Lapiz2019夏号 徒然の章 中務敦行

この春は「花の命は短くて・・・」ではなく、各地でサクラは長~く咲いたように思います。
 4月26日、親しい人を見送るため千葉に行きました。車窓から見る花は東京の中心部では満開、千葉県の成田近くでは七分咲きでした。関西は例年ならもう3~5分咲きなのにまだ咲き始め、肌寒い日が続き満開を迎えたのは入学式が始まるころ。
咲き始めた花は途中で寒波が襲来、いつまでも咲き続けた。
撮影にもよく出かけた。いつもと違うのは黄砂が少ないこと。
「満開の・・・」は秋のような青空、サクラ青空は恰好のバックだ。
そこにこの雲、春には珍しい。空あっての花だ。
花を求めて、各地を回った。
いずこもいつもと開花の時期が違う。
また昨年9月の台風でいたんだ木も多く、見るものの心もしおれる。
「咲いて良し、散って良し」がサクラだ。
奈良・橿原市の曽我川では花びらの流れをカモが泳いでいた。
三重県津市の三多気のサクラは今年も田んぼの水に映えていた。
北海道では満開の花に吹雪だという。
年ごとに変化があるのがサクラの魅力だろうか。

花びらの流れ泳ぐカモ」=橿原市曽我川で
三多気のサクラ
満開の桜(大和郡山市ファミリー公園で)

Lapiz2019夏号 成田街道 佐倉宿 文・写真 井上脩身

開明の風そよぐ幕末の街

~行き交う順天堂の門人と患者~

駐日公使、タウンゼント・ハリス像

日米修好通商条約を締結した初代駐日公使、タウンゼント・ハリスの銅像が佐倉城内にたっていると耳にした。佐倉は下総の国、現在の千葉県佐倉市。ここにハリスが行ったことはないはずだ。にもかかわらず、なぜハリスの像があるのだろう。

ふと司馬遼太郎の『胡蝶の夢』に佐倉の順天堂が登場するのを思い出した。幕末の蘭方医、松本良順をえがいた歴史小説だが、順天堂について「大坂の緒方洪庵塾(適塾)とならんで蘭学塾の日本における二大淵叢になる」と司馬はいう。開国か攘夷かをめぐって騒乱の嵐が吹きすさぶなか、佐倉は先取の空気につつまれていたのだろうか。佐倉は「成田のお不動さま」で知られる成田山新勝寺に通じる成田街道の宿場町でもあった。お不動さんへの参拝に向かう旅人たちは、この佐倉で何を見たのだろうか。

お城跡のハリス像

 佐倉は東京から直線距離で東に約50キロ、成田からは南西約10キロの所に位置する。江戸時代、水戸に向かう水戸街道と分岐する形で成田街道ができた。幕府の文書には「佐倉街道」とも書かれている。この佐倉に1610年、土井勝利が城の普請を開始。佐倉は成田山への宿場町であるとともに、城下町にもなった。第五代藩主、堀田正睦はペリーが来航して2年後の1855年、老中に再任され、翌年56年、外国御用取扱を兼務する。その年にハリスが来日。正睦はいわばハリス担当幕閣であった。ハリス像が佐倉城内にあるのはこのことと大いに関係があるにちがいない。
 以上を予備知識として私は佐倉にむかった。京成電鉄の佐倉駅で降り、駅前の国道296号を西へ。この国道は旧成田街道なのだ。20分ほど歩くと鹿島川にかかる鹿島橋に着いた。橋のたもとから城跡は間近だ。ここが佐倉宿の西の端とみてよいだろう。
 鬱蒼とした森のなかの道を本丸跡へと進む。石垣はなく土塁を積み上げた形だ。天守閣はない。1813年、失火によって焼失した。老中まで輩出した11万石の城としては質素な造りだ。
 ハリスの銅像は本丸跡から100メートル先にあった。ほぼ等身大の立像。左手にサーベルを提げている。台座には「ピアス大統領の親書を携え下田に到着しました。来日の目的は、他国に先駆けて日本と通商条約を結び、開国を実現させることでした。こうしたアメリカの動向が、開明派の藩主堀田正睦公を外交の舞台に登場させることになりました。(中略)正睦公の指揮下で交渉にあたってきた井上清直、岩瀬忠震の両名がアメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、日米修好通商条約に調印しました」との佐倉市長名の説明盤が組み込まれている。その日付は平成20年6月14日。1858年に同条約が調印されて150年になるのを記念して2008年に建立されたのだ。
 ハリス像の向かいには堀田正睦の立像がたっている。こちらはライオンズクラブ創立40周年記念として06年にたてられたもので、「諸藩に先駆けて蘭学を導入した」と正睦を顕彰している。
 佐倉城跡を後にして周辺を歩く。幅6メートルの古い道の片側に武家屋敷が保存されていた。旧河原家住宅、旧田島家住宅、旧武井家住宅の3棟だ。いずれも見学でき、わらぶきの質素な住居に鎧兜が安置されているのが印象的だった。その隣には西村茂樹旧宅「修静居」跡。説明板によると、旧佐倉藩士の西村茂樹は儒学を修め、佐久間象山からも学んだとある。後で調べるとペリー来航に衝撃を受けた西村は堀田正睦に、積極的に海外に進出して貿易を行うべきだとの意見書を提出。正睦が外国御用取扱になると、貿易取調御用掛に任じられている。1873(明治6)年、福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之と明六社を結成。翌年「開化ノ度二因テ改文字ヲ発スベキノ論」という漢字廃止論を発表した。
 西村だけをもって佐倉が開明の城下だったと言い切ることはできないだろう。だが、攘夷旋風の世を思うと、大いに興味がそそられる。それだけに、この旧宅に入れなかったのはいささか残念だった。

