徒然の章《サンキュー ベリー ベリー マッチ 001》中務敦行

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市市民会館で、東日本大震災復興支援活動写真展が9月4日に開かれた。同じ会場で在日米陸軍軍楽隊、陸上自衛隊第6音楽隊の復興祈念コンサートも行われ、多数の市民がコロナ禍のなか熱心に災害の様子を写真で見、思い出を新たにしていた。
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コラム《米中の世界覇権争いの中で作られる“台湾有事”と琉球弧》渡辺幸重

~民衆の力で平和を守ることができないか~

中国の軍事演習区域

8月2日、アメリカのナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)が台湾を訪問しました。大統領権限継承順位が副大統領に次ぐ第2位の現職下院議長としては25年ぶりの訪台で、これに反発した中国は台湾周辺で弾道ミサイルの発射を含む大規模な演習を行いました。続いて8月14日、マーキー上院議員ら超党派の米上下両院の議員団が台湾を電撃訪問し、中国は15日、対抗措置として台湾周辺の海域と空域で実戦的な軍事演習を行ったと発表しました。中国の軍事演習エリアは台湾を取り巻いており、発射した弾道ミサイルの一部は与那国島や波照間島に近い日本の排他的経済水域(EEZ)の内側に落下したと発表され、一気に緊張が高まりました。9月1日、自民党の麻生太郎副総裁は「少なくとも沖縄、与那国島にしても、与論島にしても、台湾でドンパチ始まるということになったら、それらの地域も戦闘区域外とは言い切れないほど、戦争が起きる可能性が十分に考えられるんだと思っています」と述べました。「台湾有事は日本有事」「いっそうの軍備強化が必要」という声は高まるばかりばかりですが、はたしてそれでいいのでしょうか。
私たちは、北朝鮮のミサイル発射や中国の軍事演習のたびに“攻められる危機”に怯え、脅威を植え付けられますが、平和の維持には双方の相互理解と話し合いが必要です。逆に中国・北朝鮮の人々にとっては日米韓の共同軍事演習や日本の軍事力強化などを脅威に感じていることも考えなければなりません。国際情勢は、アメリカと中国の間で軍事力・経済力・科学技術力などあらゆる面において世界覇権を争う中で動いており、“台湾有事”“尖閣有事”もその例外ではありません。私たちは冷静に国際情勢と私たちの立ち位置を見定める必要があると思います。 “コラム《米中の世界覇権争いの中で作られる“台湾有事”と琉球弧》渡辺幸重” の続きを読む

読切り連載 アカンタレ勘太12-3《夢の作文》文・画 いのしゅうじ

勘太は夢のつづきをかんがえている。
ぼくとテッちゃん、ユキちゃん、タミちゃんはこてきたい。
ふえふきどうじのいしょうを着ている。
ぼくはよこぶえ、ユキちゃんはタンバリン、タミちゃんはもっきん、
テッちゃんはたいこ。
飛行機からおりると、みどりの丘からカネの音がきこえてくる。
赤いやねの、とんがり帽子のとけい台のカネだ。
イッ子せんせいが「カネの音に合わせてえんそうしましょう」という。
みんなで丘の上にあがる。 “読切り連載 アカンタレ勘太12-3《夢の作文》文・画 いのしゅうじ” の続きを読む

読切り連載 アカンタレ勘太12-2《新しょこくチャンバラ》文・画 いのしゅうじ

ぼくら虹の子
      三ねん一くみ 井田かんた
 じょうきひこうきで虹までとんで行きました。
ひこうきに、テッちゃんとユキちゃんと
タミちゃんものりました。
おおさかじょうが
みえました。虹はまるかったです。
くもに虹
がうつりました。すみよしのはしみたいでした。
虹につくと、イッ子せんせいがむかえて
くれました。
せんせいがいるので、ぼくはう
れしかったです。 “読切り連載 アカンタレ勘太12-2《新しょこくチャンバラ》文・画 いのしゅうじ” の続きを読む

