろうか。
本陣から東に150メートルの所に一里塚があり、その少し先を左折すると籾井城跡だ。測量の碑に「早朝より梵天持ちの十人を従えて出発」とあり、測量は10人編成だった。梵天は竹竿の先に数枚の紙を短冊状につるしたもの。数カ所に梵天持ちを立たせ、その間に縄を張って長さを測るのだが、測量道具を担ぐ測量隊一行は宿場の人たちの目には異様に映ったであろう。
伊能はこの測量法を基本に方位観測を加えて計測した。井上ひさしは『四千万歩の男』の中で、江戸・千住宿を出てからの例として、次のように書いている。
馬の背から三脚台と「方位盤(小)」と記された桐箱を降ろす。三脚台を設置し、その穴に樫棒をさす。桐箱から方位盤を出し、その柄の部分を樫棒の上端にはめる。忠敬は小方位盤の樫棒を静かに回し、磁針の南を指す針の先が示す度数を読みとる。
小説中の記述はもっと詳細であるが、素人にはチンプンカンプンであった。『伊能忠敬の日本地図』に広島で行われた測量の絵図が掲載されている。「御手洗測量之図」と呼ばれ、伊能は黒の陣笠をかぶっている。福住でも黒の陣笠をかぶっていたに相違ない。井上ひさしは「この小方位盤は測量家としての忠敬の、いわば〈目〉となった道具である」と書いている。命の次に大事な方位盤が入った桐の箱をさながら殿様扱いする伊能に、本陣を司る山田嘉右衛門は目を白黒させたかもしれない。
福住での測量を終えた伊能は翌日、西京街道を東に進み、埴生村(南丹市)で一泊。亀岡を経て京から江戸に戻る。
第9次は1815年、伊豆七島の測量。翌年、第10次として江戸を測量して、15年に及ぶ測量を終えた。

伊能地図の最終版である「大日本沿海輿地全図」が幕府に提出されたのは伊能が病没して3年後の1821年だった。大図214枚、中図8枚、小図3枚から成る膨大な資料であったが、その正本は1873年に焼失。その写本のうち207枚が2001年、アメリカ議会図書館に実在していることが判明した。
明治になり、宿場町としては廃れていくなか、篠山と園部間を国鉄で結ぶ計画が持ち上がり、福住再興への期待が高まった。しかし1972年、計画は撤回され国鉄篠山線は幻に。福住宿跡は篠山の観光コースからはずれていて、今はひっそりとたたずむ日陰のような山里だ。鉄道の夢ははかなく消えたが、伊能地図に福住一帯が刻まれていることをもって瞑すべきであろう。(完)

