連載コラム・日本の島できごと事典 その83《尾崎放哉》渡辺幸重

「咳をしても一人」

尾崎放哉の句碑(「名歌鑑賞」より)

 最も短い俳句といわれるこの句は尾崎放哉(ほうさい)が瀬戸内海の小豆島で詠んだものです。「いれものがない両手でうける」という句も代表作の一つです。放哉は種田山頭火と並び称される自由律俳句を詠む放浪の俳人で、山頭火は“動”の俳人、放哉は“静”の俳人と言われます。放哉は晩年を小豆島で過ごし、1926(大正15)年に41歳で亡くなりました。島内には句碑や墓、尾崎放哉記念館などがあります。

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連載コラム・日本の島できごと事典 その82《文化露寇》渡辺幸重

日本側が記録したレザノフの船と部下(Wikipedia)

 元寇や倭寇のように「外から侵入して害を加える賊」を“寇”と言いますが、「文化露寇(ぶんかろこう)」をご存知ですか。ロシア帝国軍が文化31806)年に樺太(現サハリン)を、翌年に択捉島(えとろふとう)などを攻撃した事件のことです。日本列島周辺に欧米列強の船が現れるようになり、国内に緊張が高まる時代にロシアとの間で何があったのでしょうか。この事件はロシア側では「フヴォストフ事件」と呼ばれています。

 文化露寇すなわち「文化年間のロシアの侵攻」を和暦で推移を見てみます。まず、文化3年9月(180610月)、樺太南部の久春古丹(くしゅんこたん)にロシア兵20数人が上陸し、アイヌの子供など数人を拉致し略奪や焼き討ちを行いました。久春古丹は江戸時代、松前藩の穴陣屋や運上屋(会所)があったところで、北前船も寄港する交易の拠点でした。江戸時代後期から幕末にかけてたびたびロシア人の襲撃を受けたところのようです。

 次に文化4年4月(1807年5月)、ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島、樺太(留多加)などを襲撃しました。択捉島にはロシア船二隻が現れ、盛岡藩の番屋を襲撃、番人5人を捕え、米や塩などを略奪しました。圧倒的な火力の差に幕府側は撤退を余儀なくされ、敗戦の責任をとって指揮官が自害しています。ロシア船が5月3日に択捉島を去るまでロシア兵はたびたび上陸し、略奪や破壊・放火を繰り返しました。

 文化露寇はロシア帝国が日本に派遣した外交使節、ニコライ・レザノフが部下に命じたものでした。実は事件に先立つ1792(寛政4)年、ロシア最初の遣日使節、アダム・ラクスマンが根室に来航して日本との通商を要求した際、江戸幕府は交渉に応じなかったもののラクスマンに長崎への入港許可証(信牌)を交付しました。レザノフはこれを持って1804(文化元)年、長崎に半年間ほど滞在して通商を求めましたが、拒絶されたあげく病気になり、療養中にも幽囚同様の扱いを受けたといいます。レザノフは武力によって開国を迫るしかないと思うようになり文化露寇に至りますが、報復の意思もあったようです。これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、ロシア皇帝は1808(文化5)年に全軍撤退を命令、1813(文化10)年にはイルクーツク県知事、オホーツク長官から謝罪の釈明書が松前奉行に提出され、事件は解決しました。

 文化露寇の際のロシア側の戦利品がいまでもサンクトペテルブルクの人類学・民俗学博物館に収蔵されており、キリシタン大名・大友宗麟の印章付きのフランキ砲などがあるそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その81《九十九島》渡辺幸重

九十九島の島数の数え方(「九十九島パールシーリゾート」サイトより)

 瀬戸内海や松島湾などは多島海と呼ばれ、多くの島々が美しい光景を作っています。九州島・北松浦半島西岸のリアス海岸沿いにも多島海が広がり、北の江迎湾から南の佐世保湾口まで約25kmにわたって大小の島嶼群が美しい姿を競って浮かんでいます。この多島美は約4,000万年前~約1,500万年前の第三紀層の丘陵地が沈水してできたものといわれ、「九十九島(くじゅうくしま)」と呼ばれて観光地となっています。かつては九十九島湾内の南九十九島のみを指し、「つくもじま」と呼んだようですが、名称は島の数が99だったからというわけではないようです。第二次世界大戦後になって北部の北九十九島を含めて九十九島と総称するようになりました。では、島の数は何島になったのでしょうか。

