ちょっとエッセー《夏の時間》山梨良平

イメージ「水撒き」

暑い!お盆だ。テレビは相変わらず。清涼は白球を追う高校球児。見るともなくテレビを見ながらぼんやりと過ごす時間がここち良い。夕刻になると、いささかの風が吹き猫の額ほどの庭に水を撒く。打ち水と言うほどの風情もない。しかし夕方の太陽に向かって水を撒くと時には虹を見る。虹が木の葉と絡みしずくとなってしたたる様にいささかだが涼を覚える。

今日の新聞を読んでいなかったことを思い出して手に取るが、眼は「猫の額」と名付けた庭のヒイラギのとげから、先ほど撒いた水がまだとどまっているのを見つけて一人喜んで新聞には眼を移さない。そういえばヒイラギは木へんに冬と書く。椿は春の木、夏は榎(えのき)、そして秋は・・・。えっ?木へんに秋? 楸は「ひさぎ」と読むらしい。猫の額も時には役に立つ。それにつけても暑い日が続くものだ。 “ちょっとエッセー《夏の時間》山梨良平” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その76《南波照間島》渡辺幸重

日本最南端平和の碑(「離島ナビ」 http://ritou-navi.com/2015/10/23/paipatiroma/)

 有人島としての日本最南端の島は、沖縄・八重山諸島に属し、西表島の南約22kmに浮かぶ波照間島(はてるまじま)になります。伝承ではもっと南に「南波照間島(パイパティローマ)」と呼ばれる島があるとされ、『八重山島年来記』にも「大波照間(島)」という記述が見られます。はたして、地図では確かめられないこの島は実在するのでしょうか。

 伝承では、ヤグ村のアカマリという男が、税を取り立てに来た役人を酒に酔わせて公用船を奪い、村人を連れて南波照間島に脱走したとあります。一方、琉球王府の記録である『八重山島年来記』には、1648年に波照間島平田村の農民450人ほどが重税から逃れるために大波照間という南の島に渡ったと書かれています。この二つの話は重なり合い、史実と考えれば南波照間島も夢想とばかりは言えません。実在する島だと仮定した場合、台湾島や台湾南東沖の緑島(火焼島)、蘭嶼島(らんゆうとう)、フィリピンのルソン島などではないか、と言われてもいます。1892(明治25)年、沖縄県知事は海軍省にパイパティローマを含む南島の探検要請を出しましたが、断わられました。また、1907(明治40)年には沖縄県が台湾東部の火焼島と紅頭嶼(蘭嶼島)を農民の脱走先と考え、県技手を2度に渡り派遣・探検させています。

 南波照間島に渡った農民たちが逃れたという税は「人頭税」のことです。人頭税は収入に関係なく15歳から50歳までの男女全員にかけられた悪税で、薩摩藩からの搾取による財政難に陥った琉球王府によって1637年から石垣島や宮古島などの先島(さきしま)の島々にかけられました。廃止は1903年、明治36年ですから先島諸島の人たちは長い間、圧政に苦しめられたことになります。人頭税は一般に「じんとうぜい」と呼びますが、先島の場合は「にんとうぜい」と呼ばれます。

 さて、南波照間島に逃亡した農民はその後どうなったでしょうか。数年後に南島に漂着した者がそこでアカマリに会い、「ここは人食い島なので、すぐに出て行け。帰っても島の場所は決して言わないで欲しい」と言われたという伝承もあります。また、八重山の島々はかつて密貿易を行っていたと推測し、実はアカマリらは意図的な行動として食料や物資を豊富に搭載した公用船を奪い、マラッカ方面に向かって航海したという勇壮な物語を語る人もいます。

宿場町《山陰道・亀山宿(京都府亀岡市)》文・写真 井上脩身

応挙しのぶ山鉾巡行の街

円山応挙像(ウィキベテアより)

 私は二十数年前、美術展の開催に携わったことがある。その最後の仕事は「円山応挙展」の企画であった。円山応挙(1733~1795)は江戸時代の代表的絵師のひとりである。展覧会は、担当を外れて後の2003年に京都国立博物館などで開かれた。今年がその20年目に当たることもあって、久しぶりに図録を開いた。当時は気づかなかったが、応挙が生まれ育ったのは、私が山登りのためにたびたび車で通りかかった京都府亀岡市の運動公園の近くという。応挙は十代前半に京に出ている。ということはいったん亀岡の中心地にでて老ノ坂を越えたはずだ。亀岡は江戸時代、亀山とよばれ、城下町であり宿場町でもあった。応挙は63歳で亡くなるまでの人生のなかで、何度か亀山宿の街道を歩いたであろう。そのとき、絵師として何を思ったのであろうか。今は亀岡市の中心街である亀山宿をたずねた。 “宿場町《山陰道・亀山宿(京都府亀岡市)》文・写真 井上脩身” の続きを読む

とりとめのない話《国鉄一人旅 一村旅館》中川眞須良

均一周遊券を二重ポケットの奥にしっかりとしまい込み右肩からカメラをぶら下げ、左肩には数枚の下着とタオル 1~2個のりんごとチーズ モノクロフィルム7~8本そしてJTBの時刻表が詰まったやや大きめのくたびれたショルダーバッグ、これが当時私の旅姿の定番である。

