宿場町シリーズ《中山道・垂井宿002》文、写真・井上脩身

戦後まで現役だった3軒の旅籠

西の見附から描かれた安藤広重の浮世絵「木曽海道六十九次・垂井」

この辺りまで歩いて気づいた。宿場を幅7メートルほどの中山道が東西に貫いていて、その両側に商家や旅籠が並ぶ構造だ。旅籠が27軒あったのだから、当時は旅人たちで結構なにぎわいだっただろう。しかし、今は時折車が通り過ぎていくだけ。人にはほとんど会わない。午後1時。おなかが鳴り出したが、食堂・レストランどころかコンビニもない。空腹を耐えて歩くしかない。
街道から少し南に入ったところに大きな石の鳥居がたっている。高さは7、8メートルくらいだろうか。約1キロ先の雨宮大社の鳥居である。雨宮大社は行基が創建したと伝えられ、関ヶ原の合戦のとき兵火にあって炎上。1642年、家光が再建したといわれ、国の重要文化財である本地堂や三重塔がある。合戦前は元の神社があったので、吉継は三重塔を仰ぎ見て戦勝祈願をしたであろうか。ならばこの鳥居をくぐったはずだ。
鳥居の近くには旅籠「長浜屋」の建物。1831年に書かれた間取り図が残っている。建てられて200年がたつ古民家なのだ。1998年に取り壊される予定だったが、「歴史的に貴重」として修復されたという。
その真向いに旧旅籠「亀屋」。江戸時代には油屋として栄え、明治初期、小林家が譲り受けて旅籠として戦後まで営業。「宿場時代の面影を残している」と評価され、2013年、「小林家住宅主屋」として国の登録文化財に指定された。
先に旅籠「亀丸屋」を紹介したが、この宿場はなぜか旧旅籠が目につく。しかも戦後まで現役だったというのだ。あちこちの宿場をたずねたが、このような″旅籠現存宿場″はほかには余り例がない。関ヶ原合戦場跡は目と鼻の先だ。歴史好きな旅行者のための旅館として再興できないものだろうか。
亀屋の近くに高札場跡。2019年に復元され、奉行名の6枚の高札がかけられている。うち「キリシタン」に関しては、「ばてれん訴人」を告げた者へのご褒美は「銀五百枚」と書かれている。
高札場裏に本龍寺の山門。脇本陣にあったものを、明治初年に移築したもので、どうどうとした構えである。脇本陣は現存していないが、さぞ立派な建物であったであろう。
さらに西に向かい、京側の入り口である西の見附跡に着いた。東の見附から約1キロのところである。安藤広重の浮世絵「木曽海道六十九次・垂井」は西の見附から見た宿場風景を描いたといわれている。絵には街道の両側に商家が描かれているが、今はその面影はない。ここから大鳥居に戻り、中山道を離れて南に歩く。ほどなく「垂井の泉」と名づけられた小さな池。ニシキゴイが泳ぐこの池が泉なのだ。こんこんと泉がわき出していて、旅人ののどを潤した。芭蕉は「葱白く洗いあげたるさむさかな」と詠んでおり、宿場の生活用水としても使われていたようだ。

盟友・平塚為広の垂井城

平塚為広の居城だった垂井城跡

大谷吉継が垂井宿で何をおもったか、を私なりに推察するのがこの旅の目的であることはすでに触れた。「垂井の泉」の裏に専精寺という寺がある。ここは垂井城の跡であるという。垂井城は大谷吉継の盟友、平塚為広の居城だ。吉継がこの城にこなかったはずがない。いや、為広に会うのがこの宿場での目的だったのかもしれない。三成に会うためだけなら佐和山に近い所を宿営地に選んだはずだ。
為広の父、平塚三郎入道無心は秀吉に仕え、1万2千石をたまわった。為広は関ヶ原の合戦では吉継のもとで山中に陣を敷いたとされる。
司馬は『関ヶ原』の中で、吉継は「西軍所属の小大名六人を与力としてあたえられた」と記し、6人の筆頭に平塚為広をあげている。兵300人を引き連れて出陣した為広は「闘志あくまでさかんで、よく吉継の軍令に服し、その采配のもとで死力を尽くそうという気構えをみせていた」という。
吉継が統括していた2000人の隊形が伸びきっているとき、東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢1万5000人が突然、右手の松尾山から攻めてきた。吉継は「死ねやぁっつ」と下知し、先鋒の為広が十文字のやりを、血がかわく間もなくうちふるって小早川勢の中に飛びこんだ。為広は秀秋の旗本近くまで斬り込んだが、敵の包囲にあって首を切られた。コシにのって采配をふるっていた??継はコシを止めるよう命じ、腹をかき切って果てた。
いうまでもなく司馬のフィクションである。ただ、吉継の軍勢の中心に為広がいたのは確かだろう。二人は一心同体の関係だったのだ。為広は、ハンセン病の体をおして戦いの場にいる吉継の手足のごとくはたらいたようである。
これで答えはでた。吉継は為広の城で、どう戦うかについて、綿密に打ち合わせたに違いない。吉継は垂井の泉で病の体をあらったであろう。負ける戦と分かっているからこそ、最後の最後まで武将として恥ずかしくなく戦うために身を清めたのだ。為広が何かと手配したのはいうまでもない。以上は私の推測である。
話は少し戻るが、大鳥居の近くに八百屋、乾物屋、それに雑貨屋も兼ねる何でも屋さんがあった。お年寄りの女性が店番をしていて、「食べる物はありませんか」とたずねると、「助六ずしが一つ残っている」という。垂井城跡をたずねた後、もう一度相川橋に向かった。川岸で巻きずしをほおばりながら、関ヶ原の山並みに目をやった。このどこかではてた吉継。驟雨とは無縁の秋晴れであったが、いつの間にか関ヶ原あたりに雲が広がりはじめた。吉継を哀れにおもう気持ちが雲をよんだのだろうか。不思議なおもいにかられつつ、垂井宿の旅をおえた。(完)