長州、会津の志士泊まる

 お昼を「房州屋」というソバ屋で摂った。メニューに「般若そば」がある。初めて聞いたので注文した。そばつゆのほかに日本酒がなみなみと入ったお碗がついている。この日本酒を盛りソバにかけて食べるのだ。酒かけそば、といえばわかりやすい。
 店の壁に「房州屋」と書かれた手提げ提灯がかかっている。一見時代ものにみえる。店内もレトロな工夫がこらされており、その昔、旅人たちが立ち寄ったかとも思えるたたずまいだ。
「房州屋」の斜めむかいに「佐倉養生所跡」の碑が建っている。幅2メートル、高さ1・5メートルの長方形の石碑。養生所は1867(慶応3)年、藩の医師、佐藤尚中が西洋式病院として開設。オランダ軍医ポンペや蘭医の松本良順が長崎に設立した長崎療養所をモデルにしたもので、藩士だけでなく領民の患者も受け入れた。安心して診察を受けるように、との領民向けの趣意書も出されたが、翌年に勃発した戊辰戦争で藩内が混乱、閉鎖を余儀なくされた。わずか1年の寿命だったとはいえ佐倉の開明ぶりを示す一つであることはまぎれもない。
 この石碑の近くから国道を東にとって順天堂跡へと向かう。ここからは、国道も旧街道らしく古い商家が目につくようになる。その一つ、今井家住宅。1889(明治12)年ごろに建てられたとみられ、今井家は「駿河屋」の屋号で呉服屋を営んだ。ここは江戸時代の旅籠「油屋」があったところだ。長州の桂小五郎、会津の山本覚馬、庄内の清河八郎ら幕末を彩る志士たちが宿泊したことが宿帳に記録されているという。
 今井家住宅からほど近い所に高札場跡。高札には、慶応4年3月、太政官名で人を殺し家を焼き財を盗むような悪行を行うな、などのお触れが記され、佐倉藩知事がこれを守れ、と添え書きしている。桂や山本、清河らが闘争に明け暮れていたころも似たような高札がかかっていたに違いない。彼らは触れ書きを見てどう思ったのだろう。
 さらに10分あまり歩くと赤壁に格子窓の住宅が目に留まった。三谷家住宅だ。説明板には「明治初年に建てられ佐倉の伝統的な民家」とあり、佐倉市の登録有形文化財に指定されている。

蘭癖の面目躍如

 三谷家住宅から道ひとつ隔てた隣が佐倉順天堂記念館。佐倉順天堂の一部が保存、公開されているのだ。今回の旅の最終目的地である。歩き出して3時間がたっていた。入り口はなんの変哲もなく、上級武士宅の玄関といった風情だ。説明板にはおおむね次のように記されている。
順天堂は蘭医、佐藤泰然が1843(天保14)年に開いたオランダ医学の塾。ここではオランダ医学書を基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした医学教育が行われ、全国各地からやってきた多くの塾生が学んだ。泰然の養子、佐藤尚中は長崎でオランダ医、ポンペに学んだ後、系統的な医学教育を取り入れたことから、ここで学んだ塾生の多くが医学界で活躍した。明治時代、尚中はお茶の水に順天堂医院を開設。佐倉の順天堂は佐倉順天堂として医療活動を続けた。1858(安政5)年に建てられたものの一部が現在残っている。
 以上の記述から、佐藤泰然が順天堂を開き、養子の尚中が花開かせたとわかる。
建物の中に入るとまず泰然の肖像画にであう。長さ30センチほどもある長い白ひげをたくわえた面長な顔立ち。きっと目を見開いており、切れ長な目元は断固たる意志の持ち主であることを表している。江戸で塾を開いていた泰然が佐倉に移住した理由について、解説パネルに「蘭癖と呼ばれていた佐倉藩主堀田正睦の存在があった」とある。ここでも正睦が登場。「蘭癖(らんぺき)」と呼ばれていたというのだから、単なる開明派のレベルをはるかに超えていたようだ。
 順天堂の門人は慶応元年の史料によると松前藩から宮崎藩まで110人。幕末から明治にかけて述べ1000人におよんだとみられている。入り口の説明板に「外科手術をした」とあるように、大腿部を切断している手術図がパネル展示されている。塾生たちに教えながらメスを施しているひげの男性は若き泰然なのか、あるいは佐藤尚中なのか。図だけではよくわからない。
 順天堂に残る記録では1850(嘉永3)年から53年にかけて33例の手術が行われた。そのなかには13歳の女性の盲腸炎の手術、43歳の女性の乳がんの手術などがあった。この乳がん摘出手術は1時間ほどで終了、苦痛と出血が少なかったという。
私が注目したのは「泰然と種痘接種」の説明パネル。それによると、1849(嘉永2)年7月、長崎で我が国初の牛痘接種が成功、その5カ月後の同年12月、佐倉でも実施されるようになった。本稿の冒頭、佐倉が蘭学塾の日本における二大淵叢になると司馬が書いていると述べたが、長崎の蘭方医学を当初から積極的に取り入れたことが、この種痘接種からもうかがえる。
 佐倉藩は順天堂での種痘接種が始まると「疱瘡(ほうそう)徐け」という木版刷りの文書を出した。そこには「江戸ではお姫さまも種痘をした。薬種料は藩の積立金から出すので医師への礼物の心配なく誰でも治療が受けられる」などと記され、加えて「漢方による種痘法は大いに害がある」とも付言されていた。蘭癖の面目躍如たる藩民サービスといえるだろう。
 ほうそうと呼ばれた天然痘は「死に至る病」として恐れられた。この文書が配布されたことで、たちまち藩外にも治療のうわさは広がった。100万の人口をかかえる江戸の町には患者は少なからずいたはずだ。佐倉なら2日で行ける。そこで治療を受けられるというのは大変な朗報だったに相違ない。順天堂には入院施設がないため、大黒屋市太郎など3軒の宿に患者が泊まった。ほどなくこれらの宿は病人宿と呼ばれるようになった。
 佐倉は成田山への参拝者の宿場であるだけでなく、順天堂患者たちの宿場でもあったのだ。

