編集長が行く《北海道・礼文島 02》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)

浸食がつくる穂高の島

『花の島に暮らす——北海道礼文島12カ月』(北海道新聞社)

 旅を終えて帰ってから知ったことだが、植物写真家でエッセイストの杣田美野里さんが1992年、36歳のとき東京から一家で礼文島に移住、2006年に『花の島に暮らす——北海道礼文島12カ月』(北海道新聞社)を著していたことを知った。

 同書によると、自然写真家の夫、生まれて3カ月の娘とともに礼文島にわたった。同書は、写真を中心に、エッセーを交えて四季折々の島の情景を表したもので、礼文島の風物詩が抒情的にえがき出されている。タイトルの通り、花々の写真を中心に構成されているが、私が注目したのは猫岩が写っている2点の写真だ。一つは海辺から捉え、もう一点は高台から写している。 “編集長が行く《北海道・礼文島 02》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)” の続きを読む

編集長が行く《北海道・礼文島 01》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)

文島で観測された金環日食(ウィキペディアより)

取り残されたメルヘンの島
 9月末、北海道北端の礼文島を訪ねた。私が小学校4年生の教科書に、礼文島で撮影された金環日食の写真が掲載され、子ども心ながら礼文島に夢世界を思い浮べたのだ。大人になって、そのことはすっかり忘れていたが、2012年7月21日、近畿で282年ぶりという金環日食を観察したことから、礼文島への憧憬が心の中で再びわきあがり、今年、ようやく実現したしだいだ。そう大きくはないこの島の景観は変化に富んでいて、四季折々、場所によってさまざまな顔をみせる。厳冬期には流氷で閉ざされることもあり、生活をするうえでは不便このうえない島ではあるが、それが結果としてメルヘン世界が今も広がっているように思えた。経済性というモノサシでは評価は低いであろうが、メルヘン度という尺度があるならば、極めて高い評価を得るのではないか。 “編集長が行く《北海道・礼文島 01》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)” の続きを読む

Lapiz2022冬号を掲載します!

Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。
Lapiz編集長 井上脩身

Lapiz2022冬号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

絵本『地球をまもるってどんなこと?』の表紙

今年10月、10歳の子どもが環境問題をテーマにした本を出版しました。シンガポール生まれのジョージYハリソン君。本の題は『地球をまもるってどんなこと?』。ハリソン君の文章にイラストレータ—の絵をつけ、絵本として刊行されました。「小学生のわたしたちにできること」という副題がつけられていることからわかる通り、子どもにSDGsのことを知ってもらおうというものです。大人にも手ごろな教科書になりそう、そんな思いをこめて本を開いてみました。 “Lapiz2022冬号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

Lapiz2022冬号は12月1日から発行予定です。

Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。
Lapiz編集長 井上脩身

 

 

近刊解説《片山通夫写真集 ONCE UPON A TIME》井上脩身

「片山作品に見る冷戦下のフォトジャーナリズム」 003

祖国への帰還の夢とおく
 米ソ冷戦はヤルタ会談に始まった、と述べた。その合意に基づくヤルタ協定で、樺太南部はソ連に返還されることとされた。この会談の3カ月後、同じアメリカ、イギリス、ソ連の3カ国によってポツダム会議が開かれ、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏。1951年のサンフランシスコ講和条約で南樺太の全ての権利を放棄することになった。

南樺太は日露戦争後の1905年のポーツマス条約によって日本の領土となり、1931年には、漁業、林業、製紙業を中心に日本人40万6557人が移住していた。 “近刊解説《片山通夫写真集 ONCE UPON A TIME》井上脩身” の続きを読む

近刊解説《片山通夫写真集 ONCE UPON A TIME》井上脩身

「片山作品に見る冷戦下のフォトジャーナリズム」 002

陽気さの奥の翳を捉えるカメラアイ

キューバの近現代の歴史を概観しておこう。
スペインの支配下にあったキューバが1902年に独立した後、製糖産業などにアメリカ資本が多数進出。1952年、バティスタがクーデターで政権を奪取すると、アメリカのキューバ支配がいっそう進んだ。バティスタ独裁政治に反旗を掲げたカストロは、メキシコに亡命中にゲバラに出会って後の1956年にキューバに上陸、2年余りのゲリラ闘争のすえ、1959年1月、バティスタを国外に追放、革命政権を樹立した。 “近刊解説《片山通夫写真集 ONCE UPON A TIME》井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《宇治市ウトロ地区 国際人権法を武器に民族差別と闘う 002》Lapiz編集長 井上脩身

