2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

菊池由貴子さん

新聞業界はいま危機を迎えています。スマホの普及にともない、中・高年層までが新聞をとらなくなったのです。そんななか、東日本大震災の被災地で一人の女性が新聞の発行を始め、「知りたい情報が載っている」と避難者らから信頼されたと知りました。女性は、取材から編集、広告取りまで1人でやり抜いたそうです。ネットなどを通じてさまざまな情報を知ることができる便利な世の中になりましたが、暮らしに必要な身の回りの情報を得るのはそうたやすいことではありません。大手新聞、タウン紙、広報紙のいずれでもない「ひとり新聞」。その身軽さのゆえに読者のニーズに応えることができたのだと思います。 “2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

Lapiz2023夏号Vol.46


Lapiz2023夏号は6月1日から掲載始めます。

お楽しみに。
Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。Lapiz編集長 井上脩身

連載コラム・日本の島できごと事典 その100《与那国特区構想》渡辺幸重

与那国島・国境交流のイメージ

台湾を西方約110㎞に見る日本最西端の“国境の島”・与那国島。「歌と踊りの島」といわれ、南方文化、中国文化、琉球王朝文化が混合した独自の祭祀・芸能を伝承しています。台湾の日本統治時代には与那国島は中継基地として栄え、米軍政下にあった第二次世界大戦直後も沖縄と台湾の間で兵器屑や軍需物資などと生活物資をバーターする密貿易(復興貿易)の中継基地となりました。1947(昭和22)年には島の人口が約1万2千人に膨らみましたが、蜜貿易に対する取り締まりが強化されると急激な人口減少が起きました。2015(平成27)年現在の人口は1,479人となっています。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その100《与那国特区構想》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その99《密貿易》渡辺幸重

密貿易ルート(三上絢子「米国軍政下の奄美における日本本土との交易の特質-密貿易の地域的展開-」より)

第二次世界大戦後の1946(昭和21)年1月29日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は最終的決定ではないとしながらも「連合国軍最高司令官指令SCAPIN?677」によって口之島を含む北緯30度線以南の地域が日本の行政権の外にあると規定し、同年2月2日の「連合国覚書宣言(二・二宣言)」によって小笠原諸島とともに北緯30度以南の琉球弧(南西諸島)を米軍政府の統治下に置くと宣言。米軍政府は2月4日に奄美諸島の海上封鎖指令を通達し、北緯30度線を境に日本本土と口之島以南の自由渡航を禁止しました。
自由渡航の禁止により、日本本土では黒糖不足になり、奄美では生活必需品が入手できなくなりました。鹿児島や大阪、大分、佐賀などから奄美に寄留していた商人は本土へ引き揚げ、寄留商人の店や土地は地元の使用人たちに売却されました。このとき本土に戻った商人と生活に困った奄美の人々によって始められたのが密貿易でした。

密貿易船は奄美大島や徳之島、喜界島、与論島を出航し、“国境の島”となったトカラ列島・口之島に黒糖やコーヒー・タバコなどを運び、口之島の港で鹿児島から運ばれてきた衣料や学用品などの生活必需品と交換して奄美に戻りました。中継基地となった口之島は1日に40~50隻ほどの小型船(ポンポン船)が入出港し、ヤミ商人や船員で賑わいました。口之島は繁栄し、民宿や小料理屋もできて男女入り乱れての賑わいがあったといいます。1950(昭和25)年竣工の口之島中学校の校舎の建築費用は、密貿易や密航で口之島に寄港する船から徴収した港の使用料で賄われたそうです。
これに対し、米軍は奄美群島・トカラ列島周辺海域に出入りする許可証不保持の船舶を密航船として取り締まりました。1947(昭和22)年4月には口之島・中之島・宝島に巡査派出所を設置。日本政府も海上保安庁の職員を700名ほど増員して密貿易に対する警戒を行いました。ヤミ商人と警察官との熾烈な逃走劇が繰り広げられたという証言もあります。
トカラ列島は1952(昭和27)年2月4日に、奄美群島は翌年の12月25日に本土復帰を果たしました。それから1972(昭和47)年5月の沖縄返還まで沖縄との密貿易の中継基地は奄美群島南部の与論島に移りました。
米軍政府時代のトカラ列島には、1946(昭和21)年8月に引揚者や復員兵を乗せた“密航船”・宝永丸が定員超過のため中之島沖で沈没し、50人の犠牲者を出したという歴史も残されています。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その98《直接民主制》渡辺幸重

