編集長が行く《守れるか神宮外苑の森》Lapiz編集長 井上脩身

神宮外苑の森
神宮外苑の森

~イチョウ並木が泣いている~

東京のど真ん中に位置する明治神宮外苑の再開発事業について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)は9月7日、「文化的遺産が危機に直面している」として、事業者や事業認可した東京都に対し、事業の撤回を求めた。神宮外苑のシンボルであるイチョウ並木がこの計画によって被害を受けるとして裁判まで起きているが、こうした反対運動をイコモスが後押しする形となった。私にはイチョウ並木をはじめ、豊かな森がひろがる神宮外苑にはさまざまな思い出がある。再開発事業は森を壊そうということであるならば、黙っているわけにはいかない。

世界に類例ない文化遺産

聖徳記念美術館を正面に望むイチョウ並木

新聞報道によると、神宮外苑についてイコモスは「市民の献金と労働奉仕によりつくり出された、世界の公園史でも類例のない文化的遺産」と極めて高く評価。「伐採本数は約3000本にのぼり、100年にわたって育まれてきた森が破壊される」と指摘し、三井不動産や明治神宮などの事業者に対し、事業の撤回を要求。東京都に対し、都市計画決定の見直しや、環境影響評価(アセスメント)の再審を求めた(9月8日毎日新聞)。
イコモスがいう100年の歴史を持つ文化的価値とはどういうことであろうか。神宮外苑の再開発認可の取り消しを求める裁判の訴状に、簡潔に記されている。
裁判は2月28日、神宮外苑の近隣住民らが起こした。訴状では、神宮外苑の歴史的価値について、1913(大正2)年2月、徳川家達貴族院議長から桂太郎首相への建議で、内苑を「森厳荘重」、外苑を「公衆優遊」な地区とし、内苑は国費、外苑は献費によって開くことになった。国民からの献金は700万円以上、奉仕した青年団は10万人以上にのぼった。外苑は1926年、わが国最初の風致地区に指定され、現在274ヘクタールが指定地区になっている。
一方、文化的価値について、外苑を「近代的公園」として欧米のパークシステムを参考に、イチョウ並木と街を結び、その軸上に芝生公園が設けられており、「近代風形式庭園」としての文化的価値が認められる。イチョウ並木の延長線上に建てられた聖徳記念絵画館は国の重要文化財に指定されており、イチョウ並木については2012年、文化庁が名勝指定のために全国調査したさい、「重要事例」とされた。こうした経過をふまえ、訴状では「神宮外苑は国際社会に誇れる、近代日本の公共空間を代表する文化的遺産」と指摘した。
ほとんどの都民とって神宮外苑はスポーツ観戦を中心とする憩い場であろう。オリンピックのメーン会場となった新国立競技場、プロ野球・ヤクルトの本拠地で、東京六大学野球が行われる神宮球場、高校野球都大会が行われる神宮第二球場、大学や社会人ラグビーのメッカである秩父宮ラグビー場などがあり、わが国のスポーツの中心地というイメージである。私は学生時代、神宮球場のスタンドから早慶戦の応援をし、秩父宮ラグビー場で行われた大学ラグビーを観戦したものだ。社会人になってからは、東京に出張した際、神宮球場で阪神―ヤクルト戦を見たり、法政大学にいた江川卓投手を目にするため、わざわざ六大学の試合をのぞいたこともある。
思えば、球場やラグビー場の周りは緑が豊富であった。周囲が住宅地である阪神甲子園球場や東大阪市の花園ラグビー場とは大違いなのだ。林や森に対する思い入れは、大阪と東京は根柢から異なるのかもしれない。実際、東京で生まれ育った人が大阪で暮らすようになると、ほとんど例外なく緑が少ないことを嘆くのである。
私は2016年から3年間、横浜で暮らした。街のあちこちで巨木を見かけた。巨木を避けて建てられたマンション、巨木を残して玄関を引っ込ませた民家、大通りの真ん中に立つ巨木などを目にすると、いかに東京やその周辺の人が巨木を大切にしているかがわかる。神宮外苑の森は、巨木が生い茂る公園の象徴的存在といえるだろう。
再開発計画では神宮外苑のなかの高さ3メートル以上の樹木743本が伐採される。高さ3メート以上の成木は高木とされているので、やっと高木に育った樹木をバッサリ切ってしまおうというのが、再開発事業者の考えだ。その発想は、東京やその周辺の人たちの樹木への思いをバッサリとぶった切るものなのである。