宿場町シリーズ《中山道・垂井宿001》文、写真・井上脩身

敗者しのぶ関ヶ原直近の宿場

大谷吉継(落合芳幾画)(ウィキベテアより)

NHK大河ドラマの影響でこの1年、徳川家康が脚光を浴びた。関ケ原の合戦で勝利をおさめて天下人になった家康であるが、私は敗れた石田三成に加担した西軍の武将への同情心があり、司馬遼太郎の『関ヶ原』(新潮文庫)を読み返した。大谷吉継が垂井宿にいたとき、三成から使いがきて、「家康をうつ」という三成の決意を聞く。三成に従うべきかどうか、吉継は宿場で悩みに悩んだに違いない。やがて、宿場から西にわずか8キロの関ヶ原で果てることになろうとは夢にも思わなかったであろう。中山道の垂井宿をたずね、吉継に思いをはせた。

三成の秘事に揺れる大谷吉継

垂井宿の北を流れる相川。向こうは関ヶ原の山並み

司馬の小説では、秀吉の死後、会津の上杉景勝が豊臣家に謀反を企んでいるとして、五大老筆頭の家康が、大坂から会津攻めに動きだす。家康から上杉討伐の動員令を受けた敦賀五万石の大名・大谷吉継は、「家康と景勝の仲を調整して、和をもたらす」ために北国街道を南下した。吉継はハンセン病を患って頭髪が抜け、両目も失明。顔を白い布で包み、コシに揺られての出陣である。
垂井宿に入るなり、近江・佐和山城にいる石田三成に使いを走らせた。三成から「秘事がある」と言ってきたので、吉継は垂井から佐和山城に向かい三成と密談。「挙兵する」と決意を打ち明ける三成に対し、吉継は「内府(家康)の威力は大きすぎる。内府に刃向かうのはよほどの愚か者か、よほどの酔狂者。事はかならずしくじる」と言葉を尽くして説得。「内府と上杉を和睦させるしかない」という吉継の消極的平和主義に対し、三成は一つ一つ論駁し、「いま家康を討ち果たさねば、かの者はいよいよ増長し、ついには従二位様(豊臣秀頼)の天下を奪い取ることは火を見るより明らか」と言い放った。
「自滅するぞ」と言って三成と別れ、垂井宿にもどった吉継の頭に、秀吉が催した茶会がよぎった。茶碗がまわされ、ハンセン病を患っていた吉継が茶を喫しようとしたとき、鼻水が垂れて茶の中に落ちた。ハンセン病に対する科学的研究がなされていない時代だ。その茶碗がまわされると、居並ぶ諸侯は飲む真似をするだけ。三成だけが茶碗を高々ともちあげ、飲み干した。以来、「佐吉(三成)のためなら命も要らぬ」と吉嗣は三成にしたがってきたのだった。
吉継は十数日間、垂井宿から動かず、何度も使者を三成のもとに送り、思いとどまるよう諫止。「かならず負ける」と切言したが三成は聴かない。「わしを友と見込んで、この秘事を打ち明けてくれた。もはや事の成否を論じても詮はない。あの男と死なねばなるまい」。
吉継がそう決意した夜。垂井宿に驟雨が通り過ぎ、地を裂くような雷鳴をとどろかせたあと、程なく霽(は)れあがった。
以上のように吉継の心の動きを書き記した司馬。その心根を激しく揺れる天候にたとえた。

古代から交通の要衝

主な街道の宿場は家康が江戸に幕府を開いた際に整備された。吉継が垂井に宿営したときは、当然のことながらそれ以前の宿場である。垂井は古代、美濃国の中心地であり、畿内と美濃以東を結ぶ交通の要衝であった。秀吉が1589年、方広寺に大仏殿を建立するため美濃国の6人の武将に木曽材の輸送を命令したとき、6000人が動員されたといわれ、幹部は垂井に宿をとったと思われる。司馬の『関ヶ原』は、三成が佐和山城で挙兵して6000人の軍が東進、日が傾くころ垂井宿に着き、諸隊を付近に分宿させたと書いている。三成や島左近ら側近武将のほかは野宿せざるを得なかった。大軍が泊まれるほどには整備されてなかっただろう。吉継はどのようにして兵を分宿させたのであろうか。
すでに触れたが、家康は将軍になると、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道の整備を手掛けた。これにともない、中山道の69の宿場の一つとして垂井宿も整えられた。1843(天保14)年の記録では人口1179人、戸数315軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒。
以上の知識を頭において、10月下旬、垂井宿を訪ねた。

