連載コラム・日本の島できごと事典 その30《在沖奄美人》渡辺幸重

奄美群島復帰五十周年(2003年)記念切手

第二次世界大戦後、北緯30度線がかかるトカラ列島・口之島から南が日本から分離され、サンフランシスコ講和条約で日本が独立してからも米軍政下に置かれました。奄美群島もそのひとつです。奄美大島日本復帰協議会などが激しい祖国復帰運動を展開し、奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日に日本復帰を果たしました。そのとき、沖縄には6万人を超える奄美群島出身者が生活していました。沖縄の日本復帰は1972年(昭和47年)5月15日のことです。この間、米軍政下の沖縄に住む奄美群島出身者いわゆる“在沖奄美人”たちは“本土日本人”でもない“外国人”扱いを受け、いわれのない差別を受けました。
かつて琉球国の一部だった奄美群島は薩摩の琉球侵攻後には直轄支配され、明治以降は鹿児島県に属しましたが、米軍政下では日本本土と遮断され、沖縄島に移住した人も多かったようです。沖縄で活躍する奄美群島出身者も多くありました。琉球政府行政副主席兼立法院議長の泉有平、琉球銀行総裁の池畑嶺里、琉球開発金融公社総裁の宝村信雄、琉球電信電話公社総裁の屋田甚助などです。ところが、奄美群島の日本復帰後、これらの人たちは公職追放の措置を受けました。そればかりでなく、公務員として働く多くの出身者も職を奪われたのです。在沖奄美人の参政権・土地所有権も剥奪され、本土日本人に与えられた政府税の外国人優遇制度も認められませんでした。社会的な差別意識も広がりました。佐野眞一『沖縄・だれにも書かれたくなかった戦後史<上>』には次のような内容の沖縄奄美連合会会員の言葉があるそうです。
「奄美人は沖縄に土地を買えませんでした。まともな職にも就けなかったから安定した生活をするのは無理でした。銀行も金を貸してくれません」「僕も奄美出身ということがすぐわかる苗字で、随分いじめられました。復帰前も復帰後も"奄美と宮古(宮古島出身者)はお断り"と言われて、奄美出身者はアパートにも入れなかったのです。」
ちまたでは「奄美出身者は奄美に帰れ」との声が広まり、沖縄市町村長会もこれを要望したとのことです。いま日本本土による沖縄差別の問題に心を痛める私としては信じられないほどの状況です。
ときの権力者は一般社会の貧困や歴史による重層的な差別意識をあおって差別政策を推し進めます。突き詰めて考えると江戸幕府の身分制度によって部落差別が生まれたように権力構造や現代の社会構造の中に差別が埋め込まれているように思えます。自分たちの心の中の差別意識を見つめるとともに権力や社会をどう変えていくか、考えていきたいと思います。

夏の千夜一夜物語《置いてけ堀 別バージョン》片山通夫

むかしむかし、あるところに、大きな池がありました。
水草がしげっていて、コイやフナがたくさんいます。
でもどういうわけか、その池で釣りをする人は一人もいません。
それと言うのも、ある時ここでたくさんフナを釣った親子がいたのですが、重たいビク(→魚を入れるカゴ)を持って帰ろうとすると、突然、池にガバガバガバと波がたって、
「置いとけえー!」
と、世にも恐ろしい声がわいて出たのです。
「置いとけえー!」
おどろいた親子は、さおもビクも放り出して逃げ帰り、長い間、寝込んでしまったのです。
それからというもの、恐ろしくて、だれも釣りには行かないというのです。 “夏の千夜一夜物語《置いてけ堀 別バージョン》片山通夫” の続きを読む

夏の千夜一夜物語《置いてけ堀》片山通夫

釣り人が魚を持って帰ろうとすると、「おいてけ~」という不気味な声が聞こえることから「おいてけ堀」と名づけられた掘りがありました。
その声のあまりの怖さに、みんな釣った魚を放り投げて帰ってしまうのです。それを聞きつけた魚屋。嫁が止めるのも聞かずに、魚天秤とねじり鉢巻姿でお堀へ向かいます。

さんざん釣って帰ろうとすると、やはりお堀から「おいてけ~」の声が……。魚屋は言うことを聞かず、啖呵を切って一目散に走ります。柳の下までくると、カランコロンと下駄の音。
「魚を売ってください」という女に、みんなに見せるまではダメだと断ると、「これでもかえ?」と、女の顔がのっぺらぼうに……。
魚を放り出し慌てて逃げる魚屋。途中見つけたそば屋で水をもらおうと、店主の顔を見れば、またもやのっぺらぼう。腰の抜けた魚屋、どうにか家までたどり着き、嫁に一部始終を話すのですが……。