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿002》文・写真 井上脩身

京、大坂と結ぶ交通の要衝

宿場の佇まいの福住の町
「SHUKUBA」と板書された本陣跡

福住宿跡は、篠山城跡がある丹波篠山市の中心街から東に約12キロ、大阪府の北端・能勢町天王の北約2キロのところに位置し、低い山々に囲まれた盆地だ。丹波篠山市と京都府亀岡市を東西に結ぶ国道372号と、大阪府池田市と京都府南丹市園部町を南北につなぐ国道477号の交差点から300メートル東に、現在も古い街並みが残っている。
私の家から20キロ北にあり、私は上記の交差点を何十回も車で通っている。しかし、福住の街が国道からそれているため、そこに宿場跡があるとは全く気付かないでいた。20年近く前、『四千万歩の男』(講談社文庫)を読んで、伊能忠敬にいくばくかの関心を持ったというのに、伊能の足跡があることを知らないできたのである。赤面の至りというほかない。
上記の国道372号が昔の西京街道である。元は幅5メートル程度の道であったが、現在、その大半が舗装された2車線の国道になっており、かつての面影はない。篠山藩主が参勤交代で江戸に向かう際、この街道を通って亀山(現・亀岡)を経て京に出たと思われる。そうであれば、福住宿は最初の休憩地になったであろう。という先入観をもってネットで福住宿を検索した。
丹波篠山市教委発行の「宿場町・農村集落――福住の町並み」と題する案内チラシがアップされていた。以下は同チラシからの引用である。
1609年、篠山盆地の中央に篠山城が築かれた。篠山藩は篠山城下を中心とする街道を整備した際、西京街道沿いの福住村を宿場に指定。福住は京や大坂と結ぶ交通の要衝であるため、本陣、脇本陣が置かれ、2軒の山田家が本陣、脇本陣を務めた。篠山藩の御蔵所が置かれ、米蔵、籾蔵を管理する役人詰所も設けられた。農家が旅籠を兼業し、旅客を泊めていた。1899年に京都・園部部間の京都鉄道(現・JR山陰線)が開通するまで、宿場町として繁栄した。
宿場の街道沿いに商家が軒を並べており、その多くは間口が狭く奥行きが深い構造。街道に面して母屋、奥に離れや土蔵、納屋を配置。敷地を土塀や板塀で囲んでいた。母屋の基本構成は妻入り、二階建て、桟瓦葺き。外壁は白漆喰仕上げか灰中塗り仕上げで、側壁に腰板を持つ例が多い。間取りとしては3室の座敷が2列に並ぶのが標準で、篠山藩を意識して土間を京都側(東側)、床の間を篠山側(西側)にする例が多い。篠山城下町の商家に比べて間口が大きいという特徴がある。
伊能忠敬が測量のため福住に泊まったのは江戸後期の文化年間である。この後の文政年間と合わせて、江戸では町人文化が大いに盛んになった時代だ。福住にもその影響が及んでいたであろう。
先にあげた測量日記によると、伊能が草鞋を脱いだのは本陣・庄屋、山田嘉右衛門方である。日記には百姓・五郎兵衛宅の名があり、こちらは測量隊員が泊まったと思われる。(続く)

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿001》文・写真 井上脩身

伊能忠敬の測量に思いはせる

『四千万歩の男』の表紙

『吉里吉里人』をはじめ、奇想天外な展開で読者を引きつける井上ひさしの作品群のなかで、『四千万歩の男』は綿密な調査、取材の上で書き上げた長編小説だ。主人公は精密な日本地図を作った伊能忠敬。江戸から蝦夷地に向かった第1次測量(1800年)を中心に、測量の苦労がビビッドに描き出され、読んでいて圧倒される。私が住む関西が全く触れられていないのがいささか不満であるが、最近、ふとしたことから隣町である丹波篠山市の福住という町に伊能の測量碑が建っていると知った。日本中を歩いて回った歩数、4000万歩のうちの一歩を刻んだ所というのだ。そこは西京街道の宿場町だったという。さっそく福住宿をたずねた。