旧宇津木村(八丈小島)

日本の政治体制は間接民主制を基本とし、一部直接民主制を取り入れています。その直接民主制とは、憲法改正に際して必要とされる国民投票制、地方公共団体における住民投票制や首長などの解職請求権(リコール)などですが、根幹は国会議員や地方議会議員を代議員として選挙で選ぶ議会政治です。ところが近年、人口減少や議員のなり手不足などで地方議会の成立が危ぶまれる事態が見られ、2017年には高知県大川村の村長が村議会を設置しないですむ「町村総会」の設置検討を表明しました。町村総会とは選挙権を持つすべての住民が参加し、議会に代わって同等の権限を行使するもので、直接民主制の組織となります。あわてた国は総務省に「町村議会のあり方研究会」を設置し、2018年に「町村総会の実効的な開催は困難」とし、代わりに少数の専業議員と有権者が参加する「集中専門型議会」と多数の非専業議員が夜間・休日を中心に運営する「多数参画型議会」の2つのタイプを選択肢として追加しました。現在、大川村は議員の兼業や公共事業の委託制限などを緩和して通常の議会を維持しています。
実は、1947(昭和22)年10月の地方自治法制定以降、一度だけ町村議会が設置された事例があります。東京・伊豆諸島の八丈島の西約4kmに今では無人となった八丈小島が浮かんでいますが、かつては有人島で、東南部 に宇津木村、北西部に鳥打村の2村(現在はいずれも八丈町)がありました。明治期に入っても八丈小島には島嶼町村制・普通町村制とも適用されず、地方自治法施行まで江戸時代からの名主制による島政が続きました。このうち宇津木村は人口50人規模の極小村だったため1951年に村条例によって宇津木村議会を廃止し、満20歳以上の住民で構成する町村総会(名称は村民総会)を設置して直接民主制を実施したのです。これは八丈村などと合併して八丈町となった1955年まで続きました。
榎澤幸広・名古屋学院大学准教授の研究(「地方自治下の村民総会の具体的運営と問題点」)によると、宇津木村の人口は1935年10月114人、1947年10月72人、1950年10月66人となっています。榎澤准教授は村民総会の構成や運営、歴史などに関して詳細な調査を行っていますが、宇津木村で地方自治法が施行されて名主制が終わり、村議会ができてからも封建的な名主制の名残から暴力や強権による支配が続いたことから若者層が変革を求めて村民総会を実現させたという証言を記録しています。旧来の支配層に抗して戦後の民主主義を求める若者の変革の意識を感じます。
ちなみに旧憲法下において町村総会を設置した事例が1件あります。神奈川県足柄下郡芦之湯村(現箱根町)で旧町村制の下で選挙権を有する公民による町村総会(名称は公民総会)が少なくとも1891年から1945年まで設置されたという記録が残っています。

連載コラム・日本の島できごと事典 その97《タイの楽園》渡辺幸重

海面から見える鯛の浦のタイ(ウィキペディアより)

千葉県の外房、太平洋に面して水族館「鴨川シーワールド」で知られる鴨川市があります。その鴨川シーワールドの東約7km周辺に位置する内浦湾から入道が崎にかけての一部海域が世界有数のタイ群生地になっており、約200ヘクタールの海域と陸地が「鯛の浦タイ生息地」として国の「特別天然記念物」に指定され、海域内では釣りなどの遊漁が禁止されています。1922(大正11)年に国の天然記念物となり、1967(昭和42)年に現在の特別天然記念物に昇格しました。船べりを叩くと天然のマダイなどが寄り集まってきて餌を食べる習性があることで知られており、本来は水深20~200mほどの砂礫底や岩礁帯などに棲み、同じ場所に長く居着くことが少ないマダイがなぜ浅い海に群れ集まっているのか、科学的な解明がされておらず、謎に包まれたままになっています。

