編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

――朝鮮戦争の軍需列車阻止の闘い――

『朝鮮戦争に「参戦」した日本』の表紙

1950年に始まった朝鮮戦争の休戦協定が成立して今年で70年になる。あくまで休戦であって戦争が終わったわけではない。2018年6月と19年2月、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩最高指導者の間で米朝首脳会談が行われたが、何ら進展はなかった。むしろ双方の緊張状態は一層深刻化、さながら米朝冷戦真っただ中の様相である。もし朝鮮半島が有事になればどうなるか。朝鮮戦争では、武器や爆弾を運ぶ軍需物資輸送網が日本中にしかれた。戦争を止めるためは輸送ルートを食い止めるしかない――という実験のような事件が実際にあった。吹田事件である。我が国周辺の緊張が高まるなか、反戦運動のためにどこまで体をはれるのか。それが知りたくて吹田事件の現場をたずねた。 “編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

3・11特集 原発を考える《脱原発への5アンペア暮らし#2》文 井上脩身

エアコンを使わない生活に

箒で掃除をする斎藤氏(ウィキペデアより)

2012年7月、斎藤さんの5アンペア暮らしが始まった。それまで40アンペアで生活していた斎藤さんにとって、いきなりの電気8分の1ライフである。その気持ちを、バットの振り方も知らない者がプロ野球の打席に立って試合に臨むようなもの、と斎藤さんはたとえる。

5アンペアで一度に使えるのは500ワットまでだ。洗濯機や冷蔵庫を使ってもブレーカーは落ちないか、などとそのつど不安にかられる暗中模索の新生活であった。福島では線量計を持ち歩いて被ばく量を測っていた。そのときの「数字見える化」を応用すればいいと考え、消費電力測定器を購入した。家電のプラグを測定器に差し込むだけで何アンペアの電流がながれているかが分かる計器だ。

まず扇風機を測った。風量「弱」では0・3アンペア、強風で0・6アンペア。エアコンの15分の1から30分の1しか電気を消費しないことがわかった。ついで全自動洗濯機。「洗い」「すすぎ」「脱水」という一連の流れのなかでアンペアは0・8→1・6→0・0→1・2→0・6→1・8と目まぐるしく変動した。冷蔵庫は測定器をセットした段階では0・8アンペア。とびらを開けると1・6アンペアと2倍に。「冷蔵庫の開閉は短時間に」との省エネ教科書記載通りの結果だった。

こうした見える化によって、冷蔵庫を開閉しなければ、洗濯機を4アンペア使ったうえ、さらに照明も可能であることが判明。扇風機を「強」の0・6アンペアで動かしても、2・6アンペアのテレビを見ることができる。しかしテレビをつけたまま洗濯機を動かすと7アンペアを超えるので、同時には使えないこともわかった。

こうしてアンペアデータを得たことによって、10アンペアになるエアコンの使用をやめた。電子レンジ(10アンペア)、トースター(同)、5合炊き炊飯器(13アンペア)、ドライヤー(10アンペア)、たこ焼き器(8アンペア)、掃除機(強10アンペア、弱5アンペア)なども使うのをやめた。条件付きで使うことにしたのは42型液晶テレビ(2・6アンペア)、320リットル冷蔵庫(0・8~2アンペア)。今まで通り使うのは乾燥機能のない洗濯機(0・8~4アンペア)、蛍光灯(0・5アンペア)、ノートパソコン(0・2~1アンペア)。

これまで使ってきた家電を使わないとなると、暮らしの在りかたを変えねばならない。夏、浴室でシャワーを浴びた後、体をあまり拭かずに扇風機にあたると、水滴が蒸発して体温を奪い、心地よい涼しさを感じることができた。「エアコンで得られない至福の時間がもたらされた」と斎藤さん。掃除機に代えたのが箒。舞いあがるホコリを防ぐために、濡らした新聞紙を小さく切って部屋にばらまいてから掃くという、昔ながらのやり方をはじめた。電子レンジに代えて金属製の蒸し器を使用。電気炊飯器に代えて鍋で炊くと、炊飯器よりもおいしく炊けた。

