編集長が行く《北海道・礼文島 01》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)

文島で観測された金環日食(ウィキペディアより)

取り残されたメルヘンの島
 9月末、北海道北端の礼文島を訪ねた。私が小学校4年生の教科書に、礼文島で撮影された金環日食の写真が掲載され、子ども心ながら礼文島に夢世界を思い浮べたのだ。大人になって、そのことはすっかり忘れていたが、2012年7月21日、近畿で282年ぶりという金環日食を観察したことから、礼文島への憧憬が心の中で再びわきあがり、今年、ようやく実現したしだいだ。そう大きくはないこの島の景観は変化に富んでいて、四季折々、場所によってさまざまな顔をみせる。厳冬期には流氷で閉ざされることもあり、生活をするうえでは不便このうえない島ではあるが、それが結果としてメルヘン世界が今も広がっているように思えた。経済性というモノサシでは評価は低いであろうが、メルヘン度という尺度があるならば、極めて高い評価を得るのではないか。 “編集長が行く《北海道・礼文島 01》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)” の続きを読む

編集長が行く《宇治市ウトロ地区 国際人権法を武器に民族差別と闘う 002》Lapiz編集長 井上脩身

国連がウトロ救済に動く

 祈念館の敷地に移築された民家

前項で見た通り、水道が通るまで戦後33年も要したのである。山間へき地ではない。宇治市の住宅街でのことだ。これ自体信じ難い差別扱いだが、ことはこれだけでは済まなかった。水道工事が始まるのをあざわらうかのように、ウトロの全住民を被告とする「建物収去土地明け渡し訴訟」が提起されたのだ。ひらたく言えば、ウトロから出て行くよう求める裁判である。敗訴となればウトロの人たちはたちまち路頭に迷うはめになる。

この裁判は卑劣な仕業というほかない。水道施設設置に同意した日産車体は宇治市に同意者を提出したその日に、ウトロ自治会長を名のるQなる人物に土地を3億円で売買する契約を締結。Qは西日本殖産という有限会社を設立し、Q自らこの会社に4億4500万円で売却した。いわゆる地上げだ。その西日本殖産が提訴したのである。

裁判で被告の住民側が「20年間所有の意思で平穏かつ公然に他人のものを占有した者はその所有権を取得する」との民法の取得時効の規程に基づき、自分たちに土地・建物の所有権があると主張。これに対し、原告は「ウトロは飯場であった。建物は労働者の所有物であるはずがない。被告側はいつから飯場であった建物に対して所有の意思をもったのか」などと追及。双方が真正面からぶつかり合う中、京都地裁はウトロ住民が一括買い取ることを条件に14億円の価格を示して和解勧告を行った。住民側に買い取る資力はなく、応じられるはずがなかった。裁判は住民敗訴となった。

ウトロ住民側は控訴審に向けて立て直しを図らねばならなかった。勝ち負けは死活問題なのだ。『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』の著者でウトロを守る会副代表の斎藤正樹氏は、甲山事件の支援活動を行った経験をもつ。斎藤氏は国際人権法に居住の権利があることに着目した。

国際人権法は、第二次大戦後国連憲章に人権保護が規定されたことに基づき、国際法の一分野として整備された。批准した国は、世界人権宣言を制度化した国際規約(社会権規約)と、市民的権利に関する国際規約(自由権規約)に拘束される。しかし、自由権規約について、法務省は執行力を持たないとの立場。社会権規約については最高裁が判決で直接適用は認められないとしている。要するにわが国は人権保護に関して極めて消極的な国なのである。

だが住民側は国際人権法を盾に法廷闘争に打って出た。同書によると、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)11条に「締約国は、住居を内容とする適切な生活水準についてのすべての者の権利を求める」と規定。この権利は、「人間としての尊厳が認められる場所で生活する権利」であり、「自己所有、賃貸、避難所、不法占拠などいかなる形態の占有者も、強制立ち退きからの法的保護を保障される」と解釈されているという。

住民側はこの権利に基づき「(強制立ち退きを認めた)地裁判決は憲法98条(国際法規順守)に違反する」と主張した。しかし、2000年6月、大阪高裁は社会権規約に基づく住民の主張を退け、敗訴となった。同年11月、最高裁は上告を棄却、立ち退き判決は確定した。