国連がウトロ救済に動く

 祈念館の敷地に移築された民家

前項で見た通り、水道が通るまで戦後33年も要したのである。山間へき地ではない。宇治市の住宅街でのことだ。これ自体信じ難い差別扱いだが、ことはこれだけでは済まなかった。水道工事が始まるのをあざわらうかのように、ウトロの全住民を被告とする「建物収去土地明け渡し訴訟」が提起されたのだ。ひらたく言えば、ウトロから出て行くよう求める裁判である。敗訴となればウトロの人たちはたちまち路頭に迷うはめになる。

この裁判は卑劣な仕業というほかない。水道施設設置に同意した日産車体は宇治市に同意者を提出したその日に、ウトロ自治会長を名のるQなる人物に土地を3億円で売買する契約を締結。Qは西日本殖産という有限会社を設立し、Q自らこの会社に4億4500万円で売却した。いわゆる地上げだ。その西日本殖産が提訴したのである。

裁判で被告の住民側が「20年間所有の意思で平穏かつ公然に他人のものを占有した者はその所有権を取得する」との民法の取得時効の規程に基づき、自分たちに土地・建物の所有権があると主張。これに対し、原告は「ウトロは飯場であった。建物は労働者の所有物であるはずがない。被告側はいつから飯場であった建物に対して所有の意思をもったのか」などと追及。双方が真正面からぶつかり合う中、京都地裁はウトロ住民が一括買い取ることを条件に14億円の価格を示して和解勧告を行った。住民側に買い取る資力はなく、応じられるはずがなかった。裁判は住民敗訴となった。

ウトロ住民側は控訴審に向けて立て直しを図らねばならなかった。勝ち負けは死活問題なのだ。『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』の著者でウトロを守る会副代表の斎藤正樹氏は、甲山事件の支援活動を行った経験をもつ。斎藤氏は国際人権法に居住の権利があることに着目した。

国際人権法は、第二次大戦後国連憲章に人権保護が規定されたことに基づき、国際法の一分野として整備された。批准した国は、世界人権宣言を制度化した国際規約(社会権規約)と、市民的権利に関する国際規約(自由権規約)に拘束される。しかし、自由権規約について、法務省は執行力を持たないとの立場。社会権規約については最高裁が判決で直接適用は認められないとしている。要するにわが国は人権保護に関して極めて消極的な国なのである。

だが住民側は国際人権法を盾に法廷闘争に打って出た。同書によると、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)11条に「締約国は、住居を内容とする適切な生活水準についてのすべての者の権利を求める」と規定。この権利は、「人間としての尊厳が認められる場所で生活する権利」であり、「自己所有、賃貸、避難所、不法占拠などいかなる形態の占有者も、強制立ち退きからの法的保護を保障される」と解釈されているという。

住民側はこの権利に基づき「(強制立ち退きを認めた)地裁判決は憲法98条(国際法規順守)に違反する」と主張した。しかし、2000年6月、大阪高裁は社会権規約に基づく住民の主張を退け、敗訴となった。同年11月、最高裁は上告を棄却、立ち退き判決は確定した。

赤ちゃんを抱き上げる父親(移築民家内の展示写真より)

だが、国際法を振りかざした法廷闘争が敗訴確定後、大きな成果を得ることになった。国連人権高等弁務官事務所に訴えたところ、2001年8月、スイス・ジュネーブの同事務所でウトロ問題について審査が行われた。日本政府の代表は「住民と不動産業者の民事上の争い」としながらも「ウトロ地区の新たな街づくり計画が進行中であり、行政側として支援したい」と答えた。2006年1月、国連人権理事会委員会はさらに一歩進め、「日本政府はウトロ住民がこの土地に住み続ける権利を認めるための適切な措置をとるべき」と報告した。ウトロの立ち退き問題は国際問題に発展したのである。