たにぐちみち、大垣みち

中山道に面した、格子窓がある旧旅籠「亀丸屋」

JR垂井駅を降りると竹中半兵衛像が迎えてくれた。秀吉の軍師であった竹中半兵衛は美濃で生まれており、垂井はゆかりの地だという。今回の旅のテーマは大谷吉継である。甲冑姿の凛々しい半兵衛の顔を見あげたあと、北に向かった。5、6分歩くと、相川にかかる相川橋のたもとに着いた。
相川は伊吹山の山麓を源とし、関ヶ原盆地経て伊勢湾に注いでいる。相川橋から関ヶ原の山並みが前方に広がり、その向こうに伊吹山が頭を出している。関ヶ原の合戦では、東西両軍の武将たちの陣がおかれたところだ。垂井宿は合戦場間近の宿場なのである。
相川橋をわたると、北のたもとに追分道標の石碑が建っている。1709年、垂井宿の問屋、奥山文左衛門が建てたもので、高さ1・2メートルの自然石に「是より右東海道大垣みち、左木曽街道たにぐちみち」と刻まれている。ここは中山道と美濃路の分岐点なのだ。「たにぐちみち」「大垣みち」と、旅人にわかりやすいように通称名が使われていたのであろう。「たにぐちみち」に進むと、中山道馬籠宿などを経て板橋宿に至る。「大垣みち
の方は東海道宮宿を経て品川宿に至る。吉継は家康に上杉との和睦を求めようとしていたのだから、大垣みちを東に向かうつもりだったであろう。三成の堅い挙兵の意志を知った吉継は、この分岐点でどのように思案したのであろうか。
相川をはさんで追分道標とは反対の南のたもとには「東の見附跡」の案内標識。宿場の江戸側の入り口を示していて、そばに「相川の人足渡跡」の案内板。「宿場の百姓が人足となって旅人を対岸に運んだ。朝鮮通信使などの特別な人には橋をかけた」と記されている。
ここから宿場内の街道を西に向かう。しばらくすると「紙屋塚」と呼ばれる石塚。美濃紙発祥の地とされている。さらに進むと板壁の古い民家。脇本陣に準じる旅籠「亀丸屋」だった家で、1777年に創建。浪花講の指定宿だったといい、上段の間があり、格子窓がその名残をとどめる。
亀丸屋の斜め向かいに数軒の瓦屋根の民家が軒を並べる。問屋場だったところだ。荷物の運送や相川の人足渡の手配などがここで行われていた。すぐそばに「中山道垂井宿本陣跡」の石碑。案内標識によると、「栗田本陣」と呼ばれ、床面積580平方メートルの屋内には約30の部屋があった。中山道に面した御門を入ると16畳の玄関があり、御上段の間は8畳というつくりである。(続く)

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿003》文・写真 井上脩身

伊能忠敬の測量風景(ウィキベテアより)
一里塚跡であることを示す石碑

測量隊は10人編成

 夏の日差しが照り付ける日、福住に向かった。国道から脇道にそれて西京街道を歩く。道幅約5メートル。案内チラシ通り、街道の両側に白壁妻入りの民家が立ち並ぶ。ほどなく福住小学校の鉄筋3階建ての校舎が目に入った。通りに面して板の看板が立てられ、その上部に「SHUKUBA」とアルファベットで記されている。案内チラシによると、ここが本陣跡だ。そのすぐ近くの道路脇に「伊能忠敬笹山領測量の道」と刻まれた高さ50センチの石碑が建っている。209年前、伊能忠敬はここで一晩を過ごしたのだ。
測量日記に「古城跡一箇所」の記載がある。福住宿の北300メートルのところに籾井城跡がある。籾井氏は明智光秀に滅ぼされているので、伊能の時代は面影もとどめない古城であっただろう。ここで伊能は観測をしたのではないだろうか。
本陣から東に150メートルの所に一里塚があり、その少し先を左折すると籾井城跡だ。測量の碑に「早朝より梵天持ちの十人を従えて出発」とあり、測量は10人編成だった。梵天は竹竿の先に数枚の紙を短冊状につるしたもの。数カ所に梵天持ちを立たせ、その間に縄を張って長さを測るのだが、測量道具を担ぐ測量隊一行は宿場の人たちの目には異様に映ったであろう。
伊能はこの測量法を基本に方位観測を加えて計測した。井上ひさしは『四千万歩の男』の中で、江戸・千住宿を出てからの例として、次のように書いている。
馬の背から三脚台と「方位盤(小)」と記された桐箱を降ろす。三脚台を設置し、その穴に樫棒をさす。桐箱から方位盤を出し、その柄の部分を樫棒の上端にはめる。忠敬は小方位盤の樫棒を静かに回し、磁針の南を指す針の先が示す度数を読みとる。
小説中の記述はもっと詳細であるが、素人にはチンプンカンプンであった。『伊能忠敬の日本地図』に広島で行われた測量の絵図が掲載されている。「御手洗測量之図」と呼ばれ、伊能は黒の陣笠をかぶっている。福住でも黒の陣笠をかぶっていたに相違ない。井上ひさしは「この小方位盤は測量家としての忠敬の、いわば〈目〉となった道具である」と書いている。命の次に大事な方位盤が入った桐の箱をさながら殿様扱いする伊能に、本陣を司る山田嘉右衛門は目を白黒させたかもしれない。
福住での測量を終えた伊能は翌日、西京街道を東に進み、埴生村(南丹市)で一泊。亀岡を経て京から江戸に戻る。
第9次は1815年、伊豆七島の測量。翌年、第10次として江戸を測量して、15年に及ぶ測量を終えた。

