Lapiz22夏号Vol.42宿場町《東海道・二川宿2》文・写真 井上脩身

楽器奏でにぎやかに行進

江戸上りの一行を描いた絵図

琉球王国では1835年に第18代尚育が王に就任。しかしその数年前から尚育は摂政として実質的に王位についていた。その即位の謝恩として尚氏豊見城王子朝春を正使、毛氏澤岻親方安度を副使とする使節団を江戸に派遣することになった。一行は1832年6月8日、那覇港を出立。鹿児島に着いたところで8月27日、すでに述べたように豊見城王子朝春が死亡した。そこで賛議官の向氏普天間親雲上朝典を正使にしたのである。現代感覚なら副使を正使に昇格、少なくとも正使の代役にするのが普通だが、琉球王国の立場の低さのせいか、あるいは島津藩の考えによってか、王子に年格好が似た普天間親雲上を身代りにしたのであろう。9月1日、鹿児島をたった。ここから伏見まで船で行き、伏見から東海道を東に向かった。
このときの様子を描いたとみられる絵図が残っている。正使はコシに乗っており、その前後を数人が馬にのってしたがっている。さらに前後を数十人が徒歩でつきしたがっている。「豊見城王府」と書かれた看板のようなものを持つ人、「金皷」の旗を掲げる人、そして太鼓をたたいたりラッパ状の楽器を吹き鳴らす人。にぎやかに行進したようである。
よく見ると、従者は長い外套をまとい、丸形の帽子をかぶっており、いかにも民族衣装ふうである。7、8年前、首里城の売店で買った『琉球・沖縄史』(沖縄歴史教育研究会編)によると、「江戸上り」そのものは島津氏が仕向けた幕藩体制国家への服属儀礼だった。一行の服装は、高官が中国風、従者が琉装で、異国風にするのが慣例。しかも島津氏にともなわれて行くのがならわしだった。
琉球では従属を意味する「江戸上り」ではなく「江戸立」という表現が用いられていたという。一行の構成は正使、副使、賛議官、掌翰使、楽団、儀衛正、楽童子など総勢約100人。旅程は300日で、江戸滞在は1か月。学者や芸能家らとの交流もあり、琉球文化に影響を与えた。
ラッパのような楽器を吹いていたのは楽団員だったわけだ。一行は外見上は陽気に二川宿に到着したのであろう。
本陣の表入り口には定紋入りの幔幕がはられていた。コシから降りた正使、豊見城王子朝春いやその替え玉、普天間親雲上朝典はこの幔幕の下を通り、だだっ広い玄関で馬場家当主の出迎えを受けたはずである。当主は正使が替え玉であったことに気づかなかったにちがいない。島津氏の指示で普天間親雲上朝典は豊見城王子になりすまされていたと思われるからである。王子として御上段の間に通され、その隣の八畳の間にはお目付け役である島津藩の家臣が陣取ったであろう。
本陣の記録では泊まったのは38人。楽団らの従者は旅籠に分宿したようだ。「豊見城王子朝春」の宿泊代は銀2枚。松平美濃守の4割である。料理内容も4割だったのであろうか。
一行は11月16日に江戸に到着。江戸城に登城し朝覲(ちょうきん)の礼を行った。朝覲とは属国の主などが君主に拝謁すること。普天間親雲上朝典は「豊見城王子朝春」として11代将軍家斉に拝謁したであろう。本来の身分ではあり得ないことだけに、彼は胸が張り裂けんばかりに緊張したに違いない。
一行は12月3日、江戸をたって帰途につき、12月12日、再び二川宿本陣に立ち寄る。小休止だった。この時も名義は「琉球人御使(豊見城王子)」である。

