冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 6》片山通夫

0
北緯50度線上にある日ソ平和友好の碑

北緯50度線以南のサハリン島は日露戦争の日本勝利の結果、日本の領土となった。その前に大部分の樺太アイヌがソ連の対日参戦前に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていたらしい。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力をかけた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住していると言われている。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識はほとんどない。
では日本当局に移動させられた樺太アイヌはどのような運命をたどったか?(この項続く)

*日露戦争・1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。

 

0

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 6》片山通夫

0

 

蝦夷錦を着たアイヌ

幕府が蝦夷地の運営に口出しした原因は「松前藩がコメが穫れない藩なのに結構栄えていた」からに他ならない。その原因はアイヌを通じた「山丹交易」だった。山丹人とは、黒竜江流域に住むウリチ族やニヴフ族などの北方少数民族のことで、彼らは中国本土を支配する清朝にいわゆる朝貢し、清からの賜品を樺太や蝦夷地のアイヌと交易した。アイヌは松前藩と交易し松前藩はこの交易で栄えた。
代表的な清朝の品に「蝦夷錦(写真:国立民族学博物館で)」がある。ただ松前藩の蝦夷地運営はかなり過酷だったようでアイヌは反抗したこともあるがその都度敗れてしまっていた。有名な戦いにシャクシャインの戦いがある。

*朝貢は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。

*シャクシャインの戦い:1669年6月にアイヌ民族でシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌの2部族の抗争・報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した[1]。日本の元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれている。

 

0

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 5》片山通夫

0

樺太アイヌ

時代は少しさかのぼる。まだ北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃、蝦夷地の函館近くに松前藩(地図参照)が江戸幕府によっておかれていた。松前藩は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。 藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。 後に城主となり同所に松前福山城を築く(安政元年 1854年)。当時も寒冷地で江戸幕府が大名などを統治していた石高(コメ)の収穫は望めなかった。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。しかし江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。(この項続く)

 

0

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 3》片山通夫

0
サハリン州

ロシアには当たり前のことだが少数民族としてのアイヌがいる。ただサハリンの南部、いわゆる樺太と呼ばれてた地域には現在ほとんどいない。これは後で記する。アイヌ民族は下記の通り存在するし、存在した。例によってウイキペディアの力を借りる。
サハリン州、ハバロフスク地方、カムチャツカ地方に居住している。ロシア語ではアイヌ(Айны)、クリル(Куриль)、カムチャツカ・クリル(Камчатские Куриль)、カムチャツカ・アイヌ(Камчадальские Айны)、エイン(Ейны)などと呼ばれ、6つの集団に分けられる。2010年の国勢調査ではロシア国内で自らがアイヌであると回答した人数は100人程度であるが、少なくとも1,000人はアイヌを祖先に持つと考えられている。アイヌを名乗る人数が少ないのは、連邦政府に「現存する」民族集団としての承認を受けられていない結果であると考えられる。アイヌを祖先に持つ人が最も多いのはサハリン州であるにも関わらず、自らをアイヌと定義する人の大多数はカムチャツカ地方に居住している。次回からサハリン州を中心に存在するアイヌ民族を紹介してゆきたい。
それにしてもそれぞれにコロポックルはいた?

0