赤ちゃんを抱き上げる父親(移築民家内の展示写真より)

だが、国際法を振りかざした法廷闘争が敗訴確定後、大きな成果を得ることになった。国連人権高等弁務官事務所に訴えたところ、2001年8月、スイス・ジュネーブの同事務所でウトロ問題について審査が行われた。日本政府の代表は「住民と不動産業者の民事上の争い」としながらも「ウトロ地区の新たな街づくり計画が進行中であり、行政側として支援したい」と答えた。2006年1月、国連人権理事会委員会はさらに一歩進め、「日本政府はウトロ住民がこの土地に住み続ける権利を認めるための適切な措置をとるべき」と報告した。ウトロの立ち退き問題は国際問題に発展したのである。

2007年12月、国交省、京都府、宇治市によって「ウトロ地区住環境整備改善検討委員会」が発足。同地区内に市営住宅を建設することになった。2018年4月、5階建ての伊勢田ウトロ市営住宅(40戸)が完成。住民や支援者ら約200人が焼き肉パーティーを開いて完成を祝った。現在、その隣に2棟目の住宅が建設中である。

 団結誓う「オモニのうた」

話をウトロ平和祈念館展示場の「はじめに」に戻そう。冒頭の言葉のあと、「朝鮮人労働者とその家族はこの地で厳しい環境に負けず、懸命に働き、助け合いながら活動してきた」といった内容の文言がつづく。「懸命」と「助け合い」が、国際人権法の居住の権利を引きだし、立ち退きを阻止したうえ、市営住宅新築へとつながったのであろう。裁判では負けたが実質的には勝利したのだ。ましてや放火犯の卑小な差別意識に負けるはずがなかった。この祈念館はその勝利の証しなのである。

展示場に入る。展示品の多くは写真パネルである。ウトロ地区の上空写真に胸が痛んだ。狭い道路の両側に軒を連ねる家々はどう見ても物置き小屋だ。屋根はつぎはぎされたり、すっぽりと屋根板が抜けていたりして、人の住居としては極めて劣悪だ。戦災を受けた日本の多くの街ではこのような状態であったと思われるが、やがて新たな街に変わった。しかしウトロでは何ら改善されずに放置されたのだ。

そんななかでも、赤ちゃんを抱き上げる男性の写真を見ると、その表情に明るさが感じられる。縄跳びをする女の子たちのほがらかな笑いに心がなごむ。結婚したばかりと思われる若い夫婦のきりっとした目は、将来の希望を見ているようだ。そんななか、目を奪われたのが民族教育の教室前に勢ぞろいした制服姿の女生徒たち。みんな背を伸ばしきりっとカメラに向かっている。少女たちの意気込みが白黒写真に映し出されている。

1953年の台風でウトロが浸水したことはすでに触れた。その後も浸水被害を受け、2008年6月、4戸が床上で浸水した。そのときの写真が展示されている。しゃれたふすまに赤茶色くにじんだ跡が残っており、「大雨のたび水害がこわい。土地のない生活をしたい」という住民の悲しげな顔は、見る者まで心が曇る。「土地のない生活」というのは近代的アパートをさすのであろう。市営住宅建設は立ち退き対策であるとともに、浸水対策でもあるのだ。

母親の思いを込めた「オモニのうた」(祈念館パンフレットより)

すでに触れたように、2000年に立ち退き判決が確定したが、敗訴なんのそのとばかりに2002年2月、「われら 住んでたたかうウトロ団結集会」がウトロ地区内で開かれ、「オモニのうた」と題する集会宣言がなされた。その「オモニのうた」も展示されている。

 いやや!
どんなことがあっても 私はよそへは行かないよ
(略)
私はひとりぐらし……
この年まで学校には縁がない
具合の悪いときは
近所の人が本当によくしてくれる
(略)
私はウトロのオモニだから
みんな「私」だと知っているから……
どこかよそでは こうはいかないよ
このまちを離れたら
私は私でなくなる……

祈念館の敷地の隅に古い住宅が保存されている。中に入ると十数点の写真が壁に掛けられている。その中の一つ、6人の子どもとともに写るお母さのこわばった表情が印象的だ。「オモニのうた」をおもった。「この子ら守るためにどんなことがあってもよそには行かない」。そんな強い決意を内に込めているように見えた。立ち退きという不条理にうちかったのは、オモニの心の強さがあったから、と私は理解したのである。                               完