伊能地図の最終版である「大日本沿海輿地全図」が幕府に提出されたのは伊能が病没して3年後の1821年だった。大図214枚、中図8枚、小図3枚から成る膨大な資料であったが、その正本は1873年に焼失。その写本のうち207枚が2001年、アメリカ議会図書館に実在していることが判明した。
明治になり、宿場町としては廃れていくなか、篠山と園部間を国鉄で結ぶ計画が持ち上がり、福住再興への期待が高まった。しかし1972年、計画は撤回され国鉄篠山線は幻に。福住宿跡は篠山の観光コースからはずれていて、今はひっそりとたたずむ日陰のような山里だ。鉄道の夢ははかなく消えたが、伊能地図に福住一帯が刻まれていることをもって瞑すべきであろう。(完)

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿002》文・写真 井上脩身

京、大坂と結ぶ交通の要衝

宿場の佇まいの福住の町
「SHUKUBA」と板書された本陣跡

福住宿跡は、篠山城跡がある丹波篠山市の中心街から東に約12キロ、大阪府の北端・能勢町天王の北約2キロのところに位置し、低い山々に囲まれた盆地だ。丹波篠山市と京都府亀岡市を東西に結ぶ国道372号と、大阪府池田市と京都府南丹市園部町を南北につなぐ国道477号の交差点から300メートル東に、現在も古い街並みが残っている。
私の家から20キロ北にあり、私は上記の交差点を何十回も車で通っている。しかし、福住の街が国道からそれているため、そこに宿場跡があるとは全く気付かないでいた。20年近く前、『四千万歩の男』(講談社文庫)を読んで、伊能忠敬にいくばくかの関心を持ったというのに、伊能の足跡があることを知らないできたのである。赤面の至りというほかない。
上記の国道372号が昔の西京街道である。元は幅5メートル程度の道であったが、現在、その大半が舗装された2車線の国道になっており、かつての面影はない。篠山藩主が参勤交代で江戸に向かう際、この街道を通って亀山(現・亀岡)を経て京に出たと思われる。そうであれば、福住宿は最初の休憩地になったであろう。という先入観をもってネットで福住宿を検索した。
丹波篠山市教委発行の「宿場町・農村集落――福住の町並み」と題する案内チラシがアップされていた。以下は同チラシからの引用である。
1609年、篠山盆地の中央に篠山城が築かれた。篠山藩は篠山城下を中心とする街道を整備した際、西京街道沿いの福住村を宿場に指定。福住は京や大坂と結ぶ交通の要衝であるため、本陣、脇本陣が置かれ、2軒の山田家が本陣、脇本陣を務めた。篠山藩の御蔵所が置かれ、米蔵、籾蔵を管理する役人詰所も設けられた。農家が旅籠を兼業し、旅客を泊めていた。1899年に京都・園部部間の京都鉄道(現・JR山陰線)が開通するまで、宿場町として繁栄した。
宿場の街道沿いに商家が軒を並べており、その多くは間口が狭く奥行きが深い構造。街道に面して母屋、奥に離れや土蔵、納屋を配置。敷地を土塀や板塀で囲んでいた。母屋の基本構成は妻入り、二階建て、桟瓦葺き。外壁は白漆喰仕上げか灰中塗り仕上げで、側壁に腰板を持つ例が多い。間取りとしては3室の座敷が2列に並ぶのが標準で、篠山藩を意識して土間を京都側(東側)、床の間を篠山側(西側)にする例が多い。篠山城下町の商家に比べて間口が大きいという特徴がある。
伊能忠敬が測量のため福住に泊まったのは江戸後期の文化年間である。この後の文政年間と合わせて、江戸では町人文化が大いに盛んになった時代だ。福住にもその影響が及んでいたであろう。
先にあげた測量日記によると、伊能が草鞋を脱いだのは本陣・庄屋、山田嘉右衛門方である。日記には百姓・五郎兵衛宅の名があり、こちらは測量隊員が泊まったと思われる。(続く)

宿場町シリーズ《西京街道 福住宿001》文・写真 井上脩身

伊能忠敬の測量に思いはせる

『四千万歩の男』の表紙

『吉里吉里人』をはじめ、奇想天外な展開で読者を引きつける井上ひさしの作品群のなかで、『四千万歩の男』は綿密な調査、取材の上で書き上げた長編小説だ。主人公は精密な日本地図を作った伊能忠敬。江戸から蝦夷地に向かった第1次測量(1800年)を中心に、測量の苦労がビビッドに描き出され、読んでいて圧倒される。私が住む関西が全く触れられていないのがいささか不満であるが、最近、ふとしたことから隣町である丹波篠山市の福住という町に伊能の測量碑が建っていると知った。日本中を歩いて回った歩数、4000万歩のうちの一歩を刻んだ所というのだ。そこは西京街道の宿場町だったという。さっそく福住宿をたずねた。

