Lapiz Opinion《戦争をする国」へ突き進む日本政府になぜ国民は沈黙するのか-1》渡辺幸重

-「重要土地等調査規制法」成立にみる日本社会の病根-

選挙ドットコムから

日本政府のコロナ対策への“無能無策”ぶりに日本国民は怒りを超えて諦めの境地に追いやられているなか、裏で憲法改正(改悪)や軍備増強が急ピッチで進んでいる。国会閉幕日の6月16日の未明には参議院で「重要土地等調査規制法案(重要施設周辺及び国境離島等における土地等の利用状況の調査及び利用の規制等に関する法律案)」が強行採決された。これは特別秘密保護法や安保法制などと同じように日本憲法の平和理念を無視した戦争への道を進む法整備の一環である。なぜ、メディアはきちんと報道もせず、国民は無関心なのか。なぜ、日本社会は戦前と同じ道をたどろうとしているのか。このままでいいはずがない。 “Lapiz Opinion《戦争をする国」へ突き進む日本政府になぜ国民は沈黙するのか-1》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その28《要塞地帯法》渡辺幸重

図版:対馬要塞配置状況(太平洋戦争の本土決戦期)

最近の日本社会は、尖閣諸島・台湾海峡問題で中国、ミサイル発射問題で北朝鮮の脅威を喧伝するあまり、海洋に散らばる島々の多くを“国境離島”に指定して国土防衛の拠点とみる傾向が強まっています。第二次世界大戦でもそうでした。
1899(明治32)年に要塞地帯法が公布され、函館要塞(津軽要塞)・東京湾要塞・父島要塞・舞鶴要塞・下関要塞・壱岐要塞・対馬要塞・長崎要塞・奄美大島要塞など全国各地に要塞地帯が指定され、砲台設置工事が始まりました。島々には数多くの砲台が設置され、重砲兵連隊などの軍隊が配備されました。国境の島・対馬では法律制定以前の1886年に明治政府が陸軍対馬警備隊を置き、翌年には対馬要塞の建設が始まりました。昭和期まで島内各所および周辺の島々に多くの砲台が築かれ、要塞地帯法により戦後まで立ち入りの自由が制限されました。測量や撮影、摸写、録取が禁じられ、風景を描くこともできなかったそうです。太平洋戦時の対馬の地図には島内31ヶ所に砲台が書かれています。まさに“要塞の島”です。近くには壱岐要塞があり、両要塞で対馬海峡全体を封鎖できるようになっていました。
要塞地帯法ができても計画通り要塞構築が進んだわけではありません。奄美大島要塞は1921年に着工されましたが、翌年に日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの5ヶ国が締結したワシントン海軍軍縮条約の要塞化禁止条項によって工事は中止されました。日本領の千島諸島・小笠原諸島・奄美大島・琉球諸島・台湾・澎湖諸島、アメリカ領のフィリピン・グアム・サモア・アリューシャン諸島などの要塞化が禁止されたのです。軍縮の結果、琉球弧(南西諸島)は非武装地帯になりました。対馬や壱岐は禁止の対象にはならず、壱岐要塞の的山大島砲台には軍縮の対象になった戦艦「鹿島」の主砲塔が、黒崎砲台には戦艦「赤城」の主砲塔が設置されました。しかし、日本が1933年 に国際連盟を脱退し、翌年にはワシントン海軍軍縮条約破棄を通告、さらに日中戦争が勃発すると奄美大島は一気に軍備が増強され、さらに沖縄島の中城湾臨時要塞、宮古島の狩俣臨時要塞、西表島の船浮臨時要塞が構築されました。朝鮮半島から台湾までの軍事要塞化が完成したのです。
現在、当時と同じような琉球弧での軍備拡張が続いています。与那国島・石垣島・宮古島・奄美大島・馬毛島に自衛隊基地を建設する計画が進行しており、石垣島・宮古島・奄美大島には砲台ならぬミサイル基地が置かれるとのことです。対馬から九州島・琉球弧をつなぐ要塞ネックレスです。戦前の要塞地帯法や軍機保護法と同じような「重要土地調査規制法」も今年6月に国会で成立しました。戦前でさえ一時期ながら軍縮で非武装化が実現しました。いまこそ外交努力で日本を平和な島の国にするべきです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重