編集長が行く《宇治市ウトロ地区 国際人権法を武器に民族差別と闘う 001》Lapiz編集長 井上脩身

~立ち退き拒否貫いた在日コリアン~

2021年8月30日、在日コリアンが多く集まる京都府宇治市伊勢田町ウトロで放火事件があった。住宅など7棟が焼けたほか、建設中の「ウトロ平和祈念館」での展示が予定されていた資料50点が焼失、22歳の男が逮捕、起訴された。被告は「在日コリアンに恐怖を与えようとおもった」と、在日コリアンへの差別・憎悪をあらわにし、京都地裁で開かれた公判では「平和祈念館の開館阻止が目的だった」と動機を語った。しかしこの事件にもかかわらず平和祈念館は2022年4月に開館、ウトロの人たちの差別と闘った歴史を学ぶ場になっているという。事件から1年がたつのを機に、同祈念館を訪ねた。

水道のない見捨てられた街
 ウトロ平和祈念館は近鉄京都線伊勢田駅西約600メートルの住宅街の一角にあり、ガラスばり3階建てで、床面積は300平方メートル。2、3階が展示室だ。
私は1階の事務所で斎藤正樹氏が著した『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』(東信堂)を参考資料として買い求め、2階に上がった。その入り口に掛けられた「はじめに」と題する説明パネルには「ウトロ地区の始まりは戦争中、京都飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者の飯場(宿舎)」とある。

 前掲書によると、1938年、日本政府は宇治市と久御山町にまたがる300万平方メートルの土地に、飛行機製造工場と乗員養成所を併せ持つ京都飛行場の建設を決定。40年に起工式が行われ、41年、ウトロ地区を含む土地約2万1000平方メートルを買収、陸軍の軍需産業であった日本国際航空工業(日産車体の前身)名で所有権登記がなされた。

 飛行場建設工事は労働者2000人、機関車27台、トロッコ600台を要し、安い労働力として1300人の朝鮮人労働者が集められた。この多くは朝鮮半島慶尚南道の農民出身者で、家族持ちも少なくなく、ウトロ地区に設けられた飯場長屋に寝泊まりさせられた。彼らは丘陵の竹やぶをスコップで切り開き、土砂をトロッコに積み込み、滑走路に土砂を降ろすなどの重労働に従事させられた。1945年7月、飛行場は米軍の爆撃を受けて建物が壊滅。日本人女学生6人が犠牲になったが、ウトロの飯場は直撃を免れた。

 戦後、同飛行場は占領軍に接収され、米軍大久保キャンプになった。朝鮮人は何ら補償のないまま飯場に取り残された。民族の誇りを忘れなかった彼らは1945年9月、飯場長屋の間仕切りを取り払って教室にし、子どもたちに母国語を教えるための国語講習所をスタートさせた。やがてウトロは朝鮮半島に帰る人たちの中継基地となり、情報センター的役割を担うようになった。しかし、こうした在日朝鮮人のための活動はGHQと日本政府の弾圧の対象になり、民族学級は閉鎖させられた。

 1953年の台風13号でウトロの60戸すべてが浸水し、97世帯が生活保護を受けることになった。生活苦からヤミ米の買い出しやドブロクの密造などで切り抜ける人もいて、警察に摘発される事態になりながらも、ウトロの人たちは必死に生きた。だが日本が驚異的に復興をしていく中、ウトロ地区は地主である日産車体の承諾がないという理由で、上水道も引かれず、宇治市から事実上見捨てられた。

 1979年、ウトロの住民代表が宇治市に水道を敷設するよう要望。日本人市民が「ウトロに水道施設を要望する市民の会」をつくって後押ししたこともあって日産車体も水道施設に同意。1988年、ようやく配水管埋設工事が始まった。
明日に続く

22年夏号Vol.42 編集長が行く《性犯罪とウクライナ戦争の本質》Lapiz編集長 井上脩身

フラワーデモの準備をする人たち(この後、撮影禁止のプラカードを掲示し、輪になって性被害問題を語り合った)