読切り連載 アカンタレ勘太12-1《さかさレインボー》文・画 いのしゅうじ

おぼん明けのとうこう日。
イッ子せんせいが勘太をよんだ。
「かけた?」
「……」
「やっぱりわすれてる」
勘太の頭をげんこつでこつんとたたく。
「虹の子で作文かいてくれるんでしょ」
とせんせいにいわれ、勘太は隆三の家で見た虹をおもいだした。
「ぼくら、虹の子や」
(なんであんなこと言うたんやろ)
「武史にかいてもろたらどうですか」
「勘太くんにかいてほしいの」
「ぼ、ぼくには……」
せんせいは「かけません」と言わせない。 “読切り連載 アカンタレ勘太12-1《さかさレインボー》文・画 いのしゅうじ” の続きを読む

編集長が行く《宇治市ウトロ地区 国際人権法を武器に民族差別と闘う 002》Lapiz編集長 井上脩身

国連がウトロ救済に動く

 祈念館の敷地に移築された民家

前項で見た通り、水道が通るまで戦後33年も要したのである。山間へき地ではない。宇治市の住宅街でのことだ。これ自体信じ難い差別扱いだが、ことはこれだけでは済まなかった。水道工事が始まるのをあざわらうかのように、ウトロの全住民を被告とする「建物収去土地明け渡し訴訟」が提起されたのだ。ひらたく言えば、ウトロから出て行くよう求める裁判である。敗訴となればウトロの人たちはたちまち路頭に迷うはめになる。

この裁判は卑劣な仕業というほかない。水道施設設置に同意した日産車体は宇治市に同意者を提出したその日に、ウトロ自治会長を名のるQなる人物に土地を3億円で売買する契約を締結。Qは西日本殖産という有限会社を設立し、Q自らこの会社に4億4500万円で売却した。いわゆる地上げだ。その西日本殖産が提訴したのである。

裁判で被告の住民側が「20年間所有の意思で平穏かつ公然に他人のものを占有した者はその所有権を取得する」との民法の取得時効の規程に基づき、自分たちに土地・建物の所有権があると主張。これに対し、原告は「ウトロは飯場であった。建物は労働者の所有物であるはずがない。被告側はいつから飯場であった建物に対して所有の意思をもったのか」などと追及。双方が真正面からぶつかり合う中、京都地裁はウトロ住民が一括買い取ることを条件に14億円の価格を示して和解勧告を行った。住民側に買い取る資力はなく、応じられるはずがなかった。裁判は住民敗訴となった。

ウトロ住民側は控訴審に向けて立て直しを図らねばならなかった。勝ち負けは死活問題なのだ。『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』の著者でウトロを守る会副代表の斎藤正樹氏は、甲山事件の支援活動を行った経験をもつ。斎藤氏は国際人権法に居住の権利があることに着目した。

国際人権法は、第二次大戦後国連憲章に人権保護が規定されたことに基づき、国際法の一分野として整備された。批准した国は、世界人権宣言を制度化した国際規約(社会権規約)と、市民的権利に関する国際規約(自由権規約)に拘束される。しかし、自由権規約について、法務省は執行力を持たないとの立場。社会権規約については最高裁が判決で直接適用は認められないとしている。要するにわが国は人権保護に関して極めて消極的な国なのである。

だが住民側は国際人権法を盾に法廷闘争に打って出た。同書によると、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)11条に「締約国は、住居を内容とする適切な生活水準についてのすべての者の権利を求める」と規定。この権利は、「人間としての尊厳が認められる場所で生活する権利」であり、「自己所有、賃貸、避難所、不法占拠などいかなる形態の占有者も、強制立ち退きからの法的保護を保障される」と解釈されているという。