『大奄美史』(曙夢著、1949年)

1609(慶長14)年、薩摩藩は徳川家康の許しを得て琉球に侵攻し、沖縄全域を半植民地として支配しましたが、琉球国に属していた奄美群島は分割して直接支配しました。財政が厳しかった薩摩藩は奄美にサトウキビの単作を強制し、年貢として黒糖を取り立て、搾取を強めていきました。1830年からは黒糖を藩が買い入れる制度を作り、島民同士の売買を禁止、売買する者は死罪となったそうです。奄美で島民の唯一の食料であったサツマイモの畑もほとんどサトウキビ畑に転換され、人々は過酷な労働のもとで日常の食料にも事欠くようになり、奄美大島・徳之島・喜界島での困窮状況は「黒糖地獄」と呼ばれました。そのなかで豪農のユカリッチュ(由緒人)・一般農民のジブンチュ(自分人)・農奴身分のヤンチュ(家人)という三階層の身分分解が進みました。ユカリッチュは数人から数百人のヤンチュを抱え、自己の私有財産として売買もしました。『大奄美史』(曙夢著、1949年)は「これが即ち謂ふところの『家人』制度で、ロシヤの農奴制にも劣らない一種の奴隷制度であった」としています。明治政府は、1873(明治4)年に膝素立解放令(家人解放令)、翌年に人身売買禁止令を出しますが、解放されたのは当時1万人以上とみられる家人のなかの千人足らずだったと『大奄美史』は指摘しており、明治末年までこの制度が続いたようです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その26《猫神様》渡辺幸重

猫神社・宮城県石巻市

私が子どもの頃見た時代劇映画にはよく“猫の妖怪”が登場し、猫が美女に化けて屋敷に入り込み、夜な夜な行灯の油をなめるシーンがありました。猫には魔力があると教えられ、行灯に映る猫の影に怯えたものです。現代ではペットとして人間を癒やすために貢献しているようで、私の中でもすっかりイメージが変わりました。
“家猫(飼い猫)”“野良猫”“地域猫”という区別をご存知でしょうか。ある地域の住人が餌をやり、共同で面倒をみる猫を地域猫といいます。東京の谷中は有名ですが、日本には地域猫が多く住む“猫の島”がたくさんあります。ちょっと挙げるだけで、牡鹿諸島の田代島(たしろじま)、湘南の江の島、琵琶湖の沖島、瀬戸内海の真鍋島・青島・佐柳島(さなぎしま)・祝島、玄海諸島の加唐島、天草諸島の湯島、と次々に出てきます。猫好きな方は近くの島を調べてみてください。
その代表が宮城県石巻市の田代島です。なんといってもここには猫神社があり、祭神として猫神様(美與利大明神)が祀られています。猫の天敵である犬は飼ってはいけないといわれるほど徹底しているのです。
田代島ではかつて養蚕が行われ、カイコの天敵であるネズミを駆除してくれる猫が大事に飼われていたようです。そのうち、大型定置網(大謀網)によるマグロ漁が盛んになり、島内の番屋に寝泊まりする漁師と餌を求めて集まる猫が仲良くなりました。漁師は猫の動作から天候や漁模様を予測したそうです。“持ちつ持たれつ”のいい関係ですね。ある日、網を設置するための重しの岩が崩れて猫が死ぬ事故がありました。網元がねんごろに猫を葬ったところ、大漁が続き、海難事故もなくなりました。そこでその猫を猫神様として祀ったそうです。田代島には別の伝説もあって、いたずら好きの山猫が魚を盗んだり人間に危害を加えたり化かしたので、それを鎮めるために猫を祀ったともいいます。こちらの方は“猫の妖怪”のイメージに近く、祟りを恐れて祀る形になります。
東日本大震災のあと「田代島にゃんこ・ザ・プロジェクト」の取り組みが起き、全国の多くの愛猫家からカキ養殖再生のための募金が寄せられ、オリジナル猫グッズなどが謝礼として贈られました。また、ドイツの獣医師・クレス聖美さんは被災後の猫を心配して2ヶ月おきに来島し、ボランティア診療を続けました。震災後の動きは猫神様が島の守り神であることを証明しました。島の平和はこれからも長く続きそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その25《日本人初の世界一周》渡辺幸重

