神宿る。《八幡宮・京都府綾部市001》片山通夫

八幡神社(京都府綾部)

綾部市にはざっと見たところでも4社の八幡宮がある。八津合町の神社の鳥居が立派だったので車を止めて参拝した。由緒によると主祭神は応神天皇である。ウイキペディアによると、応神天皇は仲哀天皇の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは仲哀が崩御して十月十日後であるため、仲哀天皇の実子ではないことを示唆しているとする異説もある。応神天皇は胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。摂政となった母により、神功皇后摂政3年に立太子。母が崩御した翌年に即位。即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、阿知使主は東漢氏の、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという。また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)に派遣されたという。即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩御したとされる。

ざっとこのように非常に細かく詳しい。それだけに「嘘くさい」話である。4世紀と言うと我が国はいわゆる「空白の4世紀」に当たる。この時代の中国や朝鮮の歴史書に“倭”に関する記録が乏しい。考古学上の遺物、例えば古墳とその埋葬品、稲田、住居跡、土師器をはじめとする道具などはたくさん出土見つかっている。つまり、人々はこの時代も生活をしていた。ところが今述べたように中国や朝鮮の歴史書には記載が極端にすくない。その時代の主祭神・応神天皇がここに祀られている。(明日に続く)

連載コラム・日本の島できごと事典 その119《特殊病害虫の根絶》渡辺幸重

アリモドキゾウムシやイモゾウムシはトカラ列島以南の琉球弧(南西諸島)や小笠原諸島に生息しており、卵を産み付けられたサツマイモは幼虫に食われて食料にも飼料にもなりません。このように農作物に甚大な被害をもたらす動物を特殊病害虫と呼び、虫そのものや寄主(宿主)となる植物の移動が規制され、区域外への持ち出しが禁止されています。たとえばサツマイモは琉球弧や小笠原諸島から本土へのお土産にすることはできません(ただし、特別に燻蒸すれば移動可能です)。
特殊病害虫が生息する地域では国から病害虫の根絶防除事業に取り組んでおり、根絶された成功例としてウリミバエとミカンコミバエが挙げられます。ウリミバエは「日本の侵略的外来種ワースト100」に選定された生物では唯一根絶に成功した種といわれています。
ウリミバエは東南アジア原産の体長8~9mmのハエで、主にうり科植物の果実に卵を産み、孵化した幼虫が果実を食い荒らして甚大な被害を与えます。被害を受ける果実にはキュウリ、スイカ、カボチャ、メロン、ゴーヤなどのウリ類のほかマンゴー、パパイヤ、トマト、インゲンなども含まれます。
外国から日本への侵入経路は不明ですが、1919(大正8)年に八重山列島・小浜島で初めて存在が確認され、その後宮古列島(1929年)、久米島(1970年),沖縄諸島(1972年),与論島・沖永良部島(1973年),奄美群島(1974年),大東諸島(1977年)と分布が拡大。被害のない果実でも害虫の拡散防止のために琉球弧から本土への出荷が禁止されました。
ウリミバエの防除方法は不妊虫放飼と呼ばれる手段がとられました。これは、ガンマ線を照射して不妊化したウリミバエを大量に野外へ放虫して野生での繁殖ができないようにする方法です。1972(昭和47)年から22年間、約204億円の防除費用をかけて累計で625億匹の不妊虫を放した結果、1989(平成元)年に奄美群島で、1993(同5)年に沖縄県全域での根絶宣言を出すことができました。
ミカンコミバエもウリミバエと同じ東南アジア原産の双翅目ミバエ科の昆虫で、ミカン類やパパイア、バナナ、グアバ、マンゴー、アボカドなど300種類以上の熱帯性の果実、ナス、トマト、ピーマンなどの果肉に卵を産み、幼虫が食害する農業害虫です。ウリミバエとともに農林水産省の「輸入禁止対象病害虫」にも指定されています。
琉球弧や小笠原諸島に侵入したミカンコミバエに対しては、1968(昭和43)年から防除事業が実施されました。小笠原諸島では雄除去法と不妊虫放飼を併用して1985(昭和60)年までに、琉球弧では雄除去法によって1986(同61)年までに防除に成功。ミカンコミバエは18年の歳月と約50億円の防除費用をかけて根絶されました。