第8次測量で丹波篠山に止宿

『伊能忠敬の日本地図』の表紙

伊能忠敬が日本地図を作ったことは小学校か中学校で習った。『四千万歩の男』は伊能の人物像を見事に表しているが、地図製作の全体像はいま一つ浮かんでこない。そこでまず渡辺一郎著『伊能忠敬の日本地図』(河出文庫)をひもといた。
伊能忠敬は1745年、上総(千葉県)九十九里浜の名主・小関五郎左衛門家の子として生まれた。17歳のとき佐原(現・香取市佐原)の酒造業・伊能家に婿入りし、商才を発揮したが、49歳で隠居。天文・暦学を志し、江戸に出て幕府天文方の高橋至時に入門した。「深川と浅草の距離を測れば地球の大きさがわかるのではないか」と考えた伊能に対し、高橋から「それは乱暴すぎる。蝦夷地辺りまで測れば妥当な数値が得られるかもしれない」とのアドバイスを受け、測量に乗り出した。
第1次測量は江戸・浅草を出発し、奥州街道を北上、津軽半島から津軽海峡を渡って渡島半島へ。襟裳岬から釧路を経て釧路半島の付け根(別海町)から折り返して、江戸に戻った。距離の測量はすべて歩数計測で行った。
第2次は1801年4月2日にスタート。伊豆半島、房総、仙台、三陸から下北半島の沿岸を測量。歩数でなく間縄を張って測量した。第3次は1802年、奥州の日本海側(出羽)と越後の沿岸に向かう。第4次は1803年、東海地方沿岸から名古屋を経て、敦賀から北陸沿岸へ。佐渡島に渡ったあと、上越路をとって江戸に戻る。
第5次からいよいよ西国測量。1805年、東海道を西に進み、紀伊半島をまわって大坂に到着。山陽道を下関まで西進し、山陰道を東に。若狭湾から大津に至る。第6次は1808年、東海道を大坂まで行き、淡路島を経て四国へ。帰途、紀伊半島を横断し、伊勢神宮に参拝して帰路に就く。第7次は1809年、九州東南部の測量。小倉から大分、宮崎を歩き、鹿児島から熊本へ。九州を横断し、本州内陸部から甲州街道を東に向かって新宿に至る。
第8次測量で本稿の主題である福住が登場する。
第8次を迎えたのは、第1次測量から11年がたった1811年、伊能忠敬66歳のときである。東海道、山陽道を経て、九州各地を測量し、佐世保で越年。年が明けた1813年、平戸から壱岐、対馬、五島列島をまわり、中国地方の内陸部に。松江、米子を経て岡山から姫路へ。ここで越年し、1814年、西脇、養父、豊岡、丹波など現在の兵庫県の各地を測量し、11月24日、篠山に到着した。
第8次伊能忠敬測量日記第25巻によると、篠山の最初の宿舎は追入村の本陣・喜蔵宅。その後、篠山城下・二階町の本陣・喜右衛門宅などに泊まり、三田をまわった後、再び喜右衛門宅に止宿し、4月1日、福住宿にやってきた。

(続く)

 

びえんと《川柳人・鶴彬の反戦魂002》文・井上脩身

戦時下俳句の証言

五七五といえば一般的にはまず俳句を思い浮かべるだろう。柄井川柳の名前を知る人は少ないが、芭蕉を知らない人はまずいない。では反戦俳句を詠んだ例はあるだろうか。
『戦時下俳句の証言』(高崎隆治著、新日本新書)を開いてみた。
同書は日中戦争開始から太平洋戦争の敗戦までの間に発表された俳句の中から約150点を収録、それぞれの句を著者が注釈している。戦地編と内地編に分けて編成されていて、残忍な句が多いのは、当然のことながら戦地編だ。目に留まった句を挙げる。(カッコ内は著者の注釈から引用)

童子死ねり浅き散兵壕に寄り
(童子は中国の少年兵。15歳前後。日中戦争当初から最前線で戦った)

憎しみもなく首を打つ日寒く
(中国兵の捕虜を日本刀で切った。しかし切ったのは作者ではない)

いま兵が死にゆく暖炉すでに消え
(作者は残された衛生兵。死ぬ者のために暖炉は必要ない)

忍従の兵這ひ泥土馬を喰ふ
(泥濘の中での言語に絶する苦闘)

一本の煙草吸ひ終へず睡魔くる
(極限状態の露営の句)

戦ひの下けふも生きて凍飯(こごり)食ひにけり
(飯盒飯が凍ると箸を突き立てることもできない)

兵かなし夢にふるさと見んと言ひぬ
(妻子ある年配の応召兵の作か)

戦友を焼くことに馴れゐて寒かりき
(遺体を焼きながら自分の運命に涙する)

冬の日や灰に残れる妻の文字
(行軍が苦しく、所持品を軽くするため妻の手紙を焼いた)

蠅が吸ふ捕虜の眼二つとも撃たれ
(目が見えず捕虜となった兵の目にたかるハエ)

灯(ひとも)せば火蛾より先に来る敵機
(制空権を完全に失った南方戦線)