住民側はこの権利に基づき「(強制立ち退きを認めた)地裁判決は憲法98条(国際法規順守)に違反する」と主張した。しかし、2000年6月、大阪高裁は社会権規約に基づく住民の主張を退け、敗訴となった。同年11月、最高裁は上告を棄却、立ち退き判決は確定した。

赤ちゃんを抱き上げる父親(移築民家内の展示写真より)

だが、国際法を振りかざした法廷闘争が敗訴確定後、大きな成果を得ることになった。国連人権高等弁務官事務所に訴えたところ、2001年8月、スイス・ジュネーブの同事務所でウトロ問題について審査が行われた。日本政府の代表は「住民と不動産業者の民事上の争い」としながらも「ウトロ地区の新たな街づくり計画が進行中であり、行政側として支援したい」と答えた。2006年1月、国連人権理事会委員会はさらに一歩進め、「日本政府はウトロ住民がこの土地に住み続ける権利を認めるための適切な措置をとるべき」と報告した。ウトロの立ち退き問題は国際問題に発展したのである。

2007年12月、国交省、京都府、宇治市によって「ウトロ地区住環境整備改善検討委員会」が発足。同地区内に市営住宅を建設することになった。2018年4月、5階建ての伊勢田ウトロ市営住宅(40戸)が完成。住民や支援者ら約200人が焼き肉パーティーを開いて完成を祝った。現在、その隣に2棟目の住宅が建設中である。

 団結誓う「オモニのうた」

話をウトロ平和祈念館展示場の「はじめに」に戻そう。冒頭の言葉のあと、「朝鮮人労働者とその家族はこの地で厳しい環境に負けず、懸命に働き、助け合いながら活動してきた」といった内容の文言がつづく。「懸命」と「助け合い」が、国際人権法の居住の権利を引きだし、立ち退きを阻止したうえ、市営住宅新築へとつながったのであろう。裁判では負けたが実質的には勝利したのだ。ましてや放火犯の卑小な差別意識に負けるはずがなかった。この祈念館はその勝利の証しなのである。

展示場に入る。展示品の多くは写真パネルである。ウトロ地区の上空写真に胸が痛んだ。狭い道路の両側に軒を連ねる家々はどう見ても物置き小屋だ。屋根はつぎはぎされたり、すっぽりと屋根板が抜けていたりして、人の住居としては極めて劣悪だ。戦災を受けた日本の多くの街ではこのような状態であったと思われるが、やがて新たな街に変わった。しかしウトロでは何ら改善されずに放置されたのだ。

そんななかでも、赤ちゃんを抱き上げる男性の写真を見ると、その表情に明るさが感じられる。縄跳びをする女の子たちのほがらかな笑いに心がなごむ。結婚したばかりと思われる若い夫婦のきりっとした目は、将来の希望を見ているようだ。そんななか、目を奪われたのが民族教育の教室前に勢ぞろいした制服姿の女生徒たち。みんな背を伸ばしきりっとカメラに向かっている。少女たちの意気込みが白黒写真に映し出されている。

1953年の台風でウトロが浸水したことはすでに触れた。その後も浸水被害を受け、2008年6月、4戸が床上で浸水した。そのときの写真が展示されている。しゃれたふすまに赤茶色くにじんだ跡が残っており、「大雨のたび水害がこわい。土地のない生活をしたい」という住民の悲しげな顔は、見る者まで心が曇る。「土地のない生活」というのは近代的アパートをさすのであろう。市営住宅建設は立ち退き対策であるとともに、浸水対策でもあるのだ。

母親の思いを込めた「オモニのうた」(祈念館パンフレットより)

すでに触れたように、2000年に立ち退き判決が確定したが、敗訴なんのそのとばかりに2002年2月、「われら 住んでたたかうウトロ団結集会」がウトロ地区内で開かれ、「オモニのうた」と題する集会宣言がなされた。その「オモニのうた」も展示されている。

