宿場町シリーズ《有馬街道、小浜宿》文、写真 井上脩身

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歌劇の町の酒造りの村 ~種痘免許を持つ医師がいた~

除痘館が山中良和に発行した種痘医免許証(ウィキペディアより)

手塚治虫が『陽だまりの樹』をかきだして40年になると何かの記事でみて、この連載漫画をよんでみた。幕末の動乱に巻きこまれながら、種痘の普及につとめた医師、手塚良庵の物語だ。良庵は緒方洪庵の適塾に学んだという。適塾のホームページを開いてみて、適塾が運営する除痘館が摂津・小浜村の山中良和に種痘医免許証を出していることを知った。小浜は現在の宝塚市のほぼ中央に位置し、治虫が5歳のころから住んだ村だ。調べてみると小浜には有馬街道の宿場があり、山中家は宿場内で造り酒屋を営んでいたことがわかった。宿場跡は宝塚大劇場から東に1キロしか離れておらず、治虫も宿場跡を訪ねたにちがいない。歩きながら良仙と山中良和が治虫の頭の中で重なり合ったかもしれない。そんな思いにかられ、小浜宿跡をたずねた。 “宿場町シリーズ《有馬街道、小浜宿》文、写真 井上脩身” の続きを読む

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原発を考える《原発を止めた裁判官》文 井上脩身

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「住宅より耐震性低い」と指弾

樋口英明著『私が原発を止めた理由』(旬報社)の表紙

 2014年に大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じる判決を言い渡した元福井地裁裁判長の樋口英明さんが3月、『私が原発を止めた理由』(旬報社)を上梓した。樋口さんが全国各地で行ってきた「原発即時ストップ」を訴える講演内容をまとめたもので、原発が地震にいかに脆弱であるかが、きわめて平易に解説されている。判決は高裁で覆されたが、樋口さんの地震動に関する分析は司法内部に浸透、昨年12月、大阪地裁が同3、4号機についての国の設置許可を取り消す判決を下すことにつながった。樋口さんは「原発の耐震性は一般住宅より低い」と指摘する。福島事故を経験したにもかかわらず、この国では信じがたい事がまかり通っているというのである。 “原発を考える《原発を止めた裁判官》文 井上脩身” の続きを読む

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編集長が行く《コロナ禍のなかのオリンピック 下》Lapiz編集長 井上脩身

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昨日からの続き

選手と同じ高さで観戦

応援グッズを手に声援を送るプロ野球ファン(阪神甲子園球場で2014年4月20日)

阪神-ヤクルト戦での私たちの観戦位置からは選手を上からながめることになる。ボールを追う彼らの表情を自分の目ではとらえられない。それはやむを得ないことだが、私は甲子園球場で選手と同じ目線で試合を見る幸運に恵まれたことがある。
1999年の選抜高校野球大会であった。当時の甲子園球場のネット裏スタンド下に、アナウンス室があった。その隣が主催者席と審判団席である。グラウンドより50センチ高いだけで、いわば捕手とほぼ同じ目の高さで試合を見ることができるという、驚くほどの特等席だ。
私は主催新聞社にいたので、開会式の日に行われた沖縄尚学-比叡山戦を特等席から観戦した。七回、スクイズで沖縄尚学の三塁走者がホームをつく。キャッチャーがミットをつき出す。走者はタッチをよけようとする。アウトのタイミングだ。私の目には今も捕手のグローブが鮮明である。アンパイアがセーフの判定。これが運命の分かれ道になった。
沖縄尚学は1-0で比叡山を降すと、勢いにのって決勝戦まで進出。水戸商業に2点を先行されたが中盤に逆転、5-2で七回の攻撃を迎えた。沖縄尚学が勝てば、春夏を通じて沖縄県勢初の甲子園制覇である。その歴史的瞬間を目の当たりにしようと、私はアルプススタンドに走った。ホームランまで飛び出し、7-2と勝負は決定的に。応援席は指笛が吹き鳴らされるなど大騒ぎ。隣の男性が私の肩を抱いて「優勝や」と泣いている。おそらく大阪・大正区に住む沖縄出身者であろう。優勝が決まった瞬間、私はこの男性の手を握って祝った。
このときから、トップレベルの試合をグランドと同じ面で見たいと思うようになった。テレビで東大阪花園ラグビー場での試合を見ていて、デッドボールラインの外には高い観覧席がないことに気づいた。そこからなら選手と同じレベルで試合を見ることができるのでないか。そう考えて2015年12月、同ラグビー場で行われた大学選手権の試合を見にいった。はたしてデッドボールラインと観覧席の間には高さ70センチくらいの生け垣で仕切られているだけだ。同志社大-筑波大の試合が行われていた。
同志社は22-36で敗れたが、ウイングの選手が相手ディフェンスのすき間をついてトライをしたときの表情が忘れられない。スタンドに目をやり、りりしい顔をほころばせたのだ。グラウンドから見ればスタンドは高さ2・5メートルの壁の上だ。コンクリート壁は人を阻む冷たさがにじむ。だが、その壁を感じさせないホッとさせる空気が選手とスタンドの間を流れていた。