第8次測量で丹波篠山に止宿

『伊能忠敬の日本地図』の表紙

伊能忠敬が日本地図を作ったことは小学校か中学校で習った。『四千万歩の男』は伊能の人物像を見事に表しているが、地図製作の全体像はいま一つ浮かんでこない。そこでまず渡辺一郎著『伊能忠敬の日本地図』(河出文庫)をひもといた。
伊能忠敬は1745年、上総(千葉県)九十九里浜の名主・小関五郎左衛門家の子として生まれた。17歳のとき佐原(現・香取市佐原)の酒造業・伊能家に婿入りし、商才を発揮したが、49歳で隠居。天文・暦学を志し、江戸に出て幕府天文方の高橋至時に入門した。「深川と浅草の距離を測れば地球の大きさがわかるのではないか」と考えた伊能に対し、高橋から「それは乱暴すぎる。蝦夷地辺りまで測れば妥当な数値が得られるかもしれない」とのアドバイスを受け、測量に乗り出した。
第1次測量は江戸・浅草を出発し、奥州街道を北上、津軽半島から津軽海峡を渡って渡島半島へ。襟裳岬から釧路を経て釧路半島の付け根(別海町)から折り返して、江戸に戻った。距離の測量はすべて歩数計測で行った。
第2次は1801年4月2日にスタート。伊豆半島、房総、仙台、三陸から下北半島の沿岸を測量。歩数でなく間縄を張って測量した。第3次は1802年、奥州の日本海側(出羽)と越後の沿岸に向かう。第4次は1803年、東海地方沿岸から名古屋を経て、敦賀から北陸沿岸へ。佐渡島に渡ったあと、上越路をとって江戸に戻る。
第5次からいよいよ西国測量。1805年、東海道を西に進み、紀伊半島をまわって大坂に到着。山陽道を下関まで西進し、山陰道を東に。若狭湾から大津に至る。第6次は1808年、東海道を大坂まで行き、淡路島を経て四国へ。帰途、紀伊半島を横断し、伊勢神宮に参拝して帰路に就く。第7次は1809年、九州東南部の測量。小倉から大分、宮崎を歩き、鹿児島から熊本へ。九州を横断し、本州内陸部から甲州街道を東に向かって新宿に至る。
第8次測量で本稿の主題である福住が登場する。
第8次を迎えたのは、第1次測量から11年がたった1811年、伊能忠敬66歳のときである。東海道、山陽道を経て、九州各地を測量し、佐世保で越年。年が明けた1813年、平戸から壱岐、対馬、五島列島をまわり、中国地方の内陸部に。松江、米子を経て岡山から姫路へ。ここで越年し、1814年、西脇、養父、豊岡、丹波など現在の兵庫県の各地を測量し、11月24日、篠山に到着した。
第8次伊能忠敬測量日記第25巻によると、篠山の最初の宿舎は追入村の本陣・喜蔵宅。その後、篠山城下・二階町の本陣・喜右衛門宅などに泊まり、三田をまわった後、再び喜右衛門宅に止宿し、4月1日、福住宿にやってきた。

(続く)

 

宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#2(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

宿場外れに夏の陣合戦場跡

江戸末期にたてられた3基の常夜灯
樫井古戦場の碑

高さ5メートルほどの大きな鳥居がみえた。近くに「信達神社御旅所跡」の石碑。信達神社は2キロ南東にあり、紀州街道からは離れている。この大鳥居が信達宿の南の端にあたるので、紀州街道を大坂に向かう旅人にとって格好の目印になったであろう。ここから十数分歩くと「ふじまつり」が行われた油商兼旅籠「油新」。さらに進むと、道端に三つの常夜灯が並んでいる。いずれも高さは1・5メートル。泉南市のHPによると、文政のお陰参りに際し、伊勢神宮への信仰と道中の安全祈願のために建てられたという。このお陰参りは文政13年なので、宗光が神戸に向かったときはまだ設置されていなかった。
この常夜灯のすぐ先に本陣がある。宗光は元紀州藩の奉行の子だ。本陣に泊まれないことはないだろう。海舟の書を見たという証拠はないが、海軍操練所を発案したのは海舟であることは知っていたはずだ。海舟の書に接した可能性がないとはいえない。
「暢神」というその書から宗光は「新しい時代に向かって進んでいくのだ」と決意を新たにしたに相違ない。神ですら伸び伸びするというのである。ましてや人が伸び伸びできる時代がもうすぐやってくる。海軍操練所で力を発揮するのだ。と、宗光の心は躍動したであろう。
本陣から20分先に一岡神社。白壁の本殿だけのこじんまりとした神社だが、説明板には欽明天皇に時代に創建されたとあり、由緒は正しいようだ。信長の焼き討ちで焼失したが、1596年、村民の手によって再建されたという。江戸時代、この神社が信達宿に北の端の目印だったであろう。大鳥居からここまで約2キロの距離だ。
観光マップを見ると、さらに北に「樫井古戦場の碑」がある。「大坂夏の陣」との添え書きがあり、がぜん興味がわいた。
20分ほど歩き、樫井川という幅50メートルくらいの川を渡ると、高さ2・5メートルの石碑が建っている。碑文によると、大坂方の武将、塙団衛門と岡部大学が先陣争いをした結果、徳川勢に攻め込まれて岡部軍が敗走、塙軍は孤立し団衛門は討ち取られた。この樫井合戦での敗戦が大坂方の士気をくじくことになった。宗光は、徳川体制が確固たる基盤を築くきっかけとなった合戦場の跡を歩きながら、250年がたった今、徳川の世が終わらんとしている時の流れに思いをいたしたのではないだろうか。

海舟の宗光の接点

本稿は勝海舟と陸奥宗光を登場させて、信達宿に迫ろうとした。では海舟と宗光に接点はなかったのだろうか。勝部真長編『勝海舟語録 氷川清話(付勝海舟伝)』(角川ソフィア文庫)をひもといた。『氷川清話』は海舟が晩年、東京・赤坂、氷川神社そばの勝亭で語った回顧談を弟子らが記録したもので、刊行されたのは1898年と推定されている。そのなかに「陸奥宗光」が一つの項としてたてられており、海舟が宗光をどう見ていたかがわかる。

