徒然の章《癌とともに15年 2023夏》中務敦行

あごを守るために作ったマウスピース
台風7号が接近した日の病室から

2019年8月、胃癌の内視鏡手術を受けた翌朝、手洗いに行くために病室を出たところで、いくつものビンがぶら下がった点滴のスタンドとともに転倒した。大量の吐血をみた私はそれでも、立上がろうとした。その病院では周りの病室が、真ん中のナースセンターを取り囲むようになっており、驚いた看護師が次々に飛んできて、ビニール袋で血液を受け止めた。
最初は下向きだったと思うが、横向きになって間もなく意識が無くなった。目覚めたときには家内と娘、息子がベッドの脇で「あっ起きた!気がついた!」と叫んでいた。後で知ったところでは、1日半くらい意識不明だったという。ちょうどお盆の頃であった。輸血もかなりの量だと聞かされた。
それから4年後、今年の6月に胃カメラの検査を受けた。あと一年再発がなければ、癌の再発はないだろうという、期待を持ちながら・・・。しかし、運命の女神は遠ざかった。いつもの消化器内科で担当医の診察の結果を聞いた。「咽頭癌が見つかりました・・・
なんとも返事出来なかった。「ごく初期です」、「見つかった場所は気管と食道が交差している場所で、耳鼻咽喉科の担当になります」と言われ、そちらに行った。
そこでは、鼻から内視鏡を入れてそのあたりを入念に見て「よくこんなに早く見つけられました」とビックリした様子だった。それからは両科を初め麻酔科、口腔外科などいくつもの診療科を回って8月半ばの入院に決まった。
歯科では何をするのか、手術は口と鼻が気管と食道と交差するあたりなので、患部は口を大きく開ければ見えるくらいの所にあるのだが、手術がしづらいのでパイプを口から挿入して、そこに内視鏡を通すのだ。歯や歯茎が痛んでいると手術に支障があるかもしれない。そのために、歯型を取ってマウスピースを作るのだ。癌の切除は内視鏡の操作に詳しい消化器内科の医師がすることになっている。医師二人が共同で手術するのは初めてである。
ICU(集中治療室)には行ったのは初めてだ。気がついたときは麻酔が覚めて家族が入室してからだ。かなり広い個室で、5×5m位はある。部屋はいくつあるか分からないが、患者と話す看護師の大きな声が聞こえる。すぐ向かいか隣だと思う。心電図、血圧、体温、血中酸素、など必要な情報が集中管理されている。時々ラームの音が聞こえる。ここにはトイレがなく便器が用意されている。尿意を催したら、ボタンを押す。看護師が世話をしてくれる。体が動かない人はベッドの上で済ませる。
経過は全く順調だった。1週間の退院予定を1日繰り上げて退院した。台風7号が接近していなかったら、もう1日早く帰宅できた。
私が初めて癌を患ったのは2019年。以前から、長くしゃべるとノドがかすれて声が出にくいことがあった。近所の耳鼻科で診てもらったら、「ちょっと荒れてますね」と、うがい薬を処方された。近くの病院にいっても同じような診断だった。
以前から左鎖骨下動脈が詰まっている、と診断されていた。ある朝、起きて立上がったら貧血でバタンと倒れた。病院に行くと「左鎖骨下動脈が詰まりました」。ステントを入れることになって入院。ついでに「耳の故障がないか耳鼻科に診察を受けてください」と言われ、診察の若い女医さんに「耳の異常はありません」といわれたので、「前から、ノドに違和感がるのですが・・・」と相談したら、鼻から内視鏡を入れて「アレー!」といって耳鼻咽喉科部長を呼びに行って、再び部長医師が内視鏡を診て「何かある、ちょっとこれは細胞の検査をする必要がある」入院中なので、翌日再診を受けて細胞を採取した。
「一週間後に結果を聞きに来て下さい」といわれて退院した。5日目に携帯に連絡があって「中務さん、やっぱりクロや」入院の用意をして来て下さい。こうして最初のがん治療が始まった。放射線治療で入院3ケ月あまり。
その治療中に「胃を診ておきましょう」と胃カメラの検査を受けたら、ここにも癌が・・・。
その後、胃に再発、一年おいて食道に。また一年おいて胃に、一つは癌、も胃一つはポリープ。結果は両方とも細胞検査の結果、癌だった。続いて2019年までに8つの癌が見つかり治療を終えた。
そして、今年の咽頭癌に至ったのだ。もともと私の家系は母方に癌が多かった。母は1963年、癌の出来た胃を全摘した。当時、癌は死の病で、本人にはもちろん極秘。49歳の母は疑って悩み続けました。私は「癌やけど大丈夫、しっかり養生して!」と励ました。一ヶ月の入院後、母は郷里の瀬戸内にある漁港に帰省し、姉の家の離れを借りて半年あまり養生した。その後、再発もなく、94歳の天寿を全うした。
またその母、つまり僕の祖母は80歳を過ぎて、皮膚癌になり頬に2ケ所、最後に眼球を一つ失って95歳まで生きた。また母方の従兄弟も各家系に一人はがんにかかったが、癌で死んだ者はいない。最年長の従兄は91歳まで生きた。私もどうやら癌で死ぬことはないように思う。
私と9つのがん。この命はいつまで・・・。できれば100まで、と思いながら今日ある命を大事にしよう。