 ウクライナ戦争反対集会があるとネットで知り、4月11日、会場である大阪市北区中之島の中央公会堂前広場にでむいた。開始時刻になると11人(女性10人、男性1人)が姿をみせ、街灯のそばで輪になった。リーダーと思われる人が性被害に遭った女性の手記を読み上げた。傍らには「同意なき性行為は犯罪です」などと書かれた数点のプラカードが立て掛けられ、うち1枚には「撮影禁止」と大きく書かれている。頭の中で描いていた反戦集会のイメージとは全く異なる雰囲気なので、私はしばらくして立ち去った。帰りの電車の中で気づいた。ウクライナに攻め込むロシア軍の行っていることは、性犯罪と同根なのではないか、と。性被害の観点からウクライナ戦争をみれば、プーチン大統領の本質に迫ることができるかもしれないと思った。 “22年夏号Vol.42 編集長が行く《性犯罪とウクライナ戦争の本質》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《社会的欲求不満の暴発か?》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

クリニック放火殺人事件犯の動機を探る

現場周辺の上空写真(2021年12月18日付毎日新聞より)

2021年12月17日、大阪市の心療内科クリニックで放火され、クリニックの院長(49)や患者ら25人が死亡する悲惨な事件が起きた。容疑者の男T(61)は死亡し、犯行動機は永遠のナゾである。現場は以前私が勤めていた会社のすぐ近くにあり、毎日のようにクリニックが入っている雑居ビルの前を通っていた。事件の数日後、現場を訪ねた。クリニックを覗くことができれば、動機をうかがわせる何らかのヒントがあるのでは、と思ったからである。だがビルの入り口は青いシートで覆われており、捜査関係者以外は中に入れない。何か手がかりはないかと調べてみると、東京のある心療内科医がコロナ禍のなかの人々の心理的不安について、マズローの欲求5段階の欠如を指摘していることがわかった。 “編集長が行く《社会的欲求不満の暴発か?》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 下》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

木曽殿と背中合わせ

芭蕉の墓・義仲寺

『芭蕉「越のほそ道」』は上下2段290ページにわたる大著である。松本氏の調査力には頭が下がるが、俳諧の神髄が義仲の国造りの理想とは相通じることから、芭蕉は義仲に強い思いを抱いた、というのはムリがあるように私はおもう。国造りならば、その形をつくりあげたのは頼朝だ。だが頼朝に心を寄せた気配は全くない。要するに芭蕉は義仲が好きだったのだ。でなければ「義仲寺に葬ってくれ」と遺言するはずはない。ではなぜ義仲が好きだったのか。 “編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 下》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 上》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

~義仲寺で俳聖の心をさぐる~

義仲寺

新型コロナウイルスの新規感染者が減少し、緊急事態宣言が解除された10月初旬、大津市のJR膳所駅に近い義仲寺をたずねた。木曽義仲をまつるこの寺に松尾芭蕉も葬られ、墓が隣り合っていると聞いたからである。芭蕉は「おくの細道」の旅で、源義経の終焉の地とされる奥州・平泉の衣川をたずね、「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な句を詠んでいる。素人めには、義経に思い入れが強かったとみえる芭蕉がなぜ、義仲のそばで死後を送ろうとしたのだろう。来年は『おくの細道』が刊行(元禄15=1702)されて330年になる。俳聖の心の奥をうかがってみたくなったのである。 “編集長が行く《墓仲間・芭蕉と木曽義仲 上》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《広島原爆の日に西宮大空襲 002》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

置き去りの空襲被災者

国は1953年、恩給法の改正で旧軍人に対する恩給制度を復活させ、普通恩給(本人に対する給付)、扶助料(遺族への給付)の支給をはじめた。さらに「戦傷病者、戦没者遺族等援護法」を制定、軍属、準軍属や遺族、戦傷病者にも給付対象とすることになった。しかし、戦災に遭った普通の市民やその遺族は何らの援護の対象にもならず、何の補償も受けられなかった。「国土防衛の戦士」とされながら、民間の空襲被害者は置き去りにされたのである。(写真) “編集長が行く《広島原爆の日に西宮大空襲 002》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《広島原爆の日に西宮大空襲 001》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

空襲を受けた地域を示す西宮市の地図(ウィキベテアより)

