Opinion《軍事大国・戦争へと向かう“国家意思”にメディアは抗わないのか》渡辺幸重・ジャーナリスト

―「自衛隊に島を奪われる」と危惧する与那国島に目を向けよう―

この記事はちきゅう座からの転載です。 

「岸田首相は何十年も続く平和主義を放棄し、自国を真の軍事大国にしたいと望んでいる」という米『タイム』誌表紙の説明(写真左)は本来、日本のメディアが指摘するべき内容だった。ジャーナリズムを標榜するならば安倍政権時代からの改憲・軍拡路線に対して警鐘を鳴らし、反戦・非戦キャンペーンを展開するべきだった日本のメディアは、日本政府の抗議で『タイム』誌が表現を変えると「外国から変な目で見られなくてよかった」と胸をなで下ろしたようだった。いったい、安保法制や安保3文書改定、防衛費倍増、兵器の爆買い・開発・輸出、琉球弧(南西諸島)へのミサイル配備などをどう考えているのだろうか。この状態は国会や国内世論とともに「軍事大国化は許さない」「戦争をするな」と大騒ぎしてもしすぎにはならないほどだから『タイム』誌も書いたのである。解散・総選挙が近いとささやかれているが、選挙や直接行動で明確な国民の意思が示されなければ国民無視の“国家意思”によって国民の命や生活は踏み潰されてしまうだろう。メディアも国民も正念場に立っている。

沖縄の軍事負担は増大、琉球弧は“軍事要塞列島”に

今年の5月15日で沖縄は日本復帰51年を迎えたが、この間沖縄の米軍専用施設は復帰時より3割以上減ったもののいまなお全国の在日米軍専用施設面積の約7割が沖縄に集中し、逆に自衛隊専用施設は復帰時の4.6倍に増えた。合計した沖縄の軍事負担は2019年以降増加を続け、軽減どころか増加しているのが実態だ。自衛隊基地は与那国島、石垣島、宮古島に新設され、沖縄島などでも拡大が続いている。鹿児島県では奄美大島に自衛隊基地ができ、馬毛島では米軍のFCLP(陸上空母離着陸訓練)も行う自衛隊基地の建設が始まった。沖縄は復帰後も変わらぬ「基地の島」であり、沖縄を含む琉球弧(南西諸島)全体が軍事要塞化されるという「軍事要塞列島」まっただ中にある。

電子戦部隊・空港拡張・港湾整備・ミサイル配置と軍備増強が進む与那国島

先島諸島では、2016年3月28日に与那国島、2019年3月26日に宮古島、そして今年の3月16日に石垣島に陸上自衛隊の駐屯地が開設され、3月18日には石垣島にミサイルが運び込まれた。
その与那国島ではいま、住民の間に大きな動揺が広がっている。当初は「自衛隊は沿岸監視部隊だけ」「米軍が来ることはない」と聞かされていたのに目の前で急速に軍備拡張が進んでいるからだ。昨年4月には航空自衛隊第53警戒隊与那国分遣班が配備され、11月の日米共同統合演習「キーンソード」では与那国島にアメリカの海兵隊員約40人が乗り込んで演習が行われ、重火器を備えた自衛隊の機動戦闘車が住民の目の前で公道を走行した。その物々しい光景は“静かで平和な島”の住民を戸惑わせるのに十分だった。12月に「安保3文書」が閣議決定され、2023年度予算案には与那国駐屯地への電子戦部隊配備に加えて地対空誘導弾(ミサイル)部隊を置くための土地(約18ha)取得などが盛り込まれた。このままでは与那国島、石垣島、宮古島、沖縄島、奄美大島と琉球弧沿いにずらっと大陸に向いたミサイルが並ぶだろう。