こうした5アンペア暮らしによって、7月18日から30日間の使用量は59キロワット時、電気料金1208円。福島にいた前年の同じ月は133キロワット時なので56%減少した。冷蔵庫を使わなかった11月の使用量は11キロワット時、電気料金は285円。1年前に比べ86%も減った。

太陽光発電でテレビ見る

斎藤氏宅の太陽光発電装置(ウィキペデアより)

5アンペア暮らしが軌道にのった2013年9月、今度は名古屋に転勤になった。南にバルコニーとベランダがある2階建ての一軒家を借りた。同年12月の電気使用量が2キロワット時にまで減少したのを機に、斎藤さんは太陽光発電所の建設に着手した。

現在普及している太陽光発電は、電力会社の電線とつないで、発電した分を電力会社が買い取る方式だが、斎藤さんが目指したのは独立型太陽光発電。自分がつくる電気を自分で使う自産自消電力だ。5アンペア暮らしなのだからソーラーパネルは1枚でまかなえると考え、ネットショップで約3万3000円の50ワットセットを注文。自分で組み立てて室内に設置した。太陽にパネルを向けると発電ランプが点灯し、独立太陽光発電所が稼働をはじめた。斎藤さんは「健康第一電力」と命名。後にベランダにパネルを取り付けた。(写真上)

斎藤さんの計算では、1日に3時間太陽が当たるとすれば、発電量は150キロワット時。50ワットのテレビなら1日に3時間は見ることができる。1カ月のうち20日間発電できれば、3キロワット時になり、斎藤家の使用電力をほぼまかなえるという。

考えてみれば、テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の三種の神器が登場する以前の昭和30年代初めまで、ほとんどの日本の家庭では、電気製品といえば電灯と扇風機、アイロンしかなかった。5アンペア暮らしは当たり前だったのである。

高度経済成長期以前の暮らしに戻ることは現実には不可能であろう。大半の人にとって5アンペア生活はムリだとしても、斎藤さんの試みは、電気浪費時代の今、大いに注目されてしかるべきだ。私の極めて大雑把な提案だが、一人の基準を10アンペアとし、家族が一人増えるごとに5アンペア分プラスできることにしてはどうか。夫婦二人なら15アンペア、4人暮らしなら25アンペアになる。これならそうムリせずに暮らせるはずだ。強制すべきでないことは言うまでもないが、国民すべてがそうした気持ちをもてば、「原発は要らない」が国民世論になるにちがいない。(完)

3・11特集 原発を考える《脱原発への5アンペア暮らし#1》文 井上脩身

斎藤健一郎氏(ウィキペデアより)

 福島県で原発事故に遭遇したのを機に、わずか5アンペアでの暮らしをはじめた新聞記者がいる、と聞いた。調べてみると、朝日新聞の斎藤健一郎記者。『5アンペア生活をやってみた』(岩波ジュニア新書)を著しており、さっそく読んだ。震災の半年後、東京に異動。街はこうこうと明かりがともり、無用な電力が消費されている。「原発に頼らない暮らしをするためには、徹底した節電しかない」と、電力会社との最低電力契約である5アンペアに切り替えたという。岸田文雄首相が原発の新増設を進めようとしているなか、「原発反対」を口にするだけでは政府の原発路線を食い止めることはでない。斎藤さんの取り組みは、反原発運動の在り方に一石を投じる実験といえるだろう。

