連載コラム・日本の島できごと事典 その24《内地と本土・離島と属島》渡辺幸重

「離島」航路の船と桟橋

沖縄でナイチャーというと「内地の人」という意味です。私は鹿児島県内の島で生まれ育ちましたが、鹿児島市など九州島を「内地」と呼びました。子どもの頃、「鹿児島が内地ならこの島は何? 外地?」と不思議に思いました。「外地」とは一般に戦前戦中の旧満州や朝鮮半島、台湾など大日本帝国の植民地にあたります。島で外地という言葉は使いませんが、戦前のイメージと重なり、私は自分の島が日本ではないように思え、自分自身も日本人意識が薄いと思いました。日本復帰直後の沖縄で伊江島の人から「あんた、日本から来たの?」と言われてびっくりしました。「内地を日本って言っていいんだ」と思うと言いようのない大きな解放感を覚え、心地よかったのを覚えています。
よく「本土と離島」はセットで使われます。しかし、本来は「本土と属島」で、経済的・社会的に島が依存している中心的地域を本土(主として北海道・本州・四国・九州)、その島を属島と呼びます。中心が島の場合は「本島」(沖縄本島など)となります。離島という言葉は離島振興法施行後に広まり、いまでは架橋島や陸繋島以外は一般に離島と呼ぶようになりました。ただ、私は「離れ島」というニュアンスの離島という言葉には抵抗があり、なるべく「島嶼」を使うようにしています。
島との交通手段を紹介する場合、多くの島のガイドブックは「東京・竹芝桟橘から旅客船で24時間」(小笠原諸島・父島)のように本土側(旅行者側)の視点で書かれています。私は「東京竹芝と父島二見港間に定期旅客船が就航」のような書き方を心がけています。みなさんにこの違いをわかってもらえるでしょうか。

千夜一夜物語《屋久島001》片山通夫

  屋久島は1993年12月11日、白神山地とともに日本初の世界自然遺産として正式に登録されました。 特に「標高による連続植生、植生遷移や暖温帯の生態系の変遷等の研究における重要性を持つこと」や、 「ヤクスギを含む生態系の特異な景観を持つこと」などの特徴が、学術的に大きな価値をもつものとして評価されました。世界自然遺産登録が素晴しい事であるのは言うまでもありませんが、遺産前、更には昭和39年の国立公園指定以前から、 屋久島を訪れた植物、動物学者達は「類を見ない島」「人類の至宝」と評価しています。
「連続植生、生態系変遷の重要性、生態系の特異景観が素晴しい」等と言葉を並べるよりも 「世界自然遺産である」と一言でその素晴しさを表現できるように、 屋久島にとっての「世界自然遺産」は、名詞ではなく形容詞である、と言えるのです。(屋久島観光協会HP)

 

千夜一夜物語《一休寺》片山通夫

伝・墨渓筆『一休宗純像』(奈良国立博物館所蔵)

 

 

京都の南、いわゆる洛南に京田辺という木津川沿いの古い町がある。南には明日香、平城を望んだ、木津川の水運を頼りに朝鮮半島や大陸を見た。結構な田舎町だが当時は国際的な町でもあったようだ。そんな地に一休禅師が住んだ酬恩庵がある。折からのコロナ禍で観光客はほとんどいなかった。

 

 

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その23《縄文杉の年齢》渡辺幸重

縄文杉発見を告げる記事(南日本新聞)