鼓動する商業主義

再開発後の神宮外苑予想図(ウィキベテアより)

神宮外苑の再開発事業を行うのは、すでに述べた三井不動産、明治神宮と日本スポーツ振興センター、伊藤忠商事の4団体。事業計画では、「神宮外苑を世界に誇れるスポーツクラスターとして整備する」とし、土地の高度利用を促進して業務・商業などの都市機能を導入する、としている。要するにオフィスビルやホテルを建てようということだ。スポーツを見に来る人が多いこの一帯を、お金儲けセンター的機能も持たせようということでないのか。
当然のことながら、事業主体の4社はこのような露骨な表現はしない。4社がつくる「神宮外苑地区まちづくり準備室」のホームページを開くと、「安らぎも、熱狂も、歴史の鼓動も!」というキャッチコピーが躍る。そして「100年の刻を重ね、神宮外苑が紡いできたみどり、スポーツ、歴史・文化がオープンに混ざり合い、一体化することで、さまざまな鼓動が生まれる」と美辞麗句を並べる。そのうえで、「Green」「Sports」「「Open Space」「History&Culture」と英語で4項目を羅列。「Green」については「外苑のシンボル、4列のいちょう並木を保全」「エリア全体の樹木は既存の1904本から1998本に増やす」などとし、さも緑あふれる夢の外苑のイメージをつくりだしている。
以上のうたい文句のうえで、具体的な再開発として、神宮第二球場を解体して新ラグビー場に、秩父宮ラグビー場はホテル併設の新神宮球場、神宮球場は広場に変える。
なぜわざわざこのような建て替えを行うのだろうか。
訴状によると、現在青山通りに面している伊藤忠ビルを高さ190メートルの超高層ビルに建て替えるほか、ホテルやオフィスが入る185メートルと80メートルのビルが建てられる。このため、3・4ヘクタール分が都市計画公園から削除される。
「お金儲けセンター的機能を持たせようということでないのか」という私の予想は間違いではないようだ。「スポーツ、歴史・文化がオープンに混ざり合う」のでなく、「スポーツと商業主義が混ざり合う」のだ。このために邪魔な森を壊すのであって、金儲けできる団体だけに「鼓動が生まれる」のである。
この計画により、新神宮球場はイチョウ並木の西わずか8メートルのところに移る。ではどうなるか。
私は2018年12月上旬、イチョウ並木を歩いた。
南側の青山通りから並木道に入ると、黄色に色づいたイチョウの葉が陽光を受けてキラキラと輝いていた。長さ200メートルほどのイチョウのトンネルはさながらおとぎの世界。私は夢見心地になった。
並木の西側には数軒のレストランが建っていて、多くの若者でにぎわっていた。このどこかで披露したのであろうか。白いウェディングドレスの女性とタキシード姿の男性が、並木中央に止めてあったオープンカに乗り込むところにであった。
新神宮球場がイチョウ並木そばに越してくれば、こうした風景はなくなり、殺風景な景色になるだろう。文化を紡ぐどころか、若者たちがつくりだした″並木文化″を壊すことになるであろう。

龍一、春樹、サザンが「開発反対」

坂本龍一さん(ウィキベテアより)