合格発表場に放射能入りの雪
東日本大震災が発生した2011年3月11日、朝日新聞の郡山支局員だった斎藤さんは同市内の自宅にいた。2階建ての木造住宅の窓枠が大きくたわみ、地震体験装置に放り込まれたような揺れを感じた。住宅は半壊と認定された。JR郡山駅前に向かったあと、白河市内で起きた大規模地滑り現場へ走った。10棟が泥の下になり、幼児を含む13人が犠牲になった。通信状況が悪い中、何とか送稿できたが、記事は掲載されなかった。原発事故という、わが国未曾有の事態に立ち至ったからだ。

 地震発生から5日後、斉藤さんは白河市内の高校で合格発表を待つ受験生を取材。そのとき、雪が横殴りに吹き付けてきた。男子受験生が「これ、死の雪じゃねえ? 放射能入りだろ?」とおどけた。その場にいた受験生たちの緊張がとけ、笑い声がおきた。斎藤さんも悪い冗談だとおもいながら、いっしょになって笑った。

 だが、笑いごとではなかった。事故を起こした福島第一原発から漏れだして風に乗った放射性物質が、西南に80キロ離れた白河市には15日から、合格発表があった16日にかけてふったのだ。普段は毎時0・05マイクロシーベルトしかない放射線量が、7マイクロシーベルトと140倍も跳ね上がっていた。「放射能入りの雪」は真実であった。「マスコミは何もしらせなかった」と批判されたが、斎藤さん自身、何も知らされず、受験生らとともに放射能を浴びたのだった。

 斎藤さんは白河から取材拠点を福島県の災害対策本部に移した。県庁横の県自治会館に急ごしらえで設けられた同本部では、東京電力をはじめ県や国の職員が24時間体制で事故情報の収集や県民の避難指示に当たっており、報道各社も24時間体制で張り付いていた。

3月18日、東電の常務が謝罪にきた。常務が「収束に向けて一丸となって作業を進めている」と述べてその場を立ち去ろうとしたとき、地元記者が「福島に希望があるのでしょうか?」と問いかけた。すると常務は表情を崩し、声をあげて泣きはじめた。斎藤さんは、ここにいるだれもが、東電幹部でさえ、事故をどう収束させたらいいのかわからないのだ、と思った。

 4月になって学校が始まると、子どもの被ばくをどう防ぐかが課題になった。校庭で剥がした汚染土の処理について郡山市が住民説明会を開くと、「校庭を汚したのは東電だろ」と、はげしい怒りの声があがった。健康被害が起きるのか、起きるとすれば何年後なのか。専門家の意見もまちまちで、福島県民のほとんどが大混乱に陥った。斎藤さんもそうした一人だった。

一番少ないアンペア契約

こうこうと明かりがともる東京の夜景(ウィキペデアより)

 震災から半年がたった2011年9月、斎藤さんは東京に転勤した。本社から5・9キロ先の渋谷区の低層鉄筋マンションに引っ越し、自転車で通勤した。震災直後は照明を落としていた東京の街は元の明るい都市にもどっていた。「ビルの上では広告塔が明滅し、窓という窓からは明かりが漏れ、世界はギラギラと昼間のように光っている」。斎藤さんはその明るさを著書のなかでこう表現した。

この首都はもう福島のことなんか忘れてしまったんだな、と思った斎藤さん。放射性物質を大量にまき散らした電力会社が売る電気のために、住む場所や財産を奪われた福島の犠牲を思い起こすと、これまでのように無邪気に電気を使う気になれなくなった。2012年6月、野田佳彦首相(当時)が「原発を再起動する」と発表。国会周辺には多くの人が集まり、再稼働反対を訴えた。しかし、そうした人たちのすぐ隣で、ネオンやビルは暗闇を恐れるかのように照り続けている。斎藤さんは東電との契約を解除し、電気を全く使わない暮らしをしてみたいと思った。

会社の同僚に相談すると、「記者なのにパソコンはどうする」などと鼻で笑われたが、女性記者が「5アンペア契約にしては」とアドバイスしてくれた。

調べてみると、東電をはじめ、北海道、東北、中部、北陸、九州の6電力会社は「契約アンペア制」を採用。契約アンペア数に応じて基本料金を設定するもので、契約アンペア数を下げる(アンペアダウン)と電気の使用量に関係なく基本料金が安くなる。