 いやや!
どんなことがあっても 私はよそへは行かないよ
(略)
私はひとりぐらし……
この年まで学校には縁がない
具合の悪いときは
近所の人が本当によくしてくれる
(略)
私はウトロのオモニだから
みんな「私」だと知っているから……
どこかよそでは こうはいかないよ
このまちを離れたら
私は私でなくなる……

祈念館の敷地の隅に古い住宅が保存されている。中に入ると十数点の写真が壁に掛けられている。その中の一つ、6人の子どもとともに写るお母さのこわばった表情が印象的だ。「オモニのうた」をおもった。「この子ら守るためにどんなことがあってもよそには行かない」。そんな強い決意を内に込めているように見えた。立ち退きという不条理にうちかったのは、オモニの心の強さがあったから、と私は理解したのである。                               完

編集長が行く《宇治市ウトロ地区 国際人権法を武器に民族差別と闘う 001》Lapiz編集長 井上脩身

~立ち退き拒否貫いた在日コリアン~

2021年8月30日、在日コリアンが多く集まる京都府宇治市伊勢田町ウトロで放火事件があった。住宅など7棟が焼けたほか、建設中の「ウトロ平和祈念館」での展示が予定されていた資料50点が焼失、22歳の男が逮捕、起訴された。被告は「在日コリアンに恐怖を与えようとおもった」と、在日コリアンへの差別・憎悪をあらわにし、京都地裁で開かれた公判では「平和祈念館の開館阻止が目的だった」と動機を語った。しかしこの事件にもかかわらず平和祈念館は2022年4月に開館、ウトロの人たちの差別と闘った歴史を学ぶ場になっているという。事件から1年がたつのを機に、同祈念館を訪ねた。

水道のない見捨てられた街
 ウトロ平和祈念館は近鉄京都線伊勢田駅西約600メートルの住宅街の一角にあり、ガラスばり3階建てで、床面積は300平方メートル。2、3階が展示室だ。
私は1階の事務所で斎藤正樹氏が著した『ウトロ・強制立ち退きとの闘い』(東信堂)を参考資料として買い求め、2階に上がった。その入り口に掛けられた「はじめに」と題する説明パネルには「ウトロ地区の始まりは戦争中、京都飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者の飯場(宿舎)」とある。

 前掲書によると、1938年、日本政府は宇治市と久御山町にまたがる300万平方メートルの土地に、飛行機製造工場と乗員養成所を併せ持つ京都飛行場の建設を決定。40年に起工式が行われ、41年、ウトロ地区を含む土地約2万1000平方メートルを買収、陸軍の軍需産業であった日本国際航空工業(日産車体の前身)名で所有権登記がなされた。

 飛行場建設工事は労働者2000人、機関車27台、トロッコ600台を要し、安い労働力として1300人の朝鮮人労働者が集められた。この多くは朝鮮半島慶尚南道の農民出身者で、家族持ちも少なくなく、ウトロ地区に設けられた飯場長屋に寝泊まりさせられた。彼らは丘陵の竹やぶをスコップで切り開き、土砂をトロッコに積み込み、滑走路に土砂を降ろすなどの重労働に従事させられた。1945年7月、飛行場は米軍の爆撃を受けて建物が壊滅。日本人女学生6人が犠牲になったが、ウトロの飯場は直撃を免れた。

 戦後、同飛行場は占領軍に接収され、米軍大久保キャンプになった。朝鮮人は何ら補償のないまま飯場に取り残された。民族の誇りを忘れなかった彼らは1945年9月、飯場長屋の間仕切りを取り払って教室にし、子どもたちに母国語を教えるための国語講習所をスタートさせた。やがてウトロは朝鮮半島に帰る人たちの中継基地となり、情報センター的役割を担うようになった。しかし、こうした在日朝鮮人のための活動はGHQと日本政府の弾圧の対象になり、民族学級は閉鎖させられた。