昨年11月、日本イコモス国内委員会は、イチョウ並木146本のうち、6本で枝の一部が枯れるなど生育状況に問題があるとの調査結果を公表した。一方、神宮外苑に近い新宿御苑では、地下トンネルを整備して30年後に、トンネルから15メートル以内の約9割が枯れ死していたことが、中央大研究開発機構の調査で明らかになった。こうしたデータを踏まえて、訴状では、(新神宮球場建設のため)地下40メートルに及ぶ杭の施工は、水系を断ってイチョウの根を傷つけ、生育を阻害すると指摘。加えて西側に球場ができることで、日差しにきらめくイチョウ並木の風景が失われるという。
前項で私は「イチョウの葉が陽光を受けてキラキラと輝いていた」と書いた。イチョウ並木にきらめきがなければ、「おとぎの世界」にはならず、したがって「夢見心地」になるはずもない。
自分自身の体験と重ね合わせると、「きらめかないイチョウ並木」になることが、この計画のポイントであることに気づいた。文化破壊の商業主義がイチョウ並木からきらめきを奪うとあれば、反対の声が上がらないのがおかしい。
はたして音楽家の坂本龍一さんは3月28日に亡くなる約1カ月前、小池百合子知事に、計画見直しを求める手紙を出した。手紙は2月24日付で、「世界はSDGsを推進しているが、神宮外苑の開発は持続可能とは思えない」と指摘。「これらの樹々を私たちが未来の子供たちに手渡せるよう、再開発計画を中断し、見直すべきです」と主張し、知事に対し「あなたのリーダーシップに期待します」と呼びかけた。小池知事は記者会見で「事業者である明治神宮にも手紙を送られた方がいいんじゃないでしょうか」と述べた(4月3日、朝日新聞電子版)。坂本さんの期待に反し、小池知事が計画見直しにリーダーシップを発揮した気配はない。もともと関西人である小池知事には、東京の人たちの心に宿る樹木への思いは理解できないであろう。
「ヤクルト・スワローズのファンなので、神宮球場に歩いて行ける所に住んでいた」という作家、村上春樹さんは、坂本さんと40年来の親交があり、「一度壊したものは元に戻らない。神宮外苑の再開発は強く反対」と述べた(7月23日、毎日新聞電子版)。さらにサザンオールスターズの桑田佳祐さんは神宮外苑の再開発を憂える気持ちから作詞作曲した新曲『Relay~杜の詩』を9月2日、発表した。
誰かが悲嘆(なげ)いていた
美しい杜が消滅(き)えるのをAh~
自分が居ない世の中
思い遣るような人間(ひと)であれと
地球が病んで未来を憂う時代に
身近な場所に何が起こってるんだ?
桑田さんは「坂本さんの遺志をつなぐ曲」と説明し、「あれ(木が伐採されること)、なんかもったいない気がすると思って歌詞にした」と話した(9月4日、毎日新聞)。
もしイチョウ並木にきらめきが失われたら。それは単にイチョウにとどまらず、人々にきらめきが失われることになるのでないか。商業主義者のための神宮外苑になれば、お金はきらめいても、人の心は決してきらめかないのだ。
お金か心か。神宮外苑再開発問題は、文化とは何かという根源的な問いかけなのである。

 

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」03》文・写真 井上脩身

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」02》文・写真 井上脩身

生活力なき貴族のプライド

斜陽館裏手界隈(向こうの建物は斜陽館)

斜陽館近くでバスを降りると、リンゴの甘酸っぱいにおいがした。斜陽館観光の客目あてにリンゴ市場が開かれているのだ。そこから斜陽館は目と鼻の先。だいだい色の屋根に覆われた2階建ての住宅が、あたりを睥睨するように建っている。加えて通りに面してめぐらされた頑丈そうなレンガ塀が、「この中は特別地帯」とばかりに周囲を隔てている。

中に入ると、1階は江戸時代の宿場の本陣屋敷に見られる造り。座敷が幾重にも連なっており、主人である津島源右衛門が客人をもてなすために宴会を派手に行ったのでは、と想像をはたらかせた。私が興味をおぼえたのは2階に上がる階段と、2階の応接間だ。階段は勾配がゆったりとしているうえ、丁寧に細工が施された手すりがついている。鹿鳴館の影響を受けたのであろうか。応接室は20畳ほどの広さ。窓に取り付けられた調度品も気品があり、情趣あふれる部屋である。

明治に入って、薩長の志士たちが高い位を得て、文明開化時代の貴族となった。私は「斜陽館」の部屋々々を見てまわり、「津軽の貴族」という印象をもったのだった。源右衛門が貴族院議員になったのも、さもありなんであろう。

外に出て、斜陽館の周辺を歩いた。朽ちかけた家、古ぼけた家が多く、観光客も足を運ばない裏手の界隈はひっそりと沈んでいる。斜陽館以外は″斜陽地区″なのだ。

津軽鉄道の金木駅に向かった。さびれた線路のはるか向こうに岩木山のどっしりとした山容が曇り空の下でかすんでいた。一両の列車の窓から見た金木の里は、灰色にくすんでいて、斜陽館の屋根だけがつき出ている。