2012年時点の東電の一般的な契約の場合、60アンペアなら電気を一切使わなくとも毎月の基本料金は約1680円。40アンペアなら約1120円、10アンペアまで下げると280円になる。10アンペアだと、一度に使える電気は1000ワットまで。電子レンジを使うときの電気使用量とほぼ同じなので、電子レンジとエアコンを同時に使うと、ブレーカーは落ちる。その半分の5アンペアで暮らすのは容易なことではない。

『5アンペア生活をやってみた』の表紙

 斎藤さんが東電に電話し、「一番少ないアンペア契約をしたい」と告げたところ、「10アンペアになります」との答えが返ってきた。「5アンペアがあると聞いた」とたずねると、しばらく待たされた後、「5アンペア契約はたしかにある」と認めてくれた。ことほどさように、5アンペア契約は極めて珍しいケースであった。

 電話から9日後、東電の工事の男性が斎藤さんの住居にやってきて、全ての家電をチェックした。電子レンジを指さして「使えません」。エアコンやトースターも「だめ」。20代の若い係員が「どうしてここまで電気を減らそうと考えたのか」と尋ねたのに対し、「原発事故のとき福島にいた。だからもうあまり電気を使いたくないんです」と答えると、係員は「そうでしたか」と伏し目がちに新しいブレーカーに付け替えた。(この稿続く)

 

びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #3》文・Lapiz編集長 井上脩身

写真特集 びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略

びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #2》文・Lapiz編集長 井上脩身

暗躍するアメリカ防諜部

検察がえがいた共産党の犯行というストーリーは雲散霧消と化したが、しかし事件そのものは現に発生し、3人が犠牲になった。では真犯人はだれか。

松本清張は『日本の黒い霧』(写真左)所収の「推理・松川事件」で、アメリカ軍政部が福島市に陣取っていたこと、福島CICが共産党対策に熱中していたこと、CIAが破壊活動班を鉄道補給路の鉄橋を爆破させた例があることなどを挙げて、GHQに疑惑の目を向ける。

吉原公一郎氏は諏訪メモのなかの以下の記述に注目する(『松川事件の真犯人』祥伝社文庫)。

6・30赤旗事件トカチ合ウ 11日カラ10名位
地警→警備係長→応援者 根拠地→原
民政部→労務課(野地通訳)
CIC→tel 1360→加藤通訳
連絡者→<松川デス 頼ミマス>20分
労政課→野地課長 or 高原
C・Cor
 30名地警カラ来ルノハ最大限

吉原氏は次のように解釈できるという。

「国家警察福島本部への連絡は、警備課長(あるいは次席)にすること。11日からはそこから10名の応援が来ている。福島地区警察への連絡は警備係長にすること。根拠地とあるのは、ここに連絡すれば、東芝労組弾圧にすぐにも乗り出せる警備配置ができているということであろう」。メモをこのように捉えたうえで、吉原氏は「驚くべきことに、アメリカ民政部労政課やCIC(防諜部)などとも密接な連絡体制ができていた」といい、<松川デス 頼ミマス>は「すべてが了解され動きだせることになっていることを意味する」とみる。

 CICはアメリカ陸軍情報部下の諜報機関だ。このメモは、東芝松川工場の労働組合対策のため、CICと警察が密接に連絡を取り合っていたことを示しているのである。

 松川事件の捜査の指揮をしていたのは福島県警察本部の玉川正捜査課次席(警視)。吉原氏は事故発生から30分余りしかたっていない3時40~50分ごろ現場に到着したと推測。玉川警視は捜査員より早く現場に到着し、次席自ら現場検証をしたことになり、捜査の通例からみて明らかに異常。福島CICから東芝松川工場まで20分で行けることなどから、吉原氏は玉川警視が福島CICと一緒に現場に向かったとみる。