1967年(昭和42年)、南日本新聞の元旦紙面トップを1本の巨木が飾りました。見出しは「生き続ける“縄文の春”」「推定樹齢四千年 発見された大屋久杉」とあります。この巨木は観光の目玉となり、1933年に世界自然遺産に登録された屋久島のシンボルとして今では“縄文杉”の名前で広く全国に知られています。
縄文杉は1966年5月、町役場の職員だった岩川貞次さんによって発見されました。当時の屋久杉の王様・大王杉をしのぐ高さ25.3m、胸高周囲16.4mの世界最大級の杉として話題になり、樹齢は3千年以上、4千年ともいわれました。新聞記事はこれを反映しています。その後、九州大学の真鍋大覚助教授が古代気象と成長量の関係から7,200年と推論しました。これが広まり、いまでもよく耳にする「樹齢7,200年ともいわれる」という表現につながっています。1983年に環境庁(当時)は「古くても6,300年」としました。実は当時、屋久島の北にある鬼界カルデラが6,500年ほど前に大噴火を起こし、そのとき広がった幸屋火砕流が屋久島全島を覆ったので、それ以前の生き物が残っているわけがない、という主張が強く出されていました。そういう事情から「6,300年より新しい」ということになったのだと思います。ところが現在では学術研究が進み、鬼界カルデラの火砕流は「約7,300年前」とされています。縄文杉の年齢が「7,200年」でもおかしくないことになります。
1984年には炭素測定法で測定した木片で一番古いのは「2170年±110年」と推定されました。「2,060~2,280年」となり、「縄文杉の樹齢は約2,000年」はこれを根拠にしています。外側よりも内側が若かったりしたので、複数の樹木の合体木ではないか、という議論も起きました。現在ではこれは否定されています。学術的には「縄文杉の樹齢は古くとも4,000年以上はさかのぼらない」が定説のようですが、今でもロマンを込めて「縄文杉の樹齢は7,200歳」と説明する人はたくさんいます。あなたはどう説明しますか。
縄文杉のまわりには江戸時代に伐られた屋久杉の株が残っています。実は、縄文杉は見つからなかったから残ったのではなくて、木材にならないほどひねくれた“落ちこぼれ者”だったから残されたのです。私は若い人たちに「優等生でなくても、社会に役に立つ人にはなれる」と縄文杉にたとえて話をします。
晩年を屋久島で過ごした詩人・山尾三省は、縄文杉に畏敬の念を込めて「聖・老人」と呼びました。

連載コラム「日本の島できごと事典(その22)」カネミ油症事件

カネミ油症50年記念誌 発行 五島市

 

1968年(昭和43年)10月、「史上最悪の食中毒事件」「国内最大規模の食品公害」と呼ばれる「カネミ油症事件」が発覚しました。これは、ポリ塩化ビフェニール(PCB)が混入したカネミ倉庫(北九州市)製の米ぬか油が販売され、健康被害を訴える人が全国で1万4千人を超えた(1969年7月時点)という事件です。認定患者数はいまでも増え続けており、2020年3月時点の累計認定患者数は西日本を中心に2,345人います。患者らの運動により2012年に被害者救済法が成立し、発生時に認定患者と同居していた家族も一定の症状があれば患者とみなされるようになりましたが1969年以降に生まれた子や孫の救済は進んでいません。今年になって国が認定患者の子を対象に健康実態調査を実施する方針であることがわかりました。公的機関が次世代調査を行うのは初めてということです。天ぷらやフライを揚げる高熱のなかでPCBが猛毒のダイオキシン類に変わると考えられ、“奇病”といわれる症状に悩まされ人もおり、出産障害も指摘されています。病気や偏見・差別との戦いは50年以上経った今でも続いているのです。
患者は長崎県五島列島の福江島と奈留島に集中しています。全国の認定患者数の4割以上が長崎県で、その9割以上が五島市です。福江島・玉之浦地区と奈留島だけで全国の約4割を占めます。奈留島では1968年2月頃から「安くて健康にいい」と評判の米ぬか油が入ってきたそうです。決して裕福ではなかった人々は喜んで油を買い求めました。奈留島では12店で161缶、玉之浦では1店で50缶が販売されました(推定)。販売数では奈留島が玉之浦の3倍ですが、認定患者数は逆に奈留島が玉之浦の3分の1にとどまっています。事件発覚当時、玉之浦や長崎市などで健康被害の届け出が相次いだときにも奈留島での届出はゼロだったそうです。このため奈留島を“沈黙の島”と形容する報道もあります。これは、売り手と買い手が地縁・血縁で濃密な人間関係があったことや偏見・差別を恐れたから届け出なかったといわれています。販売店のなかには被害を拡大させた心苦しさから症状がありながらもいまだに油症検診を受けていない人もいるそうです。
私は、この“沈黙”を小さな島の特殊な出来事とは思いません。日本社会全体が抱える“病症”だと思うのです。日本の政治の動きを見ると濃密な関係の集団の論理で、意見の異なる集団や国民を黙らせるという構図が見えてきます。上から下までそうなってしまっては日本社会はよくなりません。“シマ社会”を根本から作り替える必要性を感じます。

五島列島ではいま、五島特産の椿油を使っています。