エッセー《四文字熟語が世界を暴く003》山梨良平

まだまだ続く四文字熟語だが詳しく書く必要もない事態。

思考停止(しこうていし)物事を考えたり、判断することをやめてしまうことを指す。故意に判断しないことが政治の世界には多いような気がする。その心は判断すれば不利になる。マイナカード担当大臣もかたくなに固執しているがきっと思考は完全に停止状態だと思われる。

付和雷同(ふわらいどう)自分にしっかりした考えがなく、むやみに他人の意見に同調すること、またはその状態を指す。よく見るパターンだ。けどご本人は自分の意見だと信じている場合も。政治家に多い。

以心伝心(いしんでんしん)「センセー。そこはそれ、お判りでしょう?」「おぬしも悪よのう」

エッセー《四文字熟語が世界を暴く002》山梨良平

 

四文字熟語を続けよう。

四面楚歌(しめんそか)敵に囲まれて孤立し、助けを求められないことのたとえ。周りに味方がなく、周囲が反対者ばかりの状況をも言う。孤立無援である。先日も某女性大臣が「捏造文書だ」と国会でわめいていたが味方の自民党からも見放されたと言う情報が流れていた。ご本人にすれば四面楚歌の思いだろう。

神出鬼没(しんしゅつきぼつ)鬼神のようにたちまち現れたり隠れたりして、所在が容易には計り知れないこと。政治家によくいるよね。派手に打ち上げて立場が悪くなると懇意の病院へ入院して身を隠す輩。もしくは外遊と称して一時的に海外に逃げるさまも最近そう思わせる。

思考停止(しこうていし)物事を考えたり、判断することをやめてしまうことを指す。故意に判断しないことが政治の世界には多いような気がする。その心は判断すれば不利になる。マイナカード担当大臣もかたくなに固執しているがきっと思考は完全に停止状態だと思われる。

このような政治家にしか恵まれていない国民こそ思考停止だ。

 

Lapiz エッセー《四文字熟語が世界を暴く001》山梨良平

Screenshot 2023-11-20 at 15-38-40 「エッフェル姉さん」松川るい議員が地元会合でマスコミへの恨み節炸裂「毎日、毎日、デマが流され」 (SmartFLASH) – Yahoo!ニュース

近頃気になることが多い。LINEとかSNSの世界では文章を相手に送るのに、主語やタイトルが書かれていない場合が多い。いきなり「○○した?」と用件。返す方も「まだ・・・」と簡潔に返す。まあ二人の会話だから第三者に読ませたりする必要もないし、それでいいのだろうけど、書いているのが若い人だと文章力が極端に落ちるのではないかと余計な心配をしてしまう。(自分のことは棚に上げています)
そこで思いつくままに昔習った四字熟語を思い出して脳の活性化を図ってみた。名探偵ポアロ曰くの「灰色の脳」の活性化だ。いや、もっと端的に書くと認知症が怖い

四文字熟語集

羊頭狗肉(ようとうくにく)羊の頭を看板にかけ、実際は犬(狗)の肉を売る行為を言う。一種の詐欺である。このことから、上(うわ)べが立派でも中身が伴わないことを、羊頭狗肉というようになった。先ごろの自民党女性局の「パリ研修」などもこれにピッタリ。曰く、「とても実りあるパリ研修」と釈明。

鶏鳴狗盗(けいめいくとう)つまらない技でも役に立つという意味らしい。「史記」に見える孟嘗君(もうしょうくん)の故事による。孟嘗君が秦に捕らわれた際、食客の中に、犬の真似をして物を盗むのが得意なものと、鶏の鳴き真似を得意とするものがいたおかげで、逃げ出すことができた。「つまらぬ技でも役に立つ」というたとえにも用いられる。
「百人一首」の「夜をこめて鶏(とり)の空音(そらね)ははかるともよに逢坂(おうさか)の関(せき)はゆるさじ」(清少納言)はこの故事に寄ったと言う。現代政治の世界でも「派閥を渡り歩いて」、「極端な言を用いて、また厚かましく」目立つ人物がマスコミにもてはやされる政治の世界。そう、杉田水脈氏のように。もてはやすマスコミの見識や如何に?