決然とした佐藤泰然像

 佐倉の私の旅は本稿の冒頭に書いたように、ハリスの銅像を小耳にしたことと、司馬の『胡蝶の夢』に佐倉が登場するのを思い出したことから始まった。この小説の中で、ハリス、堀田正睦、佐藤泰然がどう関係づけられているかを記して、この旅の終わりとしたい。
(堀田正睦、佐藤泰然)
――蘭方医学を学ぶなら佐倉にゆけ。
ということが、東日本のその道の志望者の常識になりはじめているが、この塾は(松本)良順の実父佐藤泰然のひとりの手で興った。ただ佐倉十一万石の領主堀田備中守正睦が、江戸城の茶坊主あたりのあいだで、
「西洋堀田」
 というあだなをつけられていたほどの開明家だったことも、順天堂の繁栄の条件のひとつになっている。
(正睦、泰然、ハリス)
「西洋堀田」
 といわれた堀田正睦は、京都あたりの書生論壇がさわげば騒ぐほどその開明主義をいよいよ固くした。西洋と戦うよりは西洋の仲間に入ってしまえ、という粗放単純な開国論だが、その政治姿勢に小骨を付けたり肉をつけたりしてやるのが佐藤泰然の仕事だった。
 のちに堀田が閣老筆頭になり、米国の駐日代表のタウンゼント・ハリスと折衝をかさねてやがては日米条約の調印まで漕ぎつけるのだが、この間、泰然が堀田の西洋知識の非公式顧問のようになって働いた。泰然はハリスの人間に惚れてしまい、そのことを息子の良順に語ったりした。

 順天堂の玄関前の庭に佐藤泰然の胸像がある。その決然とした面構えをみていて、佐倉はこの泰然と正睦、ハリスによって順天堂宿場町になったのだと確信した。私はこの数年、あちこちの宿場を歩いた。宿場町としては、佐倉は本陣跡もない地味な存在だ。だが、ほかにない開明宿場であったことに、新鮮な驚きを感じた。ハリスの銅像が佐倉にあるナゾが解けた満足感をおぼえながら私はJR佐倉駅にむかった。

Lapiz2019夏号 原発を考える「耳を疑うような話」寄稿 一之瀬 明(年金生活者)

 驚くような話が聞こえてきた。あの原子力規制委員会が、どんどん再稼働の許可を出している規制委員会が過日次のようなことを決めたという。そしてそれを発表したのだとさ。

 ご存知のない方もおられようと思うので、2019年4月25日の朝日新聞が以下のように伝えた記事を紹介したい。

 原子力規制委員会は24日、建設が遅れている原発のテロ対策施設について、設置期限に間に合わない原発に対し、運転停止を求める方針を確認した。電力会社の求めていた期限延長などは認めなかった。すでに再稼働した関西、四国、九州の3電力の5原発9基は、期限を迎える2020年以降に順次、運転停止を迫られる。

当然のことながら電力会社側は期限の延長などを申し入れた。しかし「工事が著しく遅れるような自然災害や経済状況の変化はなかった」などと指摘が相次ぎ、設置が間に合わなくてもすぐに深刻な事態が起きるリスクが高まるわけではないとした上で、「不適合状態の原子炉の運転を看過することはできない」と電力側の意向を退けた。」
 この決定が実際に行われると、来年から順次運転停止になる発電所が出てくるわけである。

