昭和の引き出し《記憶と希望 京都国際高校 2》元民族新聞記者 鄭容順

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昭和の引き出し《記憶と希望 京都国際高校》元民族新聞記者 鄭容順
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李愚京元理事長(右)宋基泰元理事長(左)

京都国際高校は春の選抜高校野球大会に初出場した。創部以来の念願がかなった。対戦相手、宮城県代表、柴田高校に勝利したが、次の東京代表、東海大菅生高校には敗退した。しかし、柴田高校の勝利に韓国語の校歌が甲子園球場から全国津々浦に流れた。日本人はどんな思いで聞いていたのだろうか。在日同胞はどんな思いだっただろうか。
京都国際高校は京都韓国学校が原点、もともとは在日同胞の2世たちは親と一緒に韓国の帰国にあたり、言葉ぐらいは使えるようにならないといけない。1世たちの深い愛情で創設、まさかそんなに長く学校経営が続くとは思っていなかっただろう。各種学校から始まり、日韓国交正常化で日韓の往来は可能になったものの2世たちの言語は日本語で文化も日本人気質になり、韓国の帰国はほとんどなかった。韓国に留学する人はいても生活基盤は日本だった。 “昭和の引き出し《記憶と希望 京都国際高校 2》元民族新聞記者 鄭容順” の続きを読む

昭和の引き出し《記憶と希望 京都国際高校》元民族新聞記者 鄭容順

創部5年目に1番くじを引いた李良剛君、民団新聞2003年6月30日付の記事から

1月29日の夕方、ラジオから今春の高校野球の選抜大会に、京都府の学校法人・京都国際中学高等学校の京都国際高校が出場すると放送された。この放送に私は夫に「出た、出た」と叫んでいた。夫は「何が出た」という。それほど私の心は浮足立ち、こみあげてくるものがあった。

京都国際高校の前身は京都韓国学校である。京都市左京区北白川に中学校を開校したのが1947年、日本の敗戦後、日本に残った在日韓国・朝鮮人は、以後在日としていく。1世の故郷に帰国するために母国語の習得が必要として学校が建てられた。それから旧校舎から現在の校舎(京都市東山区)に移転をするとき、地元の反対運動に関係者は苦労されたが、1984年に現校舎に移転した。 “昭和の引き出し《記憶と希望 京都国際高校》元民族新聞記者 鄭容順” の続きを読む

昭和の引き出し 私の半生 元民族新聞記者 鄭容順

2016 年 12 月 11 日、奈良県内で活動する奈良県女性センターの「奈良女性史研究会」の聞き取り会に招待された。私が生きてきた人生をお聞きしたいという。
聞き取りはテープ起こしをして他の聞き取り者も含めて冊子に編集されるという。仕事しているときは多忙で慌ただしく現場をかけまわつて記事にしていた。現職時は楽しかったが終わってみると、なんとハードな仕事だったのか。生き方というよりも現場で取材した体験だけの記憶になっているという私のわびしいちっぽけな人生と気が付いた。
奈良女性史研究会は、県職員の川合紀子さんが、奈良県女性センターの所長のとき、奈良県の女性史を編纂したいと、編集者を集めて何年間、編集委員は奈良県内の女性に関係するあらゆる分野を調査、取材して「花ひらくー奈良女性生活史」を編纂、著書を1995年に発刊した。のちの 1996 年 1 月にこのグルーブたちが「奈良女性史研究会」を立ち上げて現在も活動を続けている。 “昭和の引き出し 私の半生 元民族新聞記者 鄭容順” の続きを読む

昭和の引き出し《いりこのあった生活》鄭容順

 昭和から平成、そして今年は令和元年を迎えた。昭和19年(1944年)生れの私は昭和時代を長く生きてきた。西暦の記述にこだわる人もおられるが、昭和時代を長く生きた私にはこの度、日本政府が発表している元号で記述していく。

平成は電子機器の発達で昭和では考えられなかった生活スタイルが一変した。携帯電話が発達し、各々鞄の中に携帯電話が入っていた。どこに居ても通話ができた。携帯電話がない時代、待ち合わせに苦労した。待ち合わせに遅れて来る人に、最寄りの駅の掲示板にチョークで、今どこにいると書いていた。駅の改札口を間違うというすれ違いもあった。
今はお金さえ出せば何でもある世のなかになった。 “昭和の引き出し《いりこのあった生活》鄭容順” の続きを読む