3月に入ってこんなニュースが流れた。「根室で流氷初日 北海道の太平洋側にも流氷」
本州以南は春の訪れの便りが聞こえ始めてきたというのにである。そういえば大分以前に北海道の人に「3月は流氷が流れ着く」と聞いたことがあった。ずいぶん遅いのだなと思った記憶がある。何となく氷=寒いという図式が頭の中を占拠していた。
ところで流氷はアムール川の河口付近、つまりサハリンの北、オホーツク海に面したところで生まれて、はるばる根室あたりまで旅をしてくる。(この項続く)
春の宵物語《春宵一刻値千金》片山通夫
先月「冬の夜の昔話」でアイヌ民族の小史のそれもほんの一部をのぞき見してきた。Lapiz春号では「春の宵物語」で一献傾けながら、うつらうつらと思うがままに綴ってみたい。
「春宵一刻値千金」という言葉がある。
春夜 蘇軾
春宵一刻直千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜沈沈
蛇足をさっそく・・・。
春宵(しゅんしょう)一刻(いっこく)直(あたい)千金(せんきん)
花に清香(せいこう)有り月に陰有り
歌管(かかん)楼台(ろうだい)声細細(さいさい)
鞦韆(しゅうせん)院落(いんらく)夜沈沈(ちんちん)
春の夜のすばらしさは、ひとときが千金にもあたいするほど貴重なものだ。
花には清らかな香がただよい、月はおぼろにかすんでいる。
高殿から聞こえていた歌声や管弦の音は、
先ほどまでのにぎわいも終わり、今はかぼそく流れるばかり。
人気のない中庭にひっそりとブランコがぶら下がり、夜は静かにふけていく。
こんな意味だそうだ。
ただ本編は漢詩を説こうというのではない。
春の宵の戯言を綴って行こうということ。
冬の夜の昔話《樺太から戻ったコロポックル 最終回》片山通夫
アイヌ民族は日本政府による同化政策でどんどん少なくなっている。そんな中、国連は先住民の権利を認めた「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、2007年、ニューヨークの国連本部で行われていた第61期の国際連合総会において採択された。
日本は少なからぬ政治家等が「日本は単一民族」と口走っては撤回している。つまり「過ちを指摘されて初めて」陳謝・撤回する。根底から改めるというわけでもなさそうである。アイヌ民族のみならず、わが国には琉球民族などが存在する。 “冬の夜の昔話《樺太から戻ったコロポックル 最終回》片山通夫” の続きを読む
冬の夜の昔話《樺太から戻ったコロポックル 10》片山通夫
いずれにしても樺太から北海道へ戻ったアイヌは日本による同化政策のよって、どんどん減少してゆく。明治政府以来の日本政府のアイヌ民族だけではなく琉球民族や朝鮮民族に対する対応はすべからく高圧的だったことは否めない。
明治政府のよって宗谷に移住させられたアイヌ民族は農業を強いられた。彼らは狩猟民族である。その文化を無視して農業を「指導」してもおよそ無理な話だ。今や北海道の河川に登ってくる鮭も自由には穫れない。無論イオマンテ(熊祭り)などは出来ないようだ。北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名による通達(2007年4月、通達を撤回している)によって「野蛮な儀式」として事実上禁止となった。類似の熊送り儀礼は、樺太周辺のニヴフなど、ユーラシア・タイガの北極圏に近い内陸狩猟民族に広く存在している。イオマンテもその一種である。
冬の夜の昔話《樺太から戻ったコロポックル 9》片山通夫
樺太は歴史的に見てその地位は複雑だった。1855年の日露和親条約で千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫島との間と定められた。しかし樺太は国境を定めることができなかったので、日露混住の地となった。国境がなかったのだ。その20年後の1875年にようやく
千島・樺太交換条約を結んで樺太全島はロシアに、千島列島は日本に帰属する。
ところが樺太アイヌと千島アイヌなど先住民は「3年の経過措置ののち、その時点での居住地の国民」ということになった。しかし日本は北海道開拓使の長官黒田清隆が「一応形だけの募集を行った」がアイヌの反発が強く当時の南樺太に在住していた先住民族は、アイヌを主体に2372人だったが、そのうち108戸841人の樺太アイヌが宗谷へ移住しただけだった。この強制移住政策ともいえる政策はアイヌ側の反発は強かったようで、108戸841人だけが対岸(海峡を挟んで43キロしかなかった)の宗谷へ移住しただけだった。
冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 8》片山通夫
筆者は2000年前後からサハリンに通い詰めた。その間、様々な人と会い、聞いた。無論主目的の残留朝鮮人のことが主だったが、少数民族のことも折に触れ聞いた。しかしそこにはアイヌ民族の痕跡は筆者が知る限り残っていなかったことを書き加えておきたい。
ウイキペディアによると、「樺太アイヌ」または「サハリンアイヌ」の名前で知られているものの、実際には樺太全域に居住していたわけではなく、特に樺太南部に集中して居住していた。これは樺太アイヌの祖先が先住民(オホーツク文化人=ニヴフ)を押しのける形で北海道から樺太へ進出していった歴史が関係していると考えられる。13世紀から近代に至るまで、樺太では樺太アイヌ、ウィルタ(アイヌからの呼称はオロッコ)、ニヴフ(アイヌからの呼称はスメレンクル)の3民族が共存していた。