たたかひは蠅と屍をのこしすすむ
(兵士の糞便と死体でハエが何万倍も増える)

酷熱の野を行く骨と皮の民
(近隣諸国の人々は日本の過去を許していない)

凍死人日ごと衣をはがれゐし
(上海での1939、40年ころの凍死者は年に2万人におよんだ)

これらの句は戦争のもつ非情さ、無残さを詠んだ秀句であろう。本のタイトル通り、歴史の証言でもある。この意味で非常に価値高い作品ではあるが、読み手を圧倒する迫力では鶴彬の川柳作品にはかなわない。芭蕉から正岡子規、高浜虚子らに至る俳句の流れをみると、作品にはいずれも気品があふれている。人間を将棋のコマよりも軽く扱う戦争という残酷な現実を表すのに、俳句は本質的に向いていないのであろうか。
川柳が俳句の半分でも浸透していたら、「戦時下川柳の証言」という本が生まれたかもしれない。

「新しい戦前」のなかで

本稿は『反戦川柳人鶴彬の獄死』という新刊本の書評を引用して書きはじめた。書評氏が「『新しい戦前』とも言われる時代に何ができるか、すべきかを考えさせられる」と結んだことはすでに触れた。
鶴彬が獄死したのは1938年。敗戦の7年前に当たり、まさに戦前、反戦川柳作家として精力的にかつ果敢に活動したのである。同書の著者、佐高信氏は「1910年の大逆時代を皮切りに、鶴の生きた時代をたどれば、それはそのままファシズム激化の時代である」と述べ、「1938年の国家総動員法の年に鶴はその生涯にピリオドを打たれる」と書く。鶴の死後、戦争は拡大の一途をたどり、210万人もが命を落とす悲惨な結末を迎えた。

「新しい戦前」と呼ばれるいま、鶴が獄死したころと似た状況にあるのだろうか。
まず踏まえておかねばならないのは「戦後」とは何かである。
私は1946年11月3日の憲法発布(施行は1947年5月3日)から戦後が始まると考えている。その憲法の根本は絶対に戦争をしないという決意である。戦争によって日本国内だけでなくアジアの人たちを悲劇の渦の中に巻きこんだ戦前・戦中という暗黒時代の反省から、国民の支持を得て生まれたのが憲法なのである。
政府は2022年12月、国家安全保障戦略の中に敵基地攻撃能力の保有を明記した。岸田文雄首相は北朝鮮や中国を念頭に、「わが国周辺のミサイル能力が向上しており、相手からのさらなる武力攻撃を防ぐために敵基地攻撃能力が必要」と説明、2113億円をかけてアメリカで開発された巡航ミサイル、トマホークを配備することを決定。2027年度までに防衛費を43兆円と現行の1・57倍に増額すると表明した。

安倍晋三政権下、憲法9条を強引に拡大解釈し集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした。ひどい憲法違反決定であるが、それでも一応、「自衛」という名目だけは残していた。「敵基地攻撃能力」は自衛すらもかなぐり捨て、積極的に相手を攻撃しようというものである。もはや憲法はなきものと言っても過言ではない。鶴が獄死したのは日中戦争が始まって2年目である。現在、中国とは戦争状態にはないが、岸田首相は繰り返し、中国の軍事行動について「深刻な懸念」と表明しており、日中間の軍事的緊張感は強まるばかりである。

実際に戦争が起きると、「万歳とあげて行った」ものの、「手と足をもいだ丸太」になるのだ。今できることは何か。川柳をかじったことのある一人として、鶴彬の川柳を少しでも多くの人たちに紹介し、読んでもらうことだろう。

本稿を自作の川柳句で締めくくりたい。

税金が上がる軍靴の音上がる       (完)