防衛省は沖縄復帰の日に当たる今年の5月15日、与那国島で「与那国駐屯地への地対空誘導弾部隊配備に関する住民説明会」を開催した。そこには約150人の町民が出席。防衛省は、空からの攻撃を防ぐため中距離地対空誘導弾部隊を配備するとし、配備するミサイルは「他国を攻撃するものではない」と説明した。すなわち「敵基地攻撃能力(反撃能力)」はないというのだ。しかし、これは誰も信用してはいない。今年1月、アメリカ政府は計画していた地上発射型中距離ミサイルの在日米軍への配備を見送るという報道が流れたが、その理由は日本が敵基地攻撃能力を持つ長射程ミサイルの保有を決めたからだとしており、日本政府が琉球弧に長射程ミサイルを並べようとしているのは明らかだ。
与那国町の糸数健一町長は台湾有事を見据え、大型旅客機・大型船舶による町民の島外避難のために与那国空港滑走路の500m延伸と南部の比川集落への港湾新設を政府に要望したという。これは自衛隊のF35戦闘機の離着陸や自衛隊の護衛艦の接岸などを可能とする軍民共用施設の整備を意味する。沿岸監視だけのはずだった与那国島の軍事施設は、地対空ミサイル部隊基地、与那国空港の軍事的拡張、比川地区への港湾計画(軍港)と際限なく増殖しようとしている。地元ではどこで何が決まったかわからないまま「防衛は国の専管事項」「機密は公開できない」「まだ決定ではない」という説明だけで、軍拡という現実だけが急速に進んでいる。一方、ほとんどの国民は“前線”の緊迫した実態を知らないか知ろうとしないままでいる。

武力攻撃事態で「沖縄本島は屋内避難、先島諸島は九州に避難」

今年の3月17日、沖縄県は武力攻撃事態の際に住民を避難させるための「国民保護図上訓練」を行った。国や与那国町、石垣市、宮古島市なども参加して先島諸島などから沖縄県外に避難する手順を検討したが、その後、沖縄本島は屋内避難、先島諸島の約12万人は九州に避難させる方針が決められた。
与那国島では昨年11月30日に「国民保護法に基づく弾道ミサイル発射を想定した住民避難訓練」が町民22人の参加で実施された。サイレンが鳴ると走って公民館に逃げ込み、頭を両手で抱えてかがみ込むという訓練だったが、訓練の意義に疑問を持つ人も多く、参加者が激減したようだ。また、与那国町は台湾有事を想定して事前に島外避難する町民に対して避難のための交通費や生活資金などを支給する基金の設置を決めている。
2023年度防衛予算には自衛隊施設の司令部を地下化する費用が含まれており、沖縄島の陸上自衛隊那覇駐屯地、航空自衛隊那覇基地、那覇病院など全国6ヶ所が対象になっているが、民間人が逃げ込む場所はない。与那国町は政府に避難シェルターの設置を求めており、自民党の「シェルター(堅固な避難施設)議員連盟」は5月22日、与那国町、石垣市、竹富町を訪れ、住民が避難できるシェルター設置に対する財政支援を政府に促すと約束した。
現地では、“脅威”が煽られ、“不安”が増幅させられることが日常的に続いている。 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の軍事偵察衛星発射に備えるとして宮古島・石垣島・与那国島に展開したPAC3(地対空誘導弾パトリオット)部隊もその機能を果たしている。

「国にだまされた」――誘致派の元町長・元議長がミサイル配備に反対を表明

これらの動きに対して、とうとう我慢できなくなった自衛隊基地誘致当時の町長や町議会議長がミサイル配備反対の声を上げた。
外間守吉・元町長は「ミサイル部隊の誘致だけはどうしても阻止しなければならない」と断言。日本はアジア外交政策を持っていないことを危惧し「私たち保守のグループでもミサイル配備阻止に向け、運動を起こしていこうと話しあっている」と言う。また、前西原武三・元議長も「ミサイル配備は絶対認めてはならない」とし、その理由を「軍事の島になってしまい、島民が安心して生活する環境は失われるかもしれないという強い不安がある」と語る。「国にだまされたような気がして、誘致に賛成したのは正しかったのかと自問自答している」という葛藤も吐露している。