工夫凝らす本陣資料館

定紋入り幔幕がほどこされた本陣跡の表入り口
駕籠かきに声を掛ける武士を表した模型

本稿の冒頭、二川宿本陣跡が豊橋市の二川宿本陣資料館となっていることを紹介した。私が訪ねたのはいうまでもなく資料館であるが、ここでは「旧本陣」と表記したい。
旧本陣はJR二川駅から、幅約5メートルの旧東海道を東に歩いて15分くらいのところ。裏手はJR東海道線の線路である。入り口の脇に高札場が復元されていて、「人馬の駄賃やキリシタン禁令の高札が掲げられた」という。旧本陣の中に入り、たくさんの部屋を通りぬけて上段の間に。床の間に富士山が描かれた軸がかけられている。私は大阪から東京に向かう中学校の修学旅行で、浜松の手前で富士山を遠望したのを思いだした。普天間親雲上朝典は二川宿辺りで富士山を見たかもしれない。琉球からはるばる江戸に向かう謝恩使一行。初めて見る雪かぶる富士にどれほど感動しただろうか。富士山が見えることは江戸に近くなったことを意味する。替え玉による将軍への拝謁など前代未聞であろう。まかり間違えば切腹ものだ。「豊見城王子朝春」である朝典はどのような心境だったのだろう。
白亜の蔵は史料の展示場として使用されており、「松平美濃守宿」と墨書された関札がかけられている。天保8年4月4日に宿泊したとき、この札が門前に掛けられたとある。この資料館は宿場の状況を知ってもらうことにも力を注いでおり、街並みの模型が展示されている。馬にのる旅人、客寄せする旅籠の女性、大きな荷物を背負う商人ら、行き交う人々の様子が丁寧に表現されている。また道中姿の旅人の実物大模型では、武士が駕籠かきに声を掛けている様子を表すなど、入場者を飽きさせない工夫が随所にこらされている。
外に出て、表入り口の前にたった。今も定紋入り幔幕がほどこされており、格式の高さを実感させる。玄関から通りに出ると、「市川屋」「島屋」など、かつて旅籠だった民家が並ぶ。謝恩使の従者たちはこれらの旅籠に泊まったのかもしれない。

ネットには戸田氏庸筆という「普天間親雲上朝典像」がアップされている。戸田氏庸は大垣藩藩主で、1796年、将軍家斉に拝謁し、「豊見城王子朝春」が江戸上りしたころは従四位下の位を得ている。戸田はあるいは江戸城で普天間親雲上朝典を目にしたのであろうか。その肖像画には、朝典は生真面目そうな人物に描かれている。朝典は「わた津海の底より出て日のもとのひかりにあたる龍の宮人」という和歌を残している。彼は「豊見城王子朝春」として、竜宮城に行ったような夢の旅をしたのであった。(完)

Lapiz22夏号Vol.42宿場町《東海道・二川宿1》文・写真 井上脩身

替え玉の琉球使節が泊まった本陣

歌川広重画東海道五拾三次ノ内二川」(ウィキペディアより)

愛知県に住む友人が長篠の古戦場など、居住地周辺を案内してくれ、その一つに、旧東海道の二川宿本陣跡があった。本陣跡は豊橋市の二川宿本陣資料館として江戸時代の姿を再現展示しており、観光名所にもなっている。私は展示内容を紹介するカタログを買い求め、ページをめくったところ、「琉球人御使(豊見城王子)」という記述に目が留まった。天保3(1832)年11月、琉球王国の使節として将軍に拝謁するために江戸に向かった琉球国の王子が二川宿本陣に宿泊したというのだ。これまであちこちの宿場跡を訪ねたが、琉球の王子が泊まったという記録に触れたのは初めだ。調べてみると、王子は鹿児島で急死しており、本陣に姿を見せたのは替え玉であった。

江戸上りの豊見城王子

豊見城王子の身代りとなった普天間雲上朝典の像(ウィキペディアより)

琉球に王国が誕生したのは1429年。尚巴志が統一をなしとげ、首里城を整備した。その分家として、豊見城王子朝良(1662~1687)を元祖とする豊見城御殿(とみぐすくうどぅん)と呼ばれる大名が誕生。その七世として1831年、朝春が豊見城王子になった。
江戸時代になって琉球王国が薩摩の島津氏の支配を受けたことから、琉球国王が即位した際に謝恩使を、将軍が代替わりした際に慶賀使を江戸に派遣。「江戸上り」と呼ばれ、1634年から1850年まで18回行われた。1710年の江戸上りでは二世の朝匡が謝恩使として派遣されており、1832年は朝春が謝恩使の大役を担うことになった。
豊見城御殿としては約80年ぶりの謝恩使である。朝春はさも胸躍るおもいであっただろう。ところが、江戸に向かう途中の鹿児島で朝春は急死、普天間親雲上朝典が替え玉になった。親雲上(ぺーちん)は中級士族に相当する称号である。