日本人で初めて世界一周をしたのは絶景の松島湾に浮かぶ宮戸島の儀兵衛、多十郎(太十郎)、寒風沢島(さぶさわじま)の津太夫と佐平の4人で、200年以上前の江戸時代のことです。彼らは、北はベーリング海、南は南極近くまで旅をし、ユーラシア大陸を横断し、大西洋と太平洋を渡りました。11年かかりました。この歴史を知っている人は少ないと思うので、紹介します。
4人は仙台藩の船・若宮丸の乗組員で、儀兵衛は賄い、他の3人は水主(かこ)でした。彼らを含む16人が乗り込んだ若宮丸は1793年(寛政5年)11月、米と材木を積んで石巻から江戸に向かう途中、暴風雨に遭い、北太平洋のアリューシャン列島の小島に漂着しました。一行はシベリアのイルクーツクに移され、そこで7年間暮らしたあと漂流10年後にロシアの首都サンクトペテルブルクで死亡や病気以外の10人が皇帝に謁見し、帰国を希望した4人がロシア初の世界周航船・ナジェージュダ号でクロンシュタット港から日本に向かいました。それから1年2カ月かけて地球を回り、1804年(文化元年)9月に長崎港伊王崎に到着しました。1804年というのはナポレオンが国民投票で皇帝になり、ナポレオン1世が誕生した年です。4人が乗った船はコペンハーゲン、イギリス、スペイン領アフリカ、ブラジル、南太平洋・マルケサス諸島、カムチャッカ半島に寄港しています。鎖国中の日本に帰国した4人は3カ月以上幽閉されたあと仙台藩に渡され、故郷に帰ることができました。途中、江戸で受けた藩の取り調べをまとめたのが蘭学者・大槻玄沢の『環海異聞』です。これにより私たちは、北海で英仏戦争中の英国船から砲撃を受け、南アメリカ最南端のホーン岬で強風に遇って南極近くまで流され、マルケサスで全身に入れ墨をした現地人と遭遇した、などの4人の体験を知ることができます。いまでも宮戸島には多十郎の墓碑、儀兵衛・多十郎オロシヤ漂流記念碑、儀兵衛の供養碑があり、島の東松島縄文村歴史資料館では多十郎がロシア皇帝から下賜されたという上着などを見ることができます。
ロシアが4人を送り届けた目的は日本との交易にありました。ところが、幕府の対応が礼を欠くものであったため日露が緊張関係になり、お互いの拿捕合戦につながったそうです。ロシアに残った乗組員の一人、善六はキセリョフ善六の名前で通訳や日本語教師を務め、露日辞書を作りました。1813年(文化10年)に函館で行われたゴローニン事件解決のための日露交渉の場にロシア側通訳として出席しています。江戸時代にはロシアに留まった日本人漂流民が何人もいたそうです。鎖国しても海は世界を結ぶということを知りました。