エッセー《狭い日本、そんなに急いで何処へ行く?》片山通夫

トレーラー部分と分離

今号(VOL47)から始めたエッセー、第二弾は《狭い日本、そんなに急いで何処へ行く?》。

国民民主の玉木代表が、いわゆる2024年問題で「高速道路でのトラックの制限速度の引き上げ」を提案したことは記憶に新しい。なんでも現行80キロの制限速度を100キロにと言う。一見盲点を突いた斬新な提案に見えたが彼は実態を知らなさすぎる。夜間に列をなして驀進する大型トラックの実態を知らなさすぎだ。先を争って目的地に到達する為にであろう驀進は決して制限時速を下回っているとは言えない。確かに車両の性能も過去とは格段の進歩だろうとは思う。自動制御装置を取り付けて追突事故を回避できればそれに越したことはない。しかし夜間の高速道路には他の車両も走行している。特に深夜バス…。

それより運転者不足なら長距離の場合、鉄道を利用することを考えてもらいたいものだ。
運送会社も貨物駅までの運輸、翌日配達や当日配達はやめればいいだけである。以前、筆者は関西からフェリーに乗って北海道へ出かけたことがある。出発港では、トレーラーに積んだコンテナを船内に積み込んでいた。しかし船内にコンテナトレーラーを積み込むと、エンジンのついた部分はさっさと船外に出た。そして次のコンテナトレーラーを積み込む。こんなことを何度か繰り返して最後にはその数台のエンジンカーは船外に。つまり荷物を積んだコンテナトレーラーだけが船内に残り北海道まで旅をする。専門的な言葉がわからないのでうまく理解いただいたか・・・。つまり運転手は家に帰れるわけだ。

「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く?」少子高齢化が進むニッポンだ。戦時中の「産めよ、増やせよ」って言ってももう国民は踊らないだろう。国民が住みやすい、根本的な問題を解決しない限りは。

エッセー《鍵》片山通夫

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「鍵」とタイトルをつけても、かの谷崎潤一郎氏の長編小説「鍵」とはなんの関係もないことは最初にお断りしておく。ここに出てくる「鍵」はそのものズバリ「鍵」である。

人は生活をするうえで幾つかの鍵を必要とする。まず自宅の鍵、車の鍵、仕事場で必要な鍵、もしかしたら個人的に大事なものを入れている金庫や小箱の鍵、デスクの引き出しやロッカーの鍵など枚挙にいとまがない。

筆者は自宅とは別に事務所を持っていた。だから当然そこに入る為の鍵が必要だった。それがこのコロナ騒ぎで、事務所へ出向かなくなった。電車に乗るのも億劫になったからである。そうすれば必然的に定期券も必要なくなり、事務所関連の鍵も要らなくなった。

今まで鍵を持って出るのを忘れたことが何度かあった。とりに家に帰ったこともあり、その日は事務所へは行けなく、まったく違う方向への電車に乗って小さな旅をしたこともあった。それが事務所をたたんだら、鍵の束を持つこともなくなり自宅の鍵一本だけになった。それも家内が自宅にいるときは(まあ大抵はそうだが)そのたった一本の鍵も使うこともなくなった。そうなるとキーリングも要らなくなる。たった一本残った自宅の鍵を大事にそっとポケットに入れる。そんな毎日に一抹の寂しさが漂うのは気のせいなのか。

所であなたは鍵を何本お持ちですか?

表紙

【出版案内】北博文写真集 breath of CITY monochrome photography
日々変化する都市光景を一期一会として感じるままにファインダー内のレンズフレーム枠全体でトリミングして撮影し、自家暗室にてフイルム現像し印画紙に焼き付けています。人間が利便性を探求し、長い時間を費やして作り上げてきた都市が今や自らの生きる術を得たかのように朝・昼・晩と表情を変えながら、そこに生きる人たちの心を揺さぶり、その反応を眺めているかのような虚実的な都市の空気感を捉えていきたいと思っています。
出版社 NextPublishing Authors Press (2023/7/27)
発売日 2023/7/27
言語 日本語
オンデマンド (ペーパーバック) 117ページ
ISBN-10 4802083831
ISBN-13 978-4802083836
寸法 21.59 x 0.69 x 27.94 cm
お買い求めは  https://www.amazon.co.jp/gp/product/4802083831