 驚くべきは、電力会社が「再稼働優先」でテロの安全対策を怠っていたことである。先ごろ、スリランカで大規模なテロ事件が起きたことは記憶に新しい。あんなテロ事件が原発で起きないという保障をだれがしているのだろう。東日本大震災が起きて福島第一原子力発電所の惨事をだれが責任を取ったのか。東京電力といえども、国民の税金から驚くべき額を引き出している状況で、なおテロ対策を怠っているというのには恐れ入るばかりだ。
 安倍首相も「北朝鮮からミサイルが飛んでくるぞ」とばかり言っていないで、電力会社の尻をたたくべきだ。

Lapiz2019夏号 読切連載「アカンタレ勘太 <1>」 作 いの しゅうじ

にゅうがく

おまわりさん帽子

 勘太が小学校に入学した。
 おじいさんがとてもよろこび、おいわいに学生帽をおくってくれた。
 勘太はこの帽子をきりっとかぶり、おかあさんにつれられて学校の門をくぐる。金次郎さんがむかえてくれた。
 
 金次郎さんは、たきぎを背にしょって歩きながら本をよむ二宮金次郎の像のこと。勘太は帽子をぬいで、金次郎さんにぴょこんとおじぎした。もういちど帽子をかぶったとき、そばにいた二年生の勝也がはしゃぎたてた。
「アカンタレ勘太、おまわりさん帽子」
 勘太はなんのことかわからず、ぼーっとしている。
すると、勘太とおなじ新入の子ら4、5人がいっしょになってふざける。
「アカンタレ勘太、おまわりさん帽子」
 みんながかぶっている帽子は波だっているけど、勘太のはてっぺんが平だ。ときおり巡回にくるおまわりさんの帽子のようなので、みんながわらったのだ。
 勘太は三つになっても歩けなかった。ほとんどの子は1歳半くらいには歩きだす。3歳にもなれば、自転車ではしりまわっている子もいるというのに、勘太はよっちらよっちらとはいはいしている。
 おかあさんは買いものにいくとき、いつも勘太をおんぶする。と、近所のおばさんたちが、
「あのこ、アカンタレやねえ」
 と、かげぐちをした。あっという間にうわさが広がり、悪ガキどもから勘太にアカンタレをつけて「アカンタレ勘太」とよばれるようになった。
 おじいさんは、
「この子は一生歩けんやろ。かくごしておけ」
 と、なんどか勘太のおかあさんにいい放ったが、おかあさんはそのつど、きりっと言いかえした。
「わたしが歩けるようにします」
 勘太がひょっこり歩きはじめたのは3歳と3カ月くらいのころだ。
 お兄さんの淳吉がつくえの上で飛行機のもけいを作っているとき、勘太がいすにつかまり立ちした。
 そのままひょろひょろと二、三歩あるいているのを、ハサミをさがしていた淳吉が気づき、大声をあげた。
「勘太、歩いてる」
 台所にいたおかあさんがとんできた。
「カンちゃん、やったね」
 勘太をだきあげるおかあさん。涙をぽろぽろながしてる。
 あくる日、となりまちにいるおじいさんがやってきて、勘太にやくそくした。
「学校に上がるとき、帽子を買うたる」
「帽子なんか……」
 とけげんそうなおかあさんに、
「ふつうのとちがう。りっぱな大人がかぶる。そんな帽子や」
 おじいさんは大阪駅のえらい駅員さんにあこがれていた。いくつもの赤や金色の線がついた帽子をかぶっているからだ。
 さすがに勘太におくった帽子に線はないけど、おじいさんの気分は「大阪駅の駅員帽」。
 勘太の町から大阪駅まで電車で1時間半もかかる。ほとんどの子は大阪駅に行ったことがない。勘太の帽子を見て、おまわりさんの帽子とおもうのもむりはない。
 勘太のおかあさんは子どもたちをにらみつけた。
「この帽子はりっぱな帽子です」
 勝也もまけてはいない。
「アカンタレ勘太には似合わん」
「この帽子をかぶったらアカンタレでなくなるの」
 ナイフの先みたいなするどい声に、勝也はひるんだ。
「負けたらあかんよ」
 おかあさんにそういわれても、勘太は肩をすぼめてぶるぶるふるえていた。

レンゲのかんむり

イッ子せんせいがしゅっせきをとりはじめた。
「名前をよばれたら、ハーイと元気よくこたえるのよ」
 勘太の席はさいぜんれつ。イッ子せんせいは勘太のつくえの前にたっている。
せんせいは背がひくいのに、勘太が首をぐっとそらさないと顔はみえない。あおぎ見ると、まるい顔からやさしい笑みがこぼれている。
(こないだもこんな顔してはった)
 勘太は1週間ほど前のできごとを思いだした。
 おかあさんの買いものについて行くとちゅうだった。タバコ屋のわきのポストにイッ子せんせいがはがきを入れようとしているのを、おかあさんが気づいた。
「あら、宮井先生、むすこの勘太。こんど入学しますねん」
 宮井先生。名まえは衣津子。先生になってまだ1年。いつもニコニコ顔だ。みんな「イッ子せんせい」とよんでいる。
「ああ、アカン……勘太くんね。勘太くんのクラスの担任になるのよ」
 