小説『斜陽』には太宰の生家はおろか、津軽そのものが登場しない。舞台は伊豆半島。「日本が無条件降伏をしたとしの、十二月のはじめ」に「東京の西片町のお家を捨て、伊豆のちょっと支那風の山荘に越して来た」姉と弟の物語だ。山荘は売りに出された河田子爵の別荘。いっしょに暮らしていた母が結核で亡くなり、姉は妻子のある恋人を、東京・西荻窪の六畳の間くらいの部屋にたずねる。すると「わあっわあっとひどく騒がしいお酒盛り」をしているところだ。「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」とだれかが言って、「ふざけ切ったリズムでもって弾みをつけて、無理にお酒を喉に流し込んでいる」のだ。

恋人は「僕は貴族はきらいなんだ」と言い、「あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出来の男なのだが、時々ふっと、とても附き合い切れない小生意気なところを見せる」と言い加える。

姉が伊豆に戻ると弟が遺書を残して自殺していた。弟は画家の奥さんに恋していた。「僕には、所謂、生活能力が無いんです。お金の事で、人と争う力がないんです」という弟は、姉の恋人から「それが貴族のプライド」と突き放され、「僕は、死んだほうがいいんです」と命を絶ったのだ。

弟は太宰自身であろう。文庫本(角川文庫)で200ページのごく一部を引き出しただけだが、以上をみても、テーマが「貴族の没落」であることは明らかだ。

考えてみれば、斜陽館そのものが没落貴族の象徴であろう。大地主であった太宰の生家は、戦後の農地解放で、かつての富豪も見る影なくズタズタにされたのだ。太宰はどう生きるべきか、その目標を見いだせなかったのかもしれない。

30年で首位から35位に

太宰が生きた戦前、わが国にも貴族がいた。公爵など爵位のある華族である。日本は戦後、憲法施行とともに華族制度が廃止され、法律上の貴族は存在しない。一方、イギリスでは「世襲貴族」と呼ばれる層が今なお存在する。爵位を世襲できる貴族のことで、2021年11月現在、公爵家30、侯爵家34、伯爵家191、子爵家111、男爵家443、計809家が世襲貴族である。「法の下の平等」という憲法の精神からすれば、華族制度がないわが国の方がはるかに全うだといえる。

しかし、これは法律上のことである。「世襲」自体はまかり通っているのだ。

岸田首相と長男、翔太郎氏(右)(ウィキベテアより)

岸田首相自身世襲3世であることは冒頭に述べた通りだ。その岸田内閣の全閣僚20人のうち、父親が国会議員だった者は首相も含めて8人。夫や叔父などの親族に国会議員経験者が要る人を含めると11人と過半数になる。首相だけに限ると、1996年に小選挙区が導入されて以降の12人のうち、世襲でないのは菅直人、野田佳彦、菅義偉の3氏だけ。自民党に限れば菅義偉氏以外はすべて世襲組だ。小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の各氏は父親と同じ選挙区を引きついだ。安倍、麻生両氏の祖父は首相を務めた岸信介、吉田茂各氏である。

世襲候補者が当選できる理由について、ジバン(地盤=後援会)、カバン(鞄=選挙資金)、カンバン(看板=知名度)を引きつげるから、と説明される。カバンだけでなく、ジバンもカンバンも潤沢な財源がなければ獲得できるものではない。岸田首相の場合、父文武氏が宮沢喜一元首相と遠縁に当たっており、岸田首相は岸田家一族の代表として首相に上り詰めたといえるだろう。

こうした家として独占的地位を獲得できる実態を見れば、もはや貴族というほかない。藤原氏や平氏にみられるように、その家の一員であるだけで、議員バッジはおろか大臣にまでなれるのだ。

「奢れる平氏」といわれた。貴族は奢れるのだ。翔太郎氏は昨年末、総理公邸で親戚と忘年会を開き、新閣僚が記念写真を撮るひな壇で写真撮影したことが週刊誌に報じられたが、岸田家4世としてのおごり以外の何ものでもあるまい。

「奢れる平氏」は「久しからず」とつづく。世襲が当たり前になると、世襲以外の者の活躍の場がなくなり、全体として活力が失われるのは火を見るより明らかだ。

スイスの国際経営開発研究所(IMD)が発表した2023年版「世界競争力ランキング」で、日本が前年よりランクを一つ下げ、世界35位となった。IMDは「政府の効率性」などの4項目で競争力を評価するもので、1989年から4年間は世界首位だった。今回の発表では、アジアに関してシンガポール(4位)、台湾(6位)、香港(7位)は別格として、中国(21位)、マレーシア(27位)、韓国(28位)タイ(30位)、インドネシア(34位)にも後れをとっている。