夏の千夜一夜物語《船幽霊》片山通夫

海で死んだ人たちの霊が、生きている人たちを向こうの世界へ引きずり込むものとされ、昔から漁師たちに恐れられていました。お盆には、浜辺で迎え火を焚いて、海で亡くなった人をお迎えし、お盆の間は決して漁に出てはいけないとされていたのです。
ところが、威勢のいい漁師のお頭が村の老人たちの止めるのも聞かず、子分を引き連れお盆の夜の海に繰り出してしまいました。ほかに漁をする船はいませんから、網を入れるとおもしろいほど魚が取れます。しかし、気がつくと黒い雲に覆われ、船幽霊が現れたのです。

丸い光の亡霊たちは、漁師の舟を取り囲み「ひしゃくをくれ」と口々にいいます。船幽霊にひしゃくを渡すと、海の水を船に注ぎ入れ、沈めてしまうと恐れられていました。
するとその時、浜で焚いていた迎え火が一斉に消え、空に浮かぶと沖に向かって飛び始めました。迎え火は船幽霊を取り囲むと「わしらも同じ海で死んだ者。悪さをするな」と諭し始めたのです。

これによって船幽霊は消え、漁師たちは助かりましたが、親方は「ひしゃくがほしい…」とブツブツいいつづけ、おかしくなってしまったそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その29《大島郡独立経済(分断財政)》渡辺幸重

大島郡地図

国の税制は、財源が不足する地方自治体に対して国税の中から地方交付税を交付し、税収が少ない自治体が運営できるようになっています。いわば、金持ちの自治体住民・企業から取った税金を貧乏な自治体に回しているということです。2020年度に国からお金をもらわなかった自治体(不交付団体)は都道府県では東京都のみ、市町村では75ありました。東京都民のなかには「自分たちのお金を地方に取られる」という人もいますが、そうではありません。地方で子どもを育て、都会の大学に通わせて一人前にした費用は地方に還元されていません。地方出身の東京都民は自分たちの税金の一部が故郷に還元されることを希望しているはずです。実際、第二次世界大戦直後までは都会で働く多くの地方出身者は故郷に仕送りをしていました。
さて、地方交付税がなくなれば地方はどうなるでしょうか。1888年(明治21年)から1940年(昭和15年)まで似たような状態にされたのが鹿児島県大島郡です。奄美大島など奄美群島が対象になりますが、1897年(明治30年)から1973年(昭和48年)までトカラ列島(旧十島村)も大島郡に所属したので(その後鹿児島郡)、10年目以降は奄美群島とトカラ列島が対象でした。この財政制度を「大島郡独立経済(分断財政)」といいます。これにより、鹿児島県と大島郡の財政が分離され、大島郡は自給自足的な小規模な財政運営を強いられました。この分断経済は鹿児島県がやったことですが、明治政府は1901年(明治34年)に砂糖消費税法を制定し、沖縄・奄美の砂糖に課税しました。日清戦争(1894~95)後の財政需要の増加を満たすのが目的です。これらの差別的・棄民的政策がとられたため、奄美群島・トカラ列島の産業基盤は整備されず、人々の生活は“蘇鉄地獄”と呼ばれるほど疲弊する状態に陥りました。やっと大島郡産業助成計画・大島郡振興計画による振興事業が始まったのは1927年(昭和2年)のことで、天皇の大島行幸で注目が集まってからです。“島差別”を“天皇の恵み”にすり替えるとはなんとひどいことでしょう。太平洋戦争もそうですが、日本という国は過去の過ちを一度も総括していないのではないでしょうか。
大島郡独立経済を実施するときの鹿児島県議会での討論では、「大島郡の島々は絶海に点在して内地から二百里離れて交通が不便で、さらに風土・人情・生業等が内地と異なるから経済を分別する」とされました。ある研究者は「それなら“大島県”にして明治政府の補助を受ければよかった」といいます。そして、本当の理由は「内地の産業基盤整備事業に莫大な資金が必要になり、大島の産業基盤整備にまで手が回らなくなった」と指摘しています。薩摩藩による“黒糖地獄”時代の奄美搾取に続き、またもや“中央のための犠牲”を押しつけられたのです。