国は与那国島を「全島無人化・全島要塞化」しようとしているのではないか

また、山田和幸さんらミサイル配備に反対する与那国町の住民3人は5月10日、沖縄県・沖縄県議会への要請文、沖縄防衛局への質問状を提出。国に対してはミサイル攻撃の際の島の安全確保、沖縄県議会からの「外交による平和構築を政府に求める意見書」などについての見解を求めた。
同行した「ノーモア沖縄戦 命(ぬち)どぅ宝の会」発起人の新垣邦雄さんによると、3人は与那国島が“人の住まない島、住めない島”になるのではないかという切実な思いで直訴に及んだと言う。山田さんらは「県が全島避難計画、町も全島避難要領を出し、防衛省は大規模な基地建設を計画している。住民を追い出し全島要塞化する狙いではないか」と危惧しているのだ。国は与那国島を、第二次世界大戦“玉砕”の島・硫黄島のような「住民がいない自衛隊基地の島」にしようとしているのではないか。そうでないなら、国はなぜ軍拡が必要か、山田さんら地元住民が納得するまで説明しなければならない。

自衛隊誘致につぶされた「島の自立へのビジョン」

実は、与那国島は自衛隊誘致がささやかれ始める2007年頃までは自立・自治・共生を基本理念に据えた「与那国・自立へのビジョン」「与那国自立・自治宣言」を掲げ、姉妹都市である台湾・花蓮市との交流を足がかりに国が進めている構造改革特区を活用して“国境交流を通じた地域活性化と人づくり”を進めようとしていた。これが全国的に話題を呼び、実現するかと思われたものの2度にわたる特区申請は2006年、2007年とも国に却下され、島の振興策は自衛隊誘致へと流れが変わった。2007年6月には米国のケビン・メア在沖縄総領事と米海軍掃海艇が地元の反対を押し切って与那国島に入港し、翌年1月には島に防衛協会が設立された。日本政府による自衛隊受け入れの働きかけや締め付けは相当強かったようだ。
自立へのビジョンプロジェクトの初代事務局長や2007年4月に開設した与那国町の花蓮市連絡事務所初代所長を務めた田里千代基さんは「もしも特区申請が通っていたら、自衛隊誘致は潰せたと思う」と断言。今でも集会などで「自立ビジョンはあきらめていない」と訴えている。
与那国・自立へのビジョンは自民党の有力者も評価し、実現への協力を表明したという。それが“国策”の自衛隊基地建設によってひっくり返された。人口減少対策と経済振興をねらって沿岸警備隊を誘致したら中国に向けたミサイルまでやってくるという。“国境の島”として交易・交流を考えていた安全・安心の島がまったく真逆の、軍事部隊が対峙する危険極まりない島になりそうなのである。

国家権力に戦争をさせないのがメディアの責務

そこで、冒頭の問いに戻るが、日本のメディアはこのような与那国島の現実に目を伏せたままでいいのか、ということなのだ。この経過を見るに、ほとんどが日本政府の政策や対応が問題であり、「国際情勢」や「地政学的位置」を理由に国境に接する与那国島に“迷惑施設”である軍事施設と部隊を押しつけている。まずは国の施策や国民全体の姿勢を問うべきであろう。
日本のメディアは、岸田政権が「平和主義を放棄し、自国を真の軍事大国にし」、戦争への道を突き進んでいることを『タイム』誌以上に叫ばなければならない。その根拠は与那国島の例一つでも十分であろう。メディアは社運を賭しても国家権力に戦争をさせてはならないのだ。

連載コラム・日本の島できごと事典 その101《鞘形褶曲》渡辺幸重

沼島の鞘形褶曲

瀬戸内海に浮かぶ淡路島には南岸すれすれに中央構造線が通っており、そこから約3km南に沼島(ぬしま)があります。沼島北端の黒崎付近の岩石にはフランスと日本だけという世界的にも珍しい鞘形褶曲(さやがたしゅうきょく)が見られます。1994(平成6)年に発見されたこの鞘形褶曲は約1億年前の“地球のシワ”とも言えるもので、中央構造線や日本列島の形成にも関係する地殻内部の動きを教えてくれます。