本陣経済の一端を表す宿帳

旧東海道に面した二川宿本陣跡の外観

二川宿は江戸から数えて33番目、遠江から三河に入って最初の宿場にあたる。文政3(1820)年の記録では、約1・3キロの街道に沿って306軒の家があり、人口1289人。本陣が1軒、脇本陣2軒、旅籠30軒の比較的小さな宿場であった。「豊見城王子」が江戸上りをした1832年、人口1413人と住人は増えたが、その他は変わることはなかったであろう。
二川宿は愛知県の東部にあり、浜名湖の西10キロの所に位置している。宿場西端の見附近くに「立場茶屋」という茶店があり、馬引きの休憩所だった。東にしばらく進むと問屋場と高札場。そのすぐそばに脇本陣。さらに東に本陣がある。
二川宿では江戸時代当初から後藤五左衛門家が本陣職を務めていた。間口22間の建物だったが、たびたび火災に遭って後藤家は没落。寛政5(1793)年、紅林権左衛門が後藤家を継ぎ、数十メートル西に本陣を新築したが、文化3(1808)年に火災に見舞われ本陣職を辞任。馬場彦十郎がその後を引き継ぎ高札場近くに本陣を構えた。馬場家は明治3(1870)年まで本陣職を務めており、「豊見城王子」が宿泊したのは馬場家本陣である。

替え玉の豊見城王子も泊まったと思われる上段の間

天保年間後期(1840年ころ)に作成された本陣見取図によると、床面積614平方メートルの屋内に35室があり、玄関だけでも24畳もあるスケールの大きさ。大名が寝泊まりする「御上段」は8畳、大名のための湯殿は3畳の広さ。安政年間(1860年ころ)に増改築し、床面積は771平方メートルに拡張。この本陣増改築に要した経費は428両(3340万円)。資金の出所は類焼拝借150両(1200万円)、御役所拝借20両(160万円)、馬場家用意258両(2070万円)=1両8万円として計算=だった。本陣職は相当の豪商でなければ務まらなかったのだ。
本陣の建物は明治以降も馬場家の住居として使われ、1985年豊橋市に寄贈。同市は2年後の1987年に市の史跡に指定した。こうしたことから、本陣が安政年間の建物に近い形で現存しているのが最大の特徴。さらに興味深いのは文化4(1807)年から慶応2(1866)年までの宿帳33冊が残っていることだ。宿帳は「御休泊早見」「御通行日記」「御休泊記録」の3種類から成っており、愛知県の有形民俗文化財に指定されている。
天保8(1837)年4月4日、筑前藩主松平美濃守が宿泊したときの日記には、「御宿料銀5枚、献上物なし、御上下37人様、御一人付412文」などと記されている。銀5枚は3両2分余り、馬場家から宿泊客への献上物はなかった。宿泊したのは37人、一人の宿代は412文なので合計額は15貫260文だった。
以上は一例である。本陣経済の一端を示しているだけでなく、参勤交代で各藩がどれほどの経費負担をしたかを知るうえでも貴重な記録である。(明日に続く)

宿場町シリーズ《東海道・水口宿 下》文・画 井上脩身

夏の風物詩のかんぴょう干し

宿場を貫く旧東海道

与力は宿場役人を案内人にして、竜馬がいる部屋の明かり障子を開ける。同心3人が部屋に踏み込み、竜馬の両腕をとろうとすると、竜馬は筆で「なんすれぞ、土佐守家来に無礼はするぞ」と大書きした。藩士に対して、奉行所役人は司法権をもってない。与力はその場を立ち去った。
そのとき、遠くでけたたましい呼子笛の音がきこえはじめた。竜馬は大刀を落とし差
しにし、笛の方に向かう。足軽町に出たところで、大小をとりあげられた播磨之介が捕吏の六尺棒にかこまれて、竜馬の前を通った。
「水口宿絵地図」には足軽町はない。地図の西の方(京より)に小坂町があり、その文字の下に(百間長屋)と、カッコつきでかき添えられている。 “宿場町シリーズ《東海道・水口宿 下》文・画 井上脩身” の続きを読む

宿場町シリーズ《東海道・水口宿 上》文・画 井上脩身

宿場の江戸口に当たる東見附の跡

『竜馬がゆく』の舞台の街並み

 いっかいの剣術つかいだった坂本竜馬が倒幕の志士に変わったのはいつか。司馬遼太郎の代表作『竜馬がゆく』(文春文庫)を読んでいて、興味深い記述にであった。竜馬が土佐に帰る途中、水原播磨之介と出会い、東海道を同行。播磨之介は内大臣三条実万に仕え、水戸の徳川家から三条家への密書を帯びて京にもどろうとしていた。幕府が反幕運動の封じ込めを強めるなか、播磨之介が水口宿で捕り方につかまったのを機に竜馬は天下というものを考えるようになる。もちろん小説の上での話だが、水口宿での出来事だけで14ページにおよんでいる。大長編『竜馬がゆく』のなかで、街道の宿場がこれほど長々と舞台になった例はほかにない。司馬は水口への強い思い入れがあったのだろうか。 “宿場町シリーズ《東海道・水口宿 上》文・画 井上脩身” の続きを読む