車イス選手に称賛の拍手

車イス競争でゴールし、笑顔をみせる女子選手(鳥取市の陸上競技場で2016年4月30日)

2016年4月30日、鳥取市の陸上競技場で行われたリオパラリンピック代表選考を兼ねたパラ陸上競技大会に私は足を運んだ。同大会が大阪以外で開かれるのは初めてといい、「障がい者スポーツに関心をもってほしい」と手をあげた鳥取県の意気に共感し、観戦しようと思ったのだ。
義足をつけているとは信じがたいほど軽快に走る選手、走り幅跳び競技で砂を勢いよくまきあげる選手、片腕だけでヤリを遠くまで投げる選手、そして車イスを巧みに操ってゴールに駆け込む選手――私には何もかもが新鮮であった。リオ大会の代表の座を射止めた選手たちの晴れ晴れとした表情に、私まで心が晴れるおもいであった。
同県は人口が約57万人と全国で最も少ない。観覧席もメーンスタンドが使われただけで、私の目分量では観衆は2000人程度であった。しかし、選手たちは送られる拍手に、両手をあげて応えていた。なかでも私が感動をおぼえたのは女子車イスのレースに出た一人の選手だった。年齢は40歳前後であろう。100メートルであったか200メートルであったか、レースの種目は記憶がない。彼女は他の選手から大きく引き離され、えっちらほっちらという感じで車輪をまわす。そしてゴールをするとスタンドの方に目をやり、満足そうに微笑んだ。「ようやった」「えらいぞ~ぉ」。あちこちから称賛の声がとび、スタンドは明るい笑いにつつまれた。
彼女はリオパラリンピックに毛頭縁がない。だが、間違いなく、彼女と観衆との間に言い表せない心の通い合いがあった。私から見れば彼女こそこの大会の主役だったのである。

ただのメダル争奪戦か

今年4月28日、政府、大会組織委員会、東京都、国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)の5者協議で、東京オリンピック、パラリンピックの国内観客について、6月に結論を先送りすることで合意。組織委の橋本聖子会長は記者会見で「ギリギリの判断として無観客という覚悟をもっている」と述べた。
すでに海外からの観客を受け入れないことは決定されている。5月に入っても大阪府、兵庫県では医療崩壊状態が収まっていないうえ、東京都をはじめ全国的に医療現場では逼迫しており、オリンピックを開くとしても無観客は避けられない見通しだ。では、スタンドを空にしてまで大会を開く意味はどこにあるのだろう。
白血病と闘って復活してきた池江璃花選手の水泳を見たい、と多くの人はおもう。彼女のことだからメダルをとれるのでは、と夢を膨らます人もいる。池江選手自身、次回のパリ大会で大きく花を開かせるためにも、東京オリンピックは是が非でも出場したいだろう。
だが、オリンピックは単なる競技会ではない。「平和の祭典」といわれるように、近代の人類が考え出した世界規模のお祭りなのである。岸和田だんじり祭りは、だんじり(地車)の屋根の上で繰り広げられるスリルあふれる演技が最大の見せ物だ。だが誰一人見る人がいなければ、演芸大会になり得ても、お祭りとはいえない。いうならば、食べる人がいないのに料理を作るようなものだ。料理人が腕を振るい、食べる人が「おいしい」と喜ぶことで食文化は成り立つ。スポーツもアスリートの奮闘と観客の感動があってはじめて文化として成立するのだ。そこにさまざまな味つけが施されて祭りになる。無観客では、お祭りどころか、文化的要素の欠いたメダル争奪戦でしかない。

ウソで始まりウソで終わる?

オンラインで開かれた5者協議(ウィキペデアより)

コロナ禍で自粛暮らしがつづくなか、女子駅伝写真の選手たちを見ると、しおれかった心が水を得て生き返る心地がする。彼女たちは今、27~28歳であろう。マラソンや長距離走の代表選手にはなれなかったようだ。陸上は続けているのだろうか。引退してお母さんになっている人がいるかもしれない。もちろん私は彼女たちと何のつながりもない。だが、テレビ画面でしか知らないシドニーオリンピックのゴールドメダリスト、高橋尚子さんよりはるかに親近感をおぼえるのだ。
札幌で行われたテスト大会では、無観客のはずなのに、見物客で密になった所もあることが問題になっていた。これでは本番が思いやられるというのである。何とも奇妙な話だ。無観客が徹底できなかったのが問題なのではなく、無観客にしてまで開催することが問題なのではないのか。と誰も思はないのであれば、その方がさらに問題なのかもしれない。
考えてみれば、安倍晋三前首相が原発事故の後始末について「アンダーコントロール」とウソを言って誘致したことから東京五輪話は始まった。昨年3月24日、1年延期が決まったとき、安倍氏は「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして完全な形で開く」と述べた。仮に開催するとなれば「打ち勝った証し」もウソになる。そもそも真夏の東京で開くこと事態が間違いと指摘された2020東京オリンピック。ウソで始まりウソで終わるのであろうか。(完)