以下はその要約である。

陸奥宗光はおれが神戸の塾(神戸海軍操練所)で育てた腕白者であった。おれの塾へきた原因は、紀州の殿様から「いのしし武者のあばれ者をお前の塾で薫陶してくれまいか」との御沙汰があり、わざわざ紀州へいって、腕白者25名を神戸の塾に連れて帰ることになったが、陸奥だけはほかの24名とは少し違った事情があった。藩の世話人が「拙者の弟の小次郎と申す腕白者があるからこれも一緒に連れて帰ってひとかどの人物に仕上げてくだされ」と頼んだから、それで24名と共に陸奥も連れて帰った。
この通りだとすると、宗光は25人の腕白者の一人として、紀州から神戸に向かったことになる。私は『竜馬がゆく』を念頭に、竜馬が海舟に深く傾倒した影響を受けて、宗光も海舟に敬服の念を抱いていたと考えた。だから、信達宿本陣で海舟の書に接し、胸が熱くなったと思いたいのだが、私の想像のような事実はなかったのかもしれない。
しかし、宗光が海舟の影響を受けなかったはずはない。なぜなら海舟は『氷川清話』のなかで「おれはずいぶん外交の難局に当たったが、しかし幸い一度も失敗しなかったよ。外交については一つの秘訣があるのだ」といい「外交の極意は『正心誠意』にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ」と述べている。宗光が不平等条約の是正という明治政府の悲願をやってのけたことはすでに述べた。勝流の「正心誠意」の交渉が難局打開につながったのかもしれない。
海舟が亡くなったのは1899年。その2年前、宗光は死亡した。海舟はその死の報に接して哀歌をよんだ。

桐の葉の一葉散りにし夕(ゆうべ)より
落つるこの葉の数をますらん

海舟はキリの葉が落ちるようなもの寂しさをおぼえたのであろうか。
「暢神」の書そのものごとく、海舟、宗光は新しい時代を作るために伸び伸びとした人生を送ったのであった。海舟、宗光という歴史上の大巨人からみれば、信達宿本陣に泊まったかどうかは、あまりにも小さなことではある。とはいえ、宗光が海舟の書を目にしたという証拠が見つかれば、近代史研究上の大発見であることは間違いない。(完)

宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身

勝海舟の書が残る本陣

古い民家が軒を並べる信達宿内の旧紀州街道

勝海舟の書の扁額が、かつて本陣だった泉州の住宅に掛けられている、と聞いた。江戸城無血開城で中学校の教科書にも登場する勝海舟。私の愛読書、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のなかで、幕府の海軍を切り開いた人物としてたびたび現れる。だが、泉州に足を運んだという記述は全くない。そもそも勝海舟の書には何が書いてあるのだろう。調べてみると、本陣だったこの住宅は大阪府泉南市の旧紀州街道の信達宿にあり、4月下旬に催される「ふじまつり」の数日間だけ内部公開されるとわかった。 “宿場町シリーズ《紀州街道・信達宿#1(しんだちしゅく)》文・写真 井上脩身” の続きを読む

宿場町《東海道・桑名宿#2》文・写真 井上脩身

俳句になった元本陣のカワウソ

七里の渡し界隈の賑わいを描いた絵(七里の渡しの説明板より)

一の鳥居のすぐそばの東海道沿いに「しちりのわたし」と刻まれた石碑が建っている。この石碑の脇では、鉄筋三階建てのビルが修理工事中だ。その壁に「山月」のネオン。料理旅館「山月」である。脇本陣「駿河屋」の一部がこの料理旅館に残っているという。「山月」の左隣は木造二階建ての瀟洒な料理旅館。入り口に「船津屋」と書かれた照明灯がたっている。その名の通り、裏庭から直接船に乗ることができた。ここが元の大塚本陣である。
船津屋の板壁が一部くりぬかれて、高さ1メートルほどの石碑(右)が建てられている。そばに「歌行燈句碑」と題する説明板。
句は「かはをそに火をぬすまれてあけやすき 万」。劇作家、久保田万太郎が詠んだ句だ。
説明板は明治の文豪・泉鏡花(1873~1930)が明治42(1900)年、講演のため来桑、ここ船津屋に宿泊した。この時の印象を基に小説『歌行燈』を書き、翌年1月号の『新小説』に発表した」としたためられている。久保田万太郎は1939年、戯曲『歌行燈』を書くために船津屋に逗留、旅館の主人の求めに応じて句をつくった。この句に出てくる「かはをそ」はカワウソのこと。泉鏡花の小説に現れるという。どういうことだろう。帰ってから『歌行燈』を読んだ。

小説は次のような一文から始まる。
宮重大根のふとくして立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり……

これは十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』の五編上「桑名より四日市へ」の書き出しと全く同じ。『東海道中膝栗毛』はこの後「めいぶつの焼蛤に酒くみかはして、かの弥次郎兵衛喜多八なるもの、やがて爰(ここ)を立出(たちいで)たどり行くほどに」とつづく。『歌行燈』も主人公、源三郎が弥次郎兵衛になった気みなって、湊屋(モデルはいうまでもなく船津屋)で芸の出来ない仲居と軽妙な会話を楽しむという筋立て。その湊屋について、うどん屋の女房が主人公に次のように話す。(筆者註・口語に書き換えている)。
z奥座敷の手すりの外が海といっしょの揖斐の川口じゃ。白帆の船も通ります。スズキがはねる。ボラは飛ぶ。他に類のない趣のある家じゃ。ところが時々崖裏の石垣からカワウソが入りこんで、板廊下や厠についた灯りを消していたずらするといいます。
辞書で調べると、カワウソの和名は「カワオソ」。「川に住む恐ろしい動物」の意味があるといわれ、加賀では城の堀に住むカワウソが女に化けて、男を食い殺したという言い伝えがあるという。
船津屋は江戸時代、本陣であった。大名が泊まる格式高い宿所にカワウソが化けてでたとは考えがたいが、加賀の例のように、桑名城の堀にカワウソがすんでいて、悪さをすることがあったのかもしれない。

