連載コラム・日本の島できごと事典 その118《困窮島》渡辺幸重

大島と宇々島(Webサイト「日本の島へ行こう」より) https://nihonshima.net/sima4/nagasaki/odikaohshima.html

天草諸島(熊本県)の横浦島の西方約2.3kmに「困窮島(こんきゅうじま)」という名前の小さな無人島があります。これは横浦島の青年団が困窮したときに備えて植林などをしていたからだそうです。1930年以来の昭和恐慌で疲弊した農山漁村の救済を目的に政府主導で進めた農山漁村経済更正運動を鼓舞するためにも利用されたといわれます。
一方、平戸諸島(長崎県)の大島の東に位置する無人島・宇々島(ううじま)、愛媛県二神島の南に位置する由利島などは“困窮島”だったといわれています。ここでの困窮島の意味は、“本島”で貧しくなった者が“属島”に渡って開拓に携わり、財産を築くとまた戻ってくる「貧民救済」の風習・制度がある島ということです。『新版 日本の島事典』は宇々島を「一般に自力更生の島と呼ばれた」とし、「享保年間(1716-36)の飢饉の頃から大島で生活できなくなった人を、3年を限度に(候補者がない場合は継続を認め)各2戸を移住させ、農耕・牧畜・採藻・捕貝の権利を与え、生活を再建させる風習が昭和時代まで続いた。その間の税や賦役・世間づきあい(冠婚葬祭負担や普請)は免除され、家の改修などは大島郷民が担当した」とあります。宇々島は民俗学者・宮本常一が柳田國男が提唱した“困窮島”の典型例とし、民俗学者の研究対象となっています。このほか、瀬戸内海に浮かぶ二神島(愛媛県松山市)の南約7.8kmに位置する由利島も典型的な困窮島のひとつといわれています。
島嶼研究者の長嶋俊介は「困窮島制度は哀れみではなく、人間の尊厳を回復・再生させながら自立を促す優れて建設的で民主主義的な意味を持っていた」と高く評価しています。
一方、民俗学者の野地恒有は、困窮島といわれる現象は「小さい島が人の住む島になって行く」移住プロセスであり、「移住開拓島」としてとらえるべきだと主張しています。関西学院大学の那須くららは論文「『困窮島』という神話 ―愛媛県二神島/由利島の事例―」の中で双方の立場を紹介した上で、「(由利島の場合)貧しくなった者が交代で開拓しに行く『困窮島』というよりも、その時々の状況により島から島へと渡り開拓をしたという『移住開拓島』」いう見方のほうが合っている」としています。
那須は「『困窮島』という概念は現地で定着しなくとも、離島で暮らす人々の『知恵』は確かにそこにあった」とも言及しています。また、困窮島制度を評価する長嶋は「島社会は己の生存をみなで支えている運命共同体である」ことが背景にあると指摘しています。私も、困窮島の内容がどっちであれ、島社会は「助け合い社会」が基盤になっていると思っています。