《渡来人たちの宴・外伝24》片山通夫

入鹿の首塚

 

蘇我 入鹿 飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。
なんとも血なまぐさい話だ。嘘だと思うが、入鹿が撃たれた現場からその首が飛鳥寺あたりまで飛んだという話が伝わっている。 “《渡来人たちの宴・外伝24》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝22》片山通夫

馬子外伝
 大邸宅を建て池をしつらえ、その池に島を造ったといわれている馬子。この飛鳥時代の馬子に関した記述は古事記や日本書紀などから得られる。しかし注意しなければならないのは、これらの歴史書が編纂されたのは後年、藤原氏が権力を握ってから編纂されたことである。つまり乙巳の変で曽我氏を滅ぼしたあと、自らの正当性を担保するために編纂され、曽我氏を悪として扱われたという説もあるが、定かではない。さもありなんとも思える。 “《渡来人たちの宴・外伝22》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝21》片山通夫

仏教伝来

聖徳太子像

 

 

昨日に引き続いて蘇我馬子時代の話。538年に百済から仏教が我が国に伝わった。蘇我馬子が仏教を受け入れるか受け入れないかで物部守屋(もののべのもりや)と対立する。これにも諸説があり、継体天皇時代(在位:507~531)の522年という説がある。 “《渡来人たちの宴・外伝21》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝19》片山通夫

蘇我馬子(そがの うまこ)

曽我馬子

稲目の子。敏達天皇即位の年(572)、大臣となる。以後、用明・崇峻・推古の四代にわたり大臣職にあり、蘇我氏全盛時代を築いた。
仏教の信仰に篤く、敏達天皇代、富浦に日本最初の仏塔を造営した。仏教は次第に支配層に浸透し、用明天皇は三宝帰依を表明するに至るが、仏教反対派の物部守屋達は用明二年(587)馬子に対して軍を興し、馬子は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)・厩戸皇子(聖徳太子)達と共に物部氏を討った。 “《渡来人たちの宴・外伝19》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝18》片山通夫

蘇我 稲目(そがの いなめ)

蘇我 稲目

 

実際に曽我氏が台頭してきたのは稲目の時代だった。武烈8(506)に生まれ、欽明31(570)に没した。高麗 (こま) の子という。馬子の父。娘の堅塩媛 (きたしひめ) ,小姉君を欽明天皇の后妃として,用明,崇峻,推古の3天皇の外祖父となる。宣化天皇のとき,大臣 (おおおみ) となり,没するまでこの地位にあった。 “《渡来人たちの宴・外伝18》片山通夫” の続きを読む

再び《渡来人たちの宴・外伝17》片山通夫

曽我氏の台頭

曽我氏の始祖だといわれている宿禰から何代か経てヤマト政権の大王の外戚として歴史に登場するのは6世紀の初めころである。それまでは歴史に名を残していない。ゆえになのか曽我氏はもともと渡来人(高麗人)だという説もまことしやかに言い伝えられている。系図をたどってゆくと確かに「高麗」の文字が存在する。 “再び《渡来人たちの宴・外伝17》片山通夫” の続きを読む

再び《渡来人たちの宴・外伝16》片山通夫

謎の武内宿禰

武内宿禰

まず曽我氏の始祖と思われる武内宿禰だが何しろ古事記や日本書紀が資料なので不確かこの上ない。日本書紀には景行天皇14年(304年)に生まれ仁徳天皇55年(424年)に没したと記載されている。まさか当時121年生存したことになっているわけだ。現在でも121年と言えば記録的な年齢なので考えられない。
となると、つまり日本書紀に書かれていることが嘘ということになるが、そうも考えたくない。
名前に注目してみる。武内は姓だとする。事実そうだろう。宿禰はひとりの個人の名前だと考えると無理が生じる。役職名もしくは尊称だと考えると、121年生きた武内宿禰は何人かの人間が継いだと考えても不思議はない。

謎多い武内宿禰は様々なエピソードを古事記や日本書紀に残している。何しろ121年もの間の話なのだ。なんでもアリの世界だった。

ということを踏まえると、いったい何が真実かは特定できない。渡来人説、宮家につながる、勇猛な人物などここで書きようがないのが武内宿禰だということである。

《渡来人たちの宴・外伝 15》片山通夫

続 曽我氏一族

曽我氏の祖と言われる武内宿禰像が載った紙幣

曽我稲目から馬子、蝦夷そして入鹿と4代にわたって権勢をほしいままにした曽我氏一族はおよそ100年ヤマト朝廷で君臨したことは前回書いた。
それではその出自を少し説明したい。書かれた文献は古事記や日本書紀しかないが一応探してみた。武内宿禰(写真)という人物が神功皇后が三韓征伐そ行ったときに活躍した人物だ。日本書紀他の伝承では景行天皇14年に生誕し仁徳天皇55年に亡くなったと伝えられている。121年生きていたことになり全く信頼できない。その人物が曽我氏の始祖らしい…。 “《渡来人たちの宴・外伝 15》片山通夫” の続きを読む