びえんと《川柳人・鶴彬の反戦魂001》文・井上脩身

ジョン・ウェインもびっくりトランプ西部劇

私が入っていた川柳の会に投句した句である。大統領在任中のトランプ氏の人種差別的傾向を詠んだのであったが、再選を目指した大統領選で敗れたあとの醜態をみると、冒頭の句の生ぬるさに恥じ入った。滑稽洒脱を表す川柳としては悪い句ではないが、しょせんは小手先だけの言葉遊びに過ぎないと、一種の自己嫌悪に陥り、1年前に会を辞めた。その後も、川柳はどうあるべきか、自問自答を繰り返し、悶々と日々を送るなか、戦前、鶴彬(つる・あきら)という川柳人がいたことを知った。

万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た

鶴彬のこの句に私が頭をガーンとたたかれるおもいがした。鶴彬は反戦のおもいを、マグマの噴出のように激烈に作句し、29歳で獄死したのであった。

心の奥深く食い入る作品

鶴彬を知ったのは、新聞の書評欄に出ていたからである。本は佐高信著『反戦川柳人鶴彬の獄死』(集英社新書)。書評には「筋金、しかも尋常でない太さと堅さを持った筋金入りの反戦反軍国主義人の評伝」とある。(6月24日、毎日新聞)
鶴彬の短い人生を紹介するには、この書評欄の記述が要領よくまとめられており、書評記事から引用したい。

鶴彬の本名は喜多一二(かつじ)。1909年、石川県に生まれ、若くして社会主義を学んだ。1930年、陸軍に入隊。2カ月後、3月10日の「陸軍記念日」、連隊長が「軍人勅諭」を「奉読」しているさなか、「連隊長、質問があります!」と突然申し出た。鶴は左翼思想を連隊内で拡大すべく活動。軍法会議で懲役2年を言い渡され、最下級の2等兵のまま除隊。

こうした中でも川柳句を作り、戦争にまみれた国と軍国主義を痛烈に非難し続けた。前述の句など、中国戦線で最前線に立った兵士たちを詠んだ作品を通して、戦争を始めた為政者たちは戦場の最前線には行かない、行く・行かされて心身にけがをしたり命を落としたりするのは庶民、という事実を鋭く突いた。日中戦争が始まって1年後の1938年9月14日、獄死した。

軍国主義、ファシズムと闘った「民衆柳人」の生き様を知るにつけ、「新しい戦前」とも言われる時代に何ができるか、すべきかを考えさせられる。と書評氏は結んでいる。早速『反戦川柳人鶴彬の獄死』を購入した。
鶴の作品が初めて世に出たのは1924年10月25日の北国新聞夕刊。治安維持法の制定(1925年)への動きなど、政府の思想弾圧が厳しくなりだしたころだ。

暴風と海との恋を見ましたか

早熟な才能が認められ、1925年、16歳のころから雑誌に寄稿し、川柳文壇に踏み出す。

出征の門標があってがらんどうの小店

屍のゐないニュース映画で勇ましい

鶴は師範学校進学を養父に認められず、養父が経営する機械工場で働き、劣悪な女子工員の労働実態を目にする。

もう綿くずを吸へない肺でクビになる

吸いにゆく?―姉を殺した綿くずを

18歳のとき東京へ出て井上剣花坊に師事。金融恐慌で倒産が相次いでいた。

目かくしをされて阿片を与えられ

釈尊の手をマルクスはかけめぐり

高く積む資本に迫る蟻となれ

都会から帰る女工と見れば病む

19歳のとき、高松プロレタリア川柳研究会の中心メンバーとなる。

人見ずや奴隷のミイラ舌なきを

鶴に対する官憲の目が厳しくなり、剣花坊の庇護を受けて作句。

屍みなパンをくれよと手をひろげ

プロレタリア生む陣痛に気が狂ひ

監獄を叩きつづけて遂に破り

1933年、金沢の第七連隊に入る。抵抗をつづけ、大半を監獄で過ごした。

出征のあとに食えない老夫婦

ざん壕で読む妹を売る手紙

暁をいだいて闇にゐる蕾

タマ除けを産めよ殖やせよ勲章やろう

鶴は800点以上の作品をかいた。すでに触れた「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」にみられるように、弾圧され、おそらく拷問されてもひるまずに作った句の激しい表現に読み手は圧倒される。
その最後の作品。