『斜陽』では、弟は「人と争う力がないんです」という。私も争うのは好きでないが、かといって「生活能力が無い」のは困りものだ。時代の行く先を読めぬ貴族が没落するのは世のならいではあるが、世襲政治の結果、わが国の競争力がガタ落ちしているならば、ことは深刻である。

貴族院議員という文字通り貴族政治家の父をもちながら、太宰は政治家を世襲せず、文学の世界に進んだ。彼の文学もそして生き方も破滅的であったが、文学界に大きな波紋を起こし、死後75年がたった今も世代を超えて数多くの太宰ファンがいることも確かだ。

わが国が斜陽状態を脱するためには、まず政治家の世襲を禁止すべきであろう。太宰の『斜陽』はそのことを教えているのである。(明日に続く)

編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」01》文・写真 井上脩身

世襲まかり通る斜陽国家

斜陽館

 岸田文雄首相は6月1日、総理秘書官である長男、翔太郎氏を「総理公邸で不適切な行動をした」として更迭した。岸田首相は祖父、父も衆院議員を務めた3世議員。翔太郎氏を4世にするために秘書官に任命したのではといわれ、翔太郎氏の不祥事を機に、世襲批判が国民の間で一気に噴き出した。わが国が斜陽国家になり下がったといわれて久しい。その一因に、世襲がまかり通っていることがあるのではないか。その末路はどうなるのか。私はコロナ禍のなかを訪ねた青森県五所川原市の斜陽館を思い浮かべた。作家・太宰治の生家である。戦後間なしに心中自殺をした太宰は貴族院議員の御曹司であった。

金木の殿様の大豪邸

 学生時代、青森県出身の友人がいた。彼の母校が旧制中学校時代に太宰が卒業したこともあってか、太宰文学に傾倒していた。彼に影響されて、太宰の代表作である『斜陽』を読んでみたが、自殺を図る登場人物の心情に共感することができず、私は大江健三郎に夢中になった。

 コロナ禍が始まった2020年、わが国の国民1人当たりのGDP(国内総生産)は世界26位に転落した。1989年の4位から30年間で大きく落ち込んできたのだ。G7(主要7カ国)の一員でありながら、内実が全くともなっておらず、実態は「斜陽国家」といわれる。斜陽とはどういうことだろう。

 私は太宰の『斜陽』を読み返した。そして斜陽館を訪ねたのであった。

『斜陽』の内容を語る前に、斜陽館を紹介しておきたい。

 正式名称は五所川原市立「太宰治記念館『斜陽館』」。1907(明治40)年に建設された木造2階建て入母屋造りの近代住宅。2004年、国の重要文化財に指定された。

 同館の案内チラシなどによると、敷地面積2255平方メートル、延べ床面積1302平方メートルの大豪邸。1階に11室、2階に8室があり、旧銀行店舗部分や階段室、応接室を配した和洋折衷建築。母屋をはじめ文庫蔵、中の蔵、米蔵などの土蔵や、敷地を囲むレンガ塀を含め、屋敷全体がほぼ建設当時のまま保存されている。

 太宰(本名・津島修治)は1909(明治42)年、斜陽館が建って3年目に、県下有数の大地主であった津島源右衛門の六男として生まれた。源右衛門は県会議員、衆院議員、さらに多額納税による貴族院議員などを務めた名士。当時の住所は北津軽郡金木村だったので、津島家は「金木の殿様」と呼ばれていた。源右衛門は1923(大正12)年、肺がんで死去。太宰は青森中学を経て弘前高校に進学。在学中に芥川龍之介の自殺を知り、衝撃を受けたという。1930(昭和5)年、東大に入学し、その年、カフェの女給と心中未遂事件を起こす。1935年、東大除籍。1940年『走れメロス』、1947年『斜陽』を書き、翌1948年、『人間失格』を完結させた後の6月13日、愛人の山崎富栄と東京・三鷹市の玉川上水に入水心中。38歳のときである。

 以上、太宰の生涯を足早に紹介したのであるが、その生家を「人間失格館」でも「走れメロス館」でもなく「斜陽館」と命名したのはなぜであろう。そんな思いを内にこめて、「斜陽館」を訪ねたのだった。(明日に続く)

 

編集長が行く #3《元町商店街の手作り映画館》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

手作り映画館 写真ギャラリー

 