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編集長が行く《コロナ禍のなかのオリンピック 上》Lapiz編集長 井上脩身

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――無観客でも開くという邪道――

高校駅伝で入賞争いをするアンカーの女子選手(京都市の西大路三条で2011年12月25日)

私は自宅の壁に、額にいれた一枚の写真をかけている。2011年12月25日、京都で行われた全国高校駅伝競走大会での女子選手を沿道から撮った一点だ。選手の、うちからみなぎる力を感じるこの写真は私のお気に入りなのだ。オリンピックマラソンコースでテスト大会を兼ねて札幌チャレンジハーフマラソンが無観客で行われた5月5日も、いつもの朝のようにこの写真の前でテレビ体操をした。写真には観客が写っていないが、沿道は観衆の熱気に包まれていた。かりにオリンピック、パラリンピックが無観客で行われるならば、大会としての意味をなすのであろうか。そもそもオリンピックとは何なのだろう。スポーツ観戦が好きな私であるが、コロナ禍のなか、「何としてでも開催する」というIOCや政府の姿勢に素朴な疑問をおぼえた。

ケニア留学生の高校駅伝

高校駅伝で独走するワンジル選手(京都市北区烏丸紫明付近で2002年12月22日)

私が住む兵庫県では1月13日に2回目の緊急事態宣言が発令され、2月28日に解除された後、一時、まん延防止等重点措置実施地域に指定、4月25日、3回目の緊急事態宣言が発令された。行動自粛が求められるなか、私に与えられた「編集長が行く」企画をどうするか、頭を悩ました。冒頭に述べた女子駅伝写真はLapizの編集長を引き受けて1カ月後に撮影したものだ。「編集長が行く」企画の写真になり得る、とひらめいた。
この駅伝大会にはいささかの思い出がある。
私は高校生の書道大会の開催事業にかかわったことがある。2002年、ケニアから陸上選手として仙台育英高校に留学していたサムエル・ワンジルさんが「国際高校生選抜書展」で大賞を受賞。その彼が同校のエースとして駅伝大会の1区に出場することになり、私は写真を撮りに行ったのだ。京都市北区の烏丸紫明付近で待ち構えていると、ワンジル選手はトップを独走、区間賞を獲得した。彼が2年後の3年生のときに3区でだした22分40秒は今なお区間最記録である。
ワンジル選手は2007年の福岡国際マラソンで優勝し、ケニア代表として2008年の北京マラソンに出場。レース用シューズをケニアに忘れ、しかたなく練習用シューズで試合に臨んだが、2時間6分32秒という五輪新記録で金メダルに輝いた。ケニアのヒーローとして脚光を浴びたが、2011年5月、ケニアの自宅バルコニーから転落して死亡。後頭部に殴打痕があることから他殺の疑いがもたれた。
私は彼の死を新聞報道で知って、烏丸紫明のカーブを、まるでNHKの取材バイクを従えるように颯爽と走る姿を思い浮かべた。沿道からは大きな歓声とためいき、そして拍手。彼は観衆が発する感動の息吹の中であればこそ、その韋駄天ぶりが光輝いたのだ。北京でも晴れやかな光芒のなかを走ったはずだ。その栄光からの暗転に思いをはせていて、1964年の東京オリンピックでの一コマが蘇った。

アベベ選手と円谷選手

東京五輪マラソンでトップを走るアベベ選手(1964年10月21日=ウィキペデアより)