 イッ子せんせいになれなれしくしていた勘太のお母さんは、たいどをガラッとかえた。
「アカンタレですけど、よろしくお願いします」
 と、頭を九十度いじょう下げる。
「勘太、ちゃんとあいさつしなさい」
「……」
 カンタです、と言おうとしたが、声がでない。勘太ののどが、北極にほうりだされたみたいにこおりついてしまってる。
「すいません。しつけをきちんとしてなくて」
 ぺこぺこ頭をさげるおかあさんの後ろに勘太はかくれた。
「井田勘太くん」
イッ子せんせいがなまえをよんだ。教室じゅうにひびく大きな声だ。そろっと勘太は手をあげた。でも「ハイ」がのどからでてこない。のどの奥がぴしゃっと戸じまりしてる。ウンウンうなってるだけ。
いまにも泣きだしそう。
「勘太くん。いないの?」
 教室の後ろにいたおかあさんが、
「勘太、ハイといいなさい」
 と声をはりあげる。
 勘太が声をしぼりだした。
「おしっこ」
 わーっとみんなが笑った。おかあさんは顔をまっかにしてその場にしゃがみこんでしまった。
「お便所にいきたかったのね。いいわよ、いってらっしゃい」
 というイッ子せんせいも出席簿で笑いをかくしている。
 勘太は自分でもなぜ「おしっこ」と口ばしったのかわからない。声をだそうとしたら、どういうわけかおしっこがもれそうになった。
 校舎はコの字型になっていて、勘太の教室は門の左。便所は門の右がわだ。講堂で入学式をおえたばかりだから、勘太は便所のばしょをしらない。
 勘太はいつのまにか門のそとに出ていた。
 まわりはいちめん田んぼ。どの田んぼにもレンゲソウが植えられていて、レンゲの花がひらひらと風にそよいでいる。
勘太は赤紫のレンゲのせかいにふらふらっと入りこんだ。
「どうしたのかしら」
 いつまでたっても勘太がかえってこないので、イッ子せんせいは便所をのぞきにいった。
「勘太くん、どこにもいない」
 大さわぎになった。先生もお母さんたちも手わけして探しまわる。
「レンゲ畑かもしれん」
 とつげたのは勘太と幼稚園がいっしょだった哲則だ。20分ほどして、勘太はみつかった。
 勘太はレンゲソウをつんでいた。
「何するの?」
 イッ子せんせいに、勘太は鼻水をすすりあげ、ぽそっとこたえた。
「レンゲのかんむりを作るねん」
「なんのため?」
「イッ子せんせいにあげるんや」

Lapiz2019夏号 「時代を元号でくくってみる」 山梨良平

 一か月前、つまり4月30日から5月1日は、さながら元号狂騒曲が国中に吹き荒れていた。よほどマスコミは「報道していい」ネタがないのだ確かに明仁上皇はその在位中は国民の痛み、特に戦争、震災などの天災に心を寄せられた。尊敬に値する行為である。
 そういう意味では、平成という時代は上皇の心ある行動で評価すべき時代だった。しかし眼を政治や社会に向けると、おぞましいまでの状況である。国民の格差は広がり、モノ言えぬマスコミはだんまりを決め込み、政権はしたい放題の時代であった。

 安倍首相は事あるごとに「明治への回帰」を話す。例えば防衛大学校(横須賀市走水)の卒業式で訓示し、憲法に自衛隊を明記する9条改正への意欲を改めて示した。「自衛隊が強い誇りを持って職務を全うできるよう、環境を整えるため全力を尽くす」と強調、憲法改正を念頭に「政治も責任を果たす」と述べた(神奈川新聞)。

 首相が危なっかしいのは、十分に憲法やその制定過程、 また先の戦争で完璧なまでの敗北を期したこと、その原因などを理解していない節があると感じられるからである。その何よりの証拠と思えるのは2013年4月27日に某イベントで安倍首相が迷彩服姿で戦車に乗り満面の笑みをたたえて手を振っている姿を写真に撮らせたことだ。
 この写真を目にした筆者は唖然としたのと同時に、安倍首相はほとんど「何も考えなしに好きなことに興じる」性格だと理解した。つまりバカでしかないということだ。

 さて元号だけで世の中をくくるのはいささか乱暴だが、あえてやってみたいと思う。
まず安倍首相など「明治回帰病」に罹病している患者たちは、例えば皇室の伝統などとほざいて、「女性天皇」はおろか「女性宮家」も認めようとしない。おそらく安倍首相たちの支持母体がウンと言わないのだろう。安倍たちはその立場を追われるのが怖いのか、盛んに「明治時代」をほめあげる。しかし女性天皇や女性宮家を否定してきたのは、たかだか150年ほど前の明治からだったと記憶する。
第33代推古天皇、第35代皇極天皇、第37代斉明天皇、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇
第46代孝謙天皇、第48代称徳天皇、第109代明正天皇 (在位1629年 – 1643年) 
第117代後桜町天皇 (在位1762年 – 1770年)