宿場町シリーズ《西国街道・昆陽(こや)宿》文・写真 井上脩身

歴史家・頼山陽が好んだ伊丹酒
――漢詩に酔い心地をうたう――

頼山陽像(ウィキベテアより)

 西国街道・昆陽宿は伊丹の酒蔵の街の西約2キロのところに位置し、酒好きたちの宿泊地や休憩所として利用された。『日本外史』を書いて尊王攘夷派の志士たちに強く思想的影響を及ぼした頼山陽(1780~1832)もその一人だ。故郷の広島から京都に戻る途中、昆陽宿に立ち寄り、六甲の山並みがかもすおだやかな風景を詩によみ、伊丹で心地よく酒をたのしんだという。なかでも「剣菱」が山陽好みの銘柄だった。剣菱は私も大好きだ。燗酒が飲みたくなる晩秋のある昼さがり、わたしは山陽の足跡をたどろうと、昆陽宿から伊丹の酒蔵街へと歩いた。 “宿場町シリーズ《西国街道・昆陽(こや)宿》文・写真 井上脩身” の続きを読む

宿場町シリーズ《山陰道・樫原(かたぎはら)宿 下》文・写真 井上脩身

江戸の面影のこす本陣建物

明智川の異名がある山陰道沿いの川

7月末、35度を超える猛暑のなか、樫原を訪ねた。桂駅のすぐそばに大宮社という小さな神社がある。松尾七社の一社とされ、ここから西に向かって幅5メートルの道をすすむ。旧山陰道である。道沿いに小畠川という細い川が流れている。「明智川」という異名がある。あるいは亀山(現亀岡)から老ノ坂を越えた明智光秀が、この川のあたりで「敵は本能寺にあり」とゲキをとばしたのかもしれない。 “宿場町シリーズ《山陰道・樫原(かたぎはら)宿 下》文・写真 井上脩身” の続きを読む

宿場町シリーズ《山陰道・樫原(かたぎはら)宿 上》文・写真 井上脩身

蛤御門の変の3志士竹やぶに眠る 

蛤御門の変(禁門の変)が起きた京都御所の門

阪急の桂駅(京都市西京区)からバスで老ノ坂峠に向かう途中、古い町家が建ち並ぶ街を通った。後で調べると、樫原(かたぎはら)という旧山陰道の宿場であり、幕末の動乱の渦のなかで起きた蛤御門の変(禁門の変)のさい、ここで長州勢の3人が非業の死をとげたと知った。老ノ坂峠は平安時代の伝説「大江山の鬼退治」の舞台とされ、私はその現地をたずねようとしていたのだった。幕府にとって、長州は鬼だったであろう。時代が変わると、退治されるはずの鬼が鬼神にまつりあげられることはよくある。この3人はどうであったのだろうか。 “宿場町シリーズ《山陰道・樫原(かたぎはら)宿 上》文・写真 井上脩身” の続きを読む

宿場町シリーズ《有馬街道、小浜宿》文、写真 井上脩身

歌劇の町の酒造りの村 ~種痘免許を持つ医師がいた~

除痘館が山中良和に発行した種痘医免許証(ウィキペディアより)

手塚治虫が『陽だまりの樹』をかきだして40年になると何かの記事でみて、この連載漫画をよんでみた。幕末の動乱に巻きこまれながら、種痘の普及につとめた医師、手塚良庵の物語だ。良庵は緒方洪庵の適塾に学んだという。適塾のホームページを開いてみて、適塾が運営する除痘館が摂津・小浜村の山中良和に種痘医免許証を出していることを知った。小浜は現在の宝塚市のほぼ中央に位置し、治虫が5歳のころから住んだ村だ。調べてみると小浜には有馬街道の宿場があり、山中家は宿場内で造り酒屋を営んでいたことがわかった。宿場跡は宝塚大劇場から東に1キロしか離れておらず、治虫も宿場跡を訪ねたにちがいない。歩きながら良仙と山中良和が治虫の頭の中で重なり合ったかもしれない。そんな思いにかられ、小浜宿跡をたずねた。 “宿場町シリーズ《有馬街道、小浜宿》文、写真 井上脩身” の続きを読む