 海上保安庁は「最高潮位面における海岸線が0.1km以上」の海に囲まれた陸地を地図上で数えて日本には北海道島・本州島・四国島・九州島・沖縄島を含めて6,852(北方4島を除く)の島があるとしていますが、これは一つの基準で、島の定義ではありません。佐世保市は「九十九島は208の島で構成される」としていますが、これは島の基準を<「満潮時に陸地が海面から出ている」かつ「陸の植物が生えている」>として「九十九島の数調査研究会」が現地調査を行い、2001(平成13)年に発表した数になります。しかし、その4年後に「九十九島シーカヤッククラブ」が調査したところ島は212あったといいます。さらに、2015年にカヤック歴20年以上の澤恵二さん(佐世保市在住)が調べたところ、新たに12の島を発見し、植物が枯れるなどして条件を満たさなくなった島を4つ確認したとして自費出版の『西海国立公園九十九島全島図鑑』で島の数を216島と発表しました。

 佐世保市によると、九十九島周辺は干満の差が大きいので大潮の満潮時には島の一部が水没して二つに分かれることがあるということです。また、鳥や風によって種子が運ばれて植物がないとされた島に植物が新たに育つこともあるので、調査の時期によって数は変動する可能性があるといいます。島の定義がはっきりしないなかで島の数を特定するのはけっこう難しいことなのです。

 なお、同じ長崎県に島原湾に浮かぶ「九十九島(つくもじま)」があります。ここでは波の浸食によって島の数はかつての59島から16島に減少しました。

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連載コラム・日本の島できごと事典 その80《神功皇后》渡辺幸重

対馬にある神功皇后の腹冷やし石(ブログ「対馬びっくり箱」より)

2世紀後半から3世紀にかけて仲哀(ちゅうあい)天皇とその后である神功(じんぐう)皇后がいたそうです。仲哀天皇は有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)の子にあたりますが、ここでは天皇の死後に国を治めたという神功皇后の話をします。

 『古事記』『日本書紀』によると、神功皇后は新羅(しらぎ)征討の託宣が出たため、自ら兵を率いて朝鮮半島を攻め、新羅の国を降伏させました。これを「新羅征討」「新羅討伐」「神功皇后の外征」などといいます。新羅のほか『古事記』では百済(くだら)、『日本書紀』では百済・高句麗(こうくり)も朝貢を約したといい、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたので「三韓征伐」とも呼ばれます。ただし、その範囲は高句麗を除く朝鮮半島南部(馬韓・弁韓・辰韓)に留まるという説もあります。
神功皇后の朝鮮半島出兵にまつわる伝承は西日本各地に伝わっており、神功皇后に関連する神社や地名などは山口・福岡・佐賀・長崎・大分・宮崎の6県だけでも3,000カ所に及ぶといわれます。神功皇后が福岡から壱岐・対馬を経て朝鮮半島を攻めたとき妊娠していたといい、出産を遅らせるためにお腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、お腹を冷やしました。現在の博多駅の南東に当たる宇美町(うみまち)は帰国後の皇后がのちの応神天皇を産んだところ、志免町(しめまち)は“おしめ”を換えたところといわれています。

 壱岐・対馬には神功皇后ゆかりの地名や行事、施設がたくさんあります。対馬には、皇后が休んだ腰掛石や腹冷やし石といわれる高さ約1mの「白石」があり、朝鮮半島からの帰途、天神地祇(天つ神・国つ神)を祀った厳原八幡宮神社もあります。地名では、雷浦は皇后一行が雷雨に遭ったところ、綱掛崎はそのとき船を岸につないだところです。鶏が鳴いて皇后に集落があることを知らせたという「鶏知(けち)」という地名もあります。

