連載コラム/日本の島できごと事典 その11《風土病フィラリア》渡辺幸重

八丈小島のバク患者。左足が象皮病(ウィキペディアより)

伊豆諸島・八丈島の西方約4kmに八丈小島という無人島があります。1969年(昭和 44年)に住民全員が離島するまでは24戸91人が住んでいました。
この島に八丈小島でしかみられない“バク”と恐れられた風土病があり、医師がいない島で住民は長い間苦しめられました。八丈島の人は「小島のバク」と呼んで恐れ、八丈島の漁師や海女は病気を恐れて小島へは上陸しなかったそうです。島民の多くは10代半ばまでに熱発作を出すといわれ、何の前ぶれもなく寒気と戦慄に襲われ、震えが起きました。人々は原因は島の水に毒があるからで大昔からあるバクにかかるのは仕方のないことだと考えていました。八丈小島に伝わる民謡の一節に次のような歌詞があります。
 ♬ わりゃないやだよ この小島には ここはバク山 カブラ山
(カブラとは島の太平山の山頂付近で栽培された大かぶのこと)

バクは「マレー糸状虫(しじょうちゅう)によるフィラリア症」の一種で、トウゴウヤブカが媒介し、高熱や下肢の象皮症を起こす病気でした。愛媛県佐田岬半島、長崎県、鹿児島県、奄美、沖縄県各所など日本でもフィラリア症はありましたが、それはバンクロフト糸状虫によるもので、マレー糸状虫によるものは日本では八丈小島だけにある風土病だったのです。明治期に内務省衛生局や京都帝国大学、九州帝国大学が現地調査を行いましたが原因究明に至らず、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)から調査研究に取り組んだ東京大学付属伝染病研究所の佐々(さっさ)学によって原因解明と治療法開発が進められました。その結果、世界で初めてトウゴウヤブカによる媒介がわかり、特効薬による治療法に達したのです。この体験はその他の地域のフィラリア症治療にも生かされ、1988年(昭和63年)の沖縄県宮古保健所における根絶宣言により日本は世界で初めてフィラリア症根絶の国になりました。そのフィラリア防圧モデルは世界各地でも活かされているそうです。
佐々学がバクの研究に打ち込んだ時代は、東京~八丈島の船が5日に1便、八丈島~八丈小島への船が月に2便しか通っていませんでした。八丈島の民宿滞在中の佐々に「アメリカイキキマル スグモドレ」という電報が届いたとき佐々は電報を破り捨てて八丈小島行きの船に乗ったといいます。バク研究の使命感がアメリカ行きを諦めさせたのでした。歴史上の偉人の肝っ玉の大きさには本当に感心させられます。

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 6》片山通夫

 

蝦夷錦を着たアイヌ

幕府が蝦夷地の運営に口出しした原因は「松前藩がコメが穫れない藩なのに結構栄えていた」からに他ならない。その原因はアイヌを通じた「山丹交易」だった。山丹人とは、黒竜江流域に住むウリチ族やニヴフ族などの北方少数民族のことで、彼らは中国本土を支配する清朝にいわゆる朝貢し、清からの賜品を樺太や蝦夷地のアイヌと交易した。アイヌは松前藩と交易し松前藩はこの交易で栄えた。
代表的な清朝の品に「蝦夷錦(写真:国立民族学博物館で)」がある。ただ松前藩の蝦夷地運営はかなり過酷だったようでアイヌは反抗したこともあるがその都度敗れてしまっていた。有名な戦いにシャクシャインの戦いがある。

*朝貢は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。

*シャクシャインの戦い:1669年6月にアイヌ民族でシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌの2部族の抗争・報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した[1]。日本の元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれている。

 

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 5》片山通夫

樺太アイヌ

時代は少しさかのぼる。まだ北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃、蝦夷地の函館近くに松前藩(地図参照)が江戸幕府によっておかれていた。松前藩は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。 藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。 後に城主となり同所に松前福山城を築く(安政元年 1854年)。当時も寒冷地で江戸幕府が大名などを統治していた石高(コメ)の収穫は望めなかった。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。しかし江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。(この項続く)

 

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冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 3》片山通夫

サハリン州

ロシアには当たり前のことだが少数民族としてのアイヌがいる。ただサハリンの南部、いわゆる樺太と呼ばれてた地域には現在ほとんどいない。これは後で記する。アイヌ民族は下記の通り存在するし、存在した。例によってウイキペディアの力を借りる。
サハリン州、ハバロフスク地方、カムチャツカ地方に居住している。ロシア語ではアイヌ(Айны)、クリル(Куриль)、カムチャツカ・クリル(Камчатские Куриль)、カムチャツカ・アイヌ(Камчадальские Айны)、エイン(Ейны)などと呼ばれ、6つの集団に分けられる。2010年の国勢調査ではロシア国内で自らがアイヌであると回答した人数は100人程度であるが、少なくとも1,000人はアイヌを祖先に持つと考えられている。アイヌを名乗る人数が少ないのは、連邦政府に「現存する」民族集団としての承認を受けられていない結果であると考えられる。アイヌを祖先に持つ人が最も多いのはサハリン州であるにも関わらず、自らをアイヌと定義する人の大多数はカムチャツカ地方に居住している。次回からサハリン州を中心に存在するアイヌ民族を紹介してゆきたい。
それにしてもそれぞれにコロポックルはいた?