 このように少なくとも11代の天皇は女帝だった。この歴史を無視して明治以降だけが皇室の伝統などとまやかしを言っているのだ。
 そして明治という時代は、富国強兵策や殖産振興策を取り、近隣諸国、特に朝鮮、中国、台湾を侵略し、その後の太平洋戦争への道筋をつけた時代である。安倍首相などは、こんな明治を目指しているのだ。
 何よりの証拠は「北朝鮮のミサイル騒ぎ」で東京の地下鉄までも止めて危機を煽ったことである。最近のあおり運転どころの騒ぎではない。
 その点、大正時代は明治の反動なのか、「大正浪漫」や「大正デモクラシー」などと言われて、文化が花開き、知的感性を磨いた時代だったと言える。
 残念ながら昭和の前半は、治安維持法という悪法で暗く息苦しい時代だった。戦争に突入し、完膚なきまで叩きのめされて、人類初の原爆まで2基落とされ多大な被害を受けた時代でもあった。その後の発展は敗戦国からの脱出が進み、しかし、アメリカ一辺倒の政治と経済でいびつな国になってしまった。

 大雑把に時代を表現した。果たして令和という時代はどんな時代になるのだろうか。
 少なくとも新天皇陛下がいみじくも言われたように「憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望」したいものだ。
 憲法を閣議で勝手な解釈変更するような下卑たことはしないでほしいものだ。
参考に憲法の一部を抜粋して紹介しておきたい。
 どこにも天皇は男子でなければならないとは記載されていない。
ただ世襲に限ると記載されている。国民の総意に基くのみである。

日本国憲法 

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
〔皇位の世襲〕
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
〔内閣の助言と承認及び責任〕
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
〔天皇の権能と権能行使の委任〕
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
〔摂政〕
第五条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

Lapiz2019夏号 沖縄戦の悪夢再び 渡辺幸重

新規追加

住民をスパイ視し、監視する自衛隊

―進む南西諸島の軍事要塞化と自衛隊情報保全隊の役割―

 また、あの悪夢がよみがえるのか。
米軍の猛攻撃によって地獄と化した沖縄戦。大日本帝国の皇軍は、住民を置き去りにして南部戦線に主力を移し、住民は、慶良間諸島、本島中部の読谷・北谷に襲来した米軍の攻撃にさらされた。日本軍は住民を守るどころか、避難したガマから住民を追い出したり、住民に自決を迫ったりもした。さらには、多くの住民が日本軍によってスパイ扱いされた。久米島では、米軍にいったん捕らえられた者など20人の島民がスパイ容疑で日本軍に虐殺された。このうち10人は、8月15日以降の事件による犠牲者だった。
 沖縄戦で住民が受けた被害は、戦闘参加や戦闘に巻き込まれての戦没のほかに「日本軍の刺殺、銃殺、絞殺、斬殺、毒殺等による虐殺」「日本軍によるガマ(壕)からの追い出し、殺害強要、自決の強要による死、食糧強奪による栄養失調死・衰弱死・餓死、傷病者の治療拒否や放置による死、日本軍から受けた怪我による死」などが挙げられる。戦争に悲惨でない戦争はない。そして、軍隊というものは自国の住民にさえ牙をむくものなのだ。
 あれから約70年後のいま、ミサイル部隊をはじめとする自衛隊(日本軍)が南西諸島各地に配備されつつある。そこには防諜部隊(スパイ活動を防ぐ部隊)である情報保全隊の名前が含まれていることが明らかになった。軍隊が住民を監視し、スパイ狩りを行う時代が再び訪れる――そんな気配が感じられてならない。
自衛隊が次々に配備され、南西諸島が“ミサイル列島”に

 与那国島に沿岸監視隊約160名配備の自衛隊与那国駐屯地が開設されたのは2016年3月28日のことである。そして、今年(2019年)の3月26日には、宮古島駐屯地(千代田地区)と奄美大島の奄美駐屯地・瀬戸内分屯地が開設された。石垣島でも3月に自衛隊基地の建設が始まった。また、自衛隊は馬毛島(西之表市)を島ごと日米の軍事拠点にするべく地権者との購入交渉を行っている。これらは新たな基地建設ということになるが、実は沖縄本島の自衛隊もF15戦闘機が20機から40機態勢になるなど増強が進んでおり、沖縄県全体の駐留自衛隊員数は、2010年の約6,300人から2016年の約8,050人にまで膨らんでいる。これに、宮古島の約800人、奄美大島の約600人、石垣島の約600人が加えられようとしているから、いかに南西諸島における自衛隊の大増強が進んでいるかがわかる。
 自衛隊は米軍の中国封じ込め政策に乗って、石垣島・宮古島・奄美大島に対艦・対空ミサイル部隊を配置し、中国の軍事行動を牽制しようとしている。

軍事ジャーナリストの小西誠氏は、与那国島の弾薬庫の規模の大きさから与那国島にもミサイル部隊の配備は不可避とみる。辺野古新基地は自衛隊基地にもなり、沖縄本島にも地対艦ミサイル部隊を新たに配備するという計画もある。南西諸島はまさしく「ミサイル列島=軍事要塞」にされようとしているのだ。これらの動きが日本の国としてのあり方を変え、戦争の危機を呼び込む大問題であるにもかかわらず、本土の国民のほとんどは知らない。中央のメディアも無関心なのか、ほとんど報道しない。