連載コラム・日本の島できごと事典 その24《内地と本土・離島と属島》渡辺幸重

「離島」航路の船と桟橋

沖縄でナイチャーというと「内地の人」という意味です。私は鹿児島県内の島で生まれ育ちましたが、鹿児島市など九州島を「内地」と呼びました。子どもの頃、「鹿児島が内地ならこの島は何? 外地?」と不思議に思いました。「外地」とは一般に戦前戦中の旧満州や朝鮮半島、台湾など大日本帝国の植民地にあたります。島で外地という言葉は使いませんが、戦前のイメージと重なり、私は自分の島が日本ではないように思え、自分自身も日本人意識が薄いと思いました。日本復帰直後の沖縄で伊江島の人から「あんた、日本から来たの?」と言われてびっくりしました。「内地を日本って言っていいんだ」と思うと言いようのない大きな解放感を覚え、心地よかったのを覚えています。
よく「本土と離島」はセットで使われます。しかし、本来は「本土と属島」で、経済的・社会的に島が依存している中心的地域を本土(主として北海道・本州・四国・九州)、その島を属島と呼びます。中心が島の場合は「本島」(沖縄本島など)となります。離島という言葉は離島振興法施行後に広まり、いまでは架橋島や陸繋島以外は一般に離島と呼ぶようになりました。ただ、私は「離れ島」というニュアンスの離島という言葉には抵抗があり、なるべく「島嶼」を使うようにしています。
島との交通手段を紹介する場合、多くの島のガイドブックは「東京・竹芝桟橘から旅客船で24時間」(小笠原諸島・父島)のように本土側(旅行者側)の視点で書かれています。私は「東京竹芝と父島二見港間に定期旅客船が就航」のような書き方を心がけています。みなさんにこの違いをわかってもらえるでしょうか。

連載コラム・日本の島できごと事典 その23《縄文杉の年齢》渡辺幸重

縄文杉発見を告げる記事(南日本新聞)

1967年(昭和42年)、南日本新聞の元旦紙面トップを1本の巨木が飾りました。見出しは「生き続ける“縄文の春”」「推定樹齢四千年 発見された大屋久杉」とあります。この巨木は観光の目玉となり、1933年に世界自然遺産に登録された屋久島のシンボルとして今では“縄文杉”の名前で広く全国に知られています。
縄文杉は1966年5月、町役場の職員だった岩川貞次さんによって発見されました。当時の屋久杉の王様・大王杉をしのぐ高さ25.3m、胸高周囲16.4mの世界最大級の杉として話題になり、樹齢は3千年以上、4千年ともいわれました。新聞記事はこれを反映しています。その後、九州大学の真鍋大覚助教授が古代気象と成長量の関係から7,200年と推論しました。これが広まり、いまでもよく耳にする「樹齢7,200年ともいわれる」という表現につながっています。1983年に環境庁(当時)は「古くても6,300年」としました。実は当時、屋久島の北にある鬼界カルデラが6,500年ほど前に大噴火を起こし、そのとき広がった幸屋火砕流が屋久島全島を覆ったので、それ以前の生き物が残っているわけがない、という主張が強く出されていました。そういう事情から「6,300年より新しい」ということになったのだと思います。ところが現在では学術研究が進み、鬼界カルデラの火砕流は「約7,300年前」とされています。縄文杉の年齢が「7,200年」でもおかしくないことになります。
1984年には炭素測定法で測定した木片で一番古いのは「2170年±110年」と推定されました。「2,060~2,280年」となり、「縄文杉の樹齢は約2,000年」はこれを根拠にしています。外側よりも内側が若かったりしたので、複数の樹木の合体木ではないか、という議論も起きました。現在ではこれは否定されています。学術的には「縄文杉の樹齢は古くとも4,000年以上はさかのぼらない」が定説のようですが、今でもロマンを込めて「縄文杉の樹齢は7,200歳」と説明する人はたくさんいます。あなたはどう説明しますか。
縄文杉のまわりには江戸時代に伐られた屋久杉の株が残っています。実は、縄文杉は見つからなかったから残ったのではなくて、木材にならないほどひねくれた“落ちこぼれ者”だったから残されたのです。私は若い人たちに「優等生でなくても、社会に役に立つ人にはなれる」と縄文杉にたとえて話をします。
晩年を屋久島で過ごした詩人・山尾三省は、縄文杉に畏敬の念を込めて「聖・老人」と呼びました。