  福島CICはどのような組織であったのか。大野達三氏の著書『松川事件の犯人を追って』(新日本出版)によると、1949年時点では福島CICはアンドリュース少佐を隊長に約30人で編成。東という姓の兄弟の準尉やジム・藤田という日系人のほか、ジョセフ・マッサーロという飯坂温泉に住んでいた者がいた。諏訪メモに記されている「加藤通訳」はジョージ・加藤と思われる。

 大野氏は「軍政部の労組対策は、GHQの方針に従い労働組合から共産党などの勢力を一掃することにあり、国鉄、東芝などの共産党員のリストづくりから始められた」と分析、「CICの労働組合係は軍政部の労組対策と歩調を合わせていた」という。諏訪メモはこれを明白に裏付けている。

 ところで、事件の夜、呉服店の蔵破りを試みて失敗した二人の男性が、事件現場近くで9人の男とすれちがっている。この9人はいずれも背が高く、実行犯である可能性が高い。そのうちの一人が「イイザカ温泉はどの方向か」などと話していたと公判で証言しており、飯坂温泉のジョセフ・マッサーロのところに向かったとみるのが自然だろう。

レール切り取り実験
 2010年8月30日に開かれた交通政策審議会陸上交通分科会鉄道部会中央新幹線小委員会の会合で、井口雅一・東大名誉教授(機械工学)が「鉄道の弱みは脱線」と2004年に起きた中越地震による新幹線の脱線などのスライドを映して事例報告をし、「カーブでなければ慣性の法則によって列車は基本的にまっすぐ走るので少しのことでは転覆まではいかない」と述べた。このあと井口氏は注目すべき発言をした。「アメリカ軍が戦時中の鉄道破壊工作の実験をした記録の動画がある」というのである。
動画をネットで検索したが、見られないよう手を加えられていた。井口氏の解説で想像するしかない。井口氏によると、その実験はレールの一部を切り取ってしまうという荒っぽいもので、「約1メートル程度欠損した状態では機関車の先頭の車輪は脱線しているが、他は無事。車輪一つ破損した程度ではいきなり脱線しないという印象」という。
分科会の名称からも分かる通り、井口氏は松川事件の解明のために語ったわけではもうとうないが、大いに参考になる発言である。事件現場はカーブであった。カーブでなければ簡単に脱線、まして転覆までいかないことは実験で証明済みだったのである。長さ25メートルのレール1本がまるまる外されていたのは、実験で得たデータに基づいたためとみることができであろう。GHQの謀略とみる立場からは有力な傍証であることはいうまでもない。

線路破壊事件といえば、その多くが爆破によるものである。

1928年6月4日、中国の軍閥の指導者・張作霖が乗る特別列車が奉天近郊の立体交差点にさしかかったところ、南満州鉄道(満鉄)の橋脚に仕掛けられた火薬が爆発、列車は大破、張作霖は死亡した。関東軍は国民革命軍の仕業に見せかけ、これを口実に南満州に侵攻。関東軍が行った暗殺事件とわかり、「張作霖爆殺事件」とよばれる。1931年、やはり奉天近郊の柳条湖付近で関東軍が満鉄の線路を爆破、中国軍の犯行と発表した。柳条湖事件と呼ばれるこの鉄道爆破事件が満州事変の発端となり、15年戦争につながった。日本の中国・満州侵略は鉄道爆破によって始まったといっても過言ではない。

2022年2月に始まったウクライナ戦争で、10月24日、ベラルーシとの国境に近いロシア西部ブリャンスク州で線路が爆発した。英国防相はロシア国内の反戦団体が犯行を表明したと述べた。

西部劇でもダイナマイトで爆破するシーンが少なくない。スペイン内戦を描いたヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』もクライマックスは鉄橋爆破だ。鉄道破壊には爆破が手っ取り早いのである。