 1953年の台風13号でウトロの60戸すべてが浸水し、97世帯が生活保護を受けることになった。生活苦からヤミ米の買い出しやドブロクの密造などで切り抜ける人もいて、警察に摘発される事態になりながらも、ウトロの人たちは必死に生きた。だが日本が驚異的に復興をしていく中、ウトロ地区は地主である日産車体の承諾がないという理由で、上水道も引かれず、宇治市から事実上見捨てられた。

 1979年、ウトロの住民代表が宇治市に水道を敷設するよう要望。日本人市民が「ウトロに水道施設を要望する市民の会」をつくって後押ししたこともあって日産車体も水道施設に同意。1988年、ようやく配水管埋設工事が始まった。
明日に続く

怒りを込めて振り返れ!《原発を考える 002》一之瀬明

前日の続き
北朝鮮のミサイルが・・・。核実験が・・・。台湾有事にどうする?こんな時代に原発の再稼働や新設?どうかしてる。

共同通信が先月(8月24日)伝えた。
「デブリ年内搬出断念へ 福島第1原発、1年延期か」

東京電力福島原発

東京電力福島第1原発2号機の溶融核燃料(デブリ)の取り出しについて、政府と東電が目標としていた年内の作業開始を断念する方向で検討していることが24日、関係者への取材で分かった。取り出しに使うロボットアームの開発の遅れなどが原因。東電は1年程度遅らせる方向で調整している。延期は2回目。
事故でできたデブリの取り出しは第1原発の廃炉作業の最難関。政府と東電は、2041~51年に廃炉を完了する目標を維持するが、使用済み核燃料の搬出など他の主要工程も延期が相次いでおり、目標通りにいくかどうかは不透明だ。

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怒りを込めて振り返れ!《原発を考える》一之瀬明

原発の再稼働・新設目指す岸田内閣

広島平和記念資料館で

8月はヒロシマ・ナガサキの2都市に原爆投下されて敗戦が決まった月だ。
一方現在の世界の情勢は決して穏やかな状況とは言えない。ロシアがウクライナに侵攻し、町を破壊し、そこに住む人々を殺戮し続けている。わが国の周辺では台湾をめぐる米中の緊張が過去になく高まっている。ロシアは「北海道に興味を示し」、「中国は台湾統一」を公言している。北朝鮮は核武装にいそしみ、これらの緊張に乗じている形だ。国内ではこれらの状況を踏まえて「核武装論」まではともかく「核共有論」が飛び出し、防衛予算も過去最高に膨張している。わが国には54基の原発があり政府は電力の安定供給を目的に、再稼働はおろか、新規の原発の設置もを視野に入れていると報道にあった。 “怒りを込めて振り返れ!《原発を考える》一之瀬明” の続きを読む

写真ルポ《奈良元與寺地蔵盆》片山通夫

元與寺

古代のわが国の首都に平城京がある。710年、それまでの藤原京から遷都されて唐の都長安を模して造営された。平城京が京都に遷都された794年までの間、宮城・平城宮(大内裏)を置き、東西8坊 (約 4.3 km) の面積をもち、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画され、全域が72坊に区画設定されていた。のちに奈良は「南都(なんと)」とよばれるようになり、東大寺・興福寺の門前には、寺の仕事に従事するさまざまな人々が集まり、やがて「まち」ができます。このような「まち」を「郷(ごう)」とよび、奈良の町は寺社の門前郷(もんぜんごう)として発達してゆく。平安時代末期、平氏が勢力を強めると南都寺院と対立するようになり、1180年、平重衡(たいらのしげひら)が南都を攻め、その兵火により東大寺・興福寺とともに奈良の町も大半が大きな被害をうけた。その後、奈良町は周辺の地域を含めて徳川幕府の直轄地として栄えるという歴史を持っている。また元與寺は飛鳥時代に蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内(現奈良町)に移転した寺院。飛鳥時代の屋根瓦が一部残っている。毎年8月23日・24日は地蔵盆が盛ん。 “写真ルポ《奈良元與寺地蔵盆》片山通夫” の続きを読む