2007年12月、国交省、京都府、宇治市によって「ウトロ地区住環境整備改善検討委員会」が発足。同地区内に市営住宅を建設することになった。2018年4月、5階建ての伊勢田ウトロ市営住宅(40戸)が完成。住民や支援者ら約200人が焼き肉パーティーを開いて完成を祝った。現在、その隣に2棟目の住宅が建設中である。

 団結誓う「オモニのうた」

話をウトロ平和祈念館展示場の「はじめに」に戻そう。冒頭の言葉のあと、「朝鮮人労働者とその家族はこの地で厳しい環境に負けず、懸命に働き、助け合いながら活動してきた」といった内容の文言がつづく。「懸命」と「助け合い」が、国際人権法の居住の権利を引きだし、立ち退きを阻止したうえ、市営住宅新築へとつながったのであろう。裁判では負けたが実質的には勝利したのだ。ましてや放火犯の卑小な差別意識に負けるはずがなかった。この祈念館はその勝利の証しなのである。

展示場に入る。展示品の多くは写真パネルである。ウトロ地区の上空写真に胸が痛んだ。狭い道路の両側に軒を連ねる家々はどう見ても物置き小屋だ。屋根はつぎはぎされたり、すっぽりと屋根板が抜けていたりして、人の住居としては極めて劣悪だ。戦災を受けた日本の多くの街ではこのような状態であったと思われるが、やがて新たな街に変わった。しかしウトロでは何ら改善されずに放置されたのだ。

そんななかでも、赤ちゃんを抱き上げる男性の写真を見ると、その表情に明るさが感じられる。縄跳びをする女の子たちのほがらかな笑いに心がなごむ。結婚したばかりと思われる若い夫婦のきりっとした目は、将来の希望を見ているようだ。そんななか、目を奪われたのが民族教育の教室前に勢ぞろいした制服姿の女生徒たち。みんな背を伸ばしきりっとカメラに向かっている。少女たちの意気込みが白黒写真に映し出されている。

1953年の台風でウトロが浸水したことはすでに触れた。その後も浸水被害を受け、2008年6月、4戸が床上で浸水した。そのときの写真が展示されている。しゃれたふすまに赤茶色くにじんだ跡が残っており、「大雨のたび水害がこわい。土地のない生活をしたい」という住民の悲しげな顔は、見る者まで心が曇る。「土地のない生活」というのは近代的アパートをさすのであろう。市営住宅建設は立ち退き対策であるとともに、浸水対策でもあるのだ。

母親の思いを込めた「オモニのうた」(祈念館パンフレットより)

すでに触れたように、2000年に立ち退き判決が確定したが、敗訴なんのそのとばかりに2002年2月、「われら 住んでたたかうウトロ団結集会」がウトロ地区内で開かれ、「オモニのうた」と題する集会宣言がなされた。その「オモニのうた」も展示されている。

 いやや!
どんなことがあっても 私はよそへは行かないよ
(略)
私はひとりぐらし……
この年まで学校には縁がない
具合の悪いときは
近所の人が本当によくしてくれる
(略)
私はウトロのオモニだから
みんな「私」だと知っているから……
どこかよそでは こうはいかないよ
このまちを離れたら
私は私でなくなる……

祈念館の敷地の隅に古い住宅が保存されている。中に入ると十数点の写真が壁に掛けられている。その中の一つ、6人の子どもとともに写るお母さのこわばった表情が印象的だ。「オモニのうた」をおもった。「この子ら守るためにどんなことがあってもよそには行かない」。そんな強い決意を内に込めているように見えた。立ち退きという不条理にうちかったのは、オモニの心の強さがあったから、と私は理解したのである。                               完

編集長が行く《宇治市ウトロ地区 国際人権法を武器に民族差別と闘う 001》Lapiz編集長 井上脩身

~立ち退き拒否貫いた在日コリアン~

2021年8月30日、在日コリアンが多く集まる京都府宇治市伊勢田町ウトロで放火事件があった。住宅など7棟が焼けたほか、建設中の「ウトロ平和祈念館」での展示が予定されていた資料50点が焼失、22歳の男が逮捕、起訴された。被告は「在日コリアンに恐怖を与えようとおもった」と、在日コリアンへの差別・憎悪をあらわにし、京都地裁で開かれた公判では「平和祈念館の開館阻止が目的だった」と動機を語った。しかしこの事件にもかかわらず平和祈念館は2022年4月に開館、ウトロの人たちの差別と闘った歴史を学ぶ場になっているという。事件から1年がたつのを機に、同祈念館を訪ねた。