編集長が行く #2《元町商店街の手作り映画館》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

戦争の惨禍を映す

映画『ドンバス』のポスター(ウィキベテアより)

2020年からのコロナ感染拡大で元町映画館が苦境に陥るなか、私は『ドンバス』(セルゲイ・ロズニツァ監督)を見たのだ。
ウクライナ東部のドンバスは親ロシア派勢力の強いところで、2014年、一方的にウクライナからの独立を宣言。ウクライナ軍との武力衝突が日常化し、事実上内戦状態になっていた。映画はウクライナ内部の深い分断の溝による悲劇をダークユーモアを交えてえがき出したものだが、私が注目したのは政府側のアゾフ大隊の所業だった。隊の中にネオナチ的な兵がいて、親ロシア派の住民に暴行する場面もある。プーチン大統領が、ウクライナにはネオナチがいると、戦争の口実にしたことを思い起こし、戦争のためには、敵の弱みを最大限利用してプロパガンダにするものと知ったのであった。
同館で私が見た2回目の映画は『島守の塔』(五十嵐匠監督)。2022年8月だった。映画は沖縄戦最中の沖縄県知事、島田叡(あきら)の苦悩に迫った。高校、大学時代、野球の名選手だった島田は東大を出たあと内務省に入省。敗色が濃い1945年1月、米軍の上陸が必至とみられる沖縄県の知事を任命された。家族を残して沖縄に赴任した島田は県民の食糧確保に奔走。米軍が上陸し、摩文仁の丘に追い詰められて死を決した部下に「命どぅ宝、生き抜け」と諭して逃がす。自らは壕にとどまり消息は不明に。遺体は発見されていない。
今は県営平和祈念公園になっている摩文仁の丘から見た沖縄の青い海を思い浮かべながら、涙してこの映画を見たのであった。

採算度外視の映画

浦安魚市場の外観(2019年3月撮影)

政府は今年3月、コロナ対策を緩和し、マスクの着用を個人の意思に委ねた。そんな中の4月下旬、私は元町映画館で『浦安魚市場のこと』(歌川達人監督)を見た。冒頭に述べた魚市場が舞台の映画である。
浦安魚市場は1953年、千葉県浦安市に設置された。30店舗が入居、漁師が浦安で水揚げした魚介類をはじめ、築地市場で仕入れた鮮魚が販売された。元来、浦安の海は漁場だったが、経済成長とともに埋めたてが進み、臨海工場地帯になる一方で、東京ディズニーランドの開設によって、漁港の町ではなくなった。住民の買いもの動向も大きく変わり、消費者の80%以上は魚介類をスーパーで買うようになった。
加えて市場の2階建てビルが老朽化し、耐震構造になっていないこともあり、2019年3月31日、閉鎖され、65年の歴史の幕を閉じた。
私は閉鎖される少し前に同市場をたずねた。ほとんどの商品は売り切れていた。着いたのがすでに午前11時を過ぎていたこともあるが、閉鎖が決まって商品を余らせないようにしていたこともあるのだろう。売り物のない店には寂しさが漂っていて、いつもは威勢がいいであろう店員たちも、ほとんど言葉を交わさず、物静かな市場であった。
映画は「泉銀」という店の、40代半ばの店主を主人公にして描かれた。店主は「市場に客を呼び込もう」と市場の近くの路上でロックのライブを開き、自らボーカルをつとめるなど、苦心に苦心を重ねる様子を克明に描写。3人の子どもには南房総の漁港でクジラをさばく様子を見せたり、築地市場に連れて行ったりと、鮮魚商の内側を教える。
市場閉鎖の直前、泉銀の店主は復興したばかりの岩手県宮古市の市場に招かれ、マグロをさばく。たまたま私はこのころに宮古市を訪ねているだけに、このシーンに胸が詰まった。新たに生まれ変わる三陸の魚市場と、姿を消す大都会の市場。市場経済は非情である。