その旅の目的はただ一つ 地元のローカル色あふれる人々の表情を一人でも多くフィルムに収めることである。したがってその期間中(7日~10日間)は目的地なし 訪問希望地なし 宿泊地の予約等一切なしのいわゆる「行方定めぬ波枕」である。その日も盛岡駅で午後3時を過ぎていた。そろそろ夜のねぐらを決めなければいけない。小遣いもまもなく底をつくので今夜は当然車中泊 と決めたもののまだ長距離夜行列車に乗る時間ではない。その時 ホームでの列車案内のアナウンスが大きく聞こえた。「・・a分発の花輪線回り 普通列車大館行は・・b番線からの発車です・・・・・」と。初乗り線で大館、、、? 時間つぶしには最適!である、早速b番線へ。

何年製造?の車両なのか 古い3両連結のデイーゼル普通列車。大きなエンジン音でホームの端に止まっていてすぐの発車だった。この時の乗車率 凡そ6割。好摩(こうま)を過ぎ花輪線に入るとそれまで軽快に走っていたスピードがかなり落ちた事と自分の想像以上の各駅での学生が混じる乗降客の多さは、その地のローカル色をさらに濃くしていると感じた。湯瀬駅に止まった。 “とりとめのない話《国鉄一人旅 一村旅館》中川眞須良” の続きを読む

とりとめのない話《国鉄一人旅 駅弁》中川眞須良

白石駅駅弁(現行の弁当)

JRの前身、国鉄から「格安で便利」と人気の「均一周遊券」が発売されて間もない頃の話である。この周遊券 大阪出発地の場合 通用期間二週間、新潟 福島両県以北の東北地方の国鉄(急行を含む)全線及び国鉄バス乗り放題、途中下車自由、価格6千円前後(学割り4千円未満)という内容に、帰宅までの全行程 運賃の心配はまったく不要であることは勿論、すべての車内検札、駅改札のフリーパスなどの利便、安心感をプラスすればその人気の高さは当然だったろう。

その周遊券をポケット奥にしまい込んでのある日の一人旅。

東北線下り普通列車青森行での車内 停車中の小さな出来事は特に思い出深い

停車時間が長かった(5分以上?)にもかかわらず駅弁の購入を躊躇してしまったのがその原因だ。発車のベルがけたたましく鳴り出した時、自分と同じホーム側席のお客が窓越しに売り子の男性から駅弁を買っているのが目に入った。今急いで買う必要がないことを知りつつもその場の雰囲気、状況、発車を告げるベルにも刺激され咄嗟に窓から身を乗り出して販売男性に(私も購入します)と合図を送った、いやっ 送ってしまった。 と同時にベルが鳴り止み「ゴッ、、トン」と発車したのである。

私は購入を諦め席に付きかけた時 その男性は駅弁を一つ右手に高くかざし左手で胸の前に襷掛けした台を押さえながら「まだ間に合います」と言わんばかりに私の窓そばまで近づいてきた。列車と競走である。私は品物を受け取り片方の手で代金(紙幣)を渡すのがやっとであった。列車はスピードを上げホームは途切れてしまったその結果は、釣銭を受け取れなかったことを意味する。売り子はなにか大声で手を振ってはいたが私はただそれを見送るしかなかつた。

突然のことで今日の夕食は高くついてしまったと思っていた時、通路を歩いてきた一人の男性が私の席の前で立ち止まリ視線が合った。相席の同意への目配りかと思ったが 私の買った弁当に視線を移し「その弁当 今買ったんでしょう、お釣り貰ってないのでは?」 ぴょこんと頷いた私に更に「私預かったようなものです。これ、そのお釣りです・・・」と硬貨を2枚差し出した。

事情が全くわからない私。ただキョトン。聞けばその男性、私が見た後ろの車両の同じ弁当購入者でたまたま販売人が私に釣銭を渡せなくなった状況を見ていたらしく「先程のようなこと時々あるようです。本人さん(私の立場の人)が気付けばいいんですけれど。あのような時、弁当屋さん 釣銭をたまたま開いている乗降扉から車内デッキへ投げ入れるんです。2枚しかなかったですよ」と。 その時の状況すぐには把握できずただ唖然。そしてそんな事が実際あるのだろうかと。 その時の私、驚きと感激でその男性にお礼を言った記憶がない。

もし事情を知らない他の乗客が列車走行中、デッキで数枚のコインを見つけた場合、どうしたのであろう?。さらにその乗客が自分自身であったなら?

今も記憶の片隅で時々目を覚ます取るに足らない小さな疑問である。

昭和は遥か過去だ!

 

とりとめのない話《とてもJazzないい話》中川眞須良 

人は齢を重ねると とかく昔が恋しくなる。過去の自分 過去の出来事 経験などを思い出しすべて現在と比較対象し物事の判断材料にする傾向が強い。一人の時、 友人や家族と一緒の時はもちろん新聞 雑誌 テレビなど複数のメデイアに接した時はなおさらである。

即ち「昔(以前)は△△△であったのに・・・」で始まり そして「昔は良かった!」で落ち着く。感覚に差こそあれ この年代の人は皆そうであろうが私のように少し度が過ぎると「また昔ばなしが始まった」と周囲からの冷やかな目が集まる。 “とりとめのない話《とてもJazzないい話》中川眞須良 ” の続きを読む

徒然の章《被災地で行われた東日本大震災復興支援活動・写真展 002》中務敦行