手と足をもいだ丸太にしてかえし

「人々の心の奥深く食い入る反戦平和の作品」と評価の高い傑作である。

(明日に続く)

 

 

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」03》文・写真 井上脩身

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」02》文・写真 井上脩身

生活力なき貴族のプライド

斜陽館裏手界隈(向こうの建物は斜陽館)

斜陽館近くでバスを降りると、リンゴの甘酸っぱいにおいがした。斜陽館観光の客目あてにリンゴ市場が開かれているのだ。そこから斜陽館は目と鼻の先。だいだい色の屋根に覆われた2階建ての住宅が、あたりを睥睨するように建っている。加えて通りに面してめぐらされた頑丈そうなレンガ塀が、「この中は特別地帯」とばかりに周囲を隔てている。

中に入ると、1階は江戸時代の宿場の本陣屋敷に見られる造り。座敷が幾重にも連なっており、主人である津島源右衛門が客人をもてなすために宴会を派手に行ったのでは、と想像をはたらかせた。私が興味をおぼえたのは2階に上がる階段と、2階の応接間だ。階段は勾配がゆったりとしているうえ、丁寧に細工が施された手すりがついている。鹿鳴館の影響を受けたのであろうか。応接室は20畳ほどの広さ。窓に取り付けられた調度品も気品があり、情趣あふれる部屋である。

明治に入って、薩長の志士たちが高い位を得て、文明開化時代の貴族となった。私は「斜陽館」の部屋々々を見てまわり、「津軽の貴族」という印象をもったのだった。源右衛門が貴族院議員になったのも、さもありなんであろう。

外に出て、斜陽館の周辺を歩いた。朽ちかけた家、古ぼけた家が多く、観光客も足を運ばない裏手の界隈はひっそりと沈んでいる。斜陽館以外は″斜陽地区″なのだ。

津軽鉄道の金木駅に向かった。さびれた線路のはるか向こうに岩木山のどっしりとした山容が曇り空の下でかすんでいた。一両の列車の窓から見た金木の里は、灰色にくすんでいて、斜陽館の屋根だけがつき出ている。

小説『斜陽』には太宰の生家はおろか、津軽そのものが登場しない。舞台は伊豆半島。「日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめ」に「東京の西片町のお家を捨て、伊豆のちょっと支那風の山荘に越して来た」姉と弟の物語だ。山荘は売りに出された河田子爵の別荘。いっしょに暮らしていた母が結核で亡くなり、姉は妻子のある恋人を、東京・西荻窪の六畳の間くらいの部屋にたずねる。すると「わあっわあっとひどく騒がしいお酒盛り」をしているところだ。「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」とだれかが言って、「ふざけ切ったリズムでもって弾みをつけて、無理にお酒を喉に流し込んでいる」のだ。

恋人は「僕は貴族はきらいなんだ」と言い、「あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出来の男なのだが、時々ふっと、とても附き合い切れない小生意気なところを見せる」と言い加える。

姉が伊豆に戻ると弟が遺書を残して自殺していた。弟は画家の奥さんに恋していた。「僕には、所謂、生活能力が無いんです。お金の事で、人と争う力がないんです」という弟は、姉の恋人から「それが貴族のプライド」と突き放され、「僕は、死んだほうがいいんです」と命を絶ったのだ。

弟は太宰自身であろう。文庫本(角川文庫)で200ページのごく一部を引き出しただけだが、以上をみても、テーマが「貴族の没落」であることは明らかだ。

考えてみれば、斜陽館そのものが没落貴族の象徴であろう。大地主であった太宰の生家は、戦後の農地解放で、かつての富豪も見る影なくズタズタにされたのだ。太宰はどう生きるべきか、その目標を見いだせなかったのかもしれない。