徒然の章《この春のこと》中務敦行

やっとコロナが第五類に。でもこの春はどこか違います。私がこれまで撮ってきた春を振り返ると、桜は4月に咲く花でしたが、関西ではほとんどのところで3月に咲き、しかも気温のせいか、長く咲き続けました。近くの奈良公園は、修学旅行生やインバウンドですっかりコロナ前にもどっています。以下、藤、ツツジ・・・写真をご覧下さい。

以上、開花が毎年早くなってきました。50年前は小学校の入学式(4/1)に満開を迎えていました。

徒然の章《紅葉は忘れない》中務敦行

今年の夏は9月まで猛暑が続いた。「今年のもみじはアカンなあ」と思っていた。これまで、暑い夏の秋は葉が枯れたようになって、もみじの撮影はイマイチだった。今年はどうだろう?ところがどうして、きれいに色づきしかも長持ちしたのだ。
11月のなかばから、終わりまで週3~4日を撮影にあてたが、いずこもきれいだった。上越方面から始まり、11月いっぱい。12月になっても撮影可能なところがあると思われる。
「赤目四十八滝」ここの紅葉は山の上の方にある。流れの穏やかな水面に映ったもの。
「霧の朝」は11月の初め、早朝に発生した霧の中での撮影。
「法然院」は京都東山に寺はどこも、人出で賑わい人気の山門には行列ができたとか。
「金剛輪寺」は山内の池に映った紅葉をバックに、落ち葉が浮いてなお参拝者を魅了した。
「北野天満宮」は梅の花で有名だが、もみじ苑が人気だ。写真はコンクリートの通路に散った落ち葉が、踏み固められたもの。
その上に新しい落ち葉が・・・。 “徒然の章《紅葉は忘れない》中務敦行” の続きを読む

徒然の章《被災地で行われた東日本大震災復興支援活動・写真展 002》中務敦行

徒然の章《サンキュー ベリー ベリー マッチ 001》中務敦行

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市市民会館で、東日本大震災復興支援活動写真展が9月4日に開かれた。同じ会場で在日米陸軍軍楽隊、陸上自衛隊第6音楽隊の復興祈念コンサートも行われ、多数の市民がコロナ禍のなか熱心に災害の様子を写真で見、思い出を新たにしていた。
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徒然の章《路傍の仏様》中務敦行

コロナ禍で教えている写真クラブや教室など、休講が多く催しもありません。そのため毎朝の散歩を強化、昨年は500万歩近くを歩きました。自宅は大和郡山市、雨が降っても大抵は歩きました。大阪に来ると地下鉄の2駅は歩きます。体調はよくカメラをもっての散歩を楽しんでいます。行き先は半径10キロ以内。遠いときは帰りに公共交通を利用します。
昔から歩く時は各地の氏神様にお参りをしていました。コロナ以後はあちこちにあるお地蔵さんが気になりました。どこに行っても沢山あります。向かい市はもっといっぱいあったんでしょう。それが開発や宅地造成などで、安住の地を追われ取り出した人たちも処分はできず、新しいお堂を作って安置したと思われます。マンションのようなもの、まだ集めただけのもの。でもどの地蔵さまも丁寧に花が供えられ、大切にされています。
新しい住宅地でも変わりはないようです。最近の人は無関心かと思っていたが、そんなことない。コロナもこうして皆さんの気持ちが届けば、間もなく退散する、そんな気持ちで手を合わせ続けています。
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2021冬号Vol.40《徒然の章》中務敦行