神戸の人たちのなかに浦安魚市場に関心がある人はまずいないだろう。実際、私を入れても入館者は7、8人。人件費も出ないだろう。それにもかかわらず上映を決断した元町映画館のスタッフに私は敬意を表したい。世の中、経済の論理だけで動くわけではないのだ。
映画館の天井が低くとも、映写機の位置が低くとも、そして待合スペースがなくてもいいではないか。儲からない映画も上映する。その気概に私は拍手喝采である。
ここまで書いて、小学校のころ、学校の講堂で映画が上映されたのを思い出した。美空ひばりが双子の姉妹として登場する映画だった。スクリーンに児童の影が映ったが、気にはならなかった。あるいは私が映画が好きになった原点だったのかもしれない。ふと思う。元町映画館はあるいは新たな映画文化を切り開くきっかけになるかもしれない。手作り映画館が地元の映画好きを掘り起こすことになるのではないか。手作りのミニ映画館が地域文化の担い手になってくれることを私は願っている。(明日に続く)

編集長が行く #1《元町商店街の手作り映画館》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

元町映画館の入り口周辺

神戸一の繁華街・元町商店街の一角に「元町映画館」ができたのは13年前の8月。以来、「知る人ぞ知る」といったかんじで、ひっそりと営業をつづけてきた。同映画館はいわゆるミニシアターの一つであるが、他の小映画館と決定的に異なるのは、映画館らしくない映画館。いうならば手作り映画館なのである。はじめてこの映画館に入ったとき、天井が低いのに驚いた覚えがある。以来、私は元町映画館のファンになった。4月末、神戸の人がまず見ないであろう映画が上映された。舞台は私が訪ねたことがある千葉県の魚市場。案の定、客は10人足らず。採算よりもいい映画を。映画館主のそんな心意気がたまらない。

パチンコ店からの変身

私が同館で見た最初の映画は『ドンバス』であった。ウクライナ戦争が始まって3カ月半ほどたった2022年6月、新聞で上映を知った。ネットで前売り券を買い求めようと同館のホームページを開いたところ、当日、窓口でしか販売していなかった。上映の40分前に同館を訪ねてチケットを購入。この際整理券を渡され、上映の10分前に来るように、と言われた。
指示通り、10分前に行ってわかった。館内には待合室がなく、外で待つしかない。外は商店街である。早くから街路で待たれると、隣近所の商店に迷惑をかけるのだ。
館内に入って驚いたのは冒頭に述べたように天井が低いこと。高さは2・5メートルくらい。背の高い人なら天井に手が届きそうである。予告編が始まると、客席の後ろを横切った人の影がスクリーンに映った。後ろを振り返った。映写機の位置が低い(高さ1・5メートルくらい)ので、その前を通ると、影が映るのだ。係員が「上映中、トイレに行かれる方は腰をかがめてお通りください」と注意していた。
私はミニシアターが好きだ。大阪・十三の「第七芸術劇場」、西九条の「シネ・ヌーブォ」、宝塚の「シネピピア」などで何度も映画を見た。いずれも100席にも満たない映画館だが、戦争や原発、環境などがテーマの地味な名画が上映される。これらの映画館は小さいけれども映画館としてつくられており、客が立とうが動こうが、それで映写の邪魔になる(他の客に迷惑をかけるとしても)ことはない。客の影が映るというのは、元町映画館がもともと映画館としてつくられたのでないからではないのだろうか。
映画が終わり、外に出るとさっそくネットで調べた。「2000年、小児科医の堀忠は元町4丁目商店街の閉店したパチンコ屋を購入し、映画館開館の準備を進めた」とある。元はパチンコ店だったのだ。パチンコをするのに天井がそれほど高い必要はあるまい。パチンコ店が映画館になった例はおそらくほかにはないだろう。