被災者に一切救済ない戦後
 広島に原爆が落とされた1945年8月6日、兵庫県西宮市南部が空爆され、その被災者の一人が大阪空襲訴訟の原告になっていたことを最近知った。同訴訟は「空襲の被害を受けたのは国に責任がある」として、被災者や遺族23人が2008年に訴えを提起。大阪訴訟に先立って07年に提訴された東京空襲訴訟の上告審で、最高裁は13年、「立法を通じて解決すべき問題」と判示し原告側を退けた。 “編集長が行く《広島原爆の日に西宮大空襲 001》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《コロナ禍のなかのオリンピック 下》Lapiz編集長 井上脩身

昨日からの続き

選手と同じ高さで観戦

応援グッズを手に声援を送るプロ野球ファン(阪神甲子園球場で2014年4月20日)

阪神-ヤクルト戦での私たちの観戦位置からは選手を上からながめることになる。ボールを追う彼らの表情を自分の目ではとらえられない。それはやむを得ないことだが、私は甲子園球場で選手と同じ目線で試合を見る幸運に恵まれたことがある。
1999年の選抜高校野球大会であった。当時の甲子園球場のネット裏スタンド下に、アナウンス室があった。その隣が主催者席と審判団席である。グラウンドより50センチ高いだけで、いわば捕手とほぼ同じ目の高さで試合を見ることができるという、驚くほどの特等席だ。
私は主催新聞社にいたので、開会式の日に行われた沖縄尚学-比叡山戦を特等席から観戦した。七回、スクイズで沖縄尚学の三塁走者がホームをつく。キャッチャーがミットをつき出す。走者はタッチをよけようとする。アウトのタイミングだ。私の目には今も捕手のグローブが鮮明である。アンパイアがセーフの判定。これが運命の分かれ道になった。
沖縄尚学は1-0で比叡山を降すと、勢いにのって決勝戦まで進出。水戸商業に2点を先行されたが中盤に逆転、5-2で七回の攻撃を迎えた。沖縄尚学が勝てば、春夏を通じて沖縄県勢初の甲子園制覇である。その歴史的瞬間を目の当たりにしようと、私はアルプススタンドに走った。ホームランまで飛び出し、7-2と勝負は決定的に。応援席は指笛が吹き鳴らされるなど大騒ぎ。隣の男性が私の肩を抱いて「優勝や」と泣いている。おそらく大阪・大正区に住む沖縄出身者であろう。優勝が決まった瞬間、私はこの男性の手を握って祝った。
このときから、トップレベルの試合をグランドと同じ面で見たいと思うようになった。テレビで東大阪花園ラグビー場での試合を見ていて、デッドボールラインの外には高い観覧席がないことに気づいた。そこからなら選手と同じレベルで試合を見ることができるのでないか。そう考えて2015年12月、同ラグビー場で行われた大学選手権の試合を見にいった。はたしてデッドボールラインと観覧席の間には高さ70センチくらいの生け垣で仕切られているだけだ。同志社大-筑波大の試合が行われていた。
同志社は22-36で敗れたが、ウイングの選手が相手ディフェンスのすき間をついてトライをしたときの表情が忘れられない。スタンドに目をやり、りりしい顔をほころばせたのだ。グラウンドから見ればスタンドは高さ2・5メートルの壁の上だ。コンクリート壁は人を阻む冷たさがにじむ。だが、その壁を感じさせないホッとさせる空気が選手とスタンドの間を流れていた。

車イス選手に称賛の拍手

車イス競争でゴールし、笑顔をみせる女子選手(鳥取市の陸上競技場で2016年4月30日)