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 2》片山通夫

樺太アイヌの男女(夫婦と思られる)

かつて樺太には樺太アイヌが住んでいた。彼らは筆者の推測だが北海道(蝦夷地)から渡ってきたコロポックルを大切にした。大切にするということは、決してコロポックルの世界には入らないということを意味する。樺太のアイヌの人々はそれを知っていた。
ところでコロポックルはどのような神様なのだろう。まずコロポックルとはアイヌに言葉で「蕗の葉の下の人」という意味である。蕗がいかに大きい蕗であっても、人間の背丈を超えるくらいがほとんどである。おそらく想像だが人間の子供程度ではなかっただろうか。伝説は地域によって差異があり「コロボックルは怠け者でアイヌが彼らに食べ物を与えていた」「コロボックルの手にあった刺青は捕らえたアイヌの人々が奪還を懼れて施したものであって元来からアイヌの風習である」などの変化が見られる。 つまり定説はない。

連載コラム/日本の島できごと事典 その10《南西諸島と琉球列島》渡辺幸重

 みなさんは鹿児島県南端から台湾北東にかけて連なる島々を何と呼びますか。「南西諸島」「琉球列島」「琉球弧」という言葉を思い浮かべるでしょうが、これらの言葉に違いはあるのでしょうか。
「南西諸島」の名称は明治期に国の水路部(海上保安庁の前身)が使い始めた行政用語です。九州鹿児島県に属する薩南諸島(口之三島を含む大隅諸島、吐?喇列島、奄美群島)、沖縄県に属する沖縄諸島(沖縄島とその周辺)、宮古列島、八重山列島、さらに沖縄諸島の東にある大東諸島および八重山列島の北にある尖閣諸島を含むとされています。「琉球列島」と「琉球弧」はほぼ同じような使われ方をしており、琉球弧の方は地学的な説明に多いようです。琉球列島の範囲は必ずしもはっきりせず、次の1)~3)のように南西諸島の全体あるいはその一部となります。
1)南西諸島と同じ地域
2)かつての琉球国の領土とほぼ重なる地域。奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島の総体
3)奄美群島を除くほぼ北緯27度以南の沖縄県所属の島々の総称
2)あるいは3)の地域を「琉球諸島」と呼ぶこともあります。すなわち、沖縄島は南西諸島・琉球列島・琉球諸島・沖縄諸島に属します。
これらの島々の総称をどう呼ぶかは分野や立場によって異なります。私は大都市中心の呼び方が嫌いなので「(東京から見て)南西にある諸島」という言い方にはひっかかりがあります。大和時代の「南島」が「琉球」と重なるのでどちらかというと琉球列島の方を好みますが、琉球国の支配地域と完全に重なるわけではないし、琉球国という支配者側への反発もあるので迷いがあります。中国の歴史書には流求、流乢、流鬼、瑠求などの文字がみえ、琉球は中国の呼び方だから嫌いという人もいるようです。私はとりあえず「九州島から台湾島の間に弧状に連なる島々」とし、南西諸島と琉球列島を状況によって使い分けるようにします。

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル》片山通夫

樺太の蕗

北海道・稚内の北にサハリンという島がある。かつて樺太アイヌも住んでいた。北海道でコロポックルの姿を見ようと待ち伏せた若者がいた話は前回した。コロポックルは若者の振る舞いに怒り、北の国へと移動したらしい。北海道の北と言えば、樺太であった。コロポックルの一族はここに居を構えたという。樺太にも北海道と同じような、いやそれよりも大きな蕗が群生している。コロポックルたちは樺太の蕗がいたく気に入ったようで4、その後どこかへ移ったという噂は聞かない。

松浦武四郎作「蕗下コロポックル図」

ちなみにコロポックルとはアイヌの伝承に登場する小人で、アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解される。(ウキペディア)

 

冬の夜の昔話《コロポックルという神様》片山通夫

コロポックルとはアイヌ民族の間で伝えられてきた神様である。神様そのものはカムイと表現するらしい。コロポックルは何となくその音がかわいい。かわいいのは音だけではなさそうだ。北海道には人の背丈を超える蕗が生えるとか・・。その蕗の下にコロポックルは住む。しかし、その姿を見た人はいない。どうして蕗の下に住んでいる皓が分かったのかは謎だ。 “冬の夜の昔話《コロポックルという神様》片山通夫” の続きを読む