映画好きの小児科医師

元町映画館生みの親の堀忠さん

堀忠とはどういう人物なのだろう。2020年に元町映画館が開館して10年がたったのを記念して刊行された『元町映画館ものがらり――人、街と歩んだ10年、そして未来へ』(神戸新聞総合出版センター)をひもといた。書き出しは堀さんの紹介である。
堀さんは子どものころ、元海軍軍医の父親によく映画館に連れられた。高校生になると文化祭で16ミリフイルムの上映会を催すほどの映画好きになった。医師になって後の1990年代前半、40歳くらいのころ、映画館をもちたくなった。ミニシアターがない神戸にターゲットをしぼって映画館にできそうな建物を探しまわり、1999年、元町商店街にある2階建てのテナントビル「元町館」を手に入れた。ここにパチンコ店が入っていたのだ。
2005年、堀さんら映画好きグループが中心になって「シネマをつくろう!」というプロジェクトがスタート。2006年、主要メンバーが元町館に集まって映画館づくりのための経費見積もりを行った。資金のメドは立たなかったが、堀さんが同僚から100万円を借りるなどして資金を工面、2010年4月、着工にこぎつけた。
工事に合わせて、映画館ができるまでをドキュメンタリー映画に収めることにした(映画は『街に・映画館を・造る』=木村卓司監督。2011年4月、同館で公開)ところが、映画好きならではの着想だ。2010年7月に工事が完成。上映場は幅約8メートル、長さ約18メートル、66席。元パチンコ場としては堂々たる出来栄えといえるだろう。
オープンは2010年8月21日。オープニング作品はグォ・ヨウ、スー・チー主演の中国映画『狂った恋の落とし方。』と高畑勲監督の『赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道』。オープン初日、不倫に苦しむ女性と一夜にして富豪になった中年男女の恋愛を描いた『狂った恋の落とし方。』は北海が舞台となったことも手伝って76人が入場。『赤毛のアン』にも47人が入り、上々の滑り出しになった。
その後、『勝手にしやがれ』などで知られるヌーベルバーグの旗手、フランスのゴダール監督の作品や富野由悠季節監督の『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』など、多方面のジャンルの映画を意欲的に上映。戦後の激動の台湾を描いた『悲情城市』(1989年、侯孝賢監督)は2013年に上映された。私はこの映画の舞台となった台湾の現地をたずねたことがある。上映はその1年前だ。見ていれば現地でいっそうの興趣をおぼえたであろう。(明日に続く)

編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 02》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

神社前の狭い広場で激突?

阪急石橋阪大前駅の阪大側改札口付近
デモ隊と警察が衝突した須佐之男命神社

1月末、私は吹田事件の現場を訪ねた。すでに述べたように、阪大グラウンドでの集会の後、デモ隊は二手にわかれている。人民電車部隊コースをとった一団は阪急石橋(現石橋阪大前)駅に向かい、上りホームで気勢をあげ、人民電車の発車を要求、臨時電車で大阪方面に向かったという。
その現場である石橋阪大前駅上りホーム。私が自宅から大阪に行く際に利用する阪急電車はこの駅を通る。同駅から阪大に通じる商店街にある鍼灸院に何度か通ったことがあり、この駅は知り尽くしている。上りホームは箕面線ホームとの分岐点にもなっていて、そこに改札口が設けられている。改札口辺りは事件のとき、現在と同様、比較的広いスペースがあったであろう。おそらくそこでデモ隊は団子状になり、勢いあまって「人民電車を出せ」と要求したのであろう。 “編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 02》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

――朝鮮戦争の軍需列車阻止の闘い――

『朝鮮戦争に「参戦」した日本』の表紙

1950年に始まった朝鮮戦争の休戦協定が成立して今年で70年になる。あくまで休戦であって戦争が終わったわけではない。2018年6月と19年2月、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩最高指導者の間で米朝首脳会談が行われたが、何ら進展はなかった。むしろ双方の緊張状態は一層深刻化、さながら米朝冷戦真っただ中の様相である。もし朝鮮半島が有事になればどうなるか。朝鮮戦争では、武器や爆弾を運ぶ軍需物資輸送網が日本中にしかれた。戦争を止めるためは輸送ルートを食い止めるしかない――という実験のような事件が実際にあった。吹田事件である。我が国周辺の緊張が高まるなか、反戦運動のためにどこまで体をはれるのか。それが知りたくて吹田事件の現場をたずねた。 “編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《北海道・礼文島 02》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)

浸食がつくる穂高の島

『花の島に暮らす——北海道礼文島12カ月』(北海道新聞社)

 旅を終えて帰ってから知ったことだが、植物写真家でエッセイストの杣田美野里さんが1992年、36歳のとき東京から一家で礼文島に移住、2006年に『花の島に暮らす——北海道礼文島12カ月』(北海道新聞社)を著していたことを知った。

 同書によると、自然写真家の夫、生まれて3カ月の娘とともに礼文島にわたった。同書は、写真を中心に、エッセーを交えて四季折々の島の情景を表したもので、礼文島の風物詩が抒情的にえがき出されている。タイトルの通り、花々の写真を中心に構成されているが、私が注目したのは猫岩が写っている2点の写真だ。一つは海辺から捉え、もう一点は高台から写している。 “編集長が行く《北海道・礼文島 02》Lapiz編集長井上脩身(文・写真共)” の続きを読む