現在、サハリンには「樺太アイヌ」はいないといわれている。大きな原因の一つが、ソ連の対日参戦時に北海道へ日本当局によって北海道へ移住させられたためである。それでもおよそ100人の樺太アイヌがサハリンに残っていたらしい。
大部分の樺太アイヌがソ連対日参戦後に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていたという。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力を掛けた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住している。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識はほとんどない。
(この項続く)
冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 7》片山通夫
北緯50度線以南のサハリン島は1905年の日露戦争の結果日本の領土となった。その前に大部分の樺太アイヌがソ連の対日参戦前に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていたらしい。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力をかけた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住していると言われている。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識はほとんどない。
では日本当局に移動させられた樺太アイヌはどのような運命をたどったか?(この項続く)
冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 6》片山通夫
北緯50度線以南のサハリン島は日露戦争の日本勝利の結果、日本の領土となった。その前に大部分の樺太アイヌがソ連の対日参戦前に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていたらしい。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力をかけた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住していると言われている。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識はほとんどない。
では日本当局に移動させられた樺太アイヌはどのような運命をたどったか?(この項続く)
*日露戦争・1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。
冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 6》片山通夫
幕府が蝦夷地の運営に口出しした原因は「松前藩がコメが穫れない藩なのに結構栄えていた」からに他ならない。その原因はアイヌを通じた「山丹交易」だった。山丹人とは、黒竜江流域に住むウリチ族やニヴフ族などの北方少数民族のことで、彼らは中国本土を支配する清朝にいわゆる朝貢し、清からの賜品を樺太や蝦夷地のアイヌと交易した。アイヌは松前藩と交易し松前藩はこの交易で栄えた。
代表的な清朝の品に「蝦夷錦(写真:国立民族学博物館で)」がある。ただ松前藩の蝦夷地運営はかなり過酷だったようでアイヌは反抗したこともあるがその都度敗れてしまっていた。有名な戦いにシャクシャインの戦いがある。
*朝貢は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。
*シャクシャインの戦い:1669年6月にアイヌ民族でシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌの2部族の抗争・報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した[1]。日本の元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれている。
冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 5》片山通夫
樺太アイヌ
時代は少しさかのぼる。まだ北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃、蝦夷地の函館近くに松前藩(地図参照)が江戸幕府によっておかれていた。松前藩は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。 藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。 後に城主となり同所に松前福山城を築く(安政元年 1854年)。当時も寒冷地で江戸幕府が大名などを統治していた石高(コメ)の収穫は望めなかった。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。しかし江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。(この項続く)