 壱岐島には、八幡神社に鎮懐石が、爾自(にじ)神社に追い風祈願の折りに石が割れて東風が吹き始めたという東風石(こちいし)があり、そのときの行宮(あんぐう)が起源とされる聖母宮(しょうもぐう)や凱旋の際に住吉三神を祀った住吉神社があります。「勝本(かつもと)」という地名は、行きにはいい風が吹いたので「風本」としたものを帰りに勝利を祝して改めたと伝えられます。また、島内の湯ノ本温泉では応神天皇を出産した際に産湯を使ったとされています。

 第二次世界大戦後、神功皇后の話は神話の世界で皇后は実在しなかったという説が主流になりました。しかし、伝承の多さから実在したとみる研究者もいます。応神天皇の出産地も宇美、壱岐のほかに天草下島の南東に位置する無人島「産島(うぶしま)」があり、産島八幡宮の池の水を産湯としたと伝えられます。佐賀県唐津市の加唐島には着帯式(帯祝い)を挙げた「オビヤの浦」という地名があり、神集島(かしわじま)は神功皇后が神々を集めて軍議を行った地とされます。長崎市の神楽島(かぐらじま)では神功皇后が朝鮮半島からの帰りに神楽を奉納したそうです。皇后が実在したかどうかはともかく、ゆかりの地は現実に広く存在しています。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その79《犬田布騒動》渡辺幸重

島人の決起を描いた画(「犬田布騒動150周年シンポ」資料)

 1604(慶長14)年の薩摩藩による琉球侵攻以降、奄美群島(鹿児島県)は薩摩藩の直轄支配を受け、黒砂糖の専売制度(砂糖総買入制)が敷かれて過酷な搾取を受けました。藩はサトウキビの作付を強制して黒糖の保有や売買を禁じ、私的売買(密売)は死罪という思い罪を科しました。そのなかで1864(元治元)年、徳之島の犬田布(いんたぶ)村で農民一揆が起きました。これを犬田布騒動または犬田布義戦(ぎせん)と呼びます。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その79《犬田布騒動》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その78《ウシウマ》渡辺幸重

ウシウマ(1934年撮影)

 「昔は種子島(鹿児島県)に牛と馬の合いの子がいた」という話を子どもの頃、耳にしたことがありました。名前をウシウマと聞いたもののどういう形をしているか想像できませんでした。調べてみると、「頭は馬、首は牛」といわれる小型の馬で、たてがみと尾に長い毛がない珍獣であることがわかりました。第二次世界大戦後の1946(昭和21)年6月頃、種子島で飼育されていた最後の1頭が死に、ウシウマは絶滅したといいます。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その78《ウシウマ》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その77《怒りの孤島》渡辺幸重

映画『怒りの孤島』のポスター

1958(昭和33)年2月封切りの『怒りの孤島』という映画を、私は子どもの頃に移動映画で観た記憶があります。汚い檻の中に“オオカミ少年”のような男の子が閉じ込められ、みすぼらしいなりの少年数人が島を脱走する映像がショッキングでした。同じ島の人間として、島社会の“闇”をえぐられているような気がしてその記憶を封印しましたが、映画では「愛島」となっている島は瀬戸内海の情島(山口県)で、実際にあった事件がモデルであることを大人になって知りました。梶子(舵子)として雇い入れた少年たちへの虐待の表現には曲解や誇張もあり、その後、島では少年虐待のレッテルを払拭するための努力があったこともわかりました。第二次世界大戦直後の激しく変化する社会の中で島の古い因習も国民の社会意識も大きく変わる過渡期のできごとでした。
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連載コラム・日本の島できごと事典 その76《南波照間島》渡辺幸重

日本最南端平和の碑(「離島ナビ」 http://ritou-navi.com/2015/10/23/paipatiroma/)

 有人島としての日本最南端の島は、沖縄・八重山諸島に属し、西表島の南約22kmに浮かぶ波照間島(はてるまじま)になります。伝承ではもっと南に「南波照間島(パイパティローマ)」と呼ばれる島があるとされ、『八重山島年来記』にも「大波照間(島)」という記述が見られます。はたして、地図では確かめられないこの島は実在するのでしょうか。