1億年前の東アジアでは太平洋側のイザナギプレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいました。このとき日本列島の土台となる陸地はまだ大陸の一部で、約2500万年前から地殻変動によって大陸から離れ始め、その後太平洋側のプレートの沈み込みによってできた付加体を付けて日本列島が形成されていきました。また、イザナギプレートが沈み込む海溝と平行に、大陸だった日本列島の土台部分に大規模な左横ずれ運動が起きてできた断層が中央構造線です。なお、イザナギプレートは約5000万年前までに完全に大陸の下に潜り込んで姿を消し、その後は太平洋プレートが沈み込むようになりました。
沼島は全域が三波川(さんばがわ)帯の結晶片岩類からできています。これは約1億年前の中生代にプレートの沈み込み帯における地殻変動によって比較的高圧の条件で生じた変成岩です。Webを見ると多くが「太平洋プレ-トとユ-ラシアプレ-トがぶつかり合うところでできた岩石が隆起した」と書いてありますが、1億年前なら太平洋プレートではなく、「イザナギプレートとユーラシアプレート」ではないでしょうか。あるいは、岩石が隆起して沼島を作った時期は太平洋プレートの時代だったということを言っているのかもしれません。
平成の時代に入ってこの結晶片岩(泥質片岩)から同心円状になった鞘状褶曲の露頭が発見されました。この鞘状褶曲はプレートが沈み込む過程で強力な褶曲作用が発生したことを物語っています。沼島の鞘状褶曲は2009(平成 21 )年に「日本の地質百選」に選ばれました。

沼島には「おのころ神社」があり、『古事記』『日本書紀』にある国生み神話の有力な舞台と言われています。確かに「天の御柱」ともいわれる上立神(かみたてがみ)岩をはじめ、多くの奇岩、巨岩、岩礁は神話の世界を感じさせます。沼島は、日本遺産「国生みの島・淡路~古代国家を支えた海人の営み~」の構成文化財にも認定されています。

連載コラム・日本の島できごと事典 その100《与那国特区構想》渡辺幸重

与那国島・国境交流のイメージ

台湾を西方約110㎞に見る日本最西端の“国境の島”・与那国島。「歌と踊りの島」といわれ、南方文化、中国文化、琉球王朝文化が混合した独自の祭祀・芸能を伝承しています。台湾の日本統治時代には与那国島は中継基地として栄え、米軍政下にあった第二次世界大戦直後も沖縄と台湾の間で兵器屑や軍需物資などと生活物資をバーターする密貿易(復興貿易)の中継基地となりました。1947(昭和22)年には島の人口が約1万2千人に膨らみましたが、蜜貿易に対する取り締まりが強化されると急激な人口減少が起きました。2015(平成27)年現在の人口は1,479人となっています。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その100《与那国特区構想》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その99《密貿易》渡辺幸重

密貿易ルート(三上絢子「米国軍政下の奄美における日本本土との交易の特質-密貿易の地域的展開-」より)

第二次世界大戦後の1946(昭和21)年1月29日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は最終的決定ではないとしながらも「連合国軍最高司令官指令SCAPIN?677」によって口之島を含む北緯30度線以南の地域が日本の行政権の外にあると規定し、同年2月2日の「連合国覚書宣言(二・二宣言)」によって小笠原諸島とともに北緯30度以南の琉球弧(南西諸島)を米軍政府の統治下に置くと宣言。米軍政府は2月4日に奄美諸島の海上封鎖指令を通達し、北緯30度線を境に日本本土と口之島以南の自由渡航を禁止しました。
自由渡航の禁止により、日本本土では黒糖不足になり、奄美では生活必需品が入手できなくなりました。鹿児島や大阪、大分、佐賀などから奄美に寄留していた商人は本土へ引き揚げ、寄留商人の店や土地は地元の使用人たちに売却されました。このとき本土に戻った商人と生活に困った奄美の人々によって始められたのが密貿易でした。

