京都奇譚《六道の辻》山梨良平

小野篁(おののたかむら)

京の都は平安に時代から華やかな王朝の生活を忍ばせる物語が多く残っている。そしてそれは王朝文学として貴族の生活を私たちに垣間見させてくれている。
竹取物語、源氏物語や枕草子、伊勢物語などが有名だ。多くは王朝貴族の恋の物語でもある。余談だが筆者の高校時代、こんな戯れ歌が流行っていた。

♪ 光源氏の夜遊びをいみじゅうおかしというけれど
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京都奇譚《一寸法師》山梨良平

鴨川の源流雲ケ畑で

ここに「一寸法師」というよく知られたお伽話がある。物語はご存じのように、ある老夫婦には子供がいない。どうしても欲しいと思って住吉の神様にお願いした。すると老婆に子供ができた。しかし生まれた子供は一寸(3cm)ほどの小さい子供だった。子供は一寸法師と名づけられた。
ある日、一寸法師は武士になるために京の都へ行きたいと言い、お椀を舟に、箸を櫂(かい)にし、針を刀の代わりに、麦藁(麦わら)を鞘(さや)の代わりに腰に差して旅に出た。都では大きな立派な屋敷を見つけ、そこで働かせてもらうことにした。その家の娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来た。一寸法師が娘を守ろうとすると、鬼は一寸法師を飲み込む。一寸法師は鬼の腹の中を針の刀で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまった。一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)にもなり、娘と結婚した。御飯と、金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたという。
以上がよく知られているお伽話のあらすじである。 “京都奇譚《一寸法師》山梨良平” の続きを読む

京都奇譚《前書》山梨良平

百鬼夜行の図

京都という都はすでに1200年以上の歴史を誇る。ふと思ったのだが、1200年もの間、人が営みを続けていると、時空を超えて様々な事象が起こるのではないか?そういえばこの間には、人が生まれ育ち、時には幸せをかみしめ、またある時は憎み戦ってきた。天皇や貴族、武士などの生活を描いた記録や物語は残っている場合も多いが、庶民の営みはどうだったのだろうか。 御伽草子という物語集がある。物語としては鎌倉時代に完成したようだが、平安時代から伝えられてきた物語を採集したものらしい。貴族社会の生活や僧侶の話など、また歴史書にはあまり見られない庶民の生活も生き生きと語り伝えられている。
本稿はお目汚しになるかもと思いながら、御伽草子だけでなく京都にまつわる話を筆者の独断と偏見で書いてみた。なにしろ平安の時代、百鬼が横行していたという。所謂百鬼夜行が起こりやすい夜行日(やぎょうび)なるものがあり恐れられていたという。
たとえばこの夜行日には首の無い馬に跨って人里を徘徊すると言うひとつ目の鬼(あるいは首なし馬そのものを指す)が横行すると恐れられていた。掟を破って物忌みの晩に出歩く者は、この首無し馬に蹴り殺されてしまうとも恐れられていた。
※お断り:「忌憚」という文字を意味が違いますので本来の「奇譚」と書き換えます。(この稿続く)

神宿る。《京阪電鉄萱島駅の楠》片山通夫

1972(昭和47)年、京阪電鉄は高架複々線工事に着手、萱島神社のあった場所にホームが移動することになった。クスノキは伐採される予定だったが、住民運動が起きて保存されることになった。この際も、「ご神木を切れば災いが起きるかもしれない」などとの噂が立った。

京阪電鉄は、近隣住民の意を汲んでかホームをぶち抜いた形で件の楠を残した。樹齢700年と推察される楠は写真のようにガラスにおおわれてホームを貫いている。「御霊信仰(ごりょうしんこう)」という信仰がある。御霊信仰とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の土着の信仰のことである。
この楠に対しての信仰がそうなのかはわからないが、少なくとも萱島駅周辺の人々は「切ると祟りがある(かも知れない)」と残すよう動いた。

ホームの下には萱島神社がある。一帯は過去には開拓新田だったが、その鎮守として1787年に萱島開拓の祖神を祀ることとなり、宗源の宣旨により豊受大神・菅原道真が勧請・合祀された。明治時代には村社に列格し、「神名社」という社名であったことが1879年)¥(明治12年)の記録にあるが、1907年(明治40年)に一旦廃社となった。京阪電鉄の複々線化で伐採されることになったが、保存の声が高まり、京阪電鉄が神殿を造営・寄進し、1980年7月、「萱島神社」として再興された。

*菅原道真;忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神、受験の神として親しまれる。太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。(ウイキペディアより)