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その108《乞食行進》渡辺幸重

写真記録『人間の住んでいる島 沖縄・伊江島土地闘争の記録』(阿波根 昌鴻著、1982年私家版)の表紙

沖縄島・本部半島の西方海上に尖った山がひときわ目立つ島が浮かんでいます。伊江島です。山は標高172mの城山(ぐすくやま)で「伊江島タッチュー」とも呼ばれます。第二次世界大戦末期、1945(昭和20)年4月16日、米軍は伊江島に上陸、激しい戦闘の末5日後に島を占領しました。住民も戦闘に参加させられ、集団自決(強制集団死)も起きています。村民の3分の1にあたる約1,500人と日本兵約2,000人が犠牲となりました。戦後、残った住民は慶良間諸島の収容所に強制移動させられ、1947(同22)年2月に帰島したときには島の63%が米軍の巨大な航空基地になっていました。知らないうちに土地を奪われていたのです。
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連載コラム・日本の島できごと事典 その105《風の子学園事件》渡辺幸重

コンテナ解体を前に手を合わせる作業員(毎日新聞より)

広島県三原港の南東約4kmに浮かぶ小佐木島(こさぎしま)は周囲4kmほどの小さな島です。昭和30年代には人口140人を数えたものの最近はわずか5人(2020年国勢調査)と過疎化が進んでいます。1991(平成3)年7月末、この島にあった民間の情緒障害児更生施設「風の子学園」で14歳の少年と16歳の少女がコンテナに監禁されて“熱射病(現在は熱中症)”で死亡するという事件が起きました。事件から32年経った今年(2023年)6月、地権者と連絡が付かなかったためにとり残されていたコンテナが住民の要望によりやっと撤去されました。この報道に接した人は、いまでもときどき報じられる子供に対する虐待や放置の問題を考えさせられたのではないでしょうか。

風の子学園は、島外の人が学園長となって1989(昭和64)年に小佐木島に開設されました。不登校や問題行動をする児童・生徒の更生を目的とする宿泊型施設で、親元を離れ、自然に囲まれた環境のなかで座禅をしたり、馬などの動物を飼育する体験活動を行っていたということです。事件は、喫煙した少年少女が懲罰として手錠をかけられ、鉄製の貨物コンテナ内に監禁されて起きました。コンテナは窓もなく、内部は炎天下に40度以上の高温に達していたのです。少年少女はその中に44時間監禁され、脱水状態に陥って亡くなりました。事件後、学園は閉鎖されましたが、学園長の男性(当時67歳)は監禁致死罪で起訴され、懲役5年の有罪判決が下されました。
学園長は以前にも東能美島(旧・広島県佐伯郡大柿町)でカッター訓練などによって青少年を更生させる施設を経営したことがあり、そこでも暴力行為が行われていたと言われます。
被害者の少年は姫路市の中学3年生で、非行グループに属していたことから学校の生徒指導教諭や市教育委員会の指導主事が両親を説得して入園させたそうです。学園は少年に対して指導・教育を行うことはなく、脱走を図ったり、喫煙したりするので懲罰と脱走防止のために繰り返しコンテナや飼料小屋に監禁していました。少年の遺族は学園長と姫路市を相手に損害賠償を求める民事訴訟を起こしました。その結果、施設の実態を調べずに紹介した姫路市教育委員会にも法的責任があるとして姫路市にも損害賠償を命じる判決が確定しました。

風の子学園事件の前後には、戸塚ヨットスクール事件(1982年、愛知県)、不動塾事件(1987年、埼玉県)、恩寵園事件(1995年、千葉県)、丹波ナチュラルスクール暴力・虐待事件(2008年、京都府)、北九州児童養護施設虐待事件(2018年前後、福岡県)などの児童・青少年に対する虐待・暴行事件が起きています。

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#8》文・画 いのしゅうじ

雪をかぶった山々をこえると、コイナは、
「あそこよ」
と言って、ぐんぐん高度を下げました。
丸太で組んだ小屋の前で、だれかが手をふっています。
「おばあちゃんよ」
コイナが着陸。おばあさんは「よく来たね」と、のん太を小屋の中に招き入れてくれました。
電気はないらしく、窓からの光だけが明かりのようです。
部屋のまん中にいろりがあり、炭火が小さな炎をあげています。そのまわりにイワナがくし刺しされています。
「食べごろだよ」
おばあさんがおなかのヒレで焼き上がったイワナをきようにつかみ、のん太に「さあ、お食べ」とさしだしました。
おどろいたようにおなかのヒレを見つめるのん太。おばさんはわらいました。
「人間の手のように動かせるの。わたしたちは何千年もかけてくんれんしてきたんだよ」