 伝承では、ヤグ村のアカマリという男が、税を取り立てに来た役人を酒に酔わせて公用船を奪い、村人を連れて南波照間島に脱走したとあります。一方、琉球王府の記録である『八重山島年来記』には、1648年に波照間島平田村の農民450人ほどが重税から逃れるために大波照間という南の島に渡ったと書かれています。この二つの話は重なり合い、史実と考えれば南波照間島も夢想とばかりは言えません。実在する島だと仮定した場合、台湾島や台湾南東沖の緑島(火焼島)、蘭嶼島(らんゆうとう)、フィリピンのルソン島などではないか、と言われてもいます。1892(明治25)年、沖縄県知事は海軍省にパイパティローマを含む南島の探検要請を出しましたが、断わられました。また、1907(明治40)年には沖縄県が台湾東部の火焼島と紅頭嶼(蘭嶼島)を農民の脱走先と考え、県技手を2度に渡り派遣・探検させています。

 南波照間島に渡った農民たちが逃れたという税は「人頭税」のことです。人頭税は収入に関係なく15歳から50歳までの男女全員にかけられた悪税で、薩摩藩からの搾取による財政難に陥った琉球王府によって1637年から石垣島や宮古島などの先島(さきしま)の島々にかけられました。廃止は1903年、明治36年ですから先島諸島の人たちは長い間、圧政に苦しめられたことになります。人頭税は一般に「じんとうぜい」と呼びますが、先島の場合は「にんとうぜい」と呼ばれます。

 さて、南波照間島に逃亡した農民はその後どうなったでしょうか。数年後に南島に漂着した者がそこでアカマリに会い、「ここは人食い島なので、すぐに出て行け。帰っても島の場所は決して言わないで欲しい」と言われたという伝承もあります。また、八重山の島々はかつて密貿易を行っていたと推測し、実はアカマリらは意図的な行動として食料や物資を豊富に搭載した公用船を奪い、マラッカ方面に向かって航海したという勇壮な物語を語る人もいます。

コラム《米中の世界覇権争いの中で作られる“台湾有事”と琉球弧》渡辺幸重

~民衆の力で平和を守ることができないか~

中国の軍事演習区域

8月2日、アメリカのナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)が台湾を訪問しました。大統領権限継承順位が副大統領に次ぐ第2位の現職下院議長としては25年ぶりの訪台で、これに反発した中国は台湾周辺で弾道ミサイルの発射を含む大規模な演習を行いました。続いて8月14日、マーキー上院議員ら超党派の米上下両院の議員団が台湾を電撃訪問し、中国は15日、対抗措置として台湾周辺の海域と空域で実戦的な軍事演習を行ったと発表しました。中国の軍事演習エリアは台湾を取り巻いており、発射した弾道ミサイルの一部は与那国島や波照間島に近い日本の排他的経済水域(EEZ)の内側に落下したと発表され、一気に緊張が高まりました。9月1日、自民党の麻生太郎副総裁は「少なくとも沖縄、与那国島にしても、与論島にしても、台湾でドンパチ始まるということになったら、それらの地域も戦闘区域外とは言い切れないほど、戦争が起きる可能性が十分に考えられるんだと思っています」と述べました。「台湾有事は日本有事」「いっそうの軍備強化が必要」という声は高まるばかりばかりですが、はたしてそれでいいのでしょうか。
私たちは、北朝鮮のミサイル発射や中国の軍事演習のたびに“攻められる危機”に怯え、脅威を植え付けられますが、平和の維持には双方の相互理解と話し合いが必要です。逆に中国・北朝鮮の人々にとっては日米韓の共同軍事演習や日本の軍事力強化などを脅威に感じていることも考えなければなりません。国際情勢は、アメリカと中国の間で軍事力・経済力・科学技術力などあらゆる面において世界覇権を争う中で動いており、“台湾有事”“尖閣有事”もその例外ではありません。私たちは冷静に国際情勢と私たちの立ち位置を見定める必要があると思います。 “コラム《米中の世界覇権争いの中で作られる“台湾有事”と琉球弧》渡辺幸重” の続きを読む