このようにみると、線路を外すという手の込んだ犯行は、実験を重ねたアメリカ軍の得意分野と言えるだろう。では事件はGHQの自作自演であったのだろうか。

松川事件3カ月前の1949年5月9日午前4時23分、愛媛県北条町の国鉄予讃線、浅海―北条間で、高松桟橋発宇和島行き準急列車が脱線、機関助手ら3人が即死した。現場はカーブで、継ぎ目板が2カ所で4枚はずされ、レールが75ミリ、海側にずれた形で外されていた。「予讃線事件」と呼ばれ、警察は「共産党員」と称する21歳の男性を逮捕。男性は共犯者3人の名前を挙げて犯行を自供したが、共犯者のアリバイが証明され、男性もシロと判明、迷宮入りとなった。
予讃線事件は列車脱線の態様、その後の捜査状況ともに松川事件とうりふたつである。アリバイが証明されなかったら、松川事件にならぶ冤罪事件になったに相違ない。それはともかく、レールを外すという手口から、米軍の鉄道破壊実験を想起しないわけにはいかない。予讃線事件と松川事件をセットにして解明の努力がなされていたら、その裏に潜む共通の組織体が浮かび出たかもしれない。

99歳で亡くなった阿部市次さんは松川事件の20人の元被告のうち、最後の生存者だった。福島県の地方紙『福島民友』の電子版によると、無罪が確定したあと、阿部さんは冤罪のない社会の実現に向けて語り部活動を行い、取り調べや裁判での経験を語りつづけたという。阿部さんは事件の裏でうごめく米軍の影をどう感じていたのだろう。

不条理にも「脱線転覆殺人犯」の汚名を着せられて被告席に立たされた20人の無辜の人たち。全員が帰らぬ人となった今なお、事件の真相は深い闇の底に沈んだままである。(明日に続く)

びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #1》文・Lapiz編集長 井上脩身

~浮かび上がる米軍の鉄道破壊実験~

阿部市次氏(ウィキペデアより)

新聞の片隅に載った死亡記事に目を奪われた。見出しは「松川事件元被告」。阿部市次さん(99)が老衰のため死去したと報じている。2022年11月29日付の毎日新聞である。松川事件は私が最も関心をもつ冤罪事件の一つだ。事件が起きたのは戦後の混乱期の1949年8月。以来74年。松本清張の『日本の黒い霧』(文藝春秋)を読み返した。「アメリカ占領軍の幻影がつきまとっている」と清張はいう。そこで今回、私がネットで検索したところ、戦時中、米軍が鉄道破壊実験を行ったことを知った。事件はアメリカの何らかの謀略である可能性が一層高まった。

アリバイが証明された諏訪メモ

松川事件で脱線転覆した機関車(ウィキペデアより)