暮らしを守る通り井の水

通り井から水をくむ人々を描いた絵(通り井の説明板より)

「七里の渡し」から旧東海道を歩いた。両側に料亭などが立ちならび、「焼きハマグリの街」ならではの、思わずつばが出そうな雰囲気を醸している。その街道の両端に幅約50センチの細長い石製板が帯状にしかれている。他の宿場町では見られない道路模様だ。何だろう。
途中、その説明がかかれた標識がたっていて、疑問が解けた。
桑名では地下水に海水が混じるため、寛永3(1626)年、町内の主要道路の地下に筒をうめ、町屋川から水を引いて水道をつくった。これを「通り井」といい、道路の中央に方形の井を設けて一般の人々が利用できるようにした。1962年、道路工事のさい、「通り井」の一つが発見されたという。
勝之助は柏崎の街について「御国(桑名のこと)と違い、役所仕舞いにてもそば売りも参らず、勿論酒も無し」と嘆いている。ということは桑名では、仕事が終わるころを見はからってそば売りがやってきたのだろう。そばをゆで、つゆを作るには当然水がいる。そば売りは通り井から水をくんだに相違ない。できることなら私もそばを食べたいものだ。堀端を歩きたくなった。
桑名城本丸周辺は石垣が残っているにすぎず、いささか殺伐とした光景である。旧東海道に戻ってそぞろ歩いていると、建て込んだ街並みの中に鳥居が見えた。桑名宗社と呼ばれる春日神社の鳥居だ。青銅製である。東海道を行く人たちはこの神社で旅の安全を祈願したにちがいない。神社の本殿では赤ちゃんを抱いた夫婦が神職のお祓いを受けていた。勝之助も出立前、生まれて間もない娘のために妻と共にお祓いを受けたかもしれない。
この後しばらく辺りをめぐって、宿場町の痕跡を探したが、美濃への出入り口としての番所が置かれていたという「三崎見附跡」以外に撮影ポイントがないようなので、メーンの通りを桑名駅に向かった。途中、海蔵寺という寺の前を通りかかると「薩摩義士墓所」ののぼりが門前にかかっていた。中に入った。境内の奥に、23基の墓がコの字型にならんでいる。説明板によると、宝暦4(1754)年、薩摩藩は幕府から木曽三川の分流工事を命じられ、947人を送り出した。工事は河口から50~60キロの範囲内、200カ所以上にのぼった。40万両(約320億円)もかかった大治水工事は1年で完了したが、幕府への抗議のための自害や病気などで84人が命を落とした。うち23人が義士としてまつられたという。
この工事によって、桑名は城下町として、また宿場町として、安心して暮らせる街になったのはまぎれもない。だが、幕府の命令は薩摩藩にとって非情であった。1200キロも離れた木曽三川のために莫大な資金を藩で用意しなければならないのだ。23義士の家族や親族の末裔は、やがて戊辰戦争で官軍の兵として幕府軍と戦っただろう。幕府方の桑名藩は朝敵となり、薩長の官軍に降伏した。何かの因縁であろうか。
ところで勝之助である。元治元(1864)年、再び桑名の土を踏むことなく柏崎で死んだ。63歳だった。戊辰戦争の4年前であった。
勝之助はどれほどか七里の渡しの船で桑名に帰る夢を見たことであろう。勝之助の心中をおもいつつ、私は桑名から名古屋に向かう電車にのった。

宿場町《東海道・桑名宿#1》文・写真 井上脩身

水道完備の七里の渡し

歌川広重の浮世絵「東海道五十三次之内 桑名・七里渡口」(ウィキペデアより)

サラリーマンにとって転勤は世のならい。私は7、8回転勤した。江戸時代、城勤めの侍も江戸詰めなどの転勤はあったが、地方への転勤で一家が引き裂かれた例があると最近知った。桑名藩士の渡部勝之助が越後・柏崎への異動を命じられ、長男を残して妻と任地におもむいたというのだ。勝之助は桑名の「七里の渡し」で引越しの旅に出た。渡しがあるということは、湊の前の宿場はにぎわっていたにちがいない。東海道の桑名宿を訪ねた。