30年で首位から35位に

太宰が生きた戦前、わが国にも貴族がいた。公爵など爵位のある華族である。日本は戦後、憲法施行とともに華族制度が廃止され、法律上の貴族は存在しない。一方、イギリスでは「世襲貴族」と呼ばれる層が今なお存在する。爵位を世襲できる貴族のことで、2021年11月現在、公爵家30、侯爵家34、伯爵家191、子爵家111、男爵家443、計809家が世襲貴族である。「法の下の平等」という憲法の精神からすれば、華族制度がないわが国の方がはるかに全うだといえる。

しかし、これは法律上のことである。「世襲」自体はまかり通っているのだ。

岸田首相と長男、翔太郎氏(右)(ウィキベテアより)

岸田首相自身世襲3世であることは冒頭に述べた通りだ。その岸田内閣の全閣僚20人のうち、父親が国会議員だった者は首相も含めて8人。夫や叔父などの親族に国会議員経験者が要る人を含めると11人と過半数になる。首相だけに限ると、1996年に小選挙区が導入されて以降の12人のうち、世襲でないのは菅直人、野田佳彦、菅義偉の3氏だけ。自民党に限れば菅義偉氏以外はすべて世襲組だ。小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の各氏は父親と同じ選挙区を引きついだ。安倍、麻生両氏の祖父は首相を務めた岸信介、吉田茂各氏である。

世襲候補者が当選できる理由について、ジバン(地盤=後援会)、カバン(鞄=選挙資金)、カンバン(看板=知名度)を引きつげるから、と説明される。カバンだけでなく、ジバンもカンバンも潤沢な財源がなければ獲得できるものではない。岸田首相の場合、父文武氏が宮沢喜一元首相と遠縁に当たっており、岸田首相は岸田家一族の代表として首相に上り詰めたといえるだろう。

こうした家として独占的地位を獲得できる実態を見れば、もはや貴族というほかない。藤原氏や平氏にみられるように、その家の一員であるだけで、議員バッジはおろか大臣にまでなれるのだ。

「奢れる平氏」といわれた。貴族は奢れるのだ。翔太郎氏は昨年末、総理公邸で親戚と忘年会を開き、新閣僚が記念写真を撮るひな壇で写真撮影したことが週刊誌に報じられたが、岸田家4世としてのおごり以外の何ものでもあるまい。

「奢れる平氏」は「久しからず」とつづく。世襲が当たり前になると、世襲以外の者の活躍の場がなくなり、全体として活力が失われるのは火を見るより明らかだ。

スイスの国際経営開発研究所(IMD)が発表した2023年版「世界競争力ランキング」で、日本が前年よりランクを一つ下げ、世界35位となった。IMDは「政府の効率性」などの4項目で競争力を評価するもので、1989年から4年間は世界首位だった。今回の発表では、アジアに関してシンガポール(4位)、台湾(6位)、香港(7位)は別格として、中国(21位)、マレーシア(27位)、韓国(28位)タイ(30位)、インドネシア(34位)にも後れをとっている。

『斜陽』では、弟は「人と争う力がないんです」という。私も争うのは好きでないが、かといって「生活能力が無い」のは困りものだ。時代の行く先を読めぬ貴族が没落するのは世のならいではあるが、世襲政治の結果、わが国の競争力がガタ落ちしているならば、ことは深刻である。

貴族院議員という文字通り貴族政治家の父をもちながら、太宰は政治家を世襲せず、文学の世界に進んだ。彼の文学もそして生き方も破滅的であったが、文学界に大きな波紋を起こし、死後75年がたった今も世代を超えて数多くの太宰ファンがいることも確かだ。

わが国が斜陽状態を脱するためには、まず政治家の世襲を禁止すべきであろう。太宰の『斜陽』はそのことを教えているのである。(明日に続く)