阿部さんの死亡記事は次のように記されている。
1949年に福島県松川町(現福島市)で旧国鉄列車の脱線転覆により乗務員3人が死亡した「松川事件」で逮捕・起訴された20人の1人。1審判決で死刑、2審で無期懲役を言い渡されたが、関係者のアリバイを示すメモを検事が保管している事実を毎日新聞が報道。63年に最高裁で無罪が確定した。
この記事にあるように、1949年8月17日午前3時9分ごろ、青森発上野行き旅客列車が福島県金谷川村(現福島市松川町金沢)を通過中、脱線。先頭の蒸気機関車が転覆し、荷物車2両、郵便車1両、客車1両も脱線、機関車の乗務員3人が死亡した。現場は松川駅―金谷川駅間のカーブの入り口付近。現場検証の結果、線路の継ぎ目板のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されていた。さらにレール1本(長さ25メートル、重さ925キロ)が外され、13メートル移動されていた。
事件の翌日、増田甲子七・官房長官が「(三鷹事件などと)思想底流において同じもの」との談話を発表した。三鷹事件は約1カ月前の7月15日午後9時20分ごろ、東京・三鷹市の国鉄三鷹電車区で停止していた無人電車が突然走りだし、猛スピードで約800メートル先の三鷹駅停止線を突破、約40メートル先の民家の軒先を壊したうえアパート玄関先でようやく止まった。同駅にいた人ら6人が即死、13人が重軽傷を負った。
国鉄が6月1日に施行された定員法により、7月4日、3万600人の第一次人員整理を通告した翌5日、下山定則・初代総裁が轢死体となって発見された下山事件が発生。7月12日に第二次整理として6万3000人に解雇通達が行われた3日後に三鷹事件が起きたことから、東京地検と国家警察本部は国労三鷹電車区分会長をはじめ10人を逮捕した。このうち9人が共産党員だった。
増田談話は松川事件も共産党の犯行との予断をあからさまにしたものだが、この予断のもとに、当時大量人員整理に反対していた東芝松川工場労働組合と国労の共同謀議による犯行とみて捜査。事件から24日後の9月10日、別件で逮捕した赤間勝美・元線路工の自白を突破口として国労側10人、東芝労組側10人を次々に逮捕した。赤間元線路工を除く国労の9人は、福島分会書記の阿部さんを含めて共産党員。東芝労組も8人が同党員だった。
1950年、福島地裁は被告20人全員を有罪(うち阿部さんら5人を死刑)、53年、仙台高裁は17人を有罪(うち4人が死刑)、3人が無罪になった。最高裁に上告されたのち、東芝松川工場の諏訪親一郎・事務課長代理が労使交渉などの際に記録したノートを検察に提出していたことを、毎日新聞福島支局の倉島康記者が特報。この記録によって一、二審で死刑判決を受けた東芝松川労組執行委員だった佐藤一被告のアリバイが証明された。これにより共同謀議がなかったことも判明、全員の無罪が確定した。
冤罪としての同事件は「赤間自白」に始まり、「諏訪メモ」で終わるといわれるゆえんである。(この項続く)

 

Lapiz2023春号《巻頭言》Lapiz編集長・井上脩身

 詩人の金時鐘(キム・シジョン)さんと評論家、佐高信さんの対談集『「在日」を生きる ――ある詩人の闘争史』(集英社新書)を読んでいて、「エッ!」と、思わず声を発した記述がありました。日本語の「いいえ」という言葉について、金さんは「全否定ではない」というのです。私たち日本人にとって「いいえ」は英語の「No」です。しかし金さんからみれば、「No」のような「No」でないようなどっちつかずの言葉なのです。「いいえ」という言い方に、議論を避けたがる日本人の曖昧体質が表れているのでしょうか。私は考えこみました。

金時鐘(キム・シジョン)さん

対談のテーマは多岐にわたっていて、「サムライは日本人の根深い郷愁」などと、日本人に関する金さんの興味深い発言が髄所に出ています。中でも私が引き込まれたのが「いいえ」についてでした。佐高さんが「時鐘さんは″いいえ″という言葉を特殊、日本的なものだとおっしゃってますね」と問いかけたのに対し、金さんは「柔らかくいなしてしまうとこがあるんじゃないでしょうか」と受け、次のように語ります。
朝鮮語は英語と同じで、「である」か、「でない」しかない。ところが、日本語の「いいえ」は中間的な打ち消し。「いいえ」は「そうではない」という言い切りでなく、全否定しないという感じ。そこに日本人の、行き渡った生活の知恵みたいなものを感じる。
佐高さんが「日本人はイエスかノーかはっきりしないから、そこを改めよとよくいわれます。私の大雑把な感覚からすると、″いいえ″も否定のように見えるんですが」と、多くの日本人が持つ感想を述べます。すると金さんは「″いいえ″は相手の言い分を根柢から否定する感じがなくて、打ち消しが柔らかいんです。朝鮮語なら、″違う″という」と、朝鮮語とのちがいを強調しました。
金さんは1929年、日本の植民地だった朝鮮の釜山に生まれました。当時の釜山の国民学校は皇国史観で貫かれており、金さんは熱烈な皇国少年として育ちました。対談のなかで国民学校での一つのエピソードを次のように紹介しています。
朝礼前、運動場に出ていた校長が、落ちていた縄跳びの荒縄の切れ端を指さし、「お前が落としたんだろう」と言った。金少年が「いいえ」と言えず、「違います」と答えると、激しいビンタをくらった。そのとき、金少年は「いいえ」という言葉が骨身にしみた。 “Lapiz2023春号《巻頭言》Lapiz編集長・井上脩身” の続きを読む

宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 02》文・写真 井上脩身

大和街道に面した旧上柘植宿の街並み

芭蕉は寛永21(1644)年、伊賀国阿拝郡(現伊賀市)で、柘植郷の土豪の一族の出身である松尾与左衛門の次男として生まれたとされている。13歳のとき、父が死去し、兄半左衛門が家督を継いだが、生活は苦しかったという。芭蕉は『芳野紀行』(別名『笈の小文』)のなかで、「父母のいまそかりせばと慈愛の昔も悲しく、思ふ事のあまたあり」と記しており、母への思慕の念を生涯いだきつづけていたことは間違いないであろう。

本陣跡辺りに高札場

本陣跡付近に建てられた高札場

『野ざらし紀行』のなかで訪ねた故郷が上柘植であるとは前掲書には書いていないが、「北堂の萱草も霜がれ果て」という言葉から、今は「忍者の里」として観光客でにぎわう上野より上柘植の方がふさわしいのでないか、というおもいがつのった。JR東海道線の草津駅で草津線に乗り換え約1時間、柘植駅に着いた。駅舎は素朴な田舎駅である。駅の前には商店ひとつなく、終着駅とは思えない静かなたたずまいだ。やはり上柘植の方がふさわしい。そんな感傷的な気分になった。 “宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 02》文・写真 井上脩身” の続きを読む

宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 01》文・写真 井上脩身

芭蕉

 松尾芭蕉の生地は三重県伊賀市上野といわれ、かつて芭蕉ゆかりの地を訪ねたことがある。ところが上野の約12キロ東に位置する同市の上柘植が生地という説があることを最近知った。調べてみると、そこは大和街道上柘植宿があったところだ。大和街道は東海道関宿から奈良に至る道である。芭蕉は何度も伊勢神宮を参拝した後、古里に帰り、さらに大坂方面に向かっている。その際、大和街道を使ったに違いなく、上柘植宿は芭蕉にとって思い出深い宿場であったはずだ。あるいは芭蕉の息吹が感じられるのではないか。秋が深まるなか、上柘植宿を訪ねた。 “宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 01》文・写真 井上脩身” の続きを読む

びえんと《朝鮮人虐殺画が表す人の悪魔性》文・Lapiz編集長 井上脩身

~関東大震災がもたらした歴史の闇~

新井勝紘氏著『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』の表紙

関東大震災から100年目にあたる今年、ひとつの本が上梓された。『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』。近・現代史を研究する新井勝紘氏が2021年に発見した『関東大震災絵巻』を中心に、被災した庶民がうわさに踊らされて残忍な行為をした事実を明らかにした一冊である。朝鮮人虐殺について、当時の子どもたちがかいた作文を収めた証言集を私はかつて読んだことがある。新井氏の本に掲載された絵に子どもの証言を重ねると、そこに浮かび上がるのは人間のかなしい悪魔性である。ロシアのプーチン大統領が行っているウクライナ戦争では、ロシア兵による虐殺や強姦が報告されている。仲よくすべき隣国の人々を集団で殺す群集心理の恐ろしさに、私はただただ暗然とする。 “びえんと《朝鮮人虐殺画が表す人の悪魔性》文・Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む