水道のない見捨てられた街
 ウトロ平和祈念館は近鉄京都線伊勢田駅西約600メートルの住宅街の一角にあり、ガラスばり3階建てで、床面積は300平方メートル。2、3階が展示室だ。
私は1階の事務所で斎藤正樹氏が著した『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』(東信堂)を参考資料として買い求め、2階に上がった。その入り口に掛けられた「はじめに」と題する説明パネルには「ウトロ地区の始まりは戦争中、京都飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者の飯場(宿舎)」とある。

 前掲書によると、1938年、日本政府は宇治市と久御山町にまたがる300万平方メートルの土地に、飛行機製造工場と乗員養成所を併せ持つ京都飛行場の建設を決定。40年に起工式が行われ、41年、ウトロ地区を含む土地約2万1000平方メートルを買収、陸軍の軍需産業であった日本国際航空工業(日産車体の前身)名で所有権登記がなされた。

 飛行場建設工事は労働者2000人、機関車27台、トロッコ600台を要し、安い労働力として1300人の朝鮮人労働者が集められた。この多くは朝鮮半島慶尚南道の農民出身者で、家族持ちも少なくなく、ウトロ地区に設けられた飯場長屋に寝泊まりさせられた。彼らは丘陵の竹やぶをスコップで切り開き、土砂をトロッコに積み込み、滑走路に土砂を降ろすなどの重労働に従事させられた。1945年7月、飛行場は米軍の爆撃を受けて建物が壊滅。日本人女学生6人が犠牲になったが、ウトロの飯場は直撃を免れた。

 戦後、同飛行場は占領軍に接収され、米軍大久保キャンプになった。朝鮮人は何ら補償のないまま飯場に取り残された。民族の誇りを忘れなかった彼らは1945年9月、飯場長屋の間仕切りを取り払って教室にし、子どもたちに母国語を教えるための国語講習所をスタートさせた。やがてウトロは朝鮮半島に帰る人たちの中継基地となり、情報センター的役割を担うようになった。しかし、こうした在日朝鮮人のための活動はGHQと日本政府の弾圧の対象になり、民族学級は閉鎖させられた。

 1953年の台風13号でウトロの60戸すべてが浸水し、97世帯が生活保護を受けることになった。生活苦からヤミ米の買い出しやドブロクの密造などで切り抜ける人もいて、警察に摘発される事態になりながらも、ウトロの人たちは必死に生きた。だが日本が驚異的に復興をしていく中、ウトロ地区は地主である日産車体の承諾がないという理由で、上水道も引かれず、宇治市から事実上見捨てられた。

 1979年、ウトロの住民代表が宇治市に水道を敷設するよう要望。日本人市民が「ウトロに水道施設を要望する市民の会」をつくって後押ししたこともあって日産車体も水道施設に同意。1988年、ようやく配水管埋設工事が始まった。
明日に続く

びえんと《マラリアの山に追いやられた八重山の人たち》文・Lapiz編集長 井上脩身

~日本軍の戦争犯罪を絵で告発~
 戦時中、「避難」と称して、日本軍が住民をマラリアが流行する山中に追いやっていたことを、最近『絵が語る八重山の戦争』(写真右)という本で知った。住民の半数以上がマラリアにかかり、4分の1が死亡した。戦後、将校の宿舎からマラリアの特効薬、キニーネがつまった袋が発見された。軍は住民にマラリアの恐怖を強いながら、自らは罹患の恐れのないところにいて、かつ我が身を守る手立てをしていたのである。沖縄戦ではガマに逃げた住民を軍が追い出した例はあまたあるが、八重山では住民をハマダラ蚊の襲撃のなかにさらしていたのだ。 “びえんと《マラリアの山に追いやられた八重山の人たち》文・Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む