2016年4月30日、鳥取市の陸上競技場で行われたリオパラリンピック代表選考を兼ねたパラ陸上競技大会に私は足を運んだ。同大会が大阪以外で開かれるのは初めてといい、「障がい者スポーツに関心をもってほしい」と手をあげた鳥取県の意気に共感し、観戦しようと思ったのだ。
義足をつけているとは信じがたいほど軽快に走る選手、走り幅跳び競技で砂を勢いよくまきあげる選手、片腕だけでヤリを遠くまで投げる選手、そして車イスを巧みに操ってゴールに駆け込む選手――私には何もかもが新鮮であった。リオ大会の代表の座を射止めた選手たちの晴れ晴れとした表情に、私まで心が晴れるおもいであった。
同県は人口が約57万人と全国で最も少ない。観覧席もメーンスタンドが使われただけで、私の目分量では観衆は2000人程度であった。しかし、選手たちは送られる拍手に、両手をあげて応えていた。なかでも私が感動をおぼえたのは女子車イスのレースに出た一人の選手だった。年齢は40歳前後であろう。100メートルであったか200メートルであったか、レースの種目は記憶がない。彼女は他の選手から大きく引き離され、えっちらほっちらという感じで車輪をまわす。そしてゴールをするとスタンドの方に目をやり、満足そうに微笑んだ。「ようやった」「えらいぞ~ぉ」。あちこちから称賛の声がとび、スタンドは明るい笑いにつつまれた。
彼女はリオパラリンピックに毛頭縁がない。だが、間違いなく、彼女と観衆との間に言い表せない心の通い合いがあった。私から見れば彼女こそこの大会の主役だったのである。

ただのメダル争奪戦か

今年4月28日、政府、大会組織委員会、東京都、国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)の5者協議で、東京オリンピック、パラリンピックの国内観客について、6月に結論を先送りすることで合意。組織委の橋本聖子会長は記者会見で「ギリギリの判断として無観客という覚悟をもっている」と述べた。
すでに海外からの観客を受け入れないことは決定されている。5月に入っても大阪府、兵庫県では医療崩壊状態が収まっていないうえ、東京都をはじめ全国的に医療現場では逼迫しており、オリンピックを開くとしても無観客は避けられない見通しだ。では、スタンドを空にしてまで大会を開く意味はどこにあるのだろう。
白血病と闘って復活してきた池江璃花選手の水泳を見たい、と多くの人はおもう。彼女のことだからメダルをとれるのでは、と夢を膨らます人もいる。池江選手自身、次回のパリ大会で大きく花を開かせるためにも、東京オリンピックは是が非でも出場したいだろう。
だが、オリンピックは単なる競技会ではない。「平和の祭典」といわれるように、近代の人類が考え出した世界規模のお祭りなのである。岸和田だんじり祭りは、だんじり(地車)の屋根の上で繰り広げられるスリルあふれる演技が最大の見せ物だ。だが誰一人見る人がいなければ、演芸大会になり得ても、お祭りとはいえない。いうならば、食べる人がいないのに料理を作るようなものだ。料理人が腕を振るい、食べる人が「おいしい」と喜ぶことで食文化は成り立つ。スポーツもアスリートの奮闘と観客の感動があってはじめて文化として成立するのだ。そこにさまざまな味つけが施されて祭りになる。無観客では、お祭りどころか、文化的要素の欠いたメダル争奪戦でしかない。

ウソで始まりウソで終わる?

オンラインで開かれた5者協議(ウィキペデアより)

コロナ禍で自粛暮らしがつづくなか、女子駅伝写真の選手たちを見ると、しおれかった心が水を得て生き返る心地がする。彼女たちは今、27~28歳であろう。マラソンや長距離走の代表選手にはなれなかったようだ。陸上は続けているのだろうか。引退してお母さんになっている人がいるかもしれない。もちろん私は彼女たちと何のつながりもない。だが、テレビ画面でしか知らないシドニーオリンピックのゴールドメダリスト、高橋尚子さんよりはるかに親近感をおぼえるのだ。
札幌で行われたテスト大会では、無観客のはずなのに、見物客で密になった所もあることが問題になっていた。これでは本番が思いやられるというのである。何とも奇妙な話だ。無観客が徹底できなかったのが問題なのではなく、無観客にしてまで開催することが問題なのではないのか。と誰も思はないのであれば、その方がさらに問題なのかもしれない。
考えてみれば、安倍晋三前首相が原発事故の後始末について「アンダーコントロール」とウソを言って誘致したことから東京五輪話は始まった。昨年3月24日、1年延期が決まったとき、安倍氏は「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして完全な形で開く」と述べた。仮に開催するとなれば「打ち勝った証し」もウソになる。そもそも真夏の東京で開くこと事態が間違いと指摘された2020東京オリンピック。ウソで始まりウソで終わるのであろうか。(完)