密貿易船は奄美大島や徳之島、喜界島、与論島を出航し、“国境の島”となったトカラ列島・口之島に黒糖やコーヒー・タバコなどを運び、口之島の港で鹿児島から運ばれてきた衣料や学用品などの生活必需品と交換して奄美に戻りました。中継基地となった口之島は1日に40~50隻ほどの小型船(ポンポン船)が入出港し、ヤミ商人や船員で賑わいました。口之島は繁栄し、民宿や小料理屋もできて男女入り乱れての賑わいがあったといいます。1950(昭和25)年竣工の口之島中学校の校舎の建築費用は、密貿易や密航で口之島に寄港する船から徴収した港の使用料で賄われたそうです。
これに対し、米軍は奄美群島・トカラ列島周辺海域に出入りする許可証不保持の船舶を密航船として取り締まりました。1947(昭和22)年4月には口之島・中之島・宝島に巡査派出所を設置。日本政府も海上保安庁の職員を700名ほど増員して密貿易に対する警戒を行いました。ヤミ商人と警察官との熾烈な逃走劇が繰り広げられたという証言もあります。
トカラ列島は1952(昭和27)年2月4日に、奄美群島は翌年の12月25日に本土復帰を果たしました。それから1972(昭和47)年5月の沖縄返還まで沖縄との密貿易の中継基地は奄美群島南部の与論島に移りました。
米軍政府時代のトカラ列島には、1946(昭和21)年8月に引揚者や復員兵を乗せた“密航船”・宝永丸が定員超過のため中之島沖で沈没し、50人の犠牲者を出したという歴史も残されています。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その98《直接民主制》渡辺幸重

旧宇津木村(八丈小島)

日本の政治体制は間接民主制を基本とし、一部直接民主制を取り入れています。その直接民主制とは、憲法改正に際して必要とされる国民投票制、地方公共団体における住民投票制や首長などの解職請求権(リコール)などですが、根幹は国会議員や地方議会議員を代議員として選挙で選ぶ議会政治です。ところが近年、人口減少や議員のなり手不足などで地方議会の成立が危ぶまれる事態が見られ、2017年には高知県大川村の村長が村議会を設置しないですむ「町村総会」の設置検討を表明しました。町村総会とは選挙権を持つすべての住民が参加し、議会に代わって同等の権限を行使するもので、直接民主制の組織となります。あわてた国は総務省に「町村議会のあり方研究会」を設置し、2018年に「町村総会の実効的な開催は困難」とし、代わりに少数の専業議員と有権者が参加する「集中専門型議会」と多数の非専業議員が夜間・休日を中心に運営する「多数参画型議会」の2つのタイプを選択肢として追加しました。現在、大川村は議員の兼業や公共事業の委託制限などを緩和して通常の議会を維持しています。
実は、1947(昭和22)年10月の地方自治法制定以降、一度だけ町村議会が設置された事例があります。東京・伊豆諸島の八丈島の西約4kmに今では無人となった八丈小島が浮かんでいますが、かつては有人島で、東南部 に宇津木村、北西部に鳥打村の2村(現在はいずれも八丈町)がありました。明治期に入っても八丈小島には島嶼町村制・普通町村制とも適用されず、地方自治法施行まで江戸時代からの名主制による島政が続きました。このうち宇津木村は人口50人規模の極小村だったため1951年に村条例によって宇津木村議会を廃止し、満20歳以上の住民で構成する町村総会(名称は村民総会)を設置して直接民主制を実施したのです。これは八丈村などと合併して八丈町となった1955年まで続きました。
榎澤幸広・名古屋学院大学准教授の研究(「地方自治下の村民総会の具体的運営と問題点」)によると、宇津木村の人口は1935年10月114人、1947年10月72人、1950年10月66人となっています。榎澤准教授は村民総会の構成や運営、歴史などに関して詳細な調査を行っていますが、宇津木村で地方自治法が施行されて名主制が終わり、村議会ができてからも封建的な名主制の名残から暴力や強権による支配が続いたことから若者層が変革を求めて村民総会を実現させたという証言を記録しています。旧来の支配層に抗して戦後の民主主義を求める若者の変革の意識を感じます。
ちなみに旧憲法下において町村総会を設置した事例が1件あります。神奈川県足柄下郡芦之湯村(現箱根町)で旧町村制の下で選挙権を有する公民による町村総会(名称は公民総会)が少なくとも1891年から1945年まで設置されたという記録が残っています。

連載コラム・日本の島できごと事典 その97《タイの楽園》渡辺幸重

海面から見える鯛の浦のタイ(ウィキペディアより)