1964年の東京オリンピックが開幕する1カ月近く前、友人に「陸上競技の入場券が2枚あるから」と誘われ、私は国立競技場でオリンピックを見ることができるという幸運にワクワクした。ところが約束の10月21日、いくら待っても会うはずの場所に彼はやってこない。あきらめて競技場近くをうろうろしていると、広い道路の歩道に大変な人垣ができていた。もうすぐマラソンランナーがもどってくるというのだ。
20分ほど待っていると一人の黒人選手がダントツで走ってきた。エチオピアのアベベ選手だ。
アベベ選手は東京の前のローマ大会で裸足で走り、金メダルをとった。たまたまシューズが壊れ、現地で合う靴がなかったため裸足で走ったと後に伝えられが、エチオピアでは裸足で走っていたらしい。「裸足のアベベ」は彼のトレードマークになっていた。
私は彼の足に視線を向けた。白色のシューズを履いている。その白が秋の日を受けて鮮やかに私の目に映った。だれかが「靴で走ってる」と驚いた声が今も耳の奥に残る。アベベについての私の記憶はその靴だけだ。彼が何色のシャツやパンツであったかは全く覚えていない。いや、よく見ていなかったのかもしれない。
アベベからかなり遅れて円谷幸吉選手がやってきた。あごを上げ、苦しそうに体を揺らしながら必死に走っている。素人目にも限界ぎりぎり。見ている方も胸が裂かれそうな思いになる。「ガンバレ、つぶらや」。悲痛な声援を耳に受け入れる余裕はなかっただろう。彼はイギリスの選手にデッドヒートのすえ、ゴール寸前に追い抜かれた。ということは競技場の外にいた私は知らない。後で銅メダルだったと知った。当然、人は「もうちょっとで銀メダルだったのに」と残念がる。しかし、私は「死ぬ思いでゴールにたどりついたのだ」とおもった。
円谷選手はその後、持病の腰痛が悪化、脊椎版ヘルニアの手術を受けたが復調できず、1968年、自ら命を絶った。アベベ選手は3連覇を目指して次のメキシコ大会に出場したが途中棄権。半年後、アジスアベバ郊外で自動車事故を起こし半身不随に。ミュンヘン大会にはゴールドメダリストとして招かれたが、1年後、脳内出血で死亡した。
ワンジル選手、アベベ選手、そして円谷選手。私はたまたま沿道から彼らを目にしただけに、その早すぎる死にやるせない思いがつのる。なぜ彼らは死なねばならなかったのか。世界のトップランナーとは真逆の、平凡な人生をたどってきた私に解けるはずはないが、他人事ではない気がするのだ。

沿道がにぎやかな箱根駅伝

箱根駅伝で力走する選手(神奈川県平塚市花水台付近の国道1号で2017年1月2日)

沿道での観戦といえば、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)にまさるにぎやかな大会はないであろう。私は2017年1月2日、3区から4区につなぐ平塚中継所の近くで観戦した。
ランナーが到着する1時間以上前から、駅伝コースである国道1号の歩道はぎっしりと人でつまっていた。私は花水川にかかる橋のたもとに、人垣をかきわけて陣取った。取材ヘリがトップを行く選手の上空を飛んでいるので、選手の現在地の見当はつく。観衆は配られた主催新聞社の小旗を手に、かたずをのんで待ちかまえる。
冬とは思えないほど穏やかな日和であった。海は目の前である。マリンスポーツのメッカである相模湾のビーチから、かすかに潮の香が漂ってくる。加山雄三の「若大将シリーズ」の場面を思い描いていると、トップのランナーが姿を見せた。予想通り青山学院の選手だ。小旗が激しく振られる。青学の卒業生と思しき中年の女性が「アオガク、アオガク」と金切り声をあげている。女性は選手を追おうとしたが、歩道は満員電車なみにギューギュー詰めなので身動きできない。最終ランナーが目の前を走り抜けたころ、取材ヘリは旧東海道の名残である大磯の松並木の上空辺りを飛んでいた。
このときも私は写真を撮るのが目的だった。純粋に声援目的という意味では、2014年4月の阪神甲子園球場での観戦が懐かしい。私は根っからのタイガースファンである。趣味の川柳の仲間に誘われてヤクルト戦を、小型バットをかたどったカンフーバットなどの応援グッズを手にアルプススタンドの中段から声援。点の取り合いになり、手に汗をにった。ラッキーセブンには風船を思いきり飛ばすなど、私たちは大いに発散したものだ。(明日に続く)

 

 

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びえんと《コロナ禍の医療崩壊》Lapiz編集長 井上脩身

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~命の危機にさらされる国民~

本田宏著『日本の医療崩壊をくい止める』(泉町書房)の表紙

憲法記念日の5月3日、新聞に意見広告が掲載された。市民の意見30の会・東京による全面広告で「武力で暮らしは守れない!」の大見出しがつけられている。意見は4項目あり、そのうちの「生存権を脅かすな」のなかの「感染症病床が1998年9060床から2020年1869床へと激減」との記述に目が留まった。この意見広告が出たとき、我が国は新型コロナウイルス第4波の渦中にあり、東京都、大阪府、京都府、兵庫県で緊急事態宣言が発令中であった。なかでも大阪府では重症患者が重症病棟のある病院に収容されないという医療崩壊が始まっていた。兵庫県でも入院待ちの感染者が自宅で死亡するなど深刻な事態に陥り、東京都でも医療逼迫が差し迫っていた。欧米に比べ感染者が桁違いに少ない日本での医療後発国現象である。その原因が、意見広告がいうように感染所病床の減少であるならば、病床削減政策をとった政治責任は重大である。 “びえんと《コロナ禍の医療崩壊》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

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