連載コラム「日本の島できごと事典(その22)」カネミ油症事件

カネミ油症50年記念誌 発行 五島市

 

1968年(昭和43年)10月、「史上最悪の食中毒事件」「国内最大規模の食品公害」と呼ばれる「カネミ油症事件」が発覚しました。これは、ポリ塩化ビフェニール(PCB)が混入したカネミ倉庫(北九州市)製の米ぬか油が販売され、健康被害を訴える人が全国で1万4千人を超えた(1969年7月時点)という事件です。認定患者数はいまでも増え続けており、2020年3月時点の累計認定患者数は西日本を中心に2,345人います。患者らの運動により2012年に被害者救済法が成立し、発生時に認定患者と同居していた家族も一定の症状があれば患者とみなされるようになりましたが1969年以降に生まれた子や孫の救済は進んでいません。今年になって国が認定患者の子を対象に健康実態調査を実施する方針であることがわかりました。公的機関が次世代調査を行うのは初めてということです。天ぷらやフライを揚げる高熱のなかでPCBが猛毒のダイオキシン類に変わると考えられ、“奇病”といわれる症状に悩まされ人もおり、出産障害も指摘されています。病気や偏見・差別との戦いは50年以上経った今でも続いているのです。
患者は長崎県五島列島の福江島と奈留島に集中しています。全国の認定患者数の4割以上が長崎県で、その9割以上が五島市です。福江島・玉之浦地区と奈留島だけで全国の約4割を占めます。奈留島では1968年2月頃から「安くて健康にいい」と評判の米ぬか油が入ってきたそうです。決して裕福ではなかった人々は喜んで油を買い求めました。奈留島では12店で161缶、玉之浦では1店で50缶が販売されました(推定)。販売数では奈留島が玉之浦の3倍ですが、認定患者数は逆に奈留島が玉之浦の3分の1にとどまっています。事件発覚当時、玉之浦や長崎市などで健康被害の届け出が相次いだときにも奈留島での届出はゼロだったそうです。このため奈留島を“沈黙の島”と形容する報道もあります。これは、売り手と買い手が地縁・血縁で濃密な人間関係があったことや偏見・差別を恐れたから届け出なかったといわれています。販売店のなかには被害を拡大させた心苦しさから症状がありながらもいまだに油症検診を受けていない人もいるそうです。
私は、この“沈黙”を小さな島の特殊な出来事とは思いません。日本社会全体が抱える“病症”だと思うのです。日本の政治の動きを見ると濃密な関係の集団の論理で、意見の異なる集団や国民を黙らせるという構図が見えてきます。上から下までそうなってしまっては日本社会はよくなりません。“シマ社会”を根本から作り替える必要性を感じます。

五島列島ではいま、五島特産の椿油を使っています。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その21《悲恋伝説》渡辺幸重

無人島・姫島

 全国各地の島々に数々の悲恋物語が伝わり、地名や歌にも多く残っています。詩人なら「島の旅情が恋心を誘う」とでも言うのでしょうが、海難事故や戦争とからむものもあり、単純なものばかりではありません。

高知県の豊後水道南部・宿毛湾口に浮かぶ無人島・姫島は「姫島(玉姫)伝説」の舞台です。

 昔、姫島の東方約4kmにある沖の島の母島(もしま)という集落の男が京に上って暮らすうちに玉姫という美しい姫君と恋仲になりました。やがて男は国に帰ることになったのですが、玉姫と別れがたく一緒に沖の島に帰ることになりました。ところが、この男には島に妻がいたのです。島に近づくと男は玉姫に妻のことを打ち明け、あろうことか、近くの無人島に玉姫を降ろし、泣き悲しむ姫を残して自分だけ故郷に帰ったのです。男は、妻や親戚との話がつかず、時間だけが過ぎるなかで人々の反対をおしきって無人島に玉姫を迎えに行きますが、玉姫は島の荒磯の岩の上で一人さみしく死んでいたのです。人々は姫をあわれに思い、この無人島を姫島と呼ぶようになりました。