柏崎陣地への転勤命令

桑名藩には越後に飛び地があった。その領地は5万石の石高があり、柏崎に陣屋(役所)が置かれていた。役職が横目という藩の下級武士・渡部勝之助が柏崎陣屋の勘定人を命じられたのは天保10(1839)年の正月、36歳のときだった。下っ端役人ながら「学問ができ仕事もできる」と高く評価されていた勝之助にとって、このお役替えは出世ではあった。
だが、単純に喜べない事情があった。勝之助の家族は妻おきく(24歳)と数えで4歳の長男鐐之助だけだが、おきくはおなかに子どもを抱えていた。勝之助は迷った末、鐐之助を叔父の渡部平太夫に預けることにした。現在の会社の命による転勤でもよくあるが、いったん勝之助だけが単身で赴任。2カ月後の5月、桑名に帰省した。おきくは娘おろくを産んだばかりだった。このころ、江戸では渡辺崋山や高野長英らが幕府に捕らわれる「蛮社の獄」が起きていた。しかし、桑名城下の組長屋に暮らす勝之助には無縁の世界であった。
5月30日六つ半(午前7時)、勝之助一家は柏崎に出立。勝之助夫婦は寝ていた鐐之助を起こさず長屋をでた。勝之助はそのとき、いずれ桑名に戻ると一緒に暮らせる、と思った。平太夫やおきくの実家の人たち、勝之助の友人らが「七里の渡し」まで見送ってくれた。
桑名は長良川と合流する揖斐川に面しており、伊勢湾にそそぐ河口近くに位置する。「七里の渡し(写真)」は桑名から熱田神宮がある宮宿まで、距離が7里であることからつけられた。勝之助は30キロ近い伊勢湾の船旅の道中、来し方行く末がさまざまに去来したのであろう。柏崎まで旅日記をつけた。柏崎に着いた後もまめに日記をつけ、平太夫に送った。平太夫からも日記が勝之助のもとに送られ、交換日記の形になった。この日記を基に新聞記者の本間寛治さんが1988年、『幕末転勤傳――桑名藩・勘定人渡部勝之助の日記』(エフェー出版)(写真左)を著した。
本間さんは同書のなかで勝之助らの「七里の渡」しでの船出を以下のように表している。
木曽三川の一つ、揖斐川河口にひらけた七里の渡しの朝は活気があふれていた。水上には何艘もの帆船が沖がかりをし、川につき出た桑名の白壁が朝日に映えた。川面を渡る風はさすがに涼しく、勝之助らを乗せた帆船は滑るように伊勢湾に出た。勝之助は熱田の宮の渡しまで水路を行き、そこから陸路越後を目指した。
このくだりを読んで、私はネットを開いた。渡しの近くに本陣や脇本陣、それに桑名城があったという。宿場と渡し、それに城下が一体となっており、いわば三位一体の街のようなのだ。興味をひかれ、1月下旬、桑名に向かった。

渡しに面して建つ鳥居と櫓

七里の渡しに面して建てられた蟠龍櫓
七里の渡し前の伊勢の国一の鳥居

近鉄桑名駅で降りると、まっすぐ「七里の渡し跡」に向かった。東に歩くこと約30分。揖斐川沿いにだだっ三之丸公園が広がっている。その名の通り、桑名城の三之丸跡にあたり、二層の櫓が建っている。「蟠龍櫓」と名づけられている。説明板によると元禄時代の火災後に再建された61の櫓のなかで、「七里の渡し」に面して建てられた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボル。歌川広重の「東海道五十三次之内桑名・七里渡口」では桑名の名城ぶりを表すため、この櫓が象徴的に描かれているという。
スマホで広重の浮世絵を見た。目の前の櫓はおとなしい造りだが、浮世絵の櫓はどこか勇壮な気迫が漂う。現在の櫓は2003年、水門の管理棟として、元の櫓を復元して建てられた。勝之助は旅立ちの際、蟠龍櫓を見たはずだ。勝之助の目におとなしく映ったか、それとも勇壮に見えたか。家族をつれてはるばる越後まで長旅をしなければならない勝之助の胸中は複雑であっただろう。
蟠龍櫓の約50メートル先に鳥居が建っている。伊勢国の一の鳥居として天明年間(1781~1789年)に建てられた。高さ約10メートルの黒っぽいこの鳥居の間に松の木が植わっていて、その緑が冬の空に映えている。鳥居の約30メートル先は揖斐川の岸辺。木の柵が設けられていて、そこに川に降りる石段がつくられている。石段をおりたところに渡しの乗り場があったのだろう。残念ながら、鉄の鎖が張られていて、今はおりられない。
そばに「七里の渡し跡」の説明板。「七里の渡しの西側には舟番所、高札場、脇本陣・駿河屋、大塚本陣が、南側には船会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えた」とある。
現在は渡しの乗り場のすぐ前に高さ10メートル近いコンクリート壁がめぐらされ、幅約10メートルのすき間が申し訳程度につくられているだけ。そのすきまから向こう岸をのぞくしかない。伊勢湾台風で大きな被害にあったことから、沿岸の人々を守るために築かれたのであろう。やむを得ないことではあるが、はるかに宮宿の渡しの船着き場まで遠望できれば、という期待がピシャッと断ち切られ、いささかもの足りないおもいであった。
この渡し場から鳥居に戻る途中、外堀が揖斐川に平行してつくられていることに気づいた。桑名城は川を巧みに利用した水城なのだ。堀の水面に蟠龍櫓の白亜の壁が映っている。「川につき出た桑名の白壁」という、『幕末転勤傳』での本間さんの表現。なるほど、である。(明日に続く)

宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 01》文・写真 井上脩身

芭蕉

 松尾芭蕉の生地は三重県伊賀市上野といわれ、かつて芭蕉ゆかりの地を訪ねたことがある。ところが上野の約12キロ東に位置する同市の上柘植が生地という説があることを最近知った。調べてみると、そこは大和街道上柘植宿があったところだ。大和街道は東海道関宿から奈良に至る道である。芭蕉は何度も伊勢神宮を参拝した後、古里に帰り、さらに大坂方面に向かっている。その際、大和街道を使ったに違いなく、上柘植宿は芭蕉にとって思い出深い宿場であったはずだ。あるいは芭蕉の息吹が感じられるのではないか。秋が深まるなか、上柘植宿を訪ねた。 “宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 01》文・写真 井上脩身” の続きを読む