与那国島・奄美大島・宮古島・石垣島で住民を監視する自衛隊情報保全隊

 このような事態の中で、小西氏の情報公開請求により、与那国島に「自衛隊情報保全隊西部情報保全隊与那国情報保全派遣隊」(数名)が配置されていることが明らかになった。さらに、今年の3月31日に陸上自衛隊奄美駐屯地から発表された奄美駐屯地配備部隊の庁舎案内図には「西部情報保全隊奄美情報保全派遣隊」の名前が書かれていた。南西諸島に防諜部隊が配置されていたのである。

小西氏は、本来なら陸上自衛隊の情報保全隊は、「方面隊規模の大部隊」を対象として配置れるもので、160人規模の与那国駐屯地、600人規模の奄美駐屯地に配置されるのは極めて異例としている。しかし自衛隊は、その規模でも配置した。ということは、800人規模の宮古島駐屯地にも当然配置されており、石垣島に自衛隊基地ができればそこにも配置されるのは確実だと小西氏は見ている。
 いったい、これらの事実は何を示しているのだろうか。

 情報保全隊(旧調査隊)とはどういう組織か、みてみよう。
 情報保全隊の本来の目的は「自衛隊の機密が外部に漏れないように、自衛隊員を監視すること」である。従って、そのことに限れば数百人の隊員しかいない島に情報保全隊員を置く必要はない。ではなぜ、南西諸島には置くのか。
 実は、情報保全隊はさまざまな市民運動に対して監視活動を行っており、これまでにも問題にされてきた。

2007年6月に日本共産党が入手した自衛隊内部文書によって、自衛隊情報保全隊が日本共産党や社会民主党、ジャーナリストなどの報道関係者、市民や聖職者による自衛隊イラク派遣反対の活動や反戦運動、集会などに関して調査を行い、自衛隊関係者や国民世論への影響、活動の今後の見通しの分析まで行っていることが明らかにされた。「戦前の憲兵政治の再来だ」とも批判される内容だった。
防衛省はこれらの活動に関して「自衛隊法に基づく正当な任務」とし、「国会議員であれ、国民は平等に情報収集対象になりえる」と答えている。2016年2月の仙台高裁判決において自衛隊の市民活動を監視する活動が違法であると認定されても「自衛隊の情報保全隊の活動というのは適法な範囲で実施している」と開き直っているのだ。
(フリー百科事典『ウィキペディア』「自衛隊情報保全隊」の項目を参照)

 小西氏は自らのブログ「今、自衛隊の在り方を問う!」(http://u0u0.net/wnwx)で、次のように述べている。

◎この情報保全隊が、隊員らの調査・監視業務から大きく離れて、もっぱら住民の調査・監視、スパイ(諜報活動)に任じるようになったのは、自衛隊の主要任務である「治安出動」と関係している。

すなわち、1960~70年安保闘争による反戦運動の社会的広がりの中で、自衛隊はその最重要任務の1つとして、この時代に治安出動態勢に突入した。
◎重要なのは、この治安出動の規定は、国内の大規模デモなどを「間接侵略事態」(デモなどは外国からの教唆・煽動)として認定し、武力鎮圧を正当化していることだ。自衛隊が「災害派遣」などで、あたかも「国民を守る」かのような虚構に惑わされている人々にとって、この国民の正当なデモなどを「外国の教唆・煽動による間接侵略」とする規定は驚くことであろうが、これが自衛隊の本質であり、実態なのだ。

◎ここでいう間接侵略事態の対象は、武装したゲリラだけではなく、「非武装程度の様相」の「非軍事組織に対する行動」、つまり、基地・自衛隊に反対する、あるいは戦争に反対する市民・住民ということである。(陸自教範『対ゲリラ・コマンドウ作戦』からの引用)

 つまり、自衛隊は「陸上防衛作戦」の「島嶼戦争」下に、島々の住民対処――これは戦時下の住民避難としての対象ではなく、自衛隊の軍事行動を阻害し、妨害する反対勢力として、住民を対象化しているということだ。

◎現在、先島―南西諸島に配置された自衛隊は、あたかも災害派遣などから「住民を守る」という詭弁を使って、島々の軍事化を図っており、その任務や意図を住民から押し隠し続けている。「住民を守る」とする自衛隊が、なぜ、情報保全隊という諜報機関を配備し続けているのか? この自衛隊当局のウソ、欺瞞を徹底して追及しなければならない。

民主主義の危機にどう対応するか

 住民の活動を監視する部隊の配置は、自衛隊が戦前・戦中の日本軍と本質的に変わりがないことを示している。戦時中、沖縄では住民が島言葉(沖縄語)を口にするだけで日本軍からスパイ扱いされた。日本軍にわからない言葉でスパイ活動を行っているというこじつけでひどい仕打ちを受けた経験を沖縄の人たちは忘れてはいない。

 自衛隊という組織はれっきとした暴力装置であり、人を殺すことを目的とする軍隊である。災害が発生したら救助活動を行い、ゴミ拾いや祭りなどの地域活動の手伝いをし、地域に貢献したとしても本来の目的は変わらない。戦闘が起きたときに行うはずの住民保護活動は第二義的な目的で、余裕があるときにしか行わないだろう。そして、わざわざ南西諸島に配置された自衛隊情報保全隊は平時段階から地域に入り込むことによって住民の活動を監視し、正当な住民活動を抑圧するとしか考えられない。自衛隊の行動を監視したり、自衛隊撤退を叫ぶ住民運動は軍から“にらまれる”ことになるだろう。