千葉県の外房、太平洋に面して水族館「鴨川シーワールド」で知られる鴨川市があります。その鴨川シーワールドの東約7km周辺に位置する内浦湾から入道が崎にかけての一部海域が世界有数のタイ群生地になっており、約200ヘクタールの海域と陸地が「鯛の浦タイ生息地」として国の「特別天然記念物」に指定され、海域内では釣りなどの遊漁が禁止されています。1922(大正11)年に国の天然記念物となり、1967(昭和42)年に現在の特別天然記念物に昇格しました。船べりを叩くと天然のマダイなどが寄り集まってきて餌を食べる習性があることで知られており、本来は水深20~200mほどの砂礫底や岩礁帯などに棲み、同じ場所に長く居着くことが少ないマダイがなぜ浅い海に群れ集まっているのか、科学的な解明がされておらず、謎に包まれたままになっています。

鯛の浦の海域には伊貝島(いがいじま)や大弁天島(おおべんてんじま)・小弁天島などの小島・岩礁が浮かんでいます。1498(明応7)年の明応地震で地盤沈下が起きるまではこの周辺は陸地が多く、1222(貞応元)年に蓮華ヶ淵(蓮華潭)と呼ばれていた大弁天島・小弁天島の入り江付近で日蓮宗(にちれんしゅう)の開祖・日蓮が誕生しました。日蓮生誕の際には「三奇瑞(さんきずい)」と呼ばれる三つの不思議な出来事が起きたという伝説が残っています。
その一つは庭の片隅から泉が湧き出したこと、二つ目は庭先の海上に蓮華の花が咲き誇ったこと、三つ目はタイの群れが海面に現れ誕生を祝ったことです。蓮華ヶ淵の名前の由来はこの二つ目の出来事にあります。このとき、タイの群れは日蓮が「南無妙法蓮華経」と海面に書くとその文字を飲み込んだそうです。それからタイは日蓮の化身となり、この海域を禁漁としてタイに餌を与えるようになりました。地元では周辺のタイを食べることをせず、網にかかっても生きていれば放流し、死んでいれば誕生寺(たんじょうじ)境内のタイ塚に埋葬しました。昭和時代には「鯛のお葬式」まで行われたそうです。

誕生寺は1276(建治2)年に日蓮の生家跡に建立された日蓮宗の大本山で、明応地震で海中に没したため妙ノ浦に移り、さらに1703(元禄16)年の元禄地震による津波の被害を受けたあと現在の小湊に移転しました。
内浦湾一帯は南房総国定公園に含まれ、小湊漁港から小湊妙の浦遊覧船協業組合による鯛の浦遊覧船が運航されています。また、小弁天島の対岸には「波の間に 姿を見せつつ 鯛のむれ ふなべにあつまり あまたよりくる」という香淳(こうじゅん)皇后(昭和天皇の妻)の歌碑が建っています。

写真: 海面から見える鯛の浦のタイ(ウィキペディアより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%9B%E3%81%AE%E6%B5%A6

連載コラム・日本の島できごと事典 その96《ごみ騒動》渡辺幸重

豊島の産廃問題を巡る経緯(毎日新聞2023年3月31日記事より)

<国内最大級の産業廃棄物の不法投棄により、「ごみの島」と呼ばれた瀬戸内海の離島・豊島(てしま)=香川県土庄(とのしょう)町=で、20年余りに及んだ処理事業が終了し、県が30日、現地を公開した。>
これは今年3月31日の毎日新聞朝刊に「香川・豊島 ごみの山消えても残る地下水汚染 産廃処理事業終了」という見出しで掲載された記事の冒頭部分です。豊島は四国・高松港の北約12kmの瀬戸内海に浮かぶ島で、四方を島に囲まれた多島海美の中にあります。1970年代後期からこの島に有害産業廃棄物が大量に投棄されるようになり、住民に健康被害が出るようになりました。島の住民は激しい撤去運動を繰り広げ、2003年に成立した産廃特措法に基づいて2019年7月までに総計約91万3,000トンの廃棄物と汚染土が豊島の西約4㎞にある直島に運ばれ、香川県が建設した「直島環境センター中間処理施設」で焼却・溶融化処理されました。そして今回、汚染地下水を浄化する高度排水処理施設の整備や整地作業が終わり、「わが国初の汚染地修復の国家的取り組み」と言われた処理事業が完了したと報道されたのです。
ちなみに、廃棄物と汚染土の総量は毎年処理対象量の見直しがあり、2012年7月には最大の93万8,000トンが見込まれましたが、2017年に搬出がいったん完了したあとに発見された産廃・汚泥を含めて最終的な量は処理約91万3,000トンとされています。