鯛の浦の海域には伊貝島(いがいじま)や大弁天島(おおべんてんじま)・小弁天島などの小島・岩礁が浮かんでいます。1498(明応7)年の明応地震で地盤沈下が起きるまではこの周辺は陸地が多く、1222(貞応元)年に蓮華ヶ淵(蓮華潭)と呼ばれていた大弁天島・小弁天島の入り江付近で日蓮宗(にちれんしゅう)の開祖・日蓮が誕生しました。日蓮生誕の際には「三奇瑞(さんきずい)」と呼ばれる三つの不思議な出来事が起きたという伝説が残っています。
その一つは庭の片隅から泉が湧き出したこと、二つ目は庭先の海上に蓮華の花が咲き誇ったこと、三つ目はタイの群れが海面に現れ誕生を祝ったことです。蓮華ヶ淵の名前の由来はこの二つ目の出来事にあります。このとき、タイの群れは日蓮が「南無妙法蓮華経」と海面に書くとその文字を飲み込んだそうです。それからタイは日蓮の化身となり、この海域を禁漁としてタイに餌を与えるようになりました。地元では周辺のタイを食べることをせず、網にかかっても生きていれば放流し、死んでいれば誕生寺(たんじょうじ)境内のタイ塚に埋葬しました。昭和時代には「鯛のお葬式」まで行われたそうです。

誕生寺は1276(建治2)年に日蓮の生家跡に建立された日蓮宗の大本山で、明応地震で海中に没したため妙ノ浦に移り、さらに1703(元禄16)年の元禄地震による津波の被害を受けたあと現在の小湊に移転しました。
内浦湾一帯は南房総国定公園に含まれ、小湊漁港から小湊妙の浦遊覧船協業組合による鯛の浦遊覧船が運航されています。また、小弁天島の対岸には「波の間に 姿を見せつつ 鯛のむれ ふなべにあつまり あまたよりくる」という香淳(こうじゅん)皇后(昭和天皇の妻)の歌碑が建っています。

写真: 海面から見える鯛の浦のタイ(ウィキペディアより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%9B%E3%81%AE%E6%B5%A6

連載コラム・日本の島できごと事典 その96《ごみ騒動》渡辺幸重

豊島の産廃問題を巡る経緯(毎日新聞2023年3月31日記事より)

<国内最大級の産業廃棄物の不法投棄により、「ごみの島」と呼ばれた瀬戸内海の離島・豊島(てしま)=香川県土庄(とのしょう)町=で、20年余りに及んだ処理事業が終了し、県が30日、現地を公開した。>
これは今年3月31日の毎日新聞朝刊に「香川・豊島 ごみの山消えても残る地下水汚染 産廃処理事業終了」という見出しで掲載された記事の冒頭部分です。豊島は四国・高松港の北約12kmの瀬戸内海に浮かぶ島で、四方を島に囲まれた多島海美の中にあります。1970年代後期からこの島に有害産業廃棄物が大量に投棄されるようになり、住民に健康被害が出るようになりました。島の住民は激しい撤去運動を繰り広げ、2003年に成立した産廃特措法に基づいて2019年7月までに総計約91万3,000トンの廃棄物と汚染土が豊島の西約4㎞にある直島に運ばれ、香川県が建設した「直島環境センター中間処理施設」で焼却・溶融化処理されました。そして今回、汚染地下水を浄化する高度排水処理施設の整備や整地作業が終わり、「わが国初の汚染地修復の国家的取り組み」と言われた処理事業が完了したと報道されたのです。
ちなみに、廃棄物と汚染土の総量は毎年処理対象量の見直しがあり、2012年7月には最大の93万8,000トンが見込まれましたが、2017年に搬出がいったん完了したあとに発見された産廃・汚泥を含めて最終的な量は処理約91万3,000トンとされています。