 今風に言えば、男は「出張中に不倫をした」となり、その事実を隠し姫を死なせたひどい男ということになります。そして、厳しい制裁を受けるでしょう。小説にもなりそうなリアルな話です。姫島の名は横から見た島の形が裸の女の人が寝ている姿に似ているからとも言われます。「のど仏がある」と指摘した人もいますが、無視されたようです。

 九州・水俣には「恋路島物語」が伝わります。

 水俣港の前に浮かぶ無人島・恋路島には「恋の浦」という地名があり、島の東部沖に「妻恋岩」があります。戦国時代に九州制覇をめざした肥前の竜造寺隆信が島原の有馬義純を攻めたとき、薩摩の島津勢が有馬の援軍として出陣。その中に川上左京亮(さきょうのすけ)忠堅(ただかた)という27歳の武将がいました。このとき忠堅の新妻は左京亮を見送ったあと夫を恋うる心から小島に渡って石室にこもり、海辺に石を積み上げて夫の武運を祈り続けたといいます。そして、恋慕の思いを募らせたまま夫の帰りを待たずして淋しく島でこの世を去りました。この小島が恋路島で、恋の浦は祈ったところ、妻恋岩は積んだ石の跡ということです。

 実は、左京亮は、竜造寺隆信を討ち取った島津軍の有力武将です。なぜ新妻は死を賭してまで祈らなければならなかったのでしょうか。

 伝説というものはおもしろいものです。遠く海原をみつめながら島の海岸でじっと物思いにふければ、きっと悲恋にロマンを感じるでしょう。

姫島の写真(「みんなの観光協会」から)

連載コラム・日本の島できごと事典 その20《選挙権のない島》渡辺幸重

 日本でいちばん人口が少ない自治体(村)は伊豆諸島・青ヶ島村で、2015年国勢調査では178人となっています(原発事故のため避難者が多い福島県の飯舘村と葛尾村を除く)。“鳥も通わぬ”といわれた八丈島からさらに約64km南下したところにあるのが面積5.96㎢の小さな青ヶ島です。

 日本で初めての選挙が行われたのは大日本帝国憲法発布翌年の1890年(明治23年)の衆議院議員選挙のときです。選挙権を持つのは、直接国税を15円以上納めている満25歳以上の男性のみで、1925年(大正14年)になって25歳以上のすべての男性に広がりました。満20歳以上の男女すべての日本国民が選挙権を持つようになったのは1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後になってからのことです。ところが、青ヶ島で初めて国政選挙が行われたのは1956年(昭和31年)78日の参議院議員選挙でした。青ヶ島の住民には明治時代から敗戦10年後に至るまで選挙に参加することができず、憲法違反の基本人権剥奪が続いていたのです。

 公職選挙法第8条には「交通至難の島その他の地において、この法律の規定を適用し難い事項については、政令で特別の定をすることができる」とあり、同法施行令第147条には「東京都八丈支庁管内の青ヶ島村においては、衆議院議員、参議院議員、東京都の議会の議員若しくは長又は教育委員会の委員の選挙は、当分の間、行なわない」とありました。これが195666日の改正まで存在したのです。

 昭和20年代当時、島の中学生は作文に次のように書いています。

「(新しい憲法に)国民は自由、平等、国の主人公だと書いてあるとおそわった。けど、それはうそだと思う」

「この島の人たちには選挙権がありません。えらい人たちは口先きばかりで、実際にやっていないのです。便利なところでも不便なところでも、住んでいるのは日本人なのです」
「口ばっかりの民主主義はほしくない。ぼくはくやしい。かなしい」

 投票箱を運ぶのが間に合わない、という理由だけで青ヶ島の人だけ選挙権が奪われました。私たちはこの歴史を忘れることなく、かつての島の中学生の声を自分の気持ちのなかにあらためて受けとめたいと思います。

※写真は<青ヶ島青ヶ島村評判&案内| トリップドットコム>より