「豊島事件」とも称されるこの産廃不法投棄問題は、島の西部の土砂を大量採取した土地22haに業者(豊島観光)が1978年から有害産業廃棄物を不法に投棄し始めたことに始まります。島の住民は反対運動や裁判を起こしましたが、業者は「みみず養殖」を行うとして香川県知事の許可を取り、認められるとすぐに無許可の産業廃棄物を持ち込んだのです。輸送船で島外から自動車の破砕ごみや廃油などの有害産廃を運び込み、それを満載したダンプカーが島内を走り回り、野焼きの黒煙が立ち上りました。住民の間に咳が止まらない健康被害が発生し、ぜんそくのような症状を持つ生徒・児童は全国平均の10倍にのぼったそうです。
1990年11月、兵庫県警が「ミミズの養殖を騙った産廃の不法投棄」の容疑で業者を摘発、強制捜査をしたことにより産廃搬入は止まりました。しかし、膨大な量の有害産廃が残り、有害物質を含む水は海に流れ続けました。事件報道によるイメージダウンによって豊島産の産物販売や観光業も壊滅的な打撃を受けました。そこで島の住民は「廃棄物対策豊島住民会議」を結成し(再発足)、廃棄物撤去を求める運動を展開しました。1993年11月に香川県と業者、排出事業者などを相手取った公害調停を国に申請し、長い“草の根の闘い”を経て2000年6月6日、やっと知事の謝罪と原状回復の合意を勝ち取ったのです。
廃棄物と汚染土の搬出、直島での中間処理が終わり、昨年7月に専門家の検討会が全9区域・区画で地下水が「排水基準」をクリアしたと認定しました。今年3月には整地作業が終わり、予定されたすべての作業の完了が専門家会議で確認されたのです。しかし、問題がすべて解決したわけではありません。地下水が自然浄化によって「環境基準」以下になれば県が住民に土地を引き渡しますが、その達成時期がいつになるかわかりません。
住民の島を挙げてのゴミ問題との闘いは法律や国の政策を変えました。島内にはごみ問題と運動の歴史を学ぶ「豊島のこころ資料館」があり、住民によって運営されています。

図:豊島の産廃問題を巡る経緯(毎日新聞2023年3月31日記事より)

連載コラム・日本の島できごと事典 その95《しばり地蔵》渡辺幸重

寒風沢島のしばり地蔵(Webサイト「文化の港シオーモ」より)https://shiomo.jp/archives/2828

宮城県の松島湾、塩釜港の東北東約8kmに寒風沢島(さぶさわじま)があります。松島湾の島の中では宮戸島に次ぐ面積を持つ大きさで、江戸時代の寒風沢港は江戸に運ぶ「江戸廻米(かいまい)」の中継地として大いに栄えました。島の日和山にはそのころの伝説にまつわる「しばり地蔵(すばり)地蔵)」があります。

しばり地蔵は島の遊郭にいた遊女たちが船出しようとする船乗りたちを引き止めようとお地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願をしたことに由来するといわれています。海が荒れて船が出ないことを祈ったわけです。願いが叶えば客は島に残り、お地蔵様は縄を解かれることになります。塩竃市のWebページには次のような伝説として紹介されています。ちなみに塩竃市によると、この像は地蔵菩薩ではなく本当は奈良の大仏と同じ盧遮那仏(るしゃなぶつ)だということです。

昔、料理屋に「さめ」という器量のよい女が愛し合っていた若者が遠く船出するのを悲しみ、船を一日でも引きとめたいと地蔵を荒縄でしばり「船を引きとめてください。引きとめたら解いてあげます」と願をかけました。その夜から翌日にかけて暴風雨となり、船は出られませんでした。それ以来、この地蔵は娘たちによってときどきしばられることになりました。

しばり地蔵(しばられ地蔵)は全国各地に分布しており、病気快癒などの願をかけるときに縄でしばり、願がかなうと縄をほどくという共通点があります。寒風沢島には顔に紅白粉を塗って祈願すると美しい子宝に恵まれるという化粧地蔵もあります。