 住民となった自衛隊員とその家族の選挙での投票行動を考えればすぐにわかることだが、軍隊が地域に入ることによって、地域社会は変質する。選ばれる首長や議員にも大きな影響を与える。軍によって小さな島社会の地域民主主義が破壊されることが許されるだろうか。

「米軍はダメだけど自衛隊はいい」という考え方も甘い。なぜなら、日米軍はアジア太平洋地域での共同作戦態勢が強力につくられており、基地を共同使用したり、燃料や設備をお互いに提供し合うなど一体化が進んでいるからだ。さらに日本はアメリカ以外にもイギリス、フランス、オーストラリア、カナダとも物品役務相互提供協定(ACSA)を締結して連携を強化し、アジア太平洋地域において共同の軍事訓練を繰り返している。私たちは、日本国内及び周辺において自衛隊を含む軍備が総体として強化されていることを厳しく受けとめなければならない。戦争の足音が聞こえるのに権力をチェックする役割のメディアが沈黙していることにも危機感を感じるのは私だけではあるまい。情報保全隊が南西諸島でやろうとしていること、すなわち権力による監視は社会のあらゆる制度や組織を通じて私たちの日常に入り込んでいるのではないか、と考えると空恐ろしくなる。南西諸島の自衛隊配備、軍事力の増強に反対することは、私たちの民主主義を守る重要な運動になるだろう。

Lapiz2019夏号 巻頭言 Lapiz編集長 井上脩身

 世界貿易機関(WTO)の紛争を処理する上級委員会は4月11日(日本時間12日)、韓国が福島など8県産の水産物の輸入を全面禁止しているのはWTO協定のルール違反とした1審の判断を破棄しました。福島第一原発の事故によって、魚介類汚染の疑いがあるとして禁輸措置をとった韓国に対し、日本は「科学的にみても安全」と訴えました。1審は日本側に軍配を上げましたが、上級審は日本の主張を退けたのです。上級審は1審の判断について「潜在的な汚染の可能性を説明できていない」と指摘しました。言い換えれば、「潜在的汚染を全く無視することはできない」ということです。実際、汚染の元凶である燃料デブリが事故原発から取りだされていないのですから、海洋汚染にともなう水産物汚染が疑われてもしかたがないでしょう。韓国は禁輸を継続しています。

 報道によると、輸出が規制されているのは、青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉の水産物。韓国は2013年、福島原発からの汚染水流出問題が起きたために規制を強化、これら8県産の禁輸対象を一部から全てに拡大しました。これに対し、日本は「放射性物質の規制基準をクリアした水産物のみを出荷しており、韓国の規制は不当で差別的」として15年にWTOに提訴。1審で日本の主張が認められたことから、政府は「勝てる」と踏み、現在輸入規制を続けている23カ国・地域に規制撤廃の働きかけを強める方針でした。これらの国のなかには、アメリカ、中国、ロシア、EUなどがあり、水産界にとって今回の敗訴は大きな痛手となりました。

 汚染の震源地である福島県では2015年4月以降、放射性セシウムの基準値(1キロ当たり100ベクトル)を超える魚はほとんど水揚げされていないといい、福島県漁連は「安全性の理解を広げていくしかない」と落胆。「海のパイナップル」と呼ばれるホヤの国内最大の養殖地である宮城県では、震災前、生産量の約4割を韓国に輸出していましたが、韓国の輸入規制で17年の場合、6900トン分も廃棄を余儀なくされました。「まさかの敗訴」は養殖業者をどん底に落とした、と4月13日付毎日新聞は伝えています。

 確かに水産業者には気の毒です。でも漁業者をどん底に落としたのは輸入規制ではなく、事故を起こした原発が放射性物質を排出したことです。海に漏れ出たことで、消費者は不安をおぼえるようになりました。その原因である燃料デブリは原子炉格納容器の中に残ったままで、東電は毎日400トンもの水を注入して冷却を続けています。

 令和の時代に入って1カ月がたちました。この元号の考案者といわれる中西進大阪女子大名誉教授はWTO上級審の判断があった同じ日に東京都内で開かれた万葉集講座で「令和の令は発音が美しい。令嬢や令夫人と同様、和を形容する意味がある」と語りました(4月13日付毎日新聞)。実際、令和という元号は好評のようです。しかし私は「冷」という文字と重なり、いい感情をもてません。福島第一原発は廃炉できるまで冷却し続けねばならないからです。廃炉作業が終わるまで、和がやってこないのです。

 天皇は現在59歳です。令和の時代は天皇が元気でおられるかぎり30年は続くでしょう。それは福島第一原発の廃炉への行程とほぼ一致します。令和の時代は原子炉冷却の時代なのです。和に至るかどうかの勝負の時代といっても過言ではありません。

 令和の時代中に廃炉というゴールに到達するのでしょうか。もしゴールできなかったら、つまり想定以上に手間どったらどのような事態に陥るのでしょう。水産物汚染の疑いでは済まないのでは、と不安がよぎります。本号では原発廃炉の問題を考えてみました。

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2019夏号は6月1日発行です!

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