「豊島事件」とも称されるこの産廃不法投棄問題は、島の西部の土砂を大量採取した土地22haに業者(豊島観光)が1978年から有害産業廃棄物を不法に投棄し始めたことに始まります。島の住民は反対運動や裁判を起こしましたが、業者は「みみず養殖」を行うとして香川県知事の許可を取り、認められるとすぐに無許可の産業廃棄物を持ち込んだのです。輸送船で島外から自動車の破砕ごみや廃油などの有害産廃を運び込み、それを満載したダンプカーが島内を走り回り、野焼きの黒煙が立ち上りました。住民の間に咳が止まらない健康被害が発生し、ぜんそくのような症状を持つ生徒・児童は全国平均の10倍にのぼったそうです。
1990年11月、兵庫県警が「ミミズの養殖を騙った産廃の不法投棄」の容疑で業者を摘発、強制捜査をしたことにより産廃搬入は止まりました。しかし、膨大な量の有害産廃が残り、有害物質を含む水は海に流れ続けました。事件報道によるイメージダウンによって豊島産の産物販売や観光業も壊滅的な打撃を受けました。そこで島の住民は「廃棄物対策豊島住民会議」を結成し(再発足)、廃棄物撤去を求める運動を展開しました。1993年11月に香川県と業者、排出事業者などを相手取った公害調停を国に申請し、長い“草の根の闘い”を経て2000年6月6日、やっと知事の謝罪と原状回復の合意を勝ち取ったのです。
廃棄物と汚染土の搬出、直島での中間処理が終わり、昨年7月に専門家の検討会が全9区域・区画で地下水が「排水基準」をクリアしたと認定しました。今年3月には整地作業が終わり、予定されたすべての作業の完了が専門家会議で確認されたのです。しかし、問題がすべて解決したわけではありません。地下水が自然浄化によって「環境基準」以下になれば県が住民に土地を引き渡しますが、その達成時期がいつになるかわかりません。
住民の島を挙げてのゴミ問題との闘いは法律や国の政策を変えました。島内にはごみ問題と運動の歴史を学ぶ「豊島のこころ資料館」があり、住民によって運営されています。

図:豊島の産廃問題を巡る経緯(毎日新聞2023年3月31日記事より)

連載コラム・日本の島できごと事典 その95《しばり地蔵》渡辺幸重

寒風沢島のしばり地蔵(Webサイト「文化の港シオーモ」より)https://shiomo.jp/archives/2828

宮城県の松島湾、塩釜港の東北東約8kmに寒風沢島(さぶさわじま)があります。松島湾の島の中では宮戸島に次ぐ面積を持つ大きさで、江戸時代の寒風沢港は江戸に運ぶ「江戸廻米(かいまい)」の中継地として大いに栄えました。島の日和山にはそのころの伝説にまつわる「しばり地蔵(すばり)地蔵)」があります。

しばり地蔵は島の遊郭にいた遊女たちが船出しようとする船乗りたちを引き止めようとお地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願をしたことに由来するといわれています。海が荒れて船が出ないことを祈ったわけです。願いが叶えば客は島に残り、お地蔵様は縄を解かれることになります。塩竃市のWebページには次のような伝説として紹介されています。ちなみに塩竃市によると、この像は地蔵菩薩ではなく本当は奈良の大仏と同じ盧遮那仏(るしゃなぶつ)だということです。

昔、料理屋に「さめ」という器量のよい女が愛し合っていた若者が遠く船出するのを悲しみ、船を一日でも引きとめたいと地蔵を荒縄でしばり「船を引きとめてください。引きとめたら解いてあげます」と願をかけました。その夜から翌日にかけて暴風雨となり、船は出られませんでした。それ以来、この地蔵は娘たちによってときどきしばられることになりました。

しばり地蔵(しばられ地蔵)は全国各地に分布しており、病気快癒などの願をかけるときに縄でしばり、願がかなうと縄をほどくという共通点があります。寒風沢島には顔に紅白粉を塗って祈願すると美しい子宝に恵まれるという化粧地蔵もあります。

ところで寒風沢島の繁栄は何によるものでしょうか。江戸廻米とは全国各地から江戸に運ぶ米のことで、江戸時代の初めは江戸に住む諸大名と家臣団の台所米だったものが江戸の大消費地としての発達に伴って全国から江戸に運ばれる大量の販売米のことを指すようになりました。仙台周辺では、北上川水系と阿武隈川水系を利用して年貢米が集められ、前者では石巻から仙台藩や盛岡藩などの蔵米が、後者では荒浜(現宮城県亘理町)から信達地方(信夫郡・伊達郡)の幕府直轄地(天領)の御城米(ごじょうまい)などが積み出されたようです。高浜からの城米は北上して水深が深く風波がたたない寒風沢港に転送され、ここで大きな千石船に積み替えられて江戸へ運ばれました。江戸幕府は島に御城米蔵を建て、幕府派遣の御城米役人が交替で勤務しています。寒風沢港は仙台藩も江戸廻米の船(御穀船)の寄港地とし、遊郭が繁盛するほど賑わいました。

仙台藩による江戸廻米が始まるのは1632(寛永9)年からといわれますが、最盛期には30万石に達し、江戸で消費される米の量の約3分の1を占めたそうです。

お知らせ

Lapiz2023春号Vol.45は昨日で終わりました。
次回の配信は夏号で6月1日からの予定です。
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