ところで寒風沢島の繁栄は何によるものでしょうか。江戸廻米とは全国各地から江戸に運ぶ米のことで、江戸時代の初めは江戸に住む諸大名と家臣団の台所米だったものが江戸の大消費地としての発達に伴って全国から江戸に運ばれる大量の販売米のことを指すようになりました。仙台周辺では、北上川水系と阿武隈川水系を利用して年貢米が集められ、前者では石巻から仙台藩や盛岡藩などの蔵米が、後者では荒浜(現宮城県亘理町)から信達地方(信夫郡・伊達郡)の幕府直轄地(天領)の御城米(ごじょうまい)などが積み出されたようです。高浜からの城米は北上して水深が深く風波がたたない寒風沢港に転送され、ここで大きな千石船に積み替えられて江戸へ運ばれました。江戸幕府は島に御城米蔵を建て、幕府派遣の御城米役人が交替で勤務しています。寒風沢港は仙台藩も江戸廻米の船(御穀船)の寄港地とし、遊郭が繁盛するほど賑わいました。

仙台藩による江戸廻米が始まるのは1632(寛永9)年からといわれますが、最盛期には30万石に達し、江戸で消費される米の量の約3分の1を占めたそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その94《奄美島唄》渡辺幸重

沖縄三線の爪(上)と奄美三線のバチ (「大阪発中年親父の道楽ブログ」より)

NHK番組『新日本風土記』のバックには幽玄さが漂う歌声が流れます。私の好きな奄美島唄の第一人者、朝崎郁恵の歌声です。奄美島唄の唄者(歌手)では元(はじめ)ちとせや中(あたり)孝介らが有名ですが、ご存知でしょうか。

“連載コラム・日本の島できごと事典 その94《奄美島唄》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その93《日本の島の数》渡辺幸重

以前の地図(上)と最新の地図(下)=江の島の例

 本コラム(その85)で、日本の島を国土地理院の電子国土基本図で数え直した結果、15,528島であることがわかった、とお伝えしました。これは『新版 日本の島事典』の監修・編著者である長嶋俊介・鹿児島大学名誉教授(元日本島嶼学会会長)が「周囲0.1㎞以上の自然島+周囲0.1㎞未満の名前が付いた島」という基準で数えたものですが、国土地理院は2月28日、「電子国土基本図を基に我が国の島を一定の条件のもと数えた結果、14,125島となった」と発表しました。これまで国の公式数値は海上保安庁が1987(昭和62)年に公表した「6,852島」でしたが、これで日本の島の数は公式にも1万島を超えたことになります。これは測量技術の進歩により地図で詳細に陸地が表現されるようになったため以前はなかった小さな島や岩が地図の上で数えられるようになったことを反映しています。

 国土地理院の“一定の条件”とは「法令等に基づく島のほか、地図に描画された陸地のうち自然に形成されたと判断した周囲長0.1km以上の陸地を対象とした」ということです。法令等とは離島振興法や有人国境離島法などのことで、有人国境離島法には周囲長0.1km未満の島嶼も含まれています。なお、湖沼等内水面にある陸地は含まれません。従って、国公式版と『島事典』版の数の違いは、後者が周囲長0.1km未満の陸地で法令等に基づかない名前付きの無人島を入れた分だけ多くなるということになります。ちなみにすべての島嶼となると、国公式版は「電子国土基本図に描画された全ての陸地は120,729(令和41月時点)」とし、島事典版は「名前のない周囲0.1㎞未満の岩礁や人工島も含めたすべての島・岩礁を地図データから拾うと114,886」としています。ただし、国土地理院が「自然の地形である島は、ある時点での我が国の国土の一面を表したものであり、地殻変動等や計数時点での測量技術の進歩の影響を受けうる」というように、島の数は絶えず変化します。

 島の数を都道府県別にみると多い順に、長崎県1,479(『島事典』版では1,693)、北海道1,473(同1,585)、鹿児島県1,256(同1,415)、岩手県861(同947)、沖